北九州へ “思い出探し”の旅  ❶

北九州市若松区に、“若松市電”とも呼ばれた北九州市営軌道が走っていた。国鉄若松駅から、若松の繁華街を通り、北部に集中していた工場への貨物輸送を担っていた路面軌道だった(昭和50年6月)。

デジ青投稿、再開します。さる土・日に行われたクローバー会の北九州ツアー、楽しかったなぁ、充実の二日間でした。会員や外部の皆さんに、持ち場ごとに協力をいただき、クローバー会ならではの見学・探索となりました。

私にとっても北九州は思い出の地です。デジ青にも載せましたが、高校2年生の時、初めて2週間の一人旅をしたのが九州でした。関門トンネルをくぐって門司に着いた途端、空気感が違ったことを今でも覚えています。あたりかまわず上がる蒸機の煙、顔を真っ黒にして無我夢中で写し続けました。これが北九州なんだと思いました。以来、何度も訪れた九州ですが、コロナ禍もあって数年ぶりの訪問となりました。

その昔に訪れた地と、現在の姿を対比するため、ツアーを終えた翌日の一日、すっかり姿を変えた折尾駅や、直方、若松を一人で駆け回って来ました。今回は若松の街を走っていた貨物軌道です。

高校二年生の時も、若松機関区へ撮影に行った際に一枚だけ撮っていた。昭和42年でも、繁華街を行く貨物列車は、ここだけでしか見られなかった。石炭車の連結は、後年には見られなくなった。

ツアーで一緒だったIMUBUSEさんは、小学生の頃、若松に住んでおられて、市営軌道が遊び場だったとお聞きした。「もうすっかり変わっているよ」と聞いての若松入りだった。たしかに軌道のあった中川通は拡幅されて、大型の公共施設も建って、もう対比など不可能だと思った途端に、ギンギラのパチンコ店が眼に入った。旧景にもがっちりパチンコ店が写っている。中川通と交わる寂れた商店街も同じ位置だ。ただ店名は「ジャンボ会館」「ラッキー」と異なっているので、拡幅後に新規開店したのだろうか。昭和初期に若松市営軌道として開業し、昭和38年の5市合併により北九州市営軌道となった。見ものは、旅客を扱わない貨物専業でありながら、若松区の中心繁華街の中川通を堂々と走っていた点で、貨物軌道としては、他に例を見ないものであった。新旧2点、道路幅が違うので、正確な対比はできないが、背後には、若戸大橋への取り付け道路が見えていて、ほぼ同一地点と思われる。バスは北九州市営バス。市営バスは、市営軌道時代から営業していて、おもに若松区を中心に路線を有していた。バスは、低速の軌道線の後を付いて行くしかない。

北九州市営軌道 概略図・開業表(鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」より転載)

中川通を北へ、若戸大橋の取り付け道路の北側へやって来た。新旧2点は方向が違うので対比はできないが、拡幅された駅寄りの南側に比べて、道路拡幅もなく、昔からの商店も見られて面影を残していた。

三線が分岐する中川通7丁目まで来ると、市街地も途切れて、急に工場地帯が広がり、本来の貨物軌道らしい風景が展開した。北浜臨港区付近、原ノ町線が原町三丁目で北に向きを変えたあたりの日華脂若松工場前、平面クロスで横切る軌道は、同工場に入る引込線。手前の軌道の先に車庫がある。殺伐とした工場地帯だが、樹木があるだけで、気分が変わってしまう。

北九州市営に在籍したのは、6両の電気機関車のみだった。いずれも凸型のBB電機で、最末期まで残ったのは101号機(左)、201号機(右)の2両だった。 101号機は、1950年、日鉄自動車工業製の30t機、201号機は、1952年、三菱電機製。 101の端梁には「若松市電」の文字があり、救助網を持つのも路面軌道らしい。起点の国鉄若松駅、広大なヤードが広がっていたが、一部は架線が張られて、国鉄貨車の受け渡しが行われていた。自動車交通のジャマをすると商店街を中心に廃止を求める声が強くなり、貨物量の減少もあって、昭和50年11月1日に全線廃止となった。

 北九州へ “思い出探し”の旅  ❶」への18件のフィードバック

  1. こんな貨物軌道が走っていたとは知りませんでした。私もイベントの初日に若戸大橋を通りたくてバスで小倉から若松に向かい、若松から直方まで未乗区間の筑豊本線に乗車しました。当時は広い構内だったことをうかがわせる若松駅周辺、駅にはセム1型が保存されていて、石炭車が思ったより大きかったのに驚かされました。あんな貨車が市街地を走っていたのですね。若松から乗ったのは「DENCHA」でした。

    • 大津の86さま
      さっそくのコメント、ありがとうございます。若戸大橋は架橋されて60年が経ちますが、列車からもよく見えて、いまでも北九州のシンボルですね。私も、高校2年、初めての九州の時に、若戸大橋を歩いて渡ったことがありました。石炭車は、私も見ましたが、以前に9600が居た位置にコンビニが経ち、石炭車はその陰に隠れていて、偶然見つけました。かなりボロボロになっていました。

  2. 興味深い路線でしたが訪問は叶いませんでした。日鉄自動車工業製の凸型機は私のお気に入りです。画像は今はなき「つぼみ堂模型店」のED25(宇部電気鉄道→国鉄→上田丸子電鉄)。

    • 乙訓の老人の甥さま
      コメント、ありがとうございます。懐かしい「つぼみ」の電機、見せていただきました。凸型電機を、いい角度から撮られていますね。製造の日鉄自動車工業の名は初めて耳にしましたが、現在の東洋工機なんですね。西村さんにいただいた資料によると、同社は「昭和10年に創立された車両メーカーで、戦前から中小私鉄向けに小型電機や電車を多数製造した。」との記述がありました。現役電機では、三岐鉄道のED45も東洋工機製でした。

  3. 若松はすっかり変わってしまいました。もっとも、私は蒸機がいた頃と比べているのですから、当たり前ですね。商店の建ち並ぶ道路上を、貨車を引いて機関車が走っていたとは、数年前まで知りませんでした。
    中川ストリートにウェル本町、カタカナを付けるのは今の流行でしょうか。そう思って2000年に訪問した時の写真を見直すと「Well」の文字がありました。
    昭和50年の中川通りは人通りも多く、活気を感じます。3軒のパチンコ店に映画館、百貨店にサウナ、キャバレーもあったようです。道路が広くなり、大規模な商業施設も出来たようですが、人通りは少ないですね。若松区の人口は昭和50年では9万人余りありましたが、昨年では8万人を下回っています。娯楽や買い物など、人々の暮らしにも変化があったのでしょうか。
    これだけ変わってしまうと定点対比は難しいですね。3枚目の101を撮影されたのは、若戸大橋誘導路との交差点南西角になります。隣の若松信用金庫は福岡ひびき信用金庫に名前を変えて現存します。「ジャンボ会館」跡地は駐車場になっているようです。現在の「ラッキー」はウェル本町の入り口にあって、昭和50年では食堂だったようです。通りの北側には丸粕(まるかし)百貨店がありましたが、今はホテルルートインが建っています。5枚目の写真が「ラッキー」の場所になります。3枚目の写真左手、信号機の下あたりに丸粕百貨店が写っています。
    浜町車庫近くの「日華油脂」は、J-オイルミルズ若松工場と名前こそ変わりましたが、同じ場所に確認できました。
    私は若松が気に入り、何度か行きました。しかし、路面を走る機関車があったことを知りません。5枚目の写真に見える「若松銀」のアーケードを50メートルほど進むと、蒸機がいた頃に泊まった旅館があったのですが…。2000年の正月に久しぶりに若松へ行き、あまりの変わりようにわが目を疑いました。かつて泊まった旅館を探すと、案外簡単に見つかりました。下の写真で煙草をくゆらす男性は、この旅館のご主人だったのかもしれません。今では旅館は無くなりましたが、ストリートビューを見るとアーケードには懐かしい名前が残っていました。

    • 紫の1863様
      若松の思い出、聞かせていただきました。紫さんとは、よく話をしたつもりですが、若松にこんな思い入れをお持ちだったとは初めて知りました。今昔の様子を聞かせていただき、私のカン違いもわかりました。昔のパチンコ「ジャンボ」バックの写真は、若松信用金庫(現・福岡ひびき信用金庫)の隣、つまり若戸大橋取付道路のある交差点から写していました。パチンコ「ラッキー」ではなかったのですね。それほど、若松の変貌は激しく、対比ができませんでした。3枚目に写っている丸粕百貨店は、塔屋のある建物ですね。そのあとの井筒屋百貨店、現在のホテルルートインも確認しました。私も定点対比をしたあと、恒例の郵便局とアーケード街巡りをしましたが、その寂れようは、若松の現状を象徴していました。

    • 紫の1863さんが若松で旅館に泊まられた「若松銀座」の近くには、こんな立派な料亭がありました。登録有形文化財にも指定されている、金鍋本館・表門で、若松の繁栄を伝える老舗でした。

  4. 懐かしい写真をありがとうございます。
    昭和30年秋から33年春までと昭和35年春から37年夏まで若松に住んでいました。その前半は11枚目の写真のあたりに自宅がありましたので ここでの入れ替えをよく見ていました。入れ替えは若松駅から貨車を牽いてきた機関車が走行中に貨車を切り離し先行し ポイントを切り替え貨車は別の線に入りブレ-キをかけ停車 その後機関車が貨車の反対側に付き3線を利用して仕訳をしていました。またある日担任の先生宅に伺った時 隣が機関車の車庫だったのにはびっくりしました。木造の車庫(機関庫)で2台か3台の機関車がいたように思います。
    小学校低学年のころの思い出です。

    • INUBUSEさま
      若松のお住まいの頃の思い出、ありがとうございます。旅行中、新幹線で一緒になった西村さんから、INUBUSEさんが若松でお住まいだったことお聞きして、お尋ねした次第です。担任のご自宅が、車庫の隣だったとは驚かれたでしょう。車庫は浜ノ町線が左折する箇所にあったことは認識していたのですが、記憶に曖昧さがありました。このたび、西村さんからいただいた、北九州高専の研究報告「若松市営電気軌道による貨物輸送の記録」に、詳細な路線図がありましたので、貼りました。

  5. お疲れ様でした。自分が昭和49年秋に、若松の貨物軌道を撮りに行ったら日曜日なので運休で、線路だけ撮ったという間抜けな思い出が残っています。
    しかしこの頃は炭鉱が消えていく途中であり、往年の活気と勢いが少し残っていました。

    若松には昔 ベラミという有名な大型キャバレーがあり、廃業後の今も山手にホステスさんが住んでいた寮の建物が残っていて、近年そこから大量の女給さんやダンサーたちの写真が発掘されて、すごい話題になりました。
    https://roadsiders.com/shop/RL003.php
    このベラミが京都三条のベラミと関係があるのか。無かったと言ってしまうと話が終わってしまうので、興業繋がりや、京都市にはむかし石炭卸の会社があった(名門大洋フェリーの前身)等の歴史があるので非常に興味があります。

    中学生の私が買ってもらった1眼レフで写した若松から見た洞海湾と八幡の俯瞰写真を付けておきます。
    製鉄所の中で働いていた父、現場に生きた男たち、深夜に親父が出ていくとそれは大抵労災事故で、数日後に喪服を着けた親父の姿を見た記憶は、子供でも何が起きたかを理解していたので半世紀後の今も忘れられません。
    そんな厳しい現実の中で育ち大学まで行けたから、こん日の懇親が続けさせて貰えているのだなあと、懐かしい北九州の風景に見入りました。

    • K.H.生さま
      地元生まれのK.H.生さんから、今回のツアー前にも、様々な情報をいただき、ありがとうございます。私も北九州には格別の思いがあり、別に出自とは関係のない地なのに、故郷へ帰って来たような感慨を覚えました。若松にもベラミがあったこと、初めて知りました。京都のベラミは、日本の暗黒史に出てくる場所として有名でした。サイレンが鳴り響いていた、あの日の晩はよく覚えています。興行つながりで、京都と若松は関係があったのかも知れません。

      • 私も若戸大橋を歩いて渡りました。1967年、56年前の展望です。感動して、貴重なカラーで撮っていました。若戸大橋は、2車線になったと聞きました。橋そのものは変わらないので、歩道部分を狭めて2車線にしたのでしょうか。

        • ありがとうございます。今や自動車専用道路になり若戸大橋を歩いて渡ることは不可能です。
          一方、市民の足だった渡船は減便されて、夜間の運行終了も早くなり、https://www.city.kitakyushu.lg.jp/san-kei/file_0037.html
          若松駅周辺や若松の市街地の衰退に拍車をかけています。
          市制60年目の今年は市長が変わり再建のスタートになりましたが、財政指数がワースト2で渡船の存続も危ういです。心情的にも豊かな博多地区よりも北九州市地区の応援をお願いいたします。

  6. 「伝言板」を含め参加者が異口同音に述べられているように、先のクローバー会北九州ツアーの2日間は充実したすばらしい企画でした。準備、運営に当たられた皆様に改めて感謝申し上げます。コロナも収まり、折角北九州まで行くので、私も少し寄り道をして見聞を広めてきました。総本家特派員殿が若松市営電気軌道の現役時代の貴重な姿を紹介されている若松を初めて訪ねてみました。若松駅そばには大津の86氏が紹介されているセム1がありましたが、良い保存状態とは言えないものでした。駅の南側、海側の久岐の浜広場に19633が保存されている筈なので行ってみました。驚きました。セム1も決して良い状態ではありませんでしたが、19633は無残な姿を晒していました。ツアー初日に九州鉄道記念館2階で丁度開催されていた「保存されて半世紀 蒸気機関車たちは今・・・」という写真展を見学し、その保存活動をされている入江高亘氏の熱い想いを直接お聞きし、荒れ果てた機関車が見事に蘇った事例を沢山見たあとだっただけに、19633の姿を見て涙が出そうなショックを感じました。入江氏の活動の動機を実感した次第です。スクラップにするにも多額の費用がかかるので、結局放置され続けるのでしょうが、このような例は枚挙に暇がないでしょう。残念な思いを引きずりながら若戸渡船で洞海湾を渡り帰途につきました。

    • 西村様
      2日間、ありがとうございました。私も、かつて駅の横に、きれいな状態で保存されていた19633を知っているだけに、別の場所に隠れるようにして保存され、極限の状態まで荒廃した姿を見て、愕然としました。九州鉄道記念館で写真展をされていた、入江さんとは後日お会いして、拠点とされている汽車倶楽部さんを訪問しました。各地で保存されながらも、荒廃している蒸機に心を痛めて、ボランティアで修復業務をされています。救助の手を差し伸べたい気持ちはあるものの、なんせ保存された蒸機が多く、所有者との折り合いで、なかなか難しい状態と、聞かせていただきました。

    • 米手様
      60年前の若戸大橋、戸畑側でしょうか。できたばかりの時期ですね。下にバスも見えます。西鉄の北九州市内線の戸畑線の終点もこの近くにあったはずですが、私は撮らずでした。いまの若戸大橋は、K.H.生さんも書かれていますが、二車線になり、歩道はなくなり、歩いて渡れなくなったそうです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください