福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❽

福岡の中心「天神」を発車した福岡市内線貫線は、城下町の福岡のなかを走り抜けます。西にある福岡城址は、広大な大濠公園や、平和台のスポーツ施設になっていて、いまや伝説と化した西鉄ライオンズの平和台球場があったことが思い出されます。“あった”と書いたように、訪問した昭和50/1975年には、ライオンズは西武に売却されて、本拠地は埼玉へ移っていた感覚がありました。ところが、改めて調べてみると、西鉄ライオンズの後継となる太平洋クラブライオンズが、まだ平和台球場を本拠地として使っていた時期だったことが分かりました。ライオンズは不祥事も続き、最下位続きでしたが、初のパリーグのDH制となったこの年は、東尾修が最多勝、土井正博が本塁打王になり、前期2位と健闘しています。。セリーグでは広島が球団創設初優勝、読売巨人は初の最下位に沈んだ年でした。その後、さらに「クラウンライター」と名を変えて、昭和53年に西武ライオンズとなり、ホームグラウンドは埼玉へ移ることになりました。昭和50年と言えば、まだ大学闘争の残り火が、くすぶっていた時代だった。ここ福岡の中心「天神」でも、機動隊に囲まれて、おとなしく交差点を進むデモ行進が見られて、市内線と一緒に収めた。背後の西鉄福岡駅のターミナルデパート、岩田屋本館の旧景とともに、まさに昭和50年の風景だった。建物は外観が改装されて、PARCOとして今も営業している。

今回、紹介の区間。右端の「天神」交差点から、中央を横切る黒線が貫線の路線、福岡城址の大濠公園、平和台球技場に沿って西進し、西新に至っている。福岡の経済文化の中心、天神を発車して、貫線は西へ進み、いまは福岡の再開発事業で、新たな施設やホテルが続々と建てられている「大名」方面へ向かう。文字通り、福岡城下の大名屋敷が並んでいたと言う。当時も、ビル工事が進み、あらたな動きが起こっていた。

 

 

 

 

 

 

つぎの「西鉄グランドホテル前」で、道路はクランク状に曲がるが、これも城下町の名残り。この地は、福博電車の本社があった、西鉄ゆかりの地で、二代目の西鉄本社も所在した。その後、西鉄グランドホテルが建てられた。周囲には外資系のホテルができたものの、いまも西鉄の旗艦ホテルとして位置づけにある。以前は「万町」だったが、ホテルの竣工に合わせて改名された。

 

 

 

「大名二丁目」の手前には、煉瓦造りのカトリック教会もあった。明治24年の建築で、いまも、少し奥へ引っ込んだ位置に移築されて現存していると言う。「赤坂門」を過ぎると、突然、キャバレー赤坂の奇抜な建物が眼に入った。「平和台」に到着、中西や稲尾が大活躍した昭和30年代には、超満員の市内線の電車に乗った観客が平和台球場へ押し寄せたと言う。

市内線は、福岡城址の内堀の北側に沿って走る。道路の反対側に渡ると、大濠公園や平和台の緑地帯がずっと続いていて、球場の照明塔も望めた。平和台~大手門で。沿線はビル街から、次第に大小の建築物が混在する街並みに変わっていく。「大手門」、電停のすぐそばに福岡城の大手門があった。福岡城には、もともと天守閣が無かったと言い、「お城と電車」には向かなかったのが残念。「今川橋」には、西車庫があった。乗務員の詰所もあり、乗務交代もあった。道路のすぐ横にあって、道路から撮ることもできた。いくつかの電停を過ぎて「西新」に至る。渡辺通三丁目から来た城南線と合流する交通の要衝で、商店街もあって賑いを見せていた。道路は、福岡と唐津を結ぶ国道202号で、クルマも多い。背後の煉瓦建築は無人の様子だったが、戦前は、市内線の前身の福博電車の本社があり、昭和17年に多くの私鉄を統合してできた西鉄の初代本社としても使われていた、西鉄にとっては由緒ある建物だった。西新では、筑肥線沿線を地盤とする昭和バスを、西鉄バスよりも多く見かけた。写真の方向幕「怡土(いと)」も筑肥線の糸島付近の地名。西新は、修猷館高校や西南学院大学も近くにあり、文教地区としても知られている。右手のバス停名も「西新修猷館高校前」になっている。

 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❽」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    いつものことながらただ路面電車を撮るだけでなくその街の歴史や風景の移り変わりもよく研究されており立派な投稿だと思います。どこかで出版社の方が目を光らせているかもしれませんね。大手門停留場はズバリ「お城と電車」の題材かと思います。福岡のお城は関ケ原で功のあった黒田長政が慶長5(1600)年に筑前に入封し、同6年から12年にかけて築城したと言われています。酒は呑め呑めの黒田節もここが関係しているようです。大濠公園は散策したことがありますが、西鉄の平和台球場は見たことがありません。考えてみれば南海の大阪、毎日の後楽園と東京、阪急の西宮、近鉄の日生、東映の駒沢もありません。こんな昔話をしたいですが、お若い方から酒の呑めんのにええ加減にせいとお叱りを受ける前にやめときます。

    • 蒸機の写真に比べて、路面電車は圧倒的に多くの写真を撮りますから、一点一点に対する思いは、ずいぶん希薄でした。しかし、調べてみると、いろいろな歴史背景や逸話が出てきました。歴史のある街を走る路面電車だからこそです。これが、大自然の絶景シーンを走る、一日一本のネタ列車では、こうはいきません。改めて路面電車の魅力を感じました。
      野球場と鉄道、この関係を著した本もあるほど、密接な関係がありました。なつかしい球場名を挙げられるのも、高齢者の特権です。

  2. 昭和50年は3月に新幹線が博多延長開業して、九州の中心は福岡に決まった年。9月に大分交通耶馬溪線が廃止になり東九州から私鉄が消えました。
    11月に西鉄福岡市内線の大半が廃止の一方、天神地区に地下街と博多大丸と西日本新聞社の新ビルが同時開店して、明と暗のニュースに博多は湧きました。
    その年は私が高校に入った年であまり順調に馴染めない高校生活は窮屈でしたが、ライオンズは健在で西鉄時代末期の八百長事件の後遺症を売却で西鉄は切り抜けて、東京の平和相銀系のゴルフ会社、太平洋クラブが運営をして市民球団の実態は続いていました。
    土井と東尾という暗黒時代の雄2人の名が出ましたが、この2人は西武時代まで残って監督とコーチまで務めています。
    土井はかつての近鉄の若き主砲で、ライオンズの投手柳田豊とのトレードで九州にきました。この柳田というサイドスローは今の柳田悠岐の親戚です。
    このおじさんは故郷の宮崎に帰って漁師をしているそうで、球界に残らずにこういう人生もあるんだなと思いますが、一連の写真群を見て、西鉄バスが塗装を一新したのが昭和51〜52年と改めて気づきました。
    同じ50年の11月に博多大丸を見に行った私は、貝塚から西鉄宮地岳線に乗り、ご覧の写真を撮っています。
    昭和初期の小田急開業時と同型の電車が長閑に郊外を走っていました。当時の宮地岳線の探訪はSL廃止の被写体手探り時代でしたが大変印象に残っています。

    • K.H.生さま
      昭和50年前後の福岡の様子について、詳細を聞かせていただき、ありがとうございました。新幹線が博多まで開業した年だったのですね。この時は、行きは夜行で行ったのですが、市内線を写したあと、博多17:24発「ひかり40号」で帰ったとメモに書かれていました。1号車自由席でしたが、始発の博多で早くも、立ち客ができて、小倉からもさらに乗って来て満員になったと書かれていました。
      宮地岳線のきれいなカラーも、ありがとうございます。私は宮地岳線のこの時代は全く記録がありません。

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