福岡市内線貫線の“思い出探し”も最後となりました。今回は「西新」から、西の終点となる「姪の浜」までです。訪問時は、全区間歩く予定でしたが、暑さで降参、この区間の大部分を、電車に乗っての移動となりました。
終点まで行って感じたことは、西鉄市内線の車両は古くて汚く、施設も貧弱で、当時の京都市電とは大きな開きがあり、“田舎電車”の印象でした。改めて調べると、訪れた昭和50年の福岡市の人口は99万人で、まだ百万都市に達していませんでした。比べて京都市は146万人、福岡の1.5倍もある大都市で、民営、公営の違いもあって、路面電車でも格差があるのも納得がいくものでした。しかし、以降の福岡市の発展は、すさまじく、西日本経済の中枢都市から、アジアの玄関口へと発展し、人口も163万人、人口減少数日本一の京都と較べて、住みやすさナンバーワンなど、質量とも先端を行く都市となりました。▲貫線の終端区間は単線になっていて、離合のできる停留場では、続行標識を付けた2台の電車が続けて交換して行った。竹の山四丁目
▲旧西鉄本社の煉瓦造りの建物を見て「西新」を発車、乗降数が多く、西新で折り返す系統もあり、渡り線も設けられていた。▲元寇の故事を偲ばせる「防塁前」、近くの海岸には、築かれた防塁がまだ残っていると言う。海岸線は干拓が進んで陸地が広がり、そこに、福岡タワーや福岡ドームなど、新しい施設が建つ新都心となった。▲室見橋から、終点の姪の浜まで1.8キロは単線区間、タブレット使用区間となる。「竹の山四丁目」は離合所となり、ドアを開けて運転士同士がタブレット交換する。▲続行標識を付けた九大前行き302号が単線区間を行く。竹の山四丁目~姪の浜
▲「姪の浜」に到着、貫通線はここで終わる。始発の九大前から、11.9キロの路線だった。筑肥線の姪浜駅がすこし離れたところにある。
▲離合区間で電車は停車、安全地帯もない、路面上から乗降となる。▲こちらも続行標識を付けた202号、クルマが連なる。▲離合区間の先は単線となり、その先10mほどで線路はプッツリ切れていた。
▲平行して見られたバスたち。上は西鉄バス、“青バス”と言われた旧塗装時代、車体は、西鉄子会社の西日本車体工業製だが、特徴ある“カマボコ”、その前の世代もあった。下は昭和バス、こちらは、川崎、クレハとさまざまなボデーだった。
総本家青信号特派員様
貫通線の旅も終着駅に到着しましたね。お疲れ様でした。
恥ずかしながらワタクシ、博多駅の改札を出たことが無く、もちろん市内線も知りません。総本家様の写真を拝見し、添えられた解説を拝読して往時をしのんでおりました。とはいっても土地勘が無く、馬出や平和台、防塁前などの電停ががどこにあるのか見当もつかず、地図と首っ引きで拝見しておりました。準特急様がコメントに書いておられましたが、単なる写真の羅列ではなく、背景の建物の移り変わりや付近の歴史など、投稿に至るまでの下調べはさぞ大変だったのではないでしょうか。おかげさまで福岡市内線の様子が、よく理解できました。
路面電車に感じる魅力は人それぞれですが、私は「人の暮らしに近い存在」もあるように思います。道路上を走るため背景には街並みが写り込み、クルマや歩行者なども写っています。撮影された昭和50年は京都では烏丸線廃止後で、今出川・丸太町・白川線廃止の間です。私は高校を卒業し、ふらふらしていた頃になります。クルマや人々の服装をハッキリと覚えています。京都と福岡、場所は違っても懐かしく感じました。
福岡の歴史を紹介する動画を見つけ、何本か視聴しました。平安時代以前から大陸と交流があり、その頃は天神や中洲は海の中だったとか。馬出や千代の歴史も興味深いものがありました。
平和台球場が天神からほど近い場所にあったのも意外でした。太平洋クラブライオンズ、覚えています。東尾と土井はもちろん、ビュフォードに白仁天、基、東田、打席に立つ仕草が独特な竹之内らの名前が浮かんできます。金田監督率いるロッテとの対戦で、平和台球場が騒然となったこともありました。
昭和50年の福岡、楽しませていただきました。ありがとうございます。
紫の1863様
心温まる応援コメントを頂戴し、感激に浸っています。実は私の悪い癖で、何件かのコメントが来たら、まとめて返礼しようと思っていたところ、その準特急さんから連絡があり、「三度のメシより大事なコメントが1863さんから来ているのに、ほったらかしはアカン。はよ返コメせぇ!」とハッパを掛けられました。福岡市内線のことは、数年前の本欄でも概要だけ紹介していて、詳細を載せる予定はありませんでした。それを変えたのは、やはり先月のOB会北九州ツアーで、地元のおとりんさんや、もと西鉄のYさんに連れられて、現地を歩いた時でした。近代都市として成長した福岡には、観るべき歴史は無いと思っていたところ、現地を歩いて説明を聞き、興味深い歴史を感じました。「ブラタモリ」にも出演されたYさんにならって、「ブラタモリ」の本も借りてきて読みました。やはり、現地の人に案内してもらって、足を棒にして歩いてこそ得られるものがあると、改めて感じました。やはり、鉄道を究めるのは“歩き”です。
プロ野球にも言及されていますが、長い人生、興味には濃淡の時期があります。昭和の頃は、仕事もムチャクチャ忙しく、プロ野球への興味はほとんど無い時代でした。改めて調べてみて、路面電車が走っていた時代、まだ福岡に、伝説と化した“ライオンズ”が存在していて驚いた次第です。
ありがとうございました。
紫の1863様
博多駅改札口を出たことはないのは私も同じです。中洲の屋台で豚骨ラーメンを食べたことはあります。それにしても白仁天、基などよく覚えていますね。私は中西、大下、豊田、仰木、高倉、関口、稲尾あたりはよう覚えています。デジ青の自主投稿に一生懸命な総本家さんには頭が下がりっぱなしですが、福岡、北九州あたりにくるとコメントがヘリガチですが紫の1863さんから即返コメントがありこれは直ぐ応えんとあかんと総本家さんに激メールをした次第です。総本家さんは必ず丁寧なコメントがあります。総本家さんご多忙なところを失礼しました。
準特急様
総本家青信号特派員様
水面下でメールのやり取りがあったとはつゆ知らず、御二方のご配慮に感謝いたします。でも、あまり固く考えないでください。私は気の向いたときにコメントを寄せるだけですので、投稿される方に比べれば気楽なものです。
さて、私は路面電車があった頃は関心が無く、今頃になって血眼になっている次第です。路面電車を扱ったサイトは数多くありますが、ほとんどが車両に特化したものです。しかし、総本家様の投稿は地域の歴史や今昔対比、豆知識などが豊富で読み物としての楽しみがあります。歩いたことのない土地は実感がわかず、ちょっと敬遠しがちになるのも無理はありません。テレビの紀行番組を見てもグルメやインスタ映えするスポット、あるいは時期限定のイベントがほとんどで興味が持てません。それでも長く生きていると知らず知らずのうちに多少の知識が蓄積され、聞いたことのある地名が出てきます。建物もネットなどで見たことがあると、俄然興味が涌いて来るものです。今は昭和の時代と違って、情報を得る手段はネットの普及で比べ物になりません。たいていの疑問はネットの検索で解決できるようになりました。とりわけ若い頃に体験したことや、訪れた土地には興味津々です。
昭和50年頃は深夜ラジオを毎晩聞いていて、京都では福岡出身のDJが人気でした。「水炊き」に「からし明太」「おきゅうと」を知ったのも、彼の、諸口あきら氏の番組でした。野球はもちろんライオンズです。そんな影響もあったのか、私もセ・リーグや在阪球団そっちのけでライオンズを応援していたのです。今でも打者がバッターボックスに入る時に流れた、ファンファーレが耳に残っています。
総本家様の福岡市内線の投稿は、そんな若い日の記憶を呼び覚ますきっかけになりました。まるで昭和50年の福岡を歩いたかのような、そんな気持ちになれました。
何本か見た動画に、確か馬出だったと思うのですが、西鉄の社紋が刻まれた石柱が残っていると伝えていました。
以上、長々と鉄道に関係ないことを書き連ねましたが、デジ青から色々なことを教えていただきました。
添付の画像は1994年7月、平安建都1200年の記念事業で、全国祇園祭りと称して博多からも参加がありました。法被に「千代」の文字を見つけ、千代に興味を持ちました。
紫の1863さま
またまた心温まるコメント、ありがとうございます。写真、懐かしいですね。今から30年前ですか、全国の“祇園祭”が京都に集まって、巡行しましたね。たしか夜にも巡行があったと思うのですが、いまの宵山以上のすごい人出で、しかも京都の祇園祭と違って、威勢が良すぎて、観覧の列に飛び込むような動きに、もう圧死するのではと思ったほどでした。「千代」は、千代町交差点付近を指すのでしょうね。記事にも上げましたが、付近の変わりようは、スローな京都と較べて、劇的でした。
路面電車巡りと言いながら、電車の解説はほとんどしていませんね。こと路面電車の今昔に関しては、私は車両よりも街並みのほうに目が行きます。それと西鉄の路面電車を趣味誌で解説していたのは、谷口良忠さんでした。実に微に入り細に入った解説なのですが、その分、なかなか理解のできない記事として知られていました。その谷口さん、晩年は、津屋崎人車軌道の研究を究めたいと、住まいも津屋崎に転居された途端に亡くなられたと、先の宮地岳線案内の時に、Yさんから教えてもらいました。その津屋崎人車軌道は、なんと昭和14年まで営業していたと言うことも教えてもらいました。
話が横にそれました。昭和50年ごろの深夜ラジオ、私も諸口あきらのことは、よく覚えていますよ。福岡・門司の出身でしたね。万年最下位のライオンズへの自虐ネタとして、「太平洋クラブライオンズ、バンザ~イ!」が定番で、その翌年には「クラウンライターライオンズ、バンザ~イ!」にちゃんと変わっていました。最近の勘秀峰さんのブログで、近畿放送の山崎弘士のことが紹介されていましたが、彼との掛け合いも楽しいものでした。
今回の記事で、路面電車ってエエもんやと改めて思いました。老いも若きも、男も女も、金持ちも庶民も、みんな平等です。こんな乗り物は、ほかにありません。
総本家様 一連の北九州・福岡シリーズでは私の中に眠っていたかつての憧れの地、九州を改めて思うきっかけになり、ありがとうございました。
西新で東西貫線と合流する城南線にはまだ大牟田本線との平面交差がありました。本線は薬院、市内線は城東橋で名称が違っていました。写真は昭和48(1973)年3月24日です。
KBSの諸口あきらのライオンズネタ、私も良く覚えています。昭和47年までは「西鉄ライオンズ、バンザーイ」でした。当時の西鉄は、勝ちを計算できるピッチャーが東尾修と加藤初しかおらず、2人はこき使われて、昭和47年の東尾は18勝25敗の成績でした。今回のシリーズでは懐かしいプロ野球の世界にも触れることができました。私のブログでも波及しようかと思っております。改めてありがとうございました。
勘秀峰さま
ブログでの高校二年生の九州一周の思い出、始まりましたね。これからの展開、楽しみにしています。以前にも言いましたが、私も高校二年生の時、初の長期間一人旅で九州の機関区をほぼ全部回りました。今から56年も前のことですが、いまでも写真・記録を見返しますと、涙が出るほど懐かしい思いにとらわれます。勘秀峰さんも、同じ思いでしょうね。福岡市内線の交差もしっかり撮っておられますね。私は通ったことはあるものの、撮らずじまいでした。
勘秀峰様の写真に顔だけ出している大牟田線モ603の相方は戦前の100型をTcに改造したク653で車体長も短く2ドアで異彩というか地方私鉄丸出しの制御車で、さすがに大牟田線に特急車2000系が登場した頃には先行して退役して、二日市車庫の物置に化していました。昭和53年当時の写真を出しておきます。
凸凹編成時代の603+653の写真はなかなか見たことがありません。
初めまして荒井と申します。1960年代製正統派レトロ車コーチバスは大好物です。スケルトンバスやドアミラー車や助手席安全窓付き世代キャブトラがいないのが好ましい。レトロ車として認めるのは金属バンパー部品世代車までです。1980年12月生まれです。
さすが王道年代のレトロ車コーチバス
荒井理宏さま
外部の方から初コメントをいただくと、たいへん嬉しくなります。数多のサイトから、当掲示板を愛読いただき、ありがとうございます。昭和のバス、いいですね。車体だけでなく、車内は満員でした。今のように空気を運んでいるのては無く、公共交通の主役として、日夜頑張っていたシーンを思い出すと、目頭が熱くなります。私も各地でバスを撮っています。荒井さまの支援も受けて、今後もバスの話題も載せて行きますよ。