雲仙一帯は鉄道と無関係だから、小生もおとなしく一緒に行動し、もっぱら帰京後お買い上げ頂く級友の撮影にいそしんだ。行程は島原港から三角に船で渡るが、バスは島原港で乗り捨てる。当時の島原-三角間九州商船は80分、1日4往復、花園丸138トンとあり、これではバスを乗せられるはずもなく、しかも我々修学旅行生だけでも500人以上が乗船したのだから、ボートピ-プル並のすさまじさ。今では島原外港から直接熊本港に60分、2社17往復のフェリーが運行している。
島原では出港まで30分ぐらいあったか。売店のおばさんに聞くと、島原鉄道の本社車庫がある島原湊(現在島原)まで10分ぐらいという。それなら往復20分として、5分だけでも撮影が出来ると無謀にも聞いた方角に走り出しかけたら、おばさんが呼び止め、当時まだ貴重品に近かった自転車を、どこの馬の骨とも知れぬ、しかも団体の一員に貸してくれた。恐らくは小生の人品骨柄卑しからぬを察知したのであろう。
台枠以下を生かし、車体を近所の造船所で新製した私鉄版木製オハ61?のホハ31 元来は温泉鉄道ホロハ2だった
一見中型車だが、その実雑型車(鉄道作業局)の窓配置を改造したホハニ3751 国鉄ホハユニ3751が原型
必死にペダルをこぐ。この自転車はまだ新しいのに、何とブレーキがないではないか。減速には足で地面をこすり、ともかく島原湊駅待合室に自転車を乗り入れて放り出し、居合わせた駅長に一声掛けて改札口を駆け抜け、目に付く限り撮った撮った。二眼レフはすぐフイルムが尽き、交換している暇はなく、35mmは幸い余裕があった。
16号機 鉄道省1406←九州鉄道38
22号機 ←海軍呉工廠 立山重工業1943年製
キハ202 中国鉄道キハユニ110の買収車 原型をよく残している
キハ102 元来キハニだったが、敗戦後急行用に整備 最終ユニ102に
日車製キハ4501 私鉄車ではトルコン装着のはしり
ハフ52 屋根がやたら深いのは雨漏防止改造 元来口之津鉄道カ1 雨宮製量産60人乗り2軸車
この島原湊はすぐ傍に海が迫り(そんなことは後年再訪、再々訪で知った)、余り広くないところにぎっしりレールが敷かれ、しかも1線ごとに整備清掃用の足場があって、かような切迫した撮影ではイライラするばかり。何がなんだか分からぬまま、ともかく目に付く車輌を乱写し、さらに欲を出して駅長に廃札を所望。駅長は1日4便の出港時分=その切迫を承知だから、他の仕事をしている駅員も動員督励し、確か3人掛りで廃札印を押して一式呉れた。
ホハニ3751
ホハニ3751の台車
ホハ12187 国鉄同番車の払下だが、何と窓が1個多いのに気付いたのは1年半後
ナユニ5660 国鉄同番車の払下 旧関西鉄道477「関西大ボギー」の生き残り
屋根と窓数から旧九州鉄道ヘ(1等)かト(2等)車の成れの果てと分かったのははるか後年
ユ2 単車とはいえ全室の郵便車は私鉄では珍しい
ニ11
救援車
また必死にペダルを漕ぎ、かつ足で地面をこすって船着場へ。その間近になって、やっとこの自転車は輸出用で、ペダルを少し戻すとブレーキになることが判明した。花園丸にはすでに仲間全員(小生以外)が乗船済で、売店のおばさんに礼を述べて自転車を返却。教師は無断離脱とあってカンカンに怒っていた(らしい)が、面と向かっては何も云わなかった(当然仏頂面だったが)。
またまた、すごいお宝物が、満載で、びっくりするやら、感激するやらです。
しかし、今の先輩から見ると、信じられないくらい、『やんちゃ』 だったんですね。
続編を、楽しみに、期待しております。
報道カメラマン、戦場カメラマンも吃驚の荒技ですね。でもスクープに近い成果と思います。
木造客車や立山のCタンクの写真は少ないです。旧関西系ボギーがいたのも初めて知りました。
キハ4501は登場の翌年の撮影。戦後も落ち着いてきて島鉄が本格的復興の嚆矢となりました。
気動車は電気式が北九州地区に投入されて2年。キハ45000(キハ17)も走り出して間もない頃の九州でこの投入は力強いものを感じます。
島鉄も鹿児島交通も最後まで郵便輸送には力を入れていました。公共交通の使命として郵便輸送を扱うことは、損得抜きで地元への最大の名誉ある貢献と捉えられていたのだと思います。