山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。

山陽電車 200型の再生300型」への2件のフィードバック

  1. 懐かしく拝見致しました。半流線型の200型は昔から有る名車で、良く乗車致しました。ただ300型は殆んど乗車する機会が無く、終わってしまいました。ただこの様な貴重な写真を見る事が出来て幸いです。この様な写真が有れば、どしどし投稿して頂ければと思います。貴重な写真を有難う御座いました。今後共宜しくお願いを致します。

  2. 自分が小学生でちょうど200系が消えつつある頃、よく300系に乗りました。
    300系は200系の前照灯をそのまま取り付けた一次車が好きでした。
    見かけによらず鈍足で乗り心地が悪く、飾磨のカーブ時に吊革が振動で揺れてカチンカチンと一斉に荷棚に当たった。
    吊り掛け音とコンプレッサーがこれまた大きく、出発時にチンチンと音を鳴らす。
    子供ごころにもすごく違和感を感じた新車?でしたが、もうすこし後になって200系更新車だと知りました。
    スタンションポールもあって味のある車両でしたね。

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