羽村さんが遺したアルバムから 〈15〉

京阪特急への憧れ

阪急デイ100が大好きだった羽村さんですが、アルバム後半からは、京阪電車も多く見られるようになります。京都市内だけではなく、大阪まで足を伸ばして、走行中を撮っています。以下の写真は、昭和27年の撮影ですが、京阪の歴史を紐解くと、昭和25年に初めて「特急」が朝夕2往復走り出し、その翌年、昭和26年4月からは終日運転に拡大されます。この時、特急専用車として1700、1750形が計10両新造され、MT2両固定編成となり、初めて赤黄の特急色が採用されました。当時の国鉄、阪急にはない派手なカラーが、羽村さんの心を動かしたのでしょうか。
京橋を発車し、野田橋へ向けての併用軌道区間を行く鳩マークの天満橋行き特急。特急は、三条、天満橋とも7時始発、ラッシュ時30~40分ごと、10~17時1時間ごと、終発は20時で、三条~天満橋53分だった(昭和27年12月)。

1700系は合間に急行にも運用されていた。扉間ロマンスシートであったことが見て取れる。おなじみの四条駅撮影だが、ホームには大きな売店が設けられていたことが分かる(昭和27年9月)。疏水を渡って七条駅に到着する1000系急行、ホームの端からの撮影だが、障害物がなく、付近の様子がよく分かる(昭和52年3月)。木造3枚窓の200形2両が鴨川畔を行く。もと急行専用車の100形を連結運転用に改造して200形となった(昭和27年3月)。三条駅の構内に、本線と京津線の連絡線の一部が分断されて、京津線の貨物の引込線として使われていた。28号は、京津1形を電動貨車に改造したもので、マキシマム台車を履いている。

まだ藁葺き屋根も見られる、京街道沿いの御殿山付近を快走する1701+1751の下り特急(昭和27年5月)。

複々線区間の関目付近を行く(昭和27年9月)。先の牧野と言い、この関目と言い、アルバムにはこの一点しかなく、当時のフィルムの貴重さを物語っている。京橋~野田橋の併用軌道は、京都の人間にとっては珍しい光景だったのだろうか、多くが撮られていた。先頭の704は、踏切事故で大破し、前面2枚窓の特異なスタイルに改造されたが、これはのちの500形の更新にも採り入れられた(昭和27年12月)。流線型の1000、1100形が中間に1500形を挟んだ3両編成の急行も、京橋~野田橋の併用軌道を通過していく。なお野田橋は、昭和30年に片町に改称されている。

 羽村さんが遺したアルバムから 〈15〉」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    最初の1700系2連の特急。私の好きな順光線で撮られ空には白い雲が浮かんでいます。道路は舗装されていないのでしょうが空気のきれいな感じが読み取れます。終戦後しばらく経ちましたが不便だが公害のない時代であったのでしょう。車両番号も正面下に2カ所に粋に配置され何よりも正面貫通型3枚窓の正統派の顏がいいです。撮影された昭和27年といえばわたしは小学1年生で阪急電車今津線で通学。300形や320形あるいもう少し古いのにも乗っていたかもしれません。京阪電車は入学願書を出した帰りに乗ったのが最初で1700系は既に特急運用から外れてロングシート化されていましたが外観は2扉特急色で残っていました。同時期の阪急京都線710系と比べ車両が一回りも二回りも小型で半鋼製車両でしたが高性能車両への過度期で新型台車と共に好ましいスタイルの車両でした。正面の急行表示板は1000系のそれと場所が反対なのが気になりました。この700系はどこかで汚水に突っ込んで後の500系改造の様な顔になった車両と聞いております。

    • 準特急様
      ご自身の思い出とともに、コメントをいただき、ありがとうございます。羽村さんの写真は、ご指摘のように、順光線できっちり撮られています。偶然かどうか分かりませんが、よく見ると、影の出ない曇りの日か、バリ順でしか撮られていませんね。当時は一枚一枚、ここまで気を遣って、影の出る逆光や半逆光ではあえて撮らなかったのではないかと推察します。

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