準特急様のリクエストにお応えして若干古い写真ではありますが投稿致します。先般の【90506】愛電デハ3080が起点となって瀬戸電、お濠の電車に話が拡がりました。お濠の電車と言えば 準特急殿がご指摘のように六文銭で名高き真田の城 上田城のお濠を走っていた上田丸子電鉄も欠かすことはできません。とは申しましても、私が撮っていますのは廃線跡だけです。
昭和2年に上田温泉電軌の北東線として開通しました。国鉄上田駅を出てすぐ線路は上田城の外堀である二の丸堀の中を北に向かって進み、最初の駅が公園前駅でした。現役時代の写真を昭和62年銀河書房刊「なつかしの上田丸子電鉄」から引用させて頂きました。
北東線は後年菅平鹿沢線と名前を変え、社名も上田電鉄、上田丸子電鉄と変わり、真田・傍陽(そえひ)線となりますが、昭和47年2月19日に廃線となりました。私が訪れたのはその廃止から28年も経った平成12年、高崎での単身生活時代でした。写真のように現地はきれいに整備された遊歩道となっていて、廃止後28年も経っているとは思えない良好な状況でした。上田城のガイドマップをご紹介します。
地図の右下に国鉄上田駅があり、上田駅を出た線路は右にカーブして二の丸堀に進んでゆきました。公園前駅のそばにあるのが二の丸橋です。この橋が建設された時点では すでに北東線工事が始まっていたため、アーチ橋として作られたそうです。
現地訪問からすでに19年が経過し、現在どのような状況かはわかりません。電車が登場しない廃線跡紹介でした。
なお余談ながらお城の堀と鉄道との話では、福山城の東外堀を埋め立てて両備軽便鉄道福山駅が建造された件も思い浮かびますが、これはまた稿を改めてのことにしたいと思います。
西村雅幸様
これです。私も昨年の大河ドラマ真田丸で上田電鉄を撮りに行った時にこのホーム跡の存在を始めて知った次第です。多分今もこのような状態で保存されていると思います。いつもの早い回答を有難うございます。
この道を歩いて橋の上に出ました。思い出しました。上田丸子電鉄の支線だったのですね。
ところで上田丸子電鉄で思い出したことがあります。
二年生の時に同級生で神戸から来ていた「藤田君」がいました。学鉄連の委員長を務めてくれていましたが、マジメでなんでも信用する純粋な男でした。
そんなマジメな藤田君に大阪通信員先輩が「なんで上田丸子電鉄というか知ってるか?」と尋ねました。
藤田君「知りません」
通信員先輩「社長が上田丸子さんいうんや!」
藤田君「そうですか!女の社長さんなんですね」
藤田君、名簿にも載っていませんがどうしているんでしょうね。
米手作市様
いかにも大阪通信員先輩らしいエピソードのご披露ありがとうございました。それにしても半世紀以上も前の記憶がお濠の写真から突然蘇る不思議さを感じずにはいられません。
ワシはぼけていない
米手作市様
昨夜の晩メシが何だったかのかが出てこないのに、はるか昔のことは鮮明に思い出せるのが人間のおもしろいところなのでしょう。これからも初耳の珍談、奇談のご紹介をよろしくお願いします。
お濠シリーズをさっそくにありがとうございます。
堀端の線路でしたら、高松(ここも直角に曲がってました)、大和郡山、山形など思い浮かびます。東京の中央線もですか、、、
お城の濠は鉄道が市街地に乗り入れるのに格好の用地だったということでしょうか?
宇都家様
コメントありがとうございます。「お城と鉄道」をテーマに写真を募集すれば、クローバー会なら全国各地の写真が数多く集まりそうですね。