あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~3~

ほぼ同月同日シリーズ、3月の続きとして、しばらくデジカメで撮ったカラーを見ていただきます。私のデジカメ歴は2003年から始まっていますから、ちょうど20年になります。最初はコンパクトデジカメで、まだ画素数も色調も満足できるものではなく、もっぱら個人ユースとしての使いかたでした。画素数も多くなり、色調も安定してきた頃に、一眼デジカメを購入し、鉄道写真もフィルムからデジタルに移行します。高齢者がデジカメ時代と聞くと、つい最近のようにも思いますが、もう結構な年数が経過しました。初期の時代に撮った写真は、立派な古写真に入っているのかもしれません。事実、デジカメ初期に撮った内容を見直すと、今では見られない車両や鉄道ばかりで、改めて年月の隔たりを感じます。

2006年3月13日 横浜で「出雲」、113系を撮る

京都地区の113系が今月いっぱいで撤退することがアナウンスされているが、東海道本線の東京口で運転されていた国府津車両センターの113系は、E231系の投入で2006年3月18日改正で運用を終了した。これにより“湘南電車”発祥の地から、オレンジとグリーンの塗装が見られなくなった。JR横浜支社では、最後まで残った4編成に意匠の異なるヘッドマーク(シール)を貼付して走った。

小田原行き快速アクティー3715M クハ111-1405F 新子安

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~2~

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る②

渋谷で撮ったあとは、以下のように、京王・小田急・都バスを撮り、最後は国鉄の列車も撮って、一日を終えます。前回の東急5000系、6000系、今回の京王3000系、小田急3000形など、その後、地方私鉄で第二の働き場所を見つけた車両も、今では、それもほとんど見られなくなり、時代の隔たりを感じます。京王井の頭線のステンプラカー3000系が製造されたのが昭和37年、当時の「鉄道ファン」の表紙でも紹介され、編成ごとにカラーが異なる正面のFRPのマスクには強い憧れがあったが、乗ることも見ることもなく、今回初めて撮影できた。下北沢~新代田 (以下、昭和56年3月13日)

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~1~

“地元大事”と、関西の蒸機を連載していましたが、同じようなモノクロ写真だけ並べても、単調なこと甚だしく、もう少し地域、車両に変化が必要だと感じています。最近、身体が思わしくなく、自宅に籠って古いデータやフィルムを見直していると、「こんなモン撮ってたんか」というような写真も出てきました。「古い」というキーワードは、50年前であっても、20年前であっても、大きな価値を生みます。発表する機会は、まだ気力の残る今しかないと思いました。ただ成り行きで紹介するのではなく、何かの“括り”は必要でしょう。そこで、タイトルに掲げたように、古いネタであれば、ほぼ同月同日の切り口で何でも載せて行く、ゆるい括りとしました。今まであまり発表していない私鉄電車やバスなども、この際、蔵出ししたいと思います。

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る①

そんな時、ある方から、地元大事はわかるけど人によって地元もいろいろあるでェ、もっと広い範囲、関東方面も紹介せえと、叱咤激励されました。確かにそうですね。そこで、手始めとして、昭和56年3月に行った東京の私鉄・バスめぐりを載せることにしました。この時は、先輩のTさんの結婚式に招かれて、東京へ行ったもので、式の前日に入り一日撮影したものです。乗り換えの合い間はあるものの、東京で丸一日、撮影に費やしたのは初めてでした。特段珍しいものはありませんが、年月が経ってみると、それなりの価値が出てきた例として、まず紹介します。夜行バスに乗って早朝に東京に到着、廃車の始まった東急(初代)5000系を撮るのが第一の目的だった。大井町から大井町線に乗ると、まだ“青ガエル”を多く見かけた。デハ5000の最終車5055先頭の大井町行き 同車は松本電鉄モハ5005として譲渡された。 (以下、昭和56年3月13日)

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ⑤

最終回の草津線蒸機は、貴生川から、甲賀、油日、柘植と巡ります。東海道沿いに古くから集落のあった草津~貴生川と比べると、この貴生川~柘植は、ローカル色も濃くなります。草津線の列車ダイヤを改めてみますと、撮影当時の昭和40年代、朝夕を中心に4往復の客車列車がありました。朝の下り3本は、草津からEF58に交代して京都までの直通でした。草津を早朝6:11に発つ上り722レは、亀山経由で紀勢本線を一周して、夜の20:51に和歌山市に到着する当時の名物鈍行でした。貨物列車は、亀山から梅小路へ向かう列車が多くあり、牽引機は、亀山区、奈良区の集煙装置付きのD51でした。SLブームの渦中で、関西本線では休日のたびにD51牽引のイベント列車が走り、その流れで、デフに装飾を入れた機も見られました。そんなD51の奮闘も、昭和47年10月改正でDD51と交代し、客貨からD51の姿は見られなくなりました。柘植から油日寄りへ歩くこと数分、絵になる松、杉の並木が迎えてくれる。加太への移動にも便利なところで、お気に入りの撮影地だった。ここは県境を越えた三重県となる。 786レ D51 497 油日~柘植 昭和47年2月

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ④

貴生川

草津線は、貴生川を境に様相が変わります。草津方は人家も多く、当時から京都方面への通勤圏に入っていて乗降も多く見られましたが、いっぽうの柘植方はローカル色が強くなり、勾配区間もあって蒸機の奮闘が見られました。街道の東海道も、貴生川までは並行するものの、水口から鈴鹿の山あいに入って行くため、草津線は貴生川~柘植の比較的平坦なルートを選択しました。

地図を見ると、貴生川付近の集落は杣川の対岸にあって、駅側にはほとんど人家が見られませんが、草津線が開業する前日の明治33年12月28日に、近江鉄道が彦根から伸びて来ました。昭和8年には信楽線も開業して、貴生川は乗換駅としての機能を持つようになります。朝から降り続く雨のなか、機体をホームに映して、D51 841の牽く4791レが貴生川に到着する。駅の配線はその後も大きな変化はないものの、駅舎は橋上化されている。  昭和47年6月

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ③

石部から 三雲、貴生川へ

今回は2つ目の駅、石部から始めます。石部は、東海道51番目の宿場に当たり、草津線の南側に並行する東海道沿いには、今でも宿場町の面影が残っています。京からは9里(約35キロ)の距離となり、京を出発した初日の宿泊地として「京立ち、石部泊まり」と言われて、宿場は賑わったと言います。

石部からさらに三雲方面に歩くと、当時は、家棟川、由良谷川、大砂川と3つの天井川が流れていて、草津線は下を潜っていました。草津線の電化に際して、家棟川、由良谷川は平地化されて、うち家棟川の跡地には、新しく甲西駅や湖南市役所が建てられました。現在、天井川で残るのは大砂川のみで、煉瓦積みポータルが古い歴史を伝えています。

夕方の柘植方面の客車列車は、逆光上で撮るのに最適。背後には、いかにも秋らしい雲が漂っていた。726レ D51 178 石部~三雲 昭和47年9月      

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ②

では草津から順に蒸機との出会いを巡って行きます。草津線の起点は柘植ですが、感覚的にはやはり草津です。明治期、官設の東海道線は、滋賀県下では琵琶湖の航路に代わって、中山道に沿って鉄路で建設されることになります。それに対抗して、東海道に沿って旧宿場町を巡り、草津から四日市へ至る、私設鉄道を建設する機運が起こります。草津~三雲が明治22年12月に開業、翌年には三雲-柘植-四日市の約63キロが一挙に開通しました。これが、関西私鉄の先駆けとなる名門、関西(かんせい)鉄道の出発点となったのです。関西鉄道と言えば、JR関西本線のイメージが強いのですが、現在の草津線から始まったのです。今でも草津線には、関西鉄道の社紋がある煉瓦積みのアーチ橋が残り、歴史の変転を見ることができます。東海道本線から分岐した直後のカーブ上で、亀山発京都行き725レを撮影する。D51 145の牽引。前項の草津線初撮影と同じ昭和44年3月の撮影。この時は、草津線と東海道本線は平面で分岐・合流していたが、東海道線の列車を支障することになり、昭和45年に、付け替えが行われ、現在のように上下線が分離、高架化された。

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 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ①

桜の開花も近いというのに、投稿はいっこうに進まず、デジ青の論戦にもついて行けません。体調も万全でなく、何をするにも“身体が資本”を改めて感じる毎日で、本日の長良川鉄道イベントも参加が叶わず、家で悶々としていましたが、地道に投稿を続けていきたいと思っています。

まずは古典ネタで入るのが高齢趣味者の定めと言うことで、しつこく蒸機ネタから始めます。1月の写真展「煙の記憶」、多くの皆さんに来場いただきましたが、改めて感じたのは「蒸機の時代は遠くなりにけり」です。現役蒸機の時代を知らない世代が、来場者の約半数でした。その方たちの眼は、北海道のC62重連や、九州の流麗なC57よりも、山陰本線京都~園部など身近な線区に注がれます。前回、本欄で小浜線のC58を連載した時も、予想外のコメントをもらいました。近郊の線区は、蒸機形式や沿線風景において、北海道、九州と較べると見劣りすると思うのは高齢者だけで、その時代を知らない世代にとって、そんなことは関係がなく、蒸機の時代と、現在の風景を対比して興味深くご覧になっていました。 やはり地元の写真を、きちんと載せて行くことが大事だと感じ、今回は草津線を採り上ることにしました。

草津線の蒸機を初めて撮ったのは意外に遅く、昭和44年2月のことだった。この時、DRFCで近江鉄道彦根車庫の見学があり(西村さんが、近江の白帯貨車を載せられていた)、早めに草津へ行って、駅で京都へ向かう蒸機を撮った。この時は亀山区のC58 240が牽いていた。駅構内は、50年後の今もそれほど変わっていないが、右手には関西鉄道由来の煉瓦庫がホームと隣り合っていて、駅前の再開発工事も途上だった。

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 「京都市電2系統」展 本日3/1から開催 !

本欄でもご案内しましたように、写真展「京都市電2系統が走った町並み」が、本日3月1日(水)から開催されています。昨日2月28日は、私も午後から会場に入り、主宰の勧秀峰さんと一緒に設営をしてきました。勧秀峰さんが練りに練った企画、入念な準備作業のお蔭で、作業は順調に進み、まだ明るいうちに作業は完了しました。いつもの私など、成り行き任せの進行で、陽もとっぷり暮れた頃にようやく終わるのとはエライ違いでした。会場は、お馴染み、高瀬川畔の「高瀬川・四季AIR」、私たちが毎年のように使わせていただき、これで4回目。早くも京町家の玄関はポスターで埋められた。

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❹

テーマを外す

今回の蒸機展示では、4つのテーマに分けて展示しましたが、あえてテーマから外した写真も数点展示しました。たとえば「ヘッドマーク」では、蒸機前部のヘッドマークだけでなく、京都駅で撮影された「はと」後部のバックサインを展示、「山陰本線の蒸機」では、蒸機だけでなく、試作DLや初期DCを展示しました。テーマを絞ることは大事ですか、その中にテーマ外しの写真を混入させることにより、構図・車種が限定されることなく、流れに変化が付きます。狙いは的中し、ご来場者は、“ン?”という感じで立ち止まって、キャプションをじっくりご覧になって納得されていました。「あえてテーマを外す」ことも写真展の場合、一つの手法だと感じた次第です。

国鉄のディーゼル機関車の黎明期、国内の車両メーカーが、海外製の機器を積んだ試作車を独自に開発、国鉄に有償で貸し出して、テストを重ねた。山陰本線はテスト線区に選ばれて、一形式1両の試作DLが走った。写真のDF41 1もその一両で、汽車会社製の電気式、昭和34年から3年間、福知山区に配置されて、山陰本線、福知山線で試用された。人間国宝さんは、営業列車を牽く前に、客車1両だけの試運転を撮られている。「これは貴重や」の声とともに、「どんな色やったんかいな」の声も聞かれた。たしかにモノクロ写真では、色の想像もできないが、実際は、下部グリーン、上部オレンジだったと、お知り合いの方に教えてもらったが、実際は、退色、汚れで泥のような車体だったと言う。撮られた亀岡駅の背後も、いまは巨大なサッカースタジアムができて、現況と比較される方も多かった。昭和34年5月30日の撮影だか、客車はオハフ30 54[四コチ]と台帳に書かれていた。四国の客車が山陰本線で使われていたことも興味深い。

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❸

山陰本線のC51・C54

「ヘッドマーク」から、第2章の「里を走り、川を渡って~山陰本線京都口の蒸機」に移ります。本展は4つのパートに分けて展示しましたが、それぞれ訴求対象が違います。「ヘッドマーク」は根っからの蒸機ファン向け、そして「里を走り、川を渡って」は、ご来場では最も多い地元、なかでも高齢の方々へ向けてのテーマでした。京都人の蒸機の思い出と言えば、やはり山陰本線だと、私も体感的に感じていました。さらに深耕するために、“二人展”のメリットを活かしました。すなわち、人間国宝さんが撮られた昭和30年代のC51・C54、私の撮った昭和40年代のC57と、異なる年代の二人展だからこそ、時代の幅が広がったのでした。山陰本線テーマは的中し、「保津峡へ来たら、窓を開けたり閉めたりしましたわ~」の感想が何度も聞かれました。会場へ入って、真正面に見える奥のコーナーから山陰本線を始めることになった。目立つところに、何を持ってくるか、やはりこれしかなかった。亀山区で最後まで残った原型C51として有名なC51 225だった。亀山区の印象が強い同機だが、昭和26年から10年間も梅小路区に配置されて、山陰本線の旅客を牽いていた。正面形式入りのナンバープレートは、同機ならではの魅力だ。

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 2023年版 雪が降ったら、やっぱり叡電へ

24日(火)晩からの“最強寒波”、京都付近のJRトラブルばかりが耳目を集めましたが、私も写真展片付け後は、危うく難を逃れました。電車内に閉じ込められた方から見ると、不届き者以外の何物でもないのですが、私はワクワクして翌日を迎えました。目を覚ますと約15センチの積雪、もう行くところは叡電に決まっています。このタイトル「雪が降ったら‥」は、2017年の投稿にも同じように使っていました。やることに、全く進歩がありませんが、私の家から30分で終点に到達できるのですから、これが京都の良いところです。他人様の写真ばかりを紹介して得々とするなと言われそうですので、今回は「現役老人」を示すためも、久しぶりの雪中撮影をご紹介します。フリーキップ「ええ、きっぷ」を握りしめて、まず着いたのが八瀬比叡山口駅、ちょうど、ほぼ同時発着の「ノスタルジック」731号と、「ひえい」の並びが見られた。これは2番線から発車がある場合のみに見られる、数少ないシーン。

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❷

蒸機の“顔”も展示

山科の人間国宝さんが撮られたヘッドマーク付きの蒸機には、前回の走行写真だけでなく、形式写真、蒸機の正面、ヘッドマークのみもあり、意識してヘッドマークをテーマに撮り続けられていたことが分かります。本展示では、蒸機の正面に絞って、A4サイズで展示し、全体の流れのなかでアクセントとなるようにしました。たしかに正面写真は、いちばん車両の特徴が表れた、まさに“顔”とも言うべき部位で、写材としても最適でした。以前の鉄道雑誌にも「電車の顔」と言ったタイトルで、正面ばかりをカタログ的に並べた企画があって、その個性を楽しんだものでした。

やはり注目を浴びたのはヘッドマークを付けたC51だった。年寄りにしか反応はないかと思ったが、意外にも若い人たちからも「これは貴重ですね」という声を多く聞いた。写真は、いずれも快速時代の「いずも」の牽引に当たった化粧煙突のC51で、左は若番号のC51 3[米]米子区、右はC51 122[米]浜田区(既出)、いずれも昭和29年10月

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 写真展「煙の記憶」レポート   ❶

本欄でも紹介済ですが、1月18日(水)~24日(火)の7日間、山科の人間国宝さんとご一緒に、写真展「煙の記憶」を行なっていました。クローバー会の皆さんはもちろん、コメントを頂戴している外部の皆さん、「デジ青を見て新幹線で飛んで来ました」と初対面の方が来られたりと、地元から遠方まで、老いも若きも、男も女も、多くの皆さんと対話ができる貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございました。

写真展が終わって何らかの報告をと思ったのですが、手前味噌なことを書くのも気が引けますので、ここでは、展示写真のなかから、山科の人間国宝さんの許可もいただいて、とくにポイントとなる写真をピックアップしてご紹介したいと思います。

会場のエレベータが開いて、ギャラリーの全体がパッと眼に飛び込んだ時の“ワクワク感”を大事にした。そのため、真っ先に持って来たのが、テーマ1「栄光の証し、輝かせ」だった。すべて山科の人間国宝が撮られた、昭和30年代、蒸機に掲げられたヘッドマーク(愛称板)だった。山科の人間国宝は、山科の大築堤を行く、ヘッドマークを掲げた「つばめ」「はと」に感激し、蒸機に限らずヘッドマークを掲げた列車を撮るため全国を巡られた。

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 写真展「煙の記憶」、会場でお待ちしています

ことし初めての「デジ青」投稿となりました。投稿テーマだけは、新春から沸々と湧いて来るのですが、高齢化による実行力や集中力がさらに低下して、ことごとく企画倒れに終わってしまいました。結局、明後日18日(水)から行う、写真展のお知らせが、ことし初めての投稿となりました。

 佐竹保雄・福田静二鉄道写真展「煙の記憶」

  2023年1月18日(水)~24日(火)11:00~18:00(最終日16:00まで)

  祇園「ぎゃらりぃ西利」 京つけもの西利祇園店3階 (京阪祇園四条下車)

山科の人間国宝さんとの写真は、2021年、ひとまち交流館京都での写真展以来となります。こちらで勝手に二人展などと称して、厚かましいこと甚だしいのですか、年代差のある二人展だからこそ、年代幅が広がった、より広範囲な写真を展示ができると考えています。

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 青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて-19-

始まりは新幹線の開業で賑わう長崎から。一部で減便が見られた長崎電軌だが、車両数、輸送人員ともに、広島に次ぐ国内2位を堅持、系統が集まる西浜町の交差点に立つと、T字路の上を架線が複雑に覆い、直進、左折、右折する電車に目を奪われる。

長々と続けてきた本シリーズもやっと、終わりが見え始めました。今回は、九州各地で見た青い瞬間(とき)を挙げてみました。一日24時間のうち、10分程度しか見ることができない一瞬ですが、舞台となる鉄道が変わると、さまざまな表情が見えてきます。

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