前編として昭和6(1931)年1月12日深夜に山陽本線河内駅で発生した下関発東京行き2・3等急行第10列車の脱線転覆事故についての調査結果をご報告しました。その調査をするなかで、大正15(1926)年9月23日深夜3:30頃に山陽本線安芸中野・海田市間で東京発下関行き特別急行第1列車が脱線・転覆し、死者34名を出すという大事故があったことを知りました。そこで河内の事故に続いて、安芸中野にも出向き、その痕跡をたどってきましたので後編としてご報告します。河内の事故が速度超過という人災であったのに対し、安芸中野の事故は自然災害に伴う事故でした。まずは事故現場の現在の様子から。
大正15年9月は日本各地で風水害の被害が発生し、広島市も9月11日に集中豪雨を受け、瀬野川の支流 この畑賀川の堤防も決壊し、この鉄橋や前後の築堤にも被害が出ていたそうです。実際に現場に立ってみると 普段は水量も少ない小さな川ですが、河原には上流から流されて来たであろう石がゴロゴロし、細かい砂で埋まっていて、ここが崩れやすい花崗岩地帯であることを物語っています。踏切の名称も「砂走第3踏切」です。そんな集中豪雨から10日余りあとの9月22日、夕刻から降っていた雨が23日午前2時頃から3時頃まで豪雨となり、11日に決壊して応急処置を施してあった堤防が再度決壊し、越水した水が線路築堤まで押し寄せたそうです。なお安芸中野・海田市間が複線化されたのは大正11年12月15日ですから、事故当時はすでに複線で、①のような光景だったはずです。事故発生の5分前の3:25頃には上り第150貨物列車が無事通過したのですが、畑賀川決壊によってあふれ出た川水が徐々に築堤を崩していたらしく、貨物列車の通過によってか一気に築堤が崩れ、線路が宙に浮いた状態になっていたようです。それとは知らず、下関に向かう特別急行第1列車は糸崎駅を1:46に発車し、安芸中野駅を3分延の3:28に通過直後 大音響とともに列車は脱線・転覆したのです。その直前 水防の見回りをしていた消防団員が築堤の異状に気付き、踏切番に急停車の信号を依頼したそうですが、時すでに遅く 間一髪とはならなかったようです。
現地を訪ねてみると、この踏切や鉄橋のそばに小さなお社があり、そこに立派な石碑が建っていました。お社は天神宮で 前にある鳥居には嘉永二年と彫られていましたので少なくとも江戸時代末期には鎮座していたようです。隣の石碑には「災害記念碑」と彫られていて、てっきり鉄道事故の記念碑かと思ったのですが、裏に回ってみるとこの大正15年の水害の記念碑であることがわかりました。「安芸郡中野村下中野水害復旧耕地整理組合建立」とありました。
さて 特別急行第1、2列車といえば、昭和4年には「富士」と命名されることになる我が国第一級の豪華列車でした。下関から関釜連絡船、朝鮮総督府鉄道、中華民国内を抜け、シベリア鉄道を経由してパリ、ロンドンに至る国際連絡運輸の一翼を担う列車であり、国の威信をかけて当時の最高水準の設備とサービスを有する、お召し列車に次ぐ豪華列車でした。3等車は1両もなく、1,2等車と荷物車の11両編成でした。
河内の事故が2,3等急行であったためか記録が乏しいのに比べて、我が国最高級の列車の事故だけに詳しい記録が残されています。まず列車編成から見てゆきましょう。
牽引機は28977(のちのC51178です)。前から①オニ27872、②オニ27880、③スロネ28504、④スロネ28502、⑤スロネ28501、⑥スロ29006、⑦スロ29002、⑧オシ28670、⑨スイネ28108、⑩スイネ28124、⑪オテン28070 という11両でした。
河内の事故は新聞記者が駆けつけて事故直後の写真を残してくれていたおかげで新聞記事として見ることができますが、この特急列車の事故直後の写真をまだ充分に探せていません。ここでは安易にネット検索で入手した写真を引用致します。
豪華列車とは言え、すべて木造車であり、転覆しなくてもこの写真のような状況で多くの犠牲者を出すことになったと思われます。C51は転覆大破し、6両目までが脱線・大破しています。この編成の客車形式図をご紹介します。荷物車以外の図右下には「第1,2列車用」と注記されています。
④の写真を見て下さい。前の車両の窓にはウインドウヘッダーの上に小さな窓があることから、⑥のスロネ28501(5両目)であり、食い込んでいる方が⑦のスロ29006(6両目)だと思われます。
この列車の乗客数もわかっています。3号車スロネ(定員28人)に14人、4号車スロネ(定員28人)に17人、5号車スロネ(定員28人)に20人、6号車スロ(定員60人)に24人、7号車スロ(定員60人)に20人、8号車は食堂車、9号車スイネ(定員20人)に8人、10号車スイネ(定員18人)に5人、11号車は展望車という編成で、計108人の乗客と大勢の乗務員が乗っていたことでしょう。その乗客、乗務員の中の34人が亡くなっています。この日はたまたまかもしれませんが、定員に対してはゆたっりした乗客数で、個室寝台も上段を使わなくてよい まさに個室状態だったでしょう。
水害ということで警戒に当たっていた消防団員を中心に救助活動がすぐに始まったようです。死傷者は一旦安芸中野駅にほど近い浄土真宗本願寺派 霊東山專念寺に運ばれました。重傷者以外は全員を広島に移送することにしたようです。夜明け頃には救援列車が現場付近に手配されたようで、現場発8:20広島着9:10と現場発9:30、広島着9:55の2便で輸送されたそうです。一方死者については広島から棺が集められ、専念寺での検死後に広島駅会議室に移送、安置されたそうです。事故発生以降の迅速さに驚かされますが、第1列車であればこその対応だったのでしょう。
現場復旧のために、広島、瀬野から救援列車が運転され、小倉、下関工場から技工が派遣され、上り線をなんとか開通させようとしたようです。お互いに食い込んだ客車を引き離そうと、瀬野から9600形2両を持ってきて引張ったようですが力不足のため、更に1両を増やして3両の9600で何とか引き離したそうです。一方決壊した築堤の横に仮設線路を敷き、当日14:30には上り線を開通させたというから驚きです。復旧工事の様子を示す写真をご紹介します。
これらの写真を見ると94年前には これと言った重機もなく とにかく人力、人海作戦であったことがよくわかります。
さてこの時に死傷者が運び込まれた専念寺に、犠牲者の慰霊碑があるということで訪ねてみました。山門、鐘楼脇に立派な慰霊碑がありました。
釣り鐘状の台座の上に仏様を頂いた立派な碑でした。台座には死亡者氏名と建立の経緯が刻まれていました。34人の犠牲者は下記の通りです。
この34人の中には2人の外国人も含まれていました。下関から大陸に渡って帰国する人だったのでしょう。中央右側3人目の上野篤氏は当時鹿児島市長で上原謙の義理の従兄だった人物だそうです。1等寝台車が後方だったことが幸いしたのでしょうが、負傷しなかった乗客の中には第1師団司令部付の寺内寿一少将(終戦時南方軍総司令官、元帥陸軍大将)や後に小田急電鉄名誉会長になった安藤楢六氏ら社会的に地位の高い人が多かったようです。追弔塔建立の経緯を当時の住職が起草し、漢文で刻まれています。
この碑文を読み下してみましょう。「大雨が降り、洪水に至る。鉄路は破れ、列車覆る。これ咄嗟の間、未曽有の悲惨事。死者36人、傷者また少なからず。すなわち屍を当寺に収め、経をとなえ、これまことに大正15年9月23日払暁なり。志有る者あい謀り塔を建てて供養し、以って追悼の意を表す。専念寺十四世静雄」
90年以上を経た今でも9月23日には慰霊祭的なことをされているのか、あるいは当時の記録が何か残されているのかなどをご住職に聞こうと思っていましたが、当日はたまたま何かの法要が行われていたので、追弔塔を見学しただけで引き上げました。また日を改めて訪ねようと思っています。
⑯の写真をご覧下さい。右手後方に松並木がぼんやりと写っています。その場所は瀬野川の土手で、旧西国街道です。専念寺の前も西国街道です。この松並木は現在も健在で、「中野砂走の出迎えの松」という広島市の史跡に指定されています。広島藩主が参勤交代で広島に戻って来た際に、城下から家臣がここまで出迎えに来たということだそうです。
被災車両のその後ですが、28977(C51178)はこのまま廃車になったのかと思いきや、修復工事が行われて現役に復帰したらしく、昭和13(1938)年6月9日に亀山区から陸軍に供出されています。大破した優等客車は廃車されたことと思いますが、特に第1、2列車専用で予備車を含めて8両しかなかったスロネ28500のうち3両を失い、10両のスロ29000も2両が被災するなど関係者のショックはいかばかりかと思います。木造客車の鋼体化はこれ以前から検討は始まっていたようですが、鋼体化が加速されるきっかけになった大事故でした。
現地の線路の方ですが、従来より築堤の高さを嵩上げするとともに、築堤の中間点に万が一川の氾濫で越水した水が築堤に迫った際に、反対側へ水が抜けるように切り欠き部を設け、水路も何もないのに短い鉄橋が架けられています。この場所には近づき難く、取材を諦めました。
現地取材は一度だけで、文献調査も不充分ですので、引続き情報を集めようと思っています。河内での事故も含め、何か情報がありましたらお知らせ頂ければ幸いです。またそれぞれの事故で被災した客車達のその後の消息が判れば、コメントをお願いします。