60年前の“元祖トワイライトエキスプレス” 重澤 崇先輩の記録

六月初旬、沖中忠順先輩の一周忌が行われたあと、同席させて頂いた重澤 崇先輩から興味あるお話を伺いました。

重澤先輩は、ご存じの通りDRFCの創業者のお一人で、当時のお話をうかがえる貴重な方です。その方から大変なお話しが披露されたのです。
以下、重澤先輩の話をお聞き下さい。

T観光に入社して数年が過ぎた1962年(※正しくは1961年)、「何か企画を考えろ!」との号令が社内に響き渡りました。 当時は未だ海外旅行は解禁されておらず(自由渡航は1971年の羽田発ハワイ行きが戦後初)、専ら国内旅行での企画と言うことでした。
そこで当然DRFCでの知見を生かし、次のようなアイデアを提出したのです。

《大阪から全編成を一等寝台車と食堂車で編成し、北海道を観光して大阪へ戻る。本州区間は、寝台車をフルに活用して時間をj稼ぐ。食堂車は可能な限り航送して同一行動をとる》というものです。この企画・・・と言っても、未だ湯気すら立っていなかった時期に、時の大鉄局の知るところとなり、実施は1963年(※正しくは62年)6月と決まりました。

ご存じのように、臨(業界用語でリン)は、全国各線に予め設けられている「予定臨」、通称「臨スジ」というダイヤがあるため、このダイヤをベースに組み立てて行くわけですが、走行範囲が他局にまたがるため(このような臨を「他局またがり」とよびます)本社会議のテーブルに載せられます。
その本社会議には、(旅行会社は同席できませんが)機関車課などありとあらゆる列車運行にかかわる本社部署がテーブルを取り囲みます。客車などを継続しない区間で建てる場合もあるため、客車関連の部署や給水関係の部署なども必要に応じて参加します。この北海道臨では、船舶課も臨船の就航を伴うため出席していたはずです。

本社会議席上で、いきなり案をぶつけるのではなく、局相互で一定の根回しは出来ているので、「そんなことにわかに言われても・・・」と言うことは基本的に起こりませんが、この企画でうかつだったのは日本食堂の猛烈な抵抗でした。
まず、火が入ったままの食堂車では航送が火災の危険性を理由に出来ないので、落として欲しい(青森での切り離しを意味します)と断固として譲りません。その上、根室本線区間(滝川~釧路)では、当時は急行「まりも」の半車食堂車しか運用されておらず、材料積み込みには到底対応が出来ない、と言うものでした。
何でもかんでもネックになっているところを私がクリアしていったのではなく、関係部署が手作業でほぐしていきます。当時はパソコンは元よりテレックスもなく、あるのは「鉄電」という国鉄電話が唯一の通信でした。

この様なドタバタ劇を経て“トワイライトエキスプレス”の走る遙か以前に、一度きりの豪華オール一等寝台列車が北の大地を走ったのでした。

行程は次の通りです。
大阪~京都~(裏縦貫線・当時はこう呼んでいました)~青森ー(航送)ー函館~登別~釧路ー(網走へ回送)ー網走~札幌~函館ー(航送)ー青森~大阪

ところで私は当然添乗として行けるもの・・と思っていましたが、タチのよくない上司が「駆け出しには早すぎる」との判断で乗れず!でした。旅行代金は13万円ほどだったと記憶しています。

この写真は京都駅で見送った時に撮ったものですが、気力も萎えていて車番などの記録もネガも残っていません。写真からのコピーで不鮮明ですが編成をご推察下さい。

マロフ971。左側はスタッフ用のオハフ33。これでは展望ができない。

マシ29。右はマロネ29の100番代。問題は左側のWルーフの寝台車。車種不明

不明車両の拡大写真。台車はTR70らしい。窓が上下に小さく、旧型の車両だが車種が特定できない。 大ミハ所属らしいので、当時の配置表があれば良いのだが・・。その後マロネ482と判明

【米手作市より】
貴重な列車なのに肝心の編成がよく解りません。ネットでも検索したのですが出てきません。
手掛かりは重澤さんの撮られた数枚の写真だけ。
それで分かるのは
オハフ33+マロフ971+マロネ又はマロネロ+マシ29+マロネ29・・+機
だけです。オハフ33はスタッフ用とのことです。
どなたか全編成と車種がお分かりでしたらお教え下さい。趣味的には豪華編成ですが“海外旅行に匹敵する”費用を払うとすると、もう少し近代的な車両(ナロネ10など)を使っても良いのですが、たぶん予備車をかき集めたのでは、と思われます。

マロフ971はマイフ971←スイ461←スヤ461←スヤ511で、台車は20系※と同じTR57を履いていて、この旅行を最後に1963年2月6日に廃車となりました。(※20系はTR55)

【余談】
鉄電(鉄道電話)は、国鉄施設の全て(本社は元より、各管理局・全ての駅・国鉄バス営業所・無人駅は電話機を持参すればコードを差し込み通話できる)、連絡運輸協定のあらゆる私鉄(乗り入れている場合の他、不通時の振り替え対応など)・関西汽船など主要船会社・鉄道警察・主要旅行社・構内営業許可がある弁当屋・鉄道弘済会・主要新聞社・NHKなどに通信網がありました。電話線は通称ハエタタキで、国鉄施設を遠く離れた場合は電電公社の回線を借用する方式で、通信料はすべて無料でした。

60年前の“元祖トワイライトエキスプレス” 重澤 崇先輩の記録」への7件のフィードバック

  1. これはビックリしました。こんな豪華列車があったのですね。
    特にマロフ971には興味が尽きません。ところでこの車両の台車ですが、
    重澤さんの写真にはしっかりとシュリーレン台車のTR57が写っていますね。
    米手作市さん、「台車は20系と同じTR57…」とお書きですが、20系の台車はTR55ですよ。TR57は軸箱の両側に2本のコイルバネが見えますが、TR55の軸ばねは単列コイルばねです。
    ところで、旧掲示板の【1511】に湯口さんがマイフ971を発表されていますが、この写真の1957年5月の時点ではOK台車を履いていることがわかります。

  2. 米手先輩
    記事、興味深く拝見しました。
    三枚目のWルーフの写真ですが、窓の数・窓割・ベンチレーターの数・一から手元の客車形式図1959で調べてみると合致するのがマロネ481~486のようです。製造年は、昭和3年、大井工場・大宮工場製で、元マイネ29・マイネ37のようです。

  3. 乙訓の老人の甥さん、
    ご無沙汰しております。ご指摘、ありがとうございます。
    最近は調べて書き込むなどの手間暇を掛ける気力がなくなり、覚えている事だけを書いております。が、覚えていなかったのです!そんなときは素直に謝ることにしています。ゴメンナサイ。
    今後もこんな調子でいきますので、誤字脱字は良い方、時代錯誤や勘違いなど、その節はご指摘をお願い致します。

    デカンショまつり号さん、
    実は私もそう思いました。ところが全てのマロネ48は、1961年から62年にかけて廃車になっているのです。だから63年6月運行は不可能で、他を当たっていたのですが見当たりません。
    でも、井原さんからもマロフ971も廃車時期(63年2月6日)と合わないらしいので、重澤さんに問い合わせしております。
    もうしばらくお待ちください。

  4.  米手作市様
     外は暑いですね!京都は祇園祭、山鉾巡行も酷暑の中ですね!
     重澤大先輩の貴重なお話のご披露を有り難うございました。とても興味深く読ませていただきました。
     このような列車が走ったことを初めて知り、何と夢のある企画を実行されたことかと感慨深いものがあります。
     「鉄道電話」ありましたね。とても懐かしく感じます。
     何かを「やろう!」「やれ!」「やる!」「やった!」それぞれの過程には様々な課題がのしかかってきますね。それを一つずつ乗り越えていくのは大変なこと。達成されたときの感慨は格別なことと想像します。
     国鉄関係の調整の大変さが伝わってきて、本当に大変なことだったんだろうと、勝手に感激しております。
     重澤先輩の偉業に改めて敬意を表させて頂きます。
     

  5. お待たせしました。
    鉄道電話ならぬ、インターネットメールで伺いましたところ、次のようなお返事を頂きました。なお、先輩は埼玉県にご滞在とのことで、手元に資料がなく記憶だけのお返事だと言うことをご理解の上お読みください。
    《北海道臨については、あの写真と記憶があるだけで写真の日付も不鮮明です。廃車時期と矛盾があるなら、その説が有力でしょう。全体を一年前に戻すと言うことになりますね。この原稿を書く時に日記的手帳はすでに無く、入社から始めて指折り計算と不鮮明な記憶で編み出した日付でした。》
    どうやら一年間違えて書かれたようですね。
    運行は62年6月と言うことなら全ての疑問が解消されます。
    まず、2等寝台車はデカンショまつり号さんの言うとおりマロネ48で間違いないことになります。むしろ車両を特定できました。マロネ48は6両あるのですがマロネ482だけが62年9月29日の廃車ですから6月なら運用可能です。
    またマロフ971も63年2月6日廃車ですから62年6月の運行可能です。

    私の台車の記憶違いもそうですが、こう言う記憶違いは誰でもあることで、何ら恥ずかしいことでもわびることでもありません(いささか開き直りの気あり)。だから間違えれば会員達がよってたかって暖かく訂正してくれるのに身を任せて、怖めず臆せず投稿をしましょう。
    今回の重澤先輩からのご投稿は、これがなければ全く埋もれた話に終わるところでした。60年前にあった“トワイライトエキスプレス”に出会えた興奮は、何物にも代えられません。
    重澤崇先輩、ありがとうございました。

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