機関車の好みは人それぞれである。小生は東海道線の蒸機時代に毎年名古屋の従兄弟を訪問していた関係からかC59が最も好みであった。特に戦後製のC59は大きな船底型テンダーと相俟って21.575mの国鉄蒸機最長のスレンダーなスタイルは当時、非常にかっこいいと思った。多分、C59を推す人が多いと思い、同好会OBで数々の名作を発表されている先輩にうかがったところ、意外にも好きなのはD52の戦時設計スタイルでその次はD50と言われた。また、内燃車両で右に出る者はいない先輩はコッペルと言われ、唖然とする。このような中で電車には目が無い先輩はC59、特に戦後製の長いのがええと言われた時は内心ほっとした。世間ではC57の貴婦人が定着しているが、経歴から言ってもC59と思う。軸重の重さ故に他線転用がきかず、早期に引退した美人薄命のC59はC57が貴婦人などと騒がれる頃にはこの世から消えていた。さて、そのC59を意識して撮った最初は電化が進んだ岡山で、1961年7月の瀬戸内海臨海学校の帰りであった。小郡行き牽引のC59164で現在も梅小路に保存されている呉線C59最後の残党3両のうちの1両である。よく趣味誌上でも見られるのでここでは割愛して、今回は、その後、必死に乱写したものを披露したい。乱写と言っても今のデジタルのようなものではなく、フィルムが勿体なく感じる時代で、それでもできるだけ多くの番号を稼ごうと機関区巡りや幹線の線路際で来る列車来る列車全部を何でも撮影したと言う意味である。
①1963年3月、始めての宿泊を伴う撮影で九州を選んだ。途中、朝の下関で降りて連続して到着する九州行きの優等列車牽引のC62、C59を撮影。元祖青信号特派員氏がデジ青に掲載された下関駅の思い出にコメントさせていただいたが、下関の午前中の優等客車列車の最後は同駅南側の架線の無い所に到着した寝台専用急行301レ「音戸」であった。
”]②関門トンネルを抜けて、折尾でC59109[鳥栖]を撮影後、筑豊本線C51281[若松]牽引の列車で原田に向かう。乗り継いだキハ55の準急「くまがわ」は上熊本で特急「みずほ」8レと交換。C59唯一の門鉄デフC59124は旧型客車を従えて夕陽を背に大きな汽笛を残して東京に向かって行った。
”]③翌日、熊本機関区を訪問。扇形庫も無く、狭苦しく窮屈で大型機の撮影には不向きであった。
”]④1964年4月には山陰線C51、木次線C56、山口線D60を求めて機関区巡りを行う。その後、再度九州入り。鳥栖は鹿児島本線、長崎本線が分岐するのでここで両線の大型蒸機を狙う。この日、下り「みずほ」は事故でもあったのか、相当遅れてC59129がバック運転で通過。上りは夕刻C59のトップナンバーが旧型客車4両牽引して到着。目の前で停まってしまった。煙が真上にゆっくりと上がっていることで停車していることがわかる。それでもヘッドマーク付きの1番である。この機関車は後年、小倉工場で撮影したことがある。
”]⑤鳥栖から夜行列車で当時の撮影名所大畠で下車。連続する九州行き優等列車を撮る。道路は舗装されておらず、左には大島が見える。列車は332レ小郡発広島行きでC59190が牽引。架線が邪魔で非常に残念に思っていた。この年の夏に己斐(現西広島)付近で撮影のため、夜を明かした時は電蒸運転が始まり、特急は一部EF60500+C62であった。80系電車も試運転していた。
”]⑥東北本線でもC59は昭和30年代に福島や白河あたりにいたが、最終的には90、176の2両が仙台に残っていた。写真は塩釜の築堤を行く176号機牽引の128レ一ノ関発宇都宮行き。東北独特のシールドビームの補助灯とデフレクター下部の点検用切り取り等により原型スタイルは崩れているが、戦後製の長いテンダーや全体のスマートさは充分感じられると思う。最近このあたりを通ったが、開発されて家が立ち並びこのような風景は過去のものとなってしまった。
”]⑦C59は173両製造され、ラストナンバーは196である。途中、133~155の23両は製造されず、欠番である。さて、そのラストナンバー196は下関で撮影したが、その後直ぐに糸崎に転属。これはあまりにも有名になった急行「安芸」を牽引して広島を出発する姿。
準特急さま
年末に至って珠玉の写真の数々、拝見しました。
私にとってのC59は、呉線で辛うじて残った161、162、164の3両のみ。173両も製造され本線筋で優等列車を牽いて華々しい活躍をした時代を全く撮影していません。準特急さんとは、わずか数年の差ですが、その年齢差を悔やんだものでした。
準特急さんからいただいた、門デフC59124「みずほ」やC591「みずほ」のナマ写真は今も大事に保存しています。
有り難うございます。
相変わらずのパソコン音痴でして、写真の拡大ができず、また、挿入写真の下部に書き込んだデータがどこかに消えてしまったり、申し訳ありません。
C59は省線時代末期を飾った珠玉のパシフィック機だと思っている。C57はバランスがとれているとする人もいるが、本来、太いボイラーを支えるための従輪がバランス上、大きな意味を持っていると思う。でもこれは後年の理屈で、幼い頃、山陽本線で見たときの驚きは、電車少年の瞼に焼き付いている。四国行きの時は宇野線で、九州では熊本以北での姿が今も思い出される。でもカメラを向けたのは数回である。梅小路では何時もしばらく眺めて「バイバイ」するが、一度転車台へB20で引っ張り出して、サイドビューを見せてくれないかと願っている。
みなさん、良いお年をお迎えください。
年明けと共にみなさんご一緒に、”初夢”を披露しましょう!
小生もC59こそ蒸機の代表と確信しております。長老の言われる通りC57ではボイラーが細すぎるしC62は太すぎるように思います。他にはC61やC57の戦後型なども好ましいと思いますが型式を代表する機種としてはC59でしょう。
ところで昭和40年代に興ったSLブーム世代はC57こそ蒸機の代表と考え、それ以前からのマニアはC59をはじめそれぞれを選ぶのではないでしょうか。
思うに蒸気機関車を“SL”と呼ぶ世代はC57が、“蒸機”という世代はC59やC51、D52が代表だと思っているのではと考えられますが準特急さんはいかが考えますか?
乙訓の老人様
コメント有り難うございます。近鉄、能勢電、神戸、大井川等ご一緒させていただきましたが、その時も充分電車少年の感じがしました。大昔には山科の築堤でも後年親友になられるお方と出会ったとかの話を伺ったことがあります。当時C59、C62、C57、C55、C54、C51等々数々の旅客用機関車を自分の庭先のように見られた京都と言う立地は関東他の人間には羨ましかったことだろうと思います。しかし、老人様は山科に行かれても築堤に登らず、築堤の下に目が行かれたのではありませんか。
米手作市様
有り難うございます。全く同感です。C57は貴婦人というよりも割烹着着て下駄履いたそこらのおばはんと言う感じでした。勿論、九州での特急や急行「日本海」、「大和」等々を牽引していましたが、亜幹線の主力機で、晩年は通勤列車やローカル列車牽引のイメージが残っており、小生には真面目な働き者と言う感じがしました。
C59は米手様お気に入りのスハ43系客車に最も似合う機関車だと思います。これに編成は乱すかもしれませんが、マシ29、スシ48、マロネ40、スロ54等を組み込んだ急行列車は最高でした。それにスハネ30やナハ10系が入ってさらに編成を乱しても望遠で狙うと客車列車の凹凸やポイント通過時の様々な台車音の醍醐味を堪能することができました。独特の3軸台車音、ウイングバネのズシンズシン、軽量客車のカタコトという音です。
ところで、C59を九州大牟田と言う文字通り庭先で撮影された米手様の同級生の方がおられましたね。下宿に洗濯物を万国旗の如く吊るしておられ、キャバレーかどこかでバイトされていた方です。どうされているのかなー。
パンツM君のことですね。
年賀状のやりとりだけですが大牟田のさびれた町外れで「※」と書かれた前掛けをして米俵をリヤカーに積んで配達していると言うことです。無口でほとんど笑うことがなかった彼が学生時代に言った冗談話らしい言葉が今も思い出されます。
「足尾鉱山とかけてなんと解く。破れたパンツととく。心は?時々金が出る」
あれは冗談だったのか知識の開陳だったのか今もって不明であります。
そうですか。足尾で金が出るとは知りませんでした。10月にデジ青の冒頭の写真でご活躍の893-2さんとわたらせ渓谷の上神梅まで行きましたが、金が出るなら下手な写真撮影やめて金探しするべきでしたね。 あと1時間で2011年になりますが、皆様よき年をお迎え下さい。
皆様あけましておめでとうございます。今年は2010年の寅年でしたね。本年はさらに充実したデジ青になるように祈っております。
準特急 さま
ご無沙汰しております。札幌の「最果ての機関車たち」です。月日の経つのは早いもので、準特急 さまとご一緒できました中国大陸のツアーから早いもので10年以上の月日が流れてしまいました。準特急さまからのお葉書が本日届き、早速ホームページを開きC59の「ご投稿記事ご貴重なお写真」拝見しました。機関車の奥の深さを再認識させられております。D51、C57、C58、96がメインだった私の世代では比べることが出来ませんが、私もC59の走っている姿を是非、見てみたかったです…。
北海道では、1月23日〜3月7日まで「冬の湿原号」が走ります。この観光列車も今年で10年目を迎えたそうです。機会がありましたら「蒸気と煙たっぷり」の寒い北海道に是非お越し下さい。(寒いのは中国大陸で懲りたかなぁ…?)
最果ての機関車たち様
その節は大変御世話になりました。大観望とか何かそんな名前の場所でしたが、ロシア国境のすいふん河からハルビンへ行く前進型重連の急行列車が思い出されます。あの後でしたね、北満の露と消えかかったのは。東芝の友人は凍りついたハルビンで滑って骨折し、そのまま成田空港近くの病院に入院でした。飛行機も朝9時出発が夕刻まで待たされて。生きて帰れてよかったと思います。あれから10年以上経ちましたね。