あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~23~

2006年9月29日 YS-11(2) 最後の搭乗へ

40年以上飛び続けて来たYS-11も、2006年9月30日限りで民間航空から撤退することになった。その前の日、YS-11の書籍編集中の私は、編集長とともに、取材名目でYS-11の記念フライトに向かった。まず徳島空港へ、空港の反対側に回って待つが、機材トラブルでなかなか到着せず、やっと30分遅れで、福岡発徳島行き3563便の着陸をとらえることができた。

2000年代に入って、YS-11の命運を決定づける航空法が改正されます。旅客機への航空機衝突防止装置(TCAS)の義務付けでした。YS-11の場合、多額の改造費用だけでなく、狭いコクピットに装置の取付けが困難な問題も発生、この時点で国内運航のYS-11は、エアーニッポン(ANK)、日本エアーコミューター(JAC)の2社、TCAS取付けに当たり、ANKは運航を断念し、2003年、最後の新千歳・女満別線から撤退しました。一方、12機保有のJACは、路線網も広範囲にわたり、後継機へ移行ができない事情もあり、航空法施行の例外規定の適用を受け、しばらく運航を継続しましたが、後継のボンバルディア機が増備されて、最後は鹿児島-福岡(2往復)、福岡-徳島(1)、福岡-高知(2)、福岡-松山(1)の4路線、機体も、JA8717、8763、8766、8768の4機になっていました。初めての徳島空港、徳島行き高速バスの松茂バス停からはタクシーですぐだった。

空港内には、海自の徳島航空基地があり、YS-11のTB6903をとらえる。なお、自衛隊には、現在、3機程度のYS-11が現役で使われているようだ。

徳島発福岡行き3562便のJA8766機、早めに搭乗ゲートが開き、エプロンでは記念の撮影会。この翌日、JACにとっては最初のYS-11路線、沖永良部-鹿児島線が定期航空路のライトフライトとなり、1965年から日本国内航空(JDA)、東亜国内航空(TDA)、日本エアシステム(JAS)、日本エアコミューター(JAC)と引き継がれてきたYS-11の歴史を閉じた。撮影後、搭乗客が乗り込む。見たところ、約80%は記念搭乗の客のようだ。私も福岡行き3563便の9A席へ。離陸の様子を、初めてデジカメの動画で写した。

14:00予定のところ、14:35に離陸、瀬戸内海の上をゆっくり飛ぶ。▲▲機内の様子。▲▲▲CAから記念カードが配布される(今では機内でのCA無断撮影は“盗撮”と認定されるそうだ)。玄海灘から福岡市内上空を旋回し、15:59に福岡空港に着陸。ここでも、一時撮影会状態。展望デッキから見ると、乗って来た8766、となりに松山から来た8768の2機がエプロンに並んでいるのが見えた。つぎつぎ離陸して行く機を、夕雲を入れて、展望デッキから写して、にわか練習。本番の高知行き3653便をとらえる。30分遅れの16:30離陸。やはり鉄道写真とは勝手が違う。福岡から小倉に移動、編集長とともに、北九州市在住のベテラン鉄道趣味人3人にお会いして一献。そのあと新幹線に乗車の一枚が、この日撮った唯一の鉄道写真。新大阪最終到着の「のぞみ500号」は、文字どおり500系だった。 

 

 

 

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~23~」への19件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    もうYS11はオシマイかなと思っていたら続編が出たのでちょっと悪乗りします。乱気流です。私は葬式〇とかいうのが嫌なのでYS退役の5年ほど前から機会をみて(いや実際は機会を作って)自分なりのお別れ搭乗をしてきました。ログブックを見ると2001年2月に釧路→丘珠の頃から意識し始めたようで、2003年2月、12月、2005年1月、2006年2月に亘って計10便に搭乗しています。たまたまこの頃に空港の全国制覇を目論んでいたこともあり、2003年12月には「島流しプラン」と呼んで福岡→鹿児島→奄美大島、与論→鹿児島などを、当時発売されていた企画航空券や早割を利用して、SAAB340も乗り継ぎながらアイランドホップをしたこともありました。
    この頃になると終盤まで残っていた機体の全てに乗ってみたいと思うようになり、時刻表から機材繰りを調べ、同一機体に当らないように計画したものでした。とはいえ何年も開くとまた同じ機体に当ることが多かった(小生は他機種でも同一機体に当ることが多く、そういう定めなのだろうと半ば諦めていた)ものです。
    同じ機体に当ることが多いということは当らない機体もあるわけで、特派員さまの書かれたJA8717、8763、8766、8768の4機に限っても8717と8766にはついぞ当たりませんでした。JA8717(旧愛称あそ)はかつてJALに貸し出されて福岡~プサン(だったと記憶します)間の国際線を飛んだ特殊経歴機で、なんとしても乗ってみたかったのですが叶いませんでした。8768は2006年2月に鹿児島→福岡を飛んだ小生最後のYS搭乗機で、前年1月にも徳島→福岡、鹿児島→福岡と搭乗しましたが、この頃になると離陸して上空に上がって与圧がかかると窓枠がミシッミシッと 鳴るようになり、もう乗れないなと思ったことでした。
    余談ですがラストフライトの翌日に鹿児島空港でJACのロゴが消された2機がフィリピンへ旅立っていくのを偶然にも見ることができました。空港制覇で徳之島へ往復した際の出来事でした。カメラを持っていましたがとても写す気になれず、予期せぬ出来事であったこともあり、送迎デッキから飛び去るYSを茫然と眺めて見送ったことを想い出します。

    • 1900生様
      長文のYS-11の思い、読ませていただきました。私もこの本を編集中に、多くの航空ファンとお会いして、その遍歴を聞かせてもらいましたが、1900生さんは、勝るとも劣らない情熱を掛けて、YS-11に接しておられたのですね。ほかのコメントにも書いたのですが、鉄道に限らず、ぜひクローバー会会員の隠れた知見を「デジ青」誌上で、披歴していただきたいと願望します。米手さんも、賛同されています。

    • 1900生さまが最後に書かれた、JACのロゴが消えた2機がフィリピンへ旅立つ際の写真も、本書に載せることができました。写真はJA8763です。

  2. 総本家青信号特派員様
    YS11の書籍を編集されたとは初めて知りました。鉄道とは異なる難しさやあるいは楽しさがあったことと思います。仕事を終えたあとの500系の「のぞみ500号」も良かったですね。1973.1.28羽田で撮った東亜国内航空のYS11です。

  3. 1900生様
    総本家さんへのコメント横読みしました。島めぐりをするなどYS11への執念は凄いですね。古いものやなくなるものを追いかけるのは皆同じと思います。1973年頃に羽田空港に行って航空機を撮影したことがあります。成田空港開設前ですから国際線と国内線は共に撮ることができました。YS11に混じって全日空のフォッカーF27フレンドシップもよく見ました。オランダ製のターボプロップ双発機でYS11とともに小型機として人気がありました。1973.1.28羽田

    • 準特急さま
      コメント有難うございます。’73年羽田で撮られたYSは当初の地味なオレンジ色の塗装ですね。私が初めてYSに搭乗し、飛行機と機窓からの眺めに開眼したのが丁度その頃でした。伊丹空港へ月参りするようになった頃にレッド&グリーンになり、写真はほぼそれ以降から撮りはじめました。
      ANAのフレンドシップやヴァイカウントは私には伝説の飛行機ですね。後年中日本航空が導入した「ポチ」ことF50には乗りましたが。
      準特急さまは鉄道のみならず飛行機の分野でもやはり大先輩でした。

    • その昔、我が故郷に空港が開港しました。
      羽田から飛行機が飛んでくる、わくわくしながら到着を待ちました。
      何と小っちゃな飛行機!翼が機体の上にある!何という飛行機?それがフレンドシップを知る機会となりました。全日空でした。
      正直がっかりした覚えがあります。
      今も空港はありますが、どこにも飛んでいません。嗚呼

      • マルーンさま
        そうでしたね、福井空港という立派な空港がありますよね。昭和40年代初め頃までフレンドシップ機の羽田便がありました。定員40名なので小さく思われたのでしょう。しかし現在は何故就航便が無いのでしょうかね。近くに小松空港があるのでそちらに取られたのでしょうか。とはいえ現在は自家用機や事業用機のメッカと聞いていますのでそれなりに賑わっているのでしょう。
        飛行機に興味を持ち始めるまでは、あんな鉄の塊が飛ぶわけがない、落ちて当然、と思っていました。天満橋の会社前の上空を伊丹への着陸機が降りて行きましたが、どの飛行機も同じように見えたものです。クラブに入って皆さんに教えられたと同様、ある友人に教わって開眼してゆきました。

        • 1900生様
           福井空港は全日空撤退後は、仰るようにグライダーやセスナ等の小型機(空から宣伝するやつ!?)の使用で細々といったかんじのようですね。
          又東京等航空便は小松空港になりましたね。
           それにしてもYS11に関しても1900生さんの博識には脱帽です。

  4. 1900生さん、準特急さんから、追い打ちをかけるように、YS-11に対するコメントを頂戴しています。その情熱の根底にあるのは、やはり、鉄道は空を飛ばないだけで、それ以外は鉄道と共通する興味対象であることだと思います。1900生さんが、就航路にすべてフライトは、“全線乗車”と同じですし、機体ごとのウオッチは、“全車両撮影”と同じです。
    本書の編集でも巻末に「全182機の生涯」を載せています。すべてのYS-11の写真を網羅しようとする企画でしたが、ここに、1900生さんから、たくさんの写真を提供いただきました。撮影者にお名前も掲載せさせていただきました。

    • さすがに182機すべての写真を収録するのはムリで、製造後すぐ海外へ行き、早くに用途廃止になった機のほか、航空機には事故廃止がつきもので、十数機は載せることができませんでしたが、残りは1900生さん、ほかの皆さんの協力でコンプリートすることができました。事故機のなかで、1971年函館空港の近くの横津岳に墜落した日本国内航空「ばんだい」JA8764が、新聞社のフォトライブラリーにあったのを発見、載せることができました。

      • 総本家青信号特派員さま
        最初に、皆さまには台風の影響はいかがだったでしょうか。小生には5年前の方が怖かったように感じられました。もし被害に遭われた方が居られましたらお見舞い申し上げます。
        さて特派員さまに指摘を受けてハッと思いましたが、結局鉄道も航空も同じようなことをやっていたのかと気付きました。元々凝り性だと自覚はしていましたが、その拘りで撮っていた写真が多少ながらお役に立てたのであれば望外の喜びです。機会を与えていただき有難うございました。

  5. 1900様
    YS11の話なのにフレンドシップを載せましたところ、1900生さんからはバイカウントの話にもふれていただきました。Vickers Viscount は1970年に全日空から引退しましたので私も見ることはありませんでしたが、1973.11.17にロンドンヒースロー空港でそれらしき機体を見かけました。あまりいい写真ではありませんが「こんなんあったでー」と言いたいところです。1900生さんの1900型の研究、ダイヤの話、国鉄型の動画撮影、DC3の搭乗等々いつもその熱心な姿に感心しております。私は1900生さんより若干年寄りな分、古い記録もあるかもしれませんが何れにしても大したことはありません。ただ、「こんなんありまっせ」は自慢したい部分があるのも事実です。それといつ倒れてもおかしくない年齢に達しましたのでデジ青という発表の機会を利用しない手はないと思っております。今後とももよろしくお願いします。

    • 準特急さま
      数年の差が大きな差になることがありますね。私も会社の同好者と一緒に山線のC62ニセコを撮っていた時に、撮影後の反省会(慰労会?)でSL末期の頃を羨ましがられたことがありました。数年若い人たちでしたが、受験勉強のため行けなかった、入学したらSLは消えていたとこちらが申し訳ないと思うくらいでした。
      海外の空港で撮影されているのはさすがですね。
      機会があればその都度撮影されているのにはいつも頭が下がる思いです。そうして撮られた貴重な写真を拝見できることに感謝申しています。こちらこそよろしくお願い申し上げます。

      • 1900生様
        私も湯口先輩や山科の人間国宝さんの素晴らしい写真を見せていただき、もう少し早く生まれ、目覚めが早かったらと思うことはありました。ところがその話を総本家さんに話ましたら「私はそうは思わない、自分は自分の与えられた時代を精一杯やるだけや」というようなことを言われ人間ができているなと思いました。飛行機に興味のない人には申し訳ありませんが海外の旅客機は少しずつ発表させていただきます。マルーンさんも福井空港での落胆の様子は臨場感を感じます。1900生さんやマルーンさんは同じ時代ですからまたデジ青でお会いしましょう。若い方や部外から投稿していただいている方も有難うございます。

        • 準特急さま
          “精一杯やるだけや”と、こんな、ええカッコしいのこと言いましたか。とんでもないですよ、私も準特急さんが、昭和30年代に、すでに本格的な鉄道写真を撮っておられるのを見て、目覚めの遅さを痛感したものです。
          でも、いいことを考えましたよ。私も、他人のフンドシを借りて、デジ青で近々デビューを果たします。

  6. 準特急様のコメントは奥が深いですねえ。
    「あと何年早く生まれていたら」は、多くの趣味者が一度は考えたと思います。それと同時に、見逃した場面も数多くあるはずです。天候や運休などで撮れなかった列車、知識が無くて訪問できなかった鉄道など、自分の目で見られなかった場面は山ほどあったでしょう。いくら頑張ってもすべてを見ることなど不可能です。総本家様のご意見は私も直に向かがいましたが、とてもそこまでの心境には到達できそうもありません。
    ただ、ネットが発達した今日では、以前には考えられないほど多くの情報が飛び交っています。見ることが叶わなかった列車、訪問できなかった鉄道の画像も自宅に居ながらにして見ることができます。ほとんどは自分よりも上手な画像です。自分より上手な写真を見ると悔しいものです。それが年下の撮影者とわかれば余計に…。知ろうとすれば、いくらでも情報は得られます。一枚の写真をきっかけに、興味が涌いて自分なりに調べることも数多くあります。
    飛行機は子供のころから好きでしたが、いまだに乗ったことがありません。空港へ行ったのも一度だけで、まだジャンボの全盛期でした。しばらく滑走路を見ていると、ひときわ大きな音と共に離陸を始めた小さな飛行機がありました。プロペラを付けた小型機でしたが、YS11だったのか、それともフレンドシップだったのか、記憶はあいまいです。それが唯一のターボブロップ機との遭遇でした。
    私は部外者ですが、総本家様をはじめDRFCの皆様と親しくさせていただき、同じ趣味を持つ有難さをひしひしと感じております。

    • 紫の1863さま
      いつも、心温まるコメントをありがとうございます。ネット時代の情報、同感です。写真でも、検索機能を使えば、一歩も動かずにネット上で目的の写真に到達できますね。でも、私は、紙に印刷された写真、書籍をずっと大事にしてきたつもりです。過日のK.H.生さんの写真展でも、昔ながらの印画紙で引伸ばされたと聞き、嬉しくなりました。“たしか、あの本に載ってたはずや”と、記憶だけを頼りに、探しに探して目的の写真に出会えた喜び、無駄に思える探す時間も、逆に知らなかった写真や記事に出会うことになり、企画のヒントになります。こんな、寄り道のアナログ手法こそ、自分の創造性を伸ばしてくれる源泉だと思います。ダイレクトなネット情報では得られません。最近、こんな歳になって、ある書籍の企画編集を引き受けるようになって、痛切に思うようになりました。

  7. 紫の1863様
    いつも有難うございます。
    鉄道写真界の大御所と言われる方の話ですが「自分がいいと思った写真が一番いいのだ」と言われています。何人かの方からも同じ趣旨の話を聞いておりますし、私もそう思います。もう一つ総本家青信号特派員さんの「地元を愛する心」も同感です。始めての場所は大体失敗します。そして二度目の訪問で何とかなるものです。
    最近は情報の氾濫で疲れ切っています。もともとアナログ人間ですので気が向いた時にぶらりと出かけ通常の列車を撮ることが多いです。大勢の同業者が居れば何かあるなくらいの気持ちで時には場所を変えます。
    飛行機は最初に乗ったのが沖縄-台北間でして船やバスに酔っていましたので飛行機酔いを心配しましたが思った以上にスムーズでしたのでそれ以来好きになりました。デジ青投稿やコメントには知識がないのがつらいですがなるべく自分の意見を述べようと思っています。
    現在は終活の身です。身軽にしておきたいですが、その点デジタル化は場所を撮らず便利だと思っています。紫の1863さんのコメントは大変有難く思っております。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください