西村さんの「雲南市役所(木次)のC56108」を見て、たまらなくなって木次へ旅立ちました。 はじめてこの地に足を踏み入れたのが昭和38年(1963年)、いまから50年の昔になります。 かつては奥出雲の山村で、斐伊川沿いの田畑を牛が耕していたのどかなところでした。しかし、最近の旅ブームで、テレビでたびたび紹介されているのを見ていると、「おろちループ」なる国道が側を走り、木次線は陰陽連絡幹線の地位を追われ、いまや廃線の危機ですらあると聞きました。今回の旅行がささやかな応援になればいいと思って計画しました。
さて出発と言うことになりますが、昔と違い時間や同行者への配慮がいります。時間はともかく同行者(言うまでも無く家内)は荷物が多く、足軽く飛び乗り・飛び降りはできません。やむなく福田さんの逆鱗を覚悟の上で自動車を使うことにしました。しかし、ご安心下さい。立場を自覚している私は、要所要所では車を乗り捨て、家内も捨てて乗り鉄に徹しました。今回は、二つの目的を持って計画しました。一つは一畑電鉄と木次線の乗り歩き、もう一つは石見銀山の見物です。
11月18日、快晴です。車は快調に中国道から米子道に入り、蒜山高原PAで昼食を取りました。ところが天気は急変、吹雪となり積雪も1センチほどになりました。予定では松江のしんじ湖温泉駅前のホテルへ到着後、すぐに一畑電鉄の乗り倒しに行かねばなりません。あわてて高原を駆け下りました。無事予定通りにホテル着、となりの駅から一日キップを買って乗った電車が元南海の21000型。
しかし、塗装ははげてぼろぼろです。定時に出発して往復約二時間、家内はこの間一人で松江城へ行きました。でも天気は風がすごく、時折雪まじりの雨も降ります。一畑口、川跡と進み乗り換えです。ダイヤがいいのですべて川跡での乗り換えがスムーズでした。出雲大社前駅は素晴らしい駅です。近江鉄道にもこんな雰囲気の駅があったように思いますがステンドグラスがモダンな駅でした。
同じ電車で折り返し、川跡まで戻り電鉄出雲市駅へ向かいました。ここはJR出雲市駅と併設駅ですが、路地裏にある貧相な駅でした。丹波口駅を思い出しました。
ここからの帰りは、しんじ湖温泉駅で見たきれいな電車・5000型でした。中は1列×2列の転換クロスで乗り心地もすばらしい!ところでこの鉄道は映画「RAILWAYS」のモデルになりました。使われたデハニ51は今も動態で保存されていて、運転させてもらえます。静態保存も沿線や出雲大社前駅にありました。今夜は松江で一泊、明日はいよいよ木次線「奥出雲おろち号」の旅です。
ホテルから木次駅まで車で40分、木次駅は田舎の商店のような近代化がされていて興ざめです(西村さんの投稿参照)。プラットフォームは昔のままのようですが、なにかイヤな感じがします。それが何かは帰ってきて、古い写真と見比べて分かりました。
いまはやたらと柵やミラーが設置されて駅の雰囲気は壊されています。駅のウラにあるビルはスーパーだが、客は全く入っていない。やがてキハ120のいる2番線におろち号がDE10に引かれて入ってきました。同じホームに2列車が停車するとは淀屋橋駅ではないか!と思ったら、JR西日本では良くあることだと小林さんが言っていました。
車両については皆さんご存じだろうから省きますが、この時期のトロッコ列車にしては満員でした。もっとも途中の出雲横田から乗り込み、三井野原まで乗って迎えのバスで帰っていく団体でした。トロッコ列車は初めての体験でしたがなかなかいいもので、乗客同士が和気藹々で楽しいひとときでした。列車は最大の見せ場、出雲坂根に入ります。
出雲坂根は三段スイッチバックで有名なところ。昭和39年頃は列車も多く、重要な駅でありました。駅員も多く、乗客はこの駅にわき出す「延命水」をのんで一息入れていました。きくと、以前はJRが水質を含めて管理していたが、いまは道路の管理者が管理しているとのこと。いまは併走する国道側に移設してドライバーののどを潤していました。
実は木次出発時に貫通扉が開かず、修理に時間がかかり9分延での発車でした。ここで回復すべく3分停車で発車するとのアナウンスがありましたが乗客が帰らず、発車はやっぱり9分延のまま。観光列車では乗客の都合が優先するのも時代なのか、と感心しました。
スイッチバックは昔と変わりませんでした。ただ機関士は移動せずそのままバックしています。ATSは解除しているらしく、「ATSが解除されています」とのアナウンスが繰り返し流れています。スノーシェルターを越えたところでATSを入れて出発。
途中、昔はなかった絶景ポイントで停車します。それは道路橋のおろちループ橋の見える地点。木次線を廃線に危機に追い込む元凶を見せるとはなにか複雑な気もします。
三井野原は昔も今もスキー場があります。もっとも今年は今日が初雪とかで、ここまで乗る団体客が降りるだけでした。
この坂を上がれば終点の備後落合駅です。50年前は芸備線と木次の線接続駅として駅弁まで売られていた要所駅でしたが、いまは無人で駅も荒れていました。乗ってきたほとんどの人は、折り返しも乗っていて木次まで帰るようです。境港から来た中年の女性や、沖縄から来た子供連れの女性も楽しんでいます。特に沖縄の女性達は「初めて雪が見られた!」と寒いのも構わずはしゃいでいました。
帰りはDE10は牽引で下ります。鉄道の旅はこれで終わり。今夜は温泉津で一泊。明日は付き合わせた家内への奉仕で石見銀山に行きますが報告はこれでおしまいです。
今回久しぶりに、本当に久しぶりに長距離の鉄道旅を楽しみましたが、昔の鉄道旅とは全く違ったものでした。かつては住民の足であり産業の輸送手段でした。それがいまは観光客に頼るしかない心細い存在です。それでも地元の人にとってはいまも大切な足です。長い車中で車掌さんと色々話をしましたが、最近、浜田から転勤してきたというこの車掌さんは運転士だそうです。ここでは運転士と車掌は交代勤務だそうです。彼もキハ120はもとより40や47、キハ187の特急も運転したそうです。丁寧な方で、詳しく説明して頂きたのしいひとときをすごすことができました。
特に言いたいことがあります。木次駅では、駅員さんや乗務員さんが驚くほど丁寧で親切なことです。都市部での駅員とは全く違っていて、この部分だけは50年前の木次駅を思い出しました。
昭和38年、高校最後の年なので木次線のC56を撮りに行きました。行く前に往復ハガキで米子鉄道管理局広報課へ許可申請をして許可をもらっていきました。機関区へ行くと機関区長さんが応接室へ案内して下さり、写真集を見せて頂き感激しました。ご存じの方もおられるでしょうが、木次の缶は手入れが行き届き美しく、運転もうまかったことです。そのことを申し上げると区長さんは「国民の機関車を預かっているのですから当然です」と言われて感心して帰りました。その心は今も生きていると懐かしく思い出しました。途中の幼稚園でも会社のようなところでも「おろち号」が通ると手を振って見送ってくれます。鉄道員や地域の方々の木次線に対する愛情を感じた旅でした。
五十年ぶりの出雲訪問記たのしく読ませていただきました。木次線の五十年の新旧比較、米手氏の体型を除き、よくわかりました。通信員も鉄道同好会新入会員狂化旅行で出雲坂根駅を訪れたとき延命水をいただきました。おかげで米手作市さま同様生き長らえています。今年初夏には前立腺癌で全摘出をしましたが経過良好で、延命水の効能は今も続いているようです。手術によってED71(註1)となっても毎日ブレーキパッドならぬ尿取りパッドをつけて走行しています。当時の機関誌「青信号」の人気コラム{元祖青信号」に清水三重子や前立線肥大前駅などと冗談を書いていたので今頃処罰があったようなものです。
新たに延命水をお飲みになっての更なる掲示板ご投稿ならびにご活躍を祈ります。
(註1:勃起不能の七十一歳)
米手作市様
新旧対比や雪景色等変化に富んだ出雲風土記有難うございます。奥様とのご旅行羨ましく思います。大阪通信員様のような高尚なコメント文が書けなくて申し訳ありません。米手作市様の最初のご訪問が昭和38年ということで私の木次訪問の1年前ですが、何れにしましても半世紀も前の遠い昔のことになります。当時の車両には今の車両と違った魅力を感じます。新旧定点撮影は特に興味深いものがあります。私も機会があればやってみようと思います。どこの駅も半世紀も経つと風景が激変してそこを吹いている風とか匂いまで変わってしまうものですが、木次駅のホーム上屋がかなり昔の姿を留めているようですね。一畑の南海・京王の並び、ツーショットというのでしょうか、東西私鉄の並びも面白いです。昔、南海ホークスが東京遠征で京王バスを使っていたと聞いたことがあります。今後の更なるご活躍をお祈り申し上げます。
大阪通信員様、
思い起こせば遙かな昔、新入生狂化合宿時にわれわれ先遣隊の一行は一足先に木次駅の北方のガケに陣取り、先輩達本隊の到着をカメラの砲列を布いて待ち構えておりました。早春の山間の田んぼには、牛が土起こしに精を出していました。やがてC11に引かれた列車が見えて新入生一同カメラを構えたその刹那!通信員先輩達はやおら窓を開けて、手やタオルを振って新入生の撮影に“応援”をして下さいました。
ED71の行程が安全・定時・順調であることをお祈りいたします。
準特急様、
ご覧いただきましてありがとうございます。
一畑電鉄に似つかわしくないあの素敵な電車は京王から来たものですか!しんじ湖温泉駅で見たときは見てくれだけだろうと思ったのですが、いざ乗ると、かなりの速度で走りました。
車内には出雲神話が描かれていて楽しいひとときでした。
ところで一畑にはスイッチバックの駅があるのですね。もしかしたら以前はここから一畑薬師まで線路が延びていたのでしょうか?名前の由来になる一畑薬師より出雲大社の御利益にすがっているような電鉄でした。
米手作市様
今日の「鶴瓶で家族に乾杯」で「鬼のしたぶるい」の事を聞きましたが、確かEVEの時にこのような名前の臨時列車があったことを聞いたのを思い出しました。EVEから帰ってからは「鬼の・・・」で「したぶるい」のところが思い出せずにモヤモヤしてましたが、おかげさまで思い出しました。ネットで調べてみると漢字では「舌震」と書き、なにか面白い伝説のある渓谷とありました。私も一畑電鉄の帰りに木次線を乗っています。このときに一畑電鉄のスイッチバックの駅である一畑口からバスでかつて駅があった終点まで行きました。このときはホームも残っていてバス停になっていました。今は平田生活バスというコミュニティバスが運行しているようです。1973年12月に行っているようです。その時の写真を近日公開?を考えています。お楽しみしていてください。
どですかでん様
私も見ました。
鬼の舌震号は、キハ07単行で運転されていました。たしか、季節快速だったと思います。
旅行中に出雲横田から乗り込んできた地元の老人団体が「昔急行のちどりが走っていたんじゃ」と言うのを聞いて「蒸気機関車が牽いていたときですか?」というと「そうじゃ」といっていました。「それでは“鬼の舌震号”は知っていますか?と聞くと「なんじゃ、そりゃあ?」と、さすがに知らないようでした。
一畑薬師駅の写真、楽しみに待っています。
米手作市様
ようこそ!この度は奥出雲のど田舎木次を訪れていただき誠に有り難うございました。子どもの頃は目の前を当たり前の如く蒸気機関車が走っていながら、昭和46年に無煙化された後にやっと蒸気機関車の魅力に目覚めたような気がします。今やその当時とは大きく社会も変化し、木次線はJR西日本管内でも超赤字ローカル線になり、トロッコ列車の運行により何とか観光路線(?)として細々と運行しています。昭和49年に当時走っていたC56108が保存されたものの、雲南市の突然の解体宣言から全国の方々のご支援により、先般11月3日に崖っぷちからの生還を果たしました。保存会も再結成され保存場所も出来ればJR木次駅付近へ移動出来ればと考えております。次回、ご訪問の折には是非C56108もご覧になって下さい。
http://ameblo.jp/c56108/
おろち様、
この掲示板をご覧いただきましてありがとうございます。
また、コメントを頂きましたことにも、心より御礼を申し上げます。
いま、リンクでHPを拝見いたしました。最初の記事を見ておどろきました。議会で解体の予算が通っており、明日にでも解体業者が決まると言うときに保存活動を開始されたとのこと、よくぞここまで活動を成功させられたことと感心しました。雲南市役所の前にC56108が保存展示されていることは、以前会員のレポートで存じておりましたが、時間の都合もあり通過してしまいました。家内も木次線の魅力に魅せられたのか、春にでももう一度行ってみたいというので再訪を考えております。その時は好物のそばをたらふく食べて、「鬼の舌震」を歩いてみたいと思います。
C56は梅小路機関区に動態保存されていますので、山口線や北陸本線など縁もゆかりもないところで走らせるのではなく、木次線でこそ走らせたいものだと痛感しております。
今後とも当掲示板をご高覧下さいますようにお願い申し上げます。