投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~24~
2007年8月17日 阪急桂川鉄橋へ
暑い昼間は避けて、夕方あたりから急に写しに行きたい衝動に駆られたことがありました。最近は、さすがにその気力も湧いて来ませんが、空の様子を見て、きれいな夕陽になると確信すると、16時ごろ、カメラ一台を持って出かけました。前の居住地の場合は、そんな時、阪急桂川鉄橋へよく行ったものです。家から30分余りで到着できました。鉄橋上では太陽が編成全体に当たり、河原に下りると、角度は難しいものの、夕陽バックのシルエットも撮ることができました。
▲桂川鉄橋の下り方に、歩行者・自転車専用の踏切があり、身を乗り出すと下り電車が撮れる。この時期、特急は、6300系、9300系が並存していて、前パン唯一の6330編成もまだ健在だった。
保護中: こんなところに クローバー会 ①
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~23~
2006年9月29日 YS-11(2) 最後の搭乗へ
▲40年以上飛び続けて来たYS-11も、2006年9月30日限りで民間航空から撤退することになった。その前の日、YS-11の書籍編集中の私は、編集長とともに、取材名目でYS-11の記念フライトに向かった。まず徳島空港へ、空港の反対側に回って待つが、機材トラブルでなかなか到着せず、やっと30分遅れで、福岡発徳島行き3563便の着陸をとらえることができた。
2000年代に入って、YS-11の命運を決定づける航空法が改正されます。旅客機への航空機衝突防止装置(TCAS)の義務付けでした。YS-11の場合、多額の改造費用だけでなく、狭いコクピットに装置の取付けが困難な問題も発生、この時点で国内運航のYS-11は、エアーニッポン(ANK)、日本エアーコミューター(JAC)の2社、TCAS取付けに当たり、ANKは運航を断念し、2003年、最後の新千歳・女満別線
から撤退しました。一方、12機保有のJACは、路線網も広範囲にわたり、後継機へ移行ができない事情もあり、航空法施行の例外規定の適用を受け、しばらく運航を継続しましたが、後継のボンバルディア機が増備されて、最後は鹿児島-福岡(2往復)、福岡-徳島(1)、福岡-高知(2)、福岡-松山(1)の4路線、機体も、JA8717、8763、8766、8768の4機になっていました。▲初めての徳島空港、徳島行き高速バスの松茂バス停からはタクシーですぐだった。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~22~
2006年7月13日 YS-11を求めて(1) 鹿児島空港
ちょっと、話題を変えて、この季節、鉄道以外の乗り物を。2006年の夏、国産初の旅客機、YS-11が民間航空から撤退しています。私は、その頃は会社勤めをしていて、職務のひとつとして、鉄道書の企画・編集も手掛けていました。YS-11が無くなると聞き、鉄道テーマを旨とするシリーズ本にも、ぜひ飛行機も加えようと出版社と画策し、私も編集者の立場から、現場の撮影・取材へ何度か行くこととなりました。

▲戦後に国産開発した初めての旅客機がYS-11、試作1号機が、昭和36年7月に、初飛行し、昨年には60周年を迎えた。182機が製造され、日本の航空会社では、日本航空、全日空、東亜国内航空、南西航空などで使用した。地方空港が次第にジェット機に置き換えられ、国内の定期便では、東亜国内航空の後継となる日本エアコミューターが、この年の9月30日に運航を終了した。その後も、航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁などでは運航を続けている。写真はJA8677機と機体のスペシャルマーキング。
保護中: K.H.生さんの写真展 8/7から開催
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~21~
2013年8月7日 国鉄風のキハ40系に出会う
キハ40系と言われる国鉄時代の末期に登場した気動車は、総数が888両に達し、全国各地で活躍しました。製造当初からは50年近くが経過し、JR各社で独自開発された新型車との世代交代が進み、今では廃車が進んでいます。機関換装、車内改装などの改造による派生形式、番号区分が多数あり、さらに地域密着の施策から、驚くほど多くのカラーバリエーションがあります。なかには、40系新製時のカラーは「タラコ」一色で、40系ではあり得ない「国鉄色」イメージに塗られた車両も各地で走りました。
▲この日も18きっぷで、伊勢市へ向かっていた。ホントの目的は、翌月に迫ったOB会の「しまかぜ」乗車ツアーの昼食会場の下見だったが、“帰りがけの駄賃”で、紀勢本線の多気で途中下車、近くで通過する紀勢本線の列車を写した。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~20~
2009年7月20日 廃止予定の北陸鉄道加賀一の宮へ
▲最近、廃止問題が浮上した北陸鉄道の石川線、いまの終点は鶴来だが、2009年まで、二駅先の加賀一の宮まで伸びていた。寺院を思わせる和風建築の駅舎として知られていたが、乗客減で同年10月に廃止された。
ネットニュースを見ていると、北陸鉄道の石川線が、存廃の検討に入ったとの報道がありました。石川線は、野町(金沢市)~鶴来(白山市)の13.8kmの路線です。同線の利用者は年間89万人、輸送密度は1391人と、国鉄民営化の際のバス転換の目安4000人未満を大きく下回るなど、苦しい経営が続いていて、鉄道存続なら上下分離方式案も出たことや、廃止の選択肢には、BRT転換などが議論されたとのこと。最近でも、2009年10月31日に、鶴来~加賀一の宮間2.1kmが廃止されていますが、この年の夏に終点の加賀一の宮まで訪問しました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~19~
2008年7月20日 福知山へ けったいな電車を見に行く
▲18きっぷを使って福知山線経由で福知山へ向かった。着くと向かい側ホームには、さっそく、“けったいな電車”が。クモハ113-3819
JR発足時、列車の増発と引きかえに、短編成化が推進され、特急から通勤電車まで、中間車を先頭車化する改造が各社で行われました。ブロック接合などの新しい工法の導入で、一見、違和感もなく、先頭車化された車両もありますが、なかには、ずいぶん“けったいな”先頭車も多数出現しました。その典型は、寝台座席特急583系を、切妻の先頭車にした、“食パン電車”こと715系でしょうか。福知山線、山陰本線の電車を受け持つ福知山電車区にも、個性的な先頭車が多く出現しました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~18~
2008年7月13日 姫新線 播磨徳久へ
▲ 黄色い畑と、黄色いDC、この時期の姫新線で見られた組み合わせだった。
夏の旅行の必須アイテム、“青春18きっぷ”も通用が開始されました。十数年前は毎夏、
必ず購入して、近隣の地域へよく出掛けたものでした。しばらく真夏の18きっぷ旅を続けます。兵庫県の姫新線沿いにある。佐用町は、町おこしの一環として、1990年ごろから休耕田を利用して、観光用のひまわり畑を売り出しています。姫新線はそのなかを走ることになり、この時期限定の写材となりますが、耕作地は毎年変わるため、DCと絡めての撮影も年によって様子が変わって来るようです。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~17~
近畿地方では梅雨も明けて、暑い毎日が続いていますね。もう夏バテなのか、“デジ青”では眼に見えて投稿が少なくなりました。私も、北九州ツアー、上映会テーマと、会行事関連の投稿もやっと終わりました。本来の自分勝手なテーマに戻って、デジ青を盛り上げたいと思いますが、高齢者は新規テーマにはなかなか出会いません。こうなったら、例によって、ストック写真の蔵出しでもと、2006年から一眼デジを使い始め、2010年ごろまでの4年間、ちょっと昔の懐かしシーンを載せていきます。今から十数年前、待望の万年日曜日を謳歌していた時代、今よりウンと行動的だったことが改めて分かりました。
2009年6月23日 長野電鉄へ
昨日、ネットニュースを見ていますと、長野電鉄1000系「ゆけむり」を使ったビアトレイン運転がありました。これはエエですね。ロマンスシートを四人掛けにして、前には長テーブルもあって、ビール、弁当を置いて、長野~小布施を往復したとありました。来週の当会ビア電も楽しみになって来ました。その1000系が、小田急電鉄から長野電鉄に入った頃、引き換えにまもなく消える特急2000系を求めて、梅雨の晴れ間を縫って長野電鉄へ行きました。
「特急三百哩」を観る ! (下)
「特急三百哩」、映画の中盤で繰り広げられる男女の憎悪劇の部分は省いて、後半のクライマックスシーンへ移りましょう。粗いストーリーとして、主人公の機関士が、暴風雨のなか、東京行きの列車を牽いて駅を出発。ところが、前方で手を振る白い影を見つけて急停車、下車して調べると土砂崩れが発生していて、危機一髪でセーフと言うストーリー、白い影は、機関士の将来の許嫁だったのです。
▲「鉄道省ご後援」の肝入りどおり、当時の最新の車両、C53が何度も登場する。最大の特徴の「スリーシリンダー」も、あとで字幕に出て来る。C53はこの昭和3年から、短期間に大量に造られて、C51に代わる東海道・山陽の優等列車牽引用として、全部で97両が製造された。写真のC5344は梅小路区の所属、唯一の流線型改造C5343と、梅小路蒸気機関車館の保存機C5345の間に当たる機となる。
「特急三百哩」を観る ! (中)
「特急三百哩」、導入部分を見てもらったあと、前半の鉄道シーンを見てもらいます。ある駅に鉄道電話が入って来ます。「何者かの悪戯で無人の機関車が線路を勝手に走り出した !」と言うもの。無人の機関車が走るのは、昔も今もアクション映画の常套ですが、なんと線路上には先行して下関行きの列車が走っています。下り勾配のため、重量のある旅客列車に、やがて暴走機関車が追突 !? さて、その結末は?▲レールの間にカメラを据えて、機関車が通過して行く撮影手法も、90年前に採り入れられていた。
「特急三百哩」を観る ! (上)
日本で最初の鉄道映画といわれる「特急三百哩」。DVDに復刻された原盤を、所蔵・管理されている京都おもちゃ映画ミュージアムからお借りして、さる6月17日、京都キャンパスプラザで、クローバー会のプロジェクションイベントとして上映することができました。▲タイトルにいきなり、梅小路機関区配置のC51203が出て驚かされた。まだデフもなく、御召を何度も牽いた梅小路の代表的なC51だった。後年、紀勢線六軒駅の事故機となり、廃車される。なお題名の「三百哩(マイル)」だが、当時の鉄道の距離表示はマイルで、メートルになるのは昭和5年から。「三百」の由縁については後述。
福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❾
福岡市内線貫線の“思い出探し”も最後となりました。今回は「西新」から、西の終点となる「姪の浜」までです。訪問時は、全区間歩く予定でしたが、暑さで降参、この区間の大部分を、電車に乗っての移動となりました。
終点まで行って感じたことは、西鉄市内線の車両は古くて汚く、施設も貧弱で、当時の京都市電とは大きな開きがあり、“田舎電車”の印象でした。改めて調べると、訪れた昭和50年の福岡市の人口は99万人で、まだ百万都市に達していませんでした。比べて京都市は146万人、福岡の1.5倍もある大都市で、民営、公営の違いもあって、路面電車でも格差があるのも納得がいくものでした。しかし、以降の福岡市の発展は、すさまじく、西日本経済の中枢都市から、アジアの玄関口へと発展し、人口も163万人、人口減少数日本一の京都と較べて、住みやすさナンバーワンなど、質量とも先端を行く都市となりました。
▲貫線の終端区間は単線になっていて、離合のできる停留場では、続行標識を付けた2台の電車が続けて交換して行った。竹の山四丁目
福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❽
福岡の中心「天神」を発車した福岡市内線貫線は、城下町の福岡のなかを走り抜けます。西にある福岡城址は、広大な大濠公園や、平和台のスポーツ施設になっていて、いまや伝説と化した西鉄ライオンズの平和台球場があったことが思い出されます。“あった”と書いたように、訪問した昭和50/1975年には、ライオンズは西武に売却されて、本拠地は埼玉へ移っていた感覚がありました。ところが、改めて調べてみると、西鉄ライオンズの後継となる太平洋クラブライオンズが、まだ平和台球場を本拠地として使っていた時期だったことが分かりました。ライオンズは不祥事も続き、最下位続きでしたが、初のパリーグのDH制となったこの年は、東尾修が最多勝、土井正博が本塁打王になり、前期2位と健闘しています。。セリーグでは広島が球団創設初優勝、読売巨人は初の最下位に沈んだ年でした。その後、さらに「クラウンライター」と名を変えて、昭和53年に西武ライオンズとなり、ホームグラウンドは埼玉へ移ることになりました。
▲昭和50年と言えば、まだ大学闘争の残り火が、くすぶっていた時代だった。ここ福岡の中心「天神」でも、機動隊に囲まれて、おとなしく交差点を進むデモ行進が見られて、市内線と一緒に収めた。背後の西鉄福岡駅のターミナルデパート、岩田屋本館の旧景とともに、まさに昭和50年の風景だった。建物は外観が改装されて、PARCOとして今も営業している。
福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ➐
西鉄福岡市内線の貫線をめぐる旅、つぎは千代町から、市の中心部、天神へと至る区間です。北九州ツアーの二日目午後、福岡市内線の面影探しで、案内していただいた西鉄友の会のYさんから、福岡市の歴史や成り立ちについて興味深いレクチャーを受けました。よく言われるのは、商人の町・博多、武士の町・福岡と言う、性格の違う大きな町が隣り合っていた史実です。案内のYさんは、“ブラタモリ”に出演実績があるだけに、興味深い話にはつい引き込まれました。今回のルートは、その博多から福岡へと入って行くこととなりました(以下、昭和50/1975年6月撮影)。
▲中洲のランドマーク、赤煉瓦の大同生命ビルの前を西鉄バスと競うようにして、明治通りを行く福岡市内線。中洲を過ぎると、福岡の町に入る。
福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❻
北九州ツアーの“思い出探しの旅”、最終のお付き合い、お願いいたします。と言っても、ツアーに直結するテーマではなく、前項でも書きましたが、ツアーの二日目午後は西鉄研究会の皆さんのご案内で、西鉄福岡市内線の廃線跡を巡りました。当日訪問した「馬出」「箱崎」は、西鉄福岡市内線の貫通線(略して貫線)のなかの電停で、この貫線は、東は「九大前」から、福岡中心の「中州」「天神」を経由し、「姪の浜」までの11.9kmで、福岡の市街地をほぼ東西に走る中心路線でした。
全区間を走っていた系統が「1」系統で、京都なら四条通、東京なら銀座通、大阪なら堺筋と代表的街路を走るのは、いずれも「1」系統で、福岡でも、文字通り中心部を貫通する代表系統でした。この区間が廃止になったのは、昭和50(1975)年11月のことで、私は廃止前の丸一日を、ほぼ全区間、歩いて記録しました。福岡市内線は、博多駅前を行く系統などが廃止された昭和54年2月が最後でしたが、これに先立って貫線は廃止されました。いつかは、京都以外の他都市の路面電車を紹介したいものと、考えていたところで、ツアーの行事に引っかけて、まずは福岡市内線の貫通線をご紹介する次第です(以下、路面電車時代は昭和50/1975年6月撮影)。
▲九州大学医学部付属病院のある「大学病院前」には、緑豊かな東公園が広る。
北九州から福岡へ “思い出探し”の旅 ❻
“思い出探し”の旅も、北九州から福岡へと移ります。クローバー会の北九州ツアーの2日目、西鉄宮地岳線の廃線跡めぐり、多々良工場の見学のあと、午後からは、1975(昭和50)年に廃止となった西鉄福岡市内線貫通線の箱崎、馬出付近の廃線めぐりとなりました。私も廃止直前に、貫通線のほぼ全区間を歩いて写しただけに、50年前と比べてすっかり変わってしまった沿線を見て、感慨深いものがありました。
▲ 「馬出」電停の安全地帯が、いまも残っていることを、本欄でも、地元のおとりんさんからレポートが寄せられて、そのコメントに私も写真を寄せたが、今回、もう一度、掲載を。貫通線が九州大学の校地に沿って東進し、左へカーブしたところに「馬出」の電停があった。この付近は、ほぼ専用軌道で、電車はダイヤ通りに走り、商店の軒先を兼ねた電停は、賑わっていた。
▲現在の同地点は、「馬出バス停」交差点に当たる。線路跡は道路となった。城戸商店は、ご覧のように、外装は新しくなったが、窓割りはそのままで、沖縄そばの「由ら花」などになった。左手にあった民家も合わせて、棟続きになった。

