▲▲ ▲五条~七条間、鴨川の対岸から眺めた3000系特急。その塗色が、鴨川沿いの景観によくマッチしていた。
鴨川沿いを走る七条~三条間も、昭和62年5月24日に地下化され、その景観が消えてしまう。
地上から地下への切替工事は、昨今の東急渋谷駅では、終電から始発までの数時間だったが、さすが20数年前では、このような離れ業はできず、地下線開業は24日午前8時となった。始発から午前8時まで伏見稲荷~三条間は運休となり、同区間は、京阪バス28台による代行運転に拠った。日曜日の早朝のため、代行予測は3300人で、バスで十分に運び切れる量だった。バスは師団街道、河原町通を経由した。
三条駅では7時55分発の祝賀列車で開業式・テープカットが行われた。使用されたのは、もちろん3000系で、しかも滅多に先頭に出ることのないファーストナンバー3001号車がデコレーション付きの先頭車となった。しかも、3001を含むユニットは3連だが、わざわざ別のユニットから1両を編入した4連に組み替えられた。
この編成は、早朝から東福寺駅で待機、地下線への切替完了後、上り一番の回送電車として、三条に7時48分着、折り返し7時55分発の下り一番の祝賀電車となった。
平成元年には出町柳まで延伸されるが、この時に8000系が登場することになり、3000系が特急を独占するのも、あと2年半だった。
3000系のいちばん晴れやかなシーンだったに違いない。
▲地下線への切替工事の完了まで、東福寺駅に待機する3000系4連の祝賀電車。大阪方の3001に、記念のデコレーションが取り付けられた。開業前後のダイヤ・運用を故・澤村さんから電話で教えてもらったのも思い出だ。▲三条駅2番ホームで行われた、京都地下線のテープカット。関係者のみが乗車できる祝賀電車で、七条で全員が下車後、回送となった。なお、営業一番電車は三条8時発の淀屋橋行き普通の6000系で、私はこれに乗って初の地下線乗車を行った。
いよいよ明日になりました。最終列車として淀発15:16→寝屋川車庫行きがあるようですが、老人は京橋発11:13を石清水八幡宮でお別れとします。
総本家さんの年代列、テーマ別の発表は毎度のことながら感心しております。私の時代は阪急2800と京阪1900をライバル的にとらえられ、それぞれの良さ、悪さをネタにして激戦があり、戦い敗れて部室を後にする者も居ました。私の卒業後は阪急6300と京阪旧3000の戦いがあったのか、あればどうなったかはわかりません。それにしても名車京阪旧3000が大井川や富山に行くことがわかっておればもっと記録したのにと悔やんでおります。
痛む腰、膝を無視、60段の石段を登り展望台に上がりました。11時20分頃に玉田君が到着しました。上り最終3000は眼下の木津川鉄橋を渡り、霞む京滋バイパス鉄橋を潜り宇治川鉄橋へ向い消えました。八幡宮に挨拶後、2人で生中を賞味、出町柳の澤村君に2人で報告に向いました。淀車庫には3000が小憩中でした。