多層建て客車急行「青葉」(3)

多層建て客車急行「青葉」(2) | DRFC-OB デジタル青信号から続く】

◆昭和30年7月1日から、「みちのく」の1号車が欠番だったのが2号車の特ロを1号車にして整理したことに伴い、「青葉」も影響を受けて上野寄り先頭ハニが3号車に変更されました。
↓『時刻表』昭和30年8月号「主要旅客列車編成」

【編成記録】『RAILFAN』690号 平成22年2月号p.12,13
昭和31年3月17日郡山-福島間の編成
C57 13[仙]+D51 230[福一]+C51 52[福一]+スハフ42 9東ヲク+スハ43 296東ヲク+スハ43 201東ヲク+スロ34 9東ヲク+スハフ42 48東ヲク+スロハ32 6東ヲク+スロ51 12仙セン+スハシ29 104仙セン+スハフ42 322仙セン+スハ43 44仙セン+オハニ63 2仙セン
通常重連のところ、この日は回送のC51が付いて3重連。

 

【編成記録】『鉄道ピクトリアル』60号 昭和31年7月号p.26
「101列車編成 昭和31.5.26 上野駅にて(※日付は「昭和30.5.26」となっていましたが、これは誤植で、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション5 国鉄ダイヤ改正 1950』(2004年5月号別冊p.81では「昭和31.5.26」となっています)。
C61 30[白]+⑬スハフ42 47+⑫スハ43 432+⑪スハ43 431+⑩スロ33 13+⑨スハフ42 46+⑧スロハ32 56+⑦スロ51 14+⑥スハシ29 103+⑤スハフ42 283+④スハ43 458+③オハニ63 1
C61は白河まで、⑬~⑧東ヲク、⑦~③仙セン、⑬~⑩秋田行、⑨~⑧青森行、⑦~③仙台行

これらを見ますと、オハニ63 2とオハニ63 1がありますが、オハニ63が存在したのは次のようにごく短期間で、貴重な記録です。オハニ63はシートピッチがスハ43と同じで、車内はピカピカの新車ですから、台車にまで思いが及ばない乗客は「ラッキー」と感じたでしょう。
オハニ25530→(昭和30年11月21日汽車鋼改)→オハニ63 1→(昭和31年12月23日長野工改)→オハニ36 1
ナハフ24697→(昭和30年11月16日汽車鋼改)→オハニ63 2→(昭和32年1月24日長野工改)→オハニ36 2

 

◆東海道本線が電化された昭和31年11月19日時刻改正で、福島で分割された4両は、福島寄りにハニ+ハを連結して急行403,404レに格上げされ、「鳥海」という愛称を従前上野-福島-秋田間の夜行急行列車から持ってきて、上野-福島間は急行「青葉・鳥海」となりました。上野-秋田間が全区間急行になりスピードアップされました。

 

↓『時刻表』昭和31年12月号「主要旅客列車編成」急行「鳥海」です。「青葉」に変化はありません。

 

【編成記録】『レイル』No.9 昭和58年10月 p.26
昭和32年7月30日 101レ急行青葉
C61 7[白]+スハフ42 63秋アキ+オハ35 800秋アキ+オハ46 19秋アキ+オハ46 21秋アキ+オロ35 59秋アキ+スハフ42 241盛アホ+スロハ31 42盛アホ+スロ51 12仙セン+スハシ29 103仙セン+スハフ42 321仙セン+スハ43 424仙セン+スハニ35 10仙セン
スハフ42 63~オロ35 59…秋田行「鳥海」 スハフ42 241~スロハ31 42…青森行 スロ51 12~スハニ35 10…仙台行

 

◆昭和32年10月1日時刻改正で、食堂車を「鳥海」に取られてしまいました。6号車のハシを11号車に割り込ませて「鳥海」を5両に、「青葉」6号車の元ハシをハにして、上野発着時は12両編成になり、食堂車の営業面が改善されましたが、これで「鳥海」が主体で「青葉」が付録のようになってきました。

 

↓『時刻表』昭和32年10月号「主要旅客列車編成」

 

◆昭和33年10月1日時刻改正で、東京以北初の特急「はつかり」がデビュー(台風22号のため10月10日運転開始)し、「みちのく」が盛岡止めになり、盛岡-青森は不定期急行の設定でした。ですから、盛岡以北「みちのく」運休時には嫌でも「はつかり」に乗らざるをえない場合も発生するようになりました。
「青葉」から「みちのく」に併結される2両も盛岡までで、ロハ+ハだったものがハ2両になりました。さらに、また、普通急行列車の特別二等料金を廃止し、座席指定制にしましたので、種類が指ロと自ロになりました。「青葉」は5号車のハが自ロに、「鳥海」の9号車は特ロになり半車ずつ指・自ロとしましたので「青葉」は全く「鳥海」の付録になってしまいました。

 

↓『時刻表』昭和33年10月号「主要旅客列車編成」 指ロ、自ロ種類別の表記が間に合っていません。
また、上野-仙台間103レ・104レ急行「吾妻」、105レ・106レ急行「松島」が見えますが、「吾妻」の前身は準急109レ・110レ、「松島」の前身は準急105レ・106レで、「青葉」と同様の多層建てです。

 

【編成記録】『鉄道ファン』194号 昭和52年5月号 p.55
昭和33年10月17日上り急行“あおば号”
EF58 36+スハニ35 12仙セン+スハ43 463仙セン+スハフ42 284仙セン+オロ35 20仙セン+スロ51 46仙セン+スハ43 193盛モカ+スハフ42 241盛モカ+オロ40 33東オク+スロ60 25秋アキ+オハシ30 2秋アキ+ナハ11 65秋アキ+ナハ11 69秋アキ+ナハフ11 21秋アキ
オロ40 33が所定ではなく連結されていて、⑪~⑬のハ3両が2両に減っています。

【編成記録】『鉄道ファン』194号 昭和52年5月号 p.56
昭和34年10月11日下り急行“青葉号”
EF58 134+スハフ32 68仙フク+スハフ42 318秋アキ+ナハ11 2083+ナハ11 2098+ナハ11 2084+オハシ30 1+スロ51 46+スハフ42 2017盛モカ+スハ43 636+スロ51 14仙セン+オロ35 57仙セン+スハフ42 164仙セン+スハ43 2454仙セン+スハニ37 2002仙セン
スハフ32 68…福島行 スハフ42 318~46…秋田行 スハフ42 2017~スハ43 636…盛岡行 スロ51 14~スハニ37 2002…仙台行

 

◆昭和35年6月1日時刻改正で、次のようになりました。編成に変化はありません。

 

◆昭和36年3月1日時刻改正で、「みちのく」の盛岡以北が定期列車に戻り、特急「はつかり」と合わせて定期北海道連絡に返り咲きました。「みちのく」の基本編成の7号車特ロがハになり、さらにハが1両増強されましたので、「青葉」も「みちのく」と揃えるために号車番号を変更しました。また、仙台以北併結のハ2両のうち1両は盛岡まで、もう1両が青森まで往復することになりました。

 

↓『時刻表』昭和36年3月号「主要旅客列車編成」

 

◆昭和36年10月1日白紙時刻改正で、上野-仙台間の31レ,32レ急行「みやぎの」(常磐線経由上野-仙台間の日本初の定期DC急行から変身)が出現し、「鳥海」が「みやぎの」と併結するようになりましたので、「青葉」は単独運転になって列車番号も改めて33レ,34レと付番(「みちのく」は11レ,12レ)され、編成は途中で切り離す(あるいは増結する)だけのシンプルなものになって「多層建て」とはいえなくなりました。

 

↓『時刻表』昭和36年10月号「主要旅客列車編成」

 

以上見てきましたように、昭和25年10月1日時刻改正の愛称無しの時代から昭和36年10月1日時刻改正まで丁度11年間、急行「青葉」は「多層建て客車急行列車」でした。気動車急行・準急が普及してからは「多層建て」は気動車のお家芸になりましたが、客車の時代からこのような多層建て列車があったのです。
また常に「みちのく」がいた為に、東北方面急行グループではセンターを張ることができませんでしたし、その後電車化されたり、平仮名の「あおば」で一時的に特急になったり中途半端でしたが、東北新幹線が開業すると大宮-仙台間の「あおば」として採用されたのはたいへん喜ばしいことでした。

【完】(食堂車チラシ等は井原所蔵)

 

多層建て客車急行「青葉」(3)」への17件のフィードバック

  1. 懐かしい急行「青葉」のお話し、ありがとうございました。
    昭和34年4月(小4)から39年3月(中2)までの5年間、父親の仕事の関係で盛岡に住んでおりました。
    盛岡に住んでからしばらくの間、「はつかり」は入手困難。「みちのく」はいつも混雑、特に上りは座れないということで、家があった浦和から上野に一旦戻って、「青葉」の盛岡編成を利用する機会が何回もありました。
    覚えているのは、①下りは上野9:00発、盛岡19:28着だったこと。②また、仙台では、一旦青森方へ引上げ、「みちのく」が到着しC62を解放後、先頭に連結したこと。「みちのく」遅延のときは長時間引上げ線で待たされました。(上りは、C11が引上げ、「青葉」最後部に連結)
    春夏冬休みには必ずと言ってよいほど「青葉」を利用していました(一時繁忙期に、上野~盛岡に臨時「第二みちのく」が運転され、こちらに乗車したことも1回あります。客車は「はつかり」から捻出されたスハ44系主体)。
    しかし、急行「陸中」(下りは上野7:40発?。仙台までの「みやぎの」を延長?)が運転開始してからは、「青葉」から足が遠のきました。さらにその後は、「つばさ」でした(大宮は通過でしたので、宇都宮乗車下車でした)。
    当時は、鉄道に興味はありましたが、カメラがなく、写真は皆無なのが残念至極です。
    コメントではなく、私の思い出という形で投稿させていただきましたことをお許しください。

    • 貴重な「青葉」乗車体験談ありがとうございました。小学生で約10時間半の乗車はさぞきつかったことと思います。盛岡でなく、花巻や黒沢尻でしたらもう一段たいへんだったでしょう。食堂車のご利用はありませんでしたか?

  2. クモハ103106東ウラ様
    「あおば」を知る人間はもうほとんどおられないのではと申し上げましたが、失礼しました。クモハ103東ウラさんとは大釜や山田線の北上川鉄橋等におけるそれぞれ岩手富士をバックにした撮影などで盛岡にお住まいであったことをお聞きしておりました。それにしても小学生の頃からよく列車の付け替え待ちとかC62やC11ことなどをわかっておられたのですね。あの時代は「青葉」等急行列車や「はつかり」に乗る人は上流階級です。私など東海道本線の蒸機は急行列車でなく普通列車でしたが何度も乗っております。牽引機はC62だかC59だかよくわかっておりませんでしたが、後年福知山線でC57などのパシフィック機に接した時はボイラが細いと感じたので多分見慣れていた東海道は59か62であったろうと推察はできました。当時の「青葉」の話をお聞かせください。

  3. 準特急さま
    「青葉」に初めて乗車したのは、昭和33年12月冬休みに盛岡転居の下見に行ったときではないかと思います。当時はまだ宇都宮から蒸機(白河のC59??)の時代だったようです。(蒸機牽引だったことは全く覚えておりません)
    ちなみに、転居で昭和34年3月に盛岡へ向かったときは「みちのく」でした。上野からC62牽引の時代ですね。
    「青葉」停車駅は、赤羽、大宮、小山、宇都宮、西那須野、黒磯、白河、須賀川?、郡山、二本松、福島、白石、仙台。「みちのく」に連結後は、塩釜、松島?、小牛田、一ノ関、水沢、北上(既に黒沢尻から改称)、花巻、盛岡だったのでしょうか。
    家があり祖父母が住んでいた浦和へは休みの都度帰ってはいましたが、よく覚えているのは、先日記しました仙台での引上げだけです。下りも上りも青森方の跨線橋あたりまで蒸機(機関車が小さかったのでC11)がたった2両の客車をバック運転で引き上げたような朧げな記憶があります。
    これ以外には記憶しているものが無いのが残念なところです。
    「青葉」以外の客車列車では、①上り「はつかり」が蒸機2両で盛岡に進入し1両を切り離したことや、重連が好摩を高速で通過していったこと。②山田線は「カラス列車」と呼ばれており、盛岡~磯鶏を臨海学校で往復したこと。③橋場線逆C11の列車に小岩井から盛岡まで乗ったこと。こんな程度です。

  4. クモハ73106東ウラ様
    蒸機全盛時代の話有難うございます。
    浦和から盛岡まで上野始発に乗るのは微妙なところですね。浦和は東北本線ですが、福島の先越河峠など急勾配区間を抱えており平坦線の常磐線の方に優等列車が多いのは札幌に行くのに函館本線(所謂山線の方で廃止の運命にあると聞いております)と平坦線の室蘭線千歳線経由の関係に似た感じを持っておりました。既に撮られたかもしれませんが伝統の昼間急行201列車「第2みちのく」青森行きの残映です。牽引機はC6245[平]で食堂車を連結しております。1966(昭和41)年3月20日広野から木戸にかけてちょっとした勾配をかけのぼる姿ですが線路際には既に電化用のポールが置かれていました。

  5. 井原さんの力作に呼応せんと手持ちの客車で該当するものを探しましたが、如何せん当時の東北は遠く、数回の訪問では番号の一致するものを捕らえることはできませんでした。それでも9種類の同型客車が見つかりました。車番はできるだけ本稿記載の車両に近いものを探し出しておりますが投稿して良いものかどうか迷っております。
    車種は次の通りですが、ご意見をお聞かせください。
    オロ40、スロ60、オハニ36(←オハニ63)、スロ34、オロ35、スロ51、スハニ35、スロハ32。

  6. 井原様
     重量感溢れる、多層建て客車急行「青葉」シリーズ、全三巻圧倒されました。改めて井原さんの凄まじさを感じ入った次第です。
     本論から外れるかもしれませんが、私はご所蔵の食堂車メニューに見入ってしまいました。準特急さんも仰っていましたが、食事メニューも然り、お酒や飲み物の数々の変遷ぶり、特に価格変動に引き込まれました。
     確か昭和30年頃の記憶では菓子パンが1個10円位の時代だったかと思います。食事も高いけど、ビールはめっちゃ高かったんですね!!
     有り難うございました。

    • マルーン様
      色物を並べますと殺風景な本文でも賑やかになりますし、また、全期間に亘って公報・局報類を調べた訳ではありませんので、ポイントごとの論拠を示すためにフライヤーを配しました。昔の時刻表で疑問点が出ますと、「誤植の宝庫」とはいいませんがたいへん悩ましい事態になります。そこで同じような立場の業者の同時期の資料があれば強い味方になります。また、愛称付与の日付ですが、一次資料で複数の日付があるようで、文献によって昭和25年11月2日と8日があります。10月と書いてあるものもありますがこれは本庁ではなくローカルの仙鉄局が決定した日のようです。
      ビーフステーキが150円でサーロインステーキとポークチャップが240円、ビールがその中間の190円とは本当にどういうことでしょうね。

  7. 小生が管理している、稲門鉄研(早大鉄研OB会)の写真に「青葉」があったので、ご披露しましょう。撮影者は永井信弘さんです。早稲田から同志社へのエールと云うことで、ご覧ください。昭和33(1958)年1月7日、郡山で撮影された101レです。編成は牽機しか判りません。C5740(仙)+D51230(福一)です。この角度では、客車を云々するのは無理ですので、往時のムードを偲んで頂ければと。

    • 「青葉」の写真、ありがとうございます。撮影された永井信弘さん(故人)は、準特急先輩(私もですが)の会社の先輩です。話題が、「青葉」から逸れてすみません。

      • どう致しまして。撮影後60年以上も経って、デジ青の皆様に見て頂き、故人もビックリ&喜んでいることでしょう。永井さんは、電鉄ファンなので遺された写真は多くは電車ですが、それ以外のものもソコソコあるので、機会があれば再たお目に掛けましょう。

    • 宮崎様
      ありがとうございます。やはり鉄道は架線があってはいけません。
      C57 39と41は山陰線京都口で馴染みがあります。40はその後秋田へ転じさらに北海道へ渡ったそうですが、実見は間に合いませんでした。

    • なんでも撮っておくものですな~!
      C5740を北海道で撮っていました。今気がつきましたので貼っておきます。
      テンダーのライトがおもしろい。

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