多層建て客車急行「青葉」(1)

昭和の昔、「青葉」という愛称の客車急行列車がありました。愛称が付けられたのは昭和25年11月で、その名のとおり、主に上野-仙台間の東北本線経由の急行でした。「主に」としたのは、運転区間が上野-仙台間だけではなく、上野発下りの場合、1編成中に終着駅が合計4箇所の客車を連結しているという、気動車も顔負けの「多層建て客車急行」だったのです。
東北本線経由上野-仙台間の昼行急行は、第二次大戦前からありました。また、戦後まもなく復活していますが、多層建てではありませんので、本稿では戦後の多層建てになる少し前から多層建てでなくなるまで運転時刻・編成等の変遷を辿ってみたいと思います。

 

◆昭和23年7月1日時刻改正で、上野-仙台間急行103レ,104レ、仙台-青森間不定期急行2103レ,2104レとして設定されました。
103レ 上野9:00-16:55仙台17:06-2:07青森 2103レ (上野-仙台間7:55)
2104レ 青森23:25-9:46仙台10:00-18:05上野 104レ (仙台-上野間8:05)

 

↓昭和23年7月1日改正 『旅客列車編成並びに客車運用表』東京鉄道局

「スハシ」が入っていますがこれは「三等車(料理室附)」のスハシ48(シは小さく標記)で、食堂を営業しているのではなく、日本食堂が行う車内販売の拠点として連結された車両です。また、昭和23年10月14日付『交通新聞』の記事によりますと、スハシ48のうちスハシ48 22を仙鉄局が独自に半車食堂車に改造して、10月6日から飲み物、ケーキ等で食堂営業を始めました。料理は提供できませんでした。1両だけでしたので下り・上り隔日に連結されました。『日本国有鉄道百年史』第10巻P.760に、「23年10月から3等車を改造して食堂を併設、紅茶などを提供、東北本線に隔日連結した」と簡単な記述があります。なお、脱線しますが、『日本食堂三十年史』と『日本食堂60年史』の年表に、
「昭和22年7月20日 東北線急行第109,110列車食堂復活」
と記されています。昭和22年に食堂復活とはどういうことなのか詳細は本文にも記されていません。急行第109,110列車の運転時刻は、上野9:00-16:38仙台、仙台10:00-18:05上野という、良い時間帯で「青葉」の前身です。いずれにせよ、仙鉄局は食堂車の復活について意欲的であったようです。

 

◆昭和24年9月15日時刻改正で、上野-青森間急行101レ,102レとなりました。
101レ 上野8:30-15:42仙台15:50-23:40青森 (上野-仙台間7:12)
102レ 青森5:40-13:50仙台14:00-21:00上野 (仙台-上野間7:00)

 

◆昭和25年4月15日から食堂車(スハシ37)を連結しました。Occupied Japanに於いて一般日本人が普通に乗車して食事できる食堂車として、24年9月15日時刻改正で復活した特急の「へいわ→つばめ」と東京-鹿児島間の急行1レ,2レに続く3本目の食堂車連結列車になりました(特急「はと」は25年5月11日から運転)。上記のスハシ48 22はスハシ37 11に改番され、スハシ37 2、スハシ37 3とともに運用につきました。

 

↓昭和25年4月乗客に配布された食堂車の案内チラシです。「4月15日より食堂車連結」と記されています。

 

◆昭和25年10月1日時刻改正で、上野-青森間北海道連絡の優等列車は常磐線経由にシフトしましたので、運転区間は上野-仙台間の急行101レ,102レとなりましたが、この改正から、下りの場合1編成全部が仙台行ではなく、編成の一部の終着駅が会津若松、院内(各1両、分割したあとは普通列車ですので急行札と号車札を外したでしょう)、青森(2両…仙台-青森間は急行201レに併結)と、合計4箇所になったのです。また、上りに併結する422レは院内ではなく秋田始発でした。

 

↓日本交通公社『時刻表』昭和25年10月号「主要旅客列車編成」

 

【編成記録】『鉄道ピクトリアル』514号 平成元年7月号p.18
昭和25年10月1日,2日 仙台駅
●10月1日 101レ 15:44着
C57 198[仙]+オハフ33 415仙アホ+オハ35 690仙アホ+オハフ33 543仙セン+オハ35 836仙セン+オハ60 157仙セン+スハシ37 11仙アホ+オロ36 8仙セン+スロ50 10東シナ+スハニ32 51仙セン
前2両は201レの前に併結して青森行
●10月2日 101レ 15:44着
C61 25[仙]+オハフ33 500仙アホ+オハ35 210仙アホ+オハフ33 261仙セン+オハフ33 585仙セン+オハ35 834仙セン+スハシ37 3仙セン+オロ36 13仙セン+スロ50 9東シナ+オハニ30 58仙セン
前部2両は201レの前に併結して青森行
●10月1日 102レ 13:36発
C51 181[福]+オハニ30 59仙セン+スロ50 9東シナ+オロ36 13仙セン+スハシ37 3仙セン+オハ35 834仙セン+オハフ33 585仙セン+オハフ33 261仙セン+オハ35 210仙アホ+オハフ33 500仙アホ
後部2両は201レに併結して青森発
●10月2日 102レ 13:36発
C51 60[福]+オハニ30 56仙セン+スロ50 10東シナ+オロ36 8仙セン+スハシ37 11仙アホ+オハフ33 133仙セン+オハフ33 836仙セン+オハフ33 543仙セン+オハ35 690仙アホ+オハフ33 415仙アホ
後部2両は202レに併結して青森発

スロ50 9と10が見えますが、この2両は当初スロ61 9,10として計画されましたが、予算の関係で形式がスロ50となったものです。大宮工機部で昭和25年9月に落成し、配置は大ミハソのはずですので東シナという標記は疑問ですし、何か特別な事情でスロ50が編成に入ったのでしょうか。
また、「仙アホ」ですが、昭和25年8月1日から盛岡鉄道管理局が発足していますので、「盛アホ」ではないかと思うのですが、書き換えが間に合っていなかったのでしょうか。

オハ60 157は「新車」ではありますが、急行なのに窮屈ですね。上野方のオハニ30も急行料金を払ってこれではなんとかならないのかと思いますが、当時はこれで精一杯だったのでしょうか。
ナハ22490→昭和25年2月盛岡工鋼改→オハ60 157

 

↓昭和25年10月に配布されたチラシです。この改正で201レ、202レにも食堂車が連結されました。「101レの客車の一部を201レに併結する」とは記されていません。

 

◆昭和25年11月8日(公報)、101レ・102レは「青葉」、201レ・202レは「みちのく」の愛称が付けられました。この時、急行列車合計12往復に「霧島」、「日本海」他の愛称が付けられました。

なお、『時刻表』昭和26年1月号では25.12.1訂補として、425レは横手行になりましたが、「主要旅客列車編成」では福島で別れるハ1両は上野-院内のままですので、横手まで行かずに院内で切り離し、上りの422レに院内で連結したということになりますが、422レの院内着は8:51、発は8:53で可能だったのでしょうか。その後425レは26年4月25日から院内行に戻りました。院内着の時刻はずっと変更ありません。

 

↓愛称が付いた昭和25年11月に急行「青葉」101レ,102レ、「みちのく」201レ,202レで配布されたチラシです。
「青葉」の三等車2両が「みちのく」に併結して青森まで往復する旨の注記があります。10月のチラシにはこの注記はありませんでした。愛称はサボと同じく「あおば」と平仮名になっています。

 

↓『時刻表』昭和26年1月号「主要旅客列車編成」
「青葉」の上野寄り2両目の「特ロ」はスロ51 41~43仙センです。昭和25年10月31日  日車製の新車です。

準急105レ・106レも多層建てで、後の急行「松島」です。山形出発~山形帰着の旅客向けに適した時間帯で、二等車の需要もそこそこあったようです。

 

↓「昭和26年5月現在」と記された「青葉」「みちのく」共通のチラシです。
写真は昭和26年3月に日車と川車で新製された食堂車マシ35・36形式の車内で、「青葉」「みちのく」に使われていた訳ではありません。裏面には「清楚で明るい食堂車の登場」平面図と新車紹介があります。

 

◆昭和26年5月9日、朝鮮戦争で朝鮮半島から流れてきた浮遊機雷が津軽海峡で発見され、同日から青函航路の夜間運行が中止になり、翌6月20日に青函航路~北海道線の時刻改正がありました。そのため、「みちのく」の下りに接続する青函連絡船はありましたが、上りに接続する連絡船が無い状態が続きました。そして昭和26年8月1日時刻改正で、連絡船に接続する関係で上り「みちのく」が青森11:35発-5:20着上野になりましたので、仙台で上り「青葉」に接続できなくなり、上り「青葉」の青森から併結してくる2両は無くなり、仙台発になりました。

 

↓『時刻表』昭和26年8月号「主要旅客列車編成」7月号までは往復とも上野-院内だった1両の注記が「101列車は上野-院内,102列車は秋田-上野」とあり、上野行の1両は始発の秋田から422レに連結されるようになりました。これは秋アキのスハフ42のようですから、101レで院内到着後、翌日早朝の422レに間に合うように秋田まで戻れなくても問題ありません。

 

↓「昭和26年8月1日現在」と記されたチラシです。
時刻表上りの欄に、「最後部の三等車二両は仙台にて第一〇二列車に連結上野迄直通」の文言がありません。

https://drfc-ob.com/wp/archives/131465#more-131465へ続く】

 

 

多層建て客車急行「青葉」(1)」への10件のフィードバック

  1. 井原 実様
    高尚な論文を拝見させていただきました。とてもついていけませんが興味がありそうで私が話せそうなところだけコメントさせてください。伝統ある仙台昼間客車急行の「青葉」を知る人は少ないと思います。私自身、「青葉」の名前を留めた急行列車は電車化後でそれも「青葉」だったか「松島」だったかは定かではありませんがそのあたりを利用しております。多層建てのうち奥羽本線の院内行きは驚きました。何故、山形とか新庄でなく院内という超ローカルな所まで運行したのか不思議でなりません。実は院内という所は1966(昭和41)年8月29日上野19時45分発EF5715[宇都宮]牽引急行「第1津輕」で訪れていました。ここでは米沢のC57、新庄のD51、秋田のDF50等を撮っていますが、そのうちDF50547[秋田]牽引の急行「第2津輕」青森行きが山間の急行停車駅院内を発車するところを添付します。
    次に「青葉」の編成ですが、C57198をオヤッと思った方もおられることと思います。亀山にいたのでなじみの方も多かろうと思いますが、C59に似た第4次形三菱製造で新製後は仙台に配属されて東北地方で活躍した記録があります。福島のC51の急行も殆ど写真記録になくその姿を見たかったと思います。客車には急行の代表格スハ43系はまだ新製されていなかったのかオハ35系等が多いようですね。食堂車の献立表にはコーラやジュースが見当たりません。ビールが少し高いようです。スハシのことはよくわかりませんが、「青葉」の食堂車でサーロインステーキでもご馳走になれれば最高ですね。

    • いやー懐かしいですね。といっても私の生まれる前の記録ですが、列車編成の記録は「鉄道ファン」1977年6月号『特集:食堂車』の記事の資料からだと思います。いま出して来て確認しました。当時高校生の私は受験勉強もせず、客車と気動車の旧い車両のことに没頭していた記憶があります。
      まず「あおば」の一部客車の終点が院内駅だったことは、古河鉱業の院内鉱山が存していた関係で、本社との社員の行き来などがあったからだと推理します。
      これは昭和35年頃に九州内で急行「ひかり」(のちに準急)が走り出した頃に、日豊本線の行橋や宇佐を通過する列車ながら、大分県下では臼杵と佐伯の間で津久見と海崎に停車して、セメント会社の客に対応しており、特に海崎に停まっていたのには驚きました。今は駅舎もない無人駅ですが駅前に大正14年に操業したセメント工場が残っています。
      あと、昭和20年台後半に連結されていたオハシ30 4は進駐軍接収客車の解除後で、形態はスハ32丸屋根車の片デッキを塞いだスタイルで、それでも誇らしく、東北方面に向かう列車食堂復活のトップを切った列車ということに意義が大きかったのだろうと、たくさんの資料を見ながら思いました。同客車の外観は、ネットにありましたので、アドレスを貼っておきます。
      軍番号2005→オハシ30 4のようです。
      コピーしてアドレスバーにペーストすると見られます。

      https://books.google.co.jp/books?id=vwRuCQAAQBAJ&lpg=PA91&dq=%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%82%B7%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%94%E3%80%80%E5%AE%A2%E8%BB%8A&hl=ja&pg=PA96#v=onepage&q=%E3%82%AA%E3%83%8F%E3%82%B7%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%94%E3%80%80%E5%AE%A2%E8%BB%8A&f=true

    • この時代の院内は、古河鉱業の院内鉱山が残っていたので、東京の本社との行き来や、業務で出張する人のために1両のみ、「院内行き」を連結していたのかと、想像しております。
      余談ですが、昭和35年頃に九州島内で急行「ひかり」が運行され、日豊線を下る筋は、行橋、宇佐を通過するのに、大分県下は佐伯の手前の海崎に停車しており、当時は日本セメント工場への出張者が居たからだろうと想像しました。今では駅舎もない無人駅ですが、往時は駅前に旅館や料亭もあったそうです。

    • 院内の写真ありがとうございました。院内とくれば続いてノゾキの写真もお願いします。
      425レ併結の1両は、受持が秋田ですので、ストレートに秋田まで帰れると簡単なのですが、425レをそのまま秋田まで延ばすと23時を過ぎてしまい、当時の奥羽本線では夜行の急行401レ・402レを除いてそのような時間帯の旅客列車はありませんでした。院内はK.H.生さんのコメントのように院内銀山があって、院内始発もあるような駅ですので、425レは院内で止め、翌早朝に院内始発秋田行となって帰区したのでしょう。
      240円のサーロインステーキはどんな味がしたのでしょうね。

      • 井原 実様
        及位(のぞき)は難読駅で有名でしたが、そういう趣味はなくパス。客車に疎い私でもC57、C61、C51牽引あるいは3重連の蒸機牽引の急行列車は想像しただけでも胸がわくわくします。佐渡の金山、石見の銀山は知っていましたが、院内の銀山は知りませんでした。米手さん、別子の銅山も何だか知りませんが有名でしたね。

  2. K.H生様
    いつも有難うございます。DC急行の「ひかり」は新幹線にその名称を使用される前は九州内の看板列車でした。1958(昭和33)年4月に博多-別府間のDC臨時急行としてデビューしその後準急格下げを経て1962(昭和37)年10月キハ58系の急行となりました。1961(昭和36)年10月の時刻表によりますと「ひかり」は準急で海崎は停車しておりますが、翌年の急行化以降は通過しております。何れにしましても海崎、院内は一種の企業城下町のようなものであったかもしれません。日豊本線ではありませんが、1963(昭和38)年3月28日熊本で撮ったキハ58系急行「ひかり」を貼り付けます。この列車は2902D豊肥本線経由2902Dで大分で西鹿児島発902D「ひかり」門司港、博多行きと連結されK.H生さんのホームグラウンドを駆け巡って行きます。

  3. 1950(昭和25)年10月1日「青葉」の牽引機C57198の関西転属後の姿で撮影は1972(昭和47)年9月9日参宮線下庄駅出発826列車です。

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