遅まきながら今年初めての投稿となりました。またもや京都市電ネタから始めることにしました。話は、昨年末の一本の電話から始まります。
稲荷線にあった踏切の協力者を探る
その電話主は、地元の新聞社からだった。新春の紙面で、昭和時代を生きてきた市井の人たちのその後を追ったシリーズ企画があり、市電伏見・稲荷線の廃止時のお別れ式で表彰された民間人3組みのうちの一人を探している、と言うものだった。その人は、15年に渡って稲荷線の踏切の遮断機を守り続けていたと言う。極めて局所的な問い掛けで、ほとんど記憶になかったものの、確かに伏見・稲荷線の最終日、昭和45年3月31日の深夜、京都駅前で、当時の京都市長、交通局長も列席して、お別れ式が行なわれたことは覚えているし、私も居合わせて写真も撮っている。かすかな記憶をたどっていくと、当時の新聞の切り抜きと、乙訓老人からもらった交通局の「軌道事業略史」に手掛かりが見つかった。これにより、「遮断機がクルマなどで破損するたびに無料修理を15年間引き受けてきた」こと、そして、踏切は「師団踏切」であることが分かった。
▲「あの日の京都へ Back to 1970」の記事 (クリックして拡大)
それらの資料と、最終日当日の写真を社へ送った。自分としては、この程度の協力だったが、ずいぶん喜んでもらえた。なんせ、交通局に問い合わせしたものの、全く資料も証言者もないと膠もなく断られ、手掛かりを失っていたそうだ。「市電への愛 遮断機守った」のタイトルで、かなり大きく紹介された。肝心の表彰者本人は他界されており、結局はそれ以上の追跡も出来なかったようだが、こちらの資料・写真が、、昭和のシーンを多少なりとも発掘できたことは、これも鉄道趣味の社会貢献の一つと感じた次第だ。 ▲記事の一部をレイアウト変更して抜粋
▲写真(上)は、その「師団踏切」を渡るDRFCヘッドマークつきの501号、周囲の様相は、45年後の今は全く面影がない。写真(中)は、京都市長・交通局長も出席して行なわれた、お別れ式。市・当局主催の盛大なお別れ式は、京都ではこれが最後だった。キャプションには、しっかり「鉄道同好会」の名を入れてもらえた
福田さん、よかったですね。写真ほかの資料整理や本の執筆、写真展など、地道な活動の成果でしょうか、いよいよ京都市電の生き字引としての認知が広がってきたようで、ご同慶の至りです。懐かしく拝見しました。先の西村さんの江若展といい、趣味活動の結果が皆さんのお役にたつのは嬉しいことだと思います。
最終日の501号の撮影には同行した覚えがあります。当時は、市電廃止により京阪との平面交差が無くなるなどと、伏見線への郷愁よりも運転保安の向上に目が向いていた期待ようで、いま思うとけしからぬことでありました。
大きな踏切は師団街道でしたか。やはり平面交差に気を取られ、ハッキリとは覚えておりません。勧進橋との間の専用軌道区間には、小さい踏切もあったように思います。いつ乗っても市電の専用軌道は興味深く、そんなに速度が出るわけでもないのに、乗るたびに前にかぶりついてワクワクしたものでした。
昨秋、故あって伏見稲荷大社へ出かけた際に、元の停留所跡を見ましたが、レールが残っているのには気付きませんでした。伏見線とは5歳位の頃に親戚に連れられてイナリまで往復して以来の付き合いでしたが、細かいことは記憶が薄れ、元の停留所が橋の上にあったのか、いや手前の現在の公園にあったのか、判然としないまま帰宅しました。それでもヘッドマークを付けた501号のことは想いだしていましたが。
1900生さま
文章をもう一度点検しようと思って、画面を開けたところ、もうコメントが入っていて、ビックリしました。さっそく、ありがとうございました。生き字引には、まだまだ遠いですが、資料・写真を個人的に楽しむだけでなく、広く市民の方がたに見ていただいて、その時代を思い出すきっかけになれば、こんなに嬉しいことはありません。伏見・稲荷線の最終日は多くのDRFCメンバーで追いかけた思い出があります。確かに稲荷線の撮影ポイントは、京阪との交差で、そればかりに気を取られ、すぐ近くにあった師団踏切のことには、私も気づいていませんでした。紙面の写真も、京阪交差を行く501号を撮り、ついでに後追いで撮ったら、師団踏切が写っていたに過ぎません。でも、役に立つ写真とは、往々にして、こんな「ついで写真」なんです。私も稲荷電停の跡地へ何回か探索に行きました。停留場のあった疏水上の橋に、レールを残したまま、そのままフタをするように、コンクリートを被せたようで、随所にレールが顔をのぞかせていました。
一昨日、高校同窓会学年幹事長から京都新聞の切抜きがドサッと送られてきた。拾い読むうちに総本家氏の名前が出てきた。身構えて一字一句逃さず詠ませていただいた。市電についての青春時代の思い出がたくさんある人物だと思っていたが、これほどまでとは思わなかった。まして、DRFCが絡むあたりでは初めて耳にした話であった。その頃の話と言えば学園封鎖に集中してしまい、こうした鉄道ファンならではの逸話があったとは全く知らなかった。老人もこの頃はしごとに全力投入の時期で、DRFCのBOXの在り処も知らず、8年後輩の追い出しコンパには吉谷さんと一緒に出席していた記憶があるが、それ以後は1970年生まれの息子同道でEVEの模型運転に顔出し下1978年までは空白時代であった。学園封鎖といった忌まわしい出来事があった頃の鉄道FANは未だ特殊な存在であった時だが、京都市民に密着した市電を送るに相応しい行動をとってくれた事に深く敬意を表します。有難う!
乙訓の老人さま
身構えて新聞記事を読んでいただいたとのこと、ありがとうございます。この伏見・稲荷線廃止の昭和45年は、激動の年でした。記事にあるように、廃止日当日に「よど号」ハイジャックが起こり、市電の写真を撮っている時も、家々のラジオから速報が流れていたのを覚えています。そして、まもなく日本万国博覧会が開幕する時期で、世の中、高揚感と緊張感に包まれていた思いがあります。乙訓老人さまにも、お子様が生まれて、記念すべき年となったのでしょう。確かに、この時代、私が親しくしていたOBは、吉谷さんのみでした。失礼ながら、乙訓老人さまの名は、かつてのピク誌の京阪記事と、青信号名簿だけで知るのみで、まだ親交のなかった時代でした。大学紛争のことにも触れられていますが、この年は、不思議なことに紛争とは無縁で、小さなトラブルはあったものの、長期の封鎖・休講はなく、私も日夜、勉学に励むことができました。