「特急三百哩」を観る !     (上)

日本で最初の鉄道映画といわれる「特急三百哩」。DVDに復刻された原盤を、所蔵・管理されている京都おもちゃ映画ミュージアムからお借りして、さる6月17日、京都キャンパスプラザで、クローバー会のプロジェクションイベントとして上映することができました。タイトルにいきなり、梅小路機関区配置のC51203が出て驚かされた。まだデフもなく、御召を何度も牽いた梅小路の代表的なC51だった。後年、紀勢線六軒駅の事故機となり、廃車される。なお題名の「三百哩(マイル)」だが、当時の鉄道の距離表示はマイルで、メートルになるのは昭和5年から。「三百」の由縁については後述。

この映画は、昭和3(1928)年に、鉄道省の協力を得て、日活京都撮影所で製作され、昭和4年に公開されました。当時のキネマ旬報の広告にも「鉄道省後援の本邦最初の鉄道大活劇」とあり、その存在は知られていたものの、原版は残っておらず、幻の映画と言われていました。上映を終えたフィルムは保管されることなく廃棄されるのが通常で、感光乳剤の銀塩を抜いてフィルムベースにして、再度、銀塩を塗布して、再利用されることもあったと言います。ところが、近年、九州で偶然に原版が発見され、劣化箇所の修復など、地道な作業を経て復刻され、2004年9月、第4回京都映画祭で初めて上映され、大きな反響を呼びました。その後も、京阪神の映画イベントなどでも数回公開されましたが、OB会レベルでの少人数での上映は初めてです。仲介いただいた米手作市さん、ご理解いただいた京都おもちゃ映画ミュージアム様には、厚く御礼を申し上げる次第です。「御後援 鉄道省」のクレジット。観ていると、当時の最新の機関車、設備がつぎつぎに出て来る。鉄道省のPR映画も兼ねていた。映画は82分、無声映画であり、要所に字幕が入る。“乙女と愛の物語”とあるように、男女の愛憎とともに、スリル満点鉄道アクションを絡めた、当時としては画期的な映画となった。

映画は、日活京都撮影所で製作されたため、ロケ地は、梅小路機関区、京都駅、東海道線など、すべて京都周辺がロケ地に選ばれ、機関車や 背景など、90年前を大変興味深く見ました。本欄でも、どですかでんさんら、見学された皆さんから、賛辞をいただき、あいにく参加できなかった会員からも、ぜひ見たいとの声ももらっています。そこで、おもちゃ映画ミュージアムのご許可をいただき、ストーリーの部分は除外して、我々の最大の関心事である、鉄道の登場シーンのみを抽出して、静止画でご覧いただくことにしました。どんな興味深いシーンが登場するか、ごゆっくりご覧ください。

冒頭の導入部、いきなりの仰天シーンが出てきて、度肝を抜かれる。6線路を上下6列車が交わるのだ。ロケ地は京都駅構内の西、今の堀川通が潜る当たりで、向こうに大宮通りの陸橋が見えている。6線の内訳は、右から山陰線1線、東海道線貨物用2線・同旅客用2線の複々線、左端の白い道床は側線?(現、下り貨物が京都貨物駅へ入線時に本線をアンダーパスする別線に相当)と考えられる。鉄道ピクトリアルによれば、京都~梅小路の複々線は昭和13年、梅小路~向日町は昭和5年とあり、ロケの後となっていて、更なる検証が必要。撮影場所は信号塔からのようで、当時の写真にも、同地点に、6線を跨ぐ大きな門型の信号塔が見られた。機関車、客車も興味深く、また、6列車が接近するのに、男一人が危険極まりない直前横断をして、南北を横切って行くなど、このシーンだけ終了後に何度も流して、会場は盛り上がった。場所は一転して梅小路機関区(当時の呼称は「機関庫」)へ。給炭線に、アメロコの8900型8926、それに8620型も見える。8900は、日本初の特急を牽き、8900~8935の36両がいたが、当時は入換用だったようだ。大正3年にできた梅小路機関区の扇形庫が映し出される。当時の機関庫としては、最大級のもので、これも鉄道省のPRか。職員が総出で、鉄道省のお偉方を出迎えるシーンでは、転車台に載ったC51267が。運転室には、区名札の代わりの「梅」のマークも見える。

 「特急三百哩」を観る !     (上)」への3件のフィードバック

  1. 6本の線路に上下6本の列車が行き交う様は圧巻ですねえ。「特急三百哩」は拝見したかったのですが叶わず、デジ青での公開は有難い限りです。昭和3年は母の生まれた年で、今から95年前ですか。遠い昔ですね。
    6本の列車が行き交うシーンは、堀川付近から西を向いて撮影されていますので、画面右が北ですね。この時代の航空写真はありませんので地図で確認したところ、大正11年の都市計画図に5本の線路が描いてありました。書籍では「梅小路90年史」に大正6年の新京都及梅小路停車場平面図が載っていて、同区間には5本の線路があります。4枚目の写真に見える、2箇所の渡り線も描いてあります。映画が撮影された昭和3年には南端の側線は除外しても5本の線路があって、京都駅から梅小路の間は複々線が完成していたのでしょう。
    鉄ピクの記事は見ておりませんが、京都駅―梅小路間よりも梅小路―向日町間の複々線化が早いのにも疑問を感じます。記事が書かれた後に新たな資料が発見されたのか、それとも単なる誤植なのかはわかりません。やはり、複数の資料を当たるのが大事ですねえ。

    • .紫の1863さま
      さっそくコメント、ありがとうございます。私もさっそく「梅小路90年史」を見ました。京都停車場改良工事紀要で、大正時代、京都駅が移設されて、現在のルートになった時の配線図ですね。仔細に見ると、たしかに5線あって、くだんの渡り線も記入されていました。ピクの複々線化データは、再度検証する必要がありますね。左端の一線だけ道床が新しく、間際に出来上がったような印象です。

  2. 8900は大正の最後の輸入機の8700、8800、8850、8900の4形式の一つで、唯一のパシフィックであり、18900の登場後の動向の記録がとても気になりますが、昭和初期に日豊線に投入されており、行橋で撮影された写真を見たことがあります。
    スケネクタディやボールドウィンを扱ったことのある機関士のいた福岡方面なら、九州鉄道の生き残りの技術者も居て、日豊路の旅客列車の先頭に立てたのだと想像いたします。当時は急行も準急もなかったと思いますが、国東半島を横断する立石峠では柳ヶ浦から補機が着いたのでしょうか。それが元九鉄の3100くらいなら絵になっただろうなあと、勝手にイメージしています。

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