北九州へ “思い出探し”の旅  ❺

直方駅4番ホーム対比 蒸機時代、ホームの横には直方機関区があり、入出庫する蒸機が黒煙を吐きながら、連なっている光景が日常的に見られた。4番ホームへ到着するのも蒸機。乗客は真っ黒になりながら、列車に乗り込んだ。いまは福北ゆたか線こと筑豊本線は電化されて、留置されるのは電車。DCになった。ホームにいても、乗客が少ないこともあって、妙な静寂に包まれる音や臭い(匂い?)に包まれて、五感をくすぐられた、あの直方が懐かしい。

思い出探し、次は直方です。直方へは、蒸機が無くなってからも、何度か訪れて、その変化を見届けてきました。これまでも再三に渡って投稿して来ましたが、改めて、直方の今昔を対比してみました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❹

折尾駅前には2000年まで、西鉄北九州線の折尾駅があった。かつては門司(門司港)~折尾、30キロ近い路線を有していた北九州線だったが、順次、廃止され、最後の営業区間、黒崎駅前~折尾も十数年前に廃止となり、北九州から西鉄の軌道線は消えた。西鉄の折尾駅は高架上にあり、その一部は、9連の煉瓦アーチ橋で支えられていた。現在、再開発地区に3連分の煉瓦アーチが残されている。右は、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結んでいた、通称“短絡線”の廃線跡。

新しい折尾駅を巡ったあと、改札を出て、駅周辺を回りました。駅の営業は、昨年から始まっていますが、駅周辺は大規模な再開発事業の真っ最中でした。区画整理事業の地域では、新しいマンション数棟以外は、すべてが取り壊され、いまは更地となって、碁盤の目状の区画ができていました。古い風景を思い出しながら、周辺を巡りました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❸

日本最初の立体交差駅と言われ、昭和の香りを残した駅周辺も魅力的だった折尾駅、駅舎は大正5年竣工の二代目で、辰野金吾の設計との説もある(上)。2006年から始まった周辺の連続立体交差事業は、付近の地形を変えてしまうほどの大規模なものだったが、2022年3月改正で、全面高架化が完成し、営業を開始した(下)。Y字型の駅の中央にある駅舎は、旧駅舎を曳家して移築したのかと思っていたら、旧駅舎を忠実に再現した新築だった。

思い出探しの旅、行くことが叶わなかった九州の鉄道のなかで、連続立体化された折尾駅は、ぜひこの眼で確かめたいものでした。しつこく言いますが、高校二年生の九州旅行、鹿児島本線から降りて、折尾駅の複雑な通路を通って、筑豊本線ホームで若松行きの列車に乗り換えました。牽引機は初めて見るC55でした。動輪の間近に寄って見ると、なんとスポーク動輪を通じて、向こう側の景色がよく見えるではありませんか。これぞスポーク動輪、これぞC55だと大いに感激しました。試しにデジ青で折尾駅を検索すると、同じような内容ばかり書いていることが分かりました。さらに上塗りする記事となりますが、私の思い出の駅として、ご容赦ください。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❷

若松駅対比 大正9年にできた旧駅舎(上)と、駅構内が再開発されて昭和58年にできた現在の駅舎(下)。同じ位置に建つように見えるが、旧駅は線路方向に建っていて、国道199号側に面していた。新駅は終端駅スタイルに改められて、国道495号側に面するようになった。キューロクが保存展示された場所にコンビニが建っていた。

若松駅は、石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していきました。鉄道建設期、筑豊興業鉄道では、始発駅は、地域の中心だった芦屋に置く計画でしたが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業しました。石炭の需要の高まりとともに昭和30年代前半には最盛期を迎え、若松駅は、石炭の積出港として日本一の貨物量を誇るまでになりました。しかしスクラップ・アンド・ビルド政策で、石炭は斜陽化の一途となり、私が訪れた昭和40年代の初頭には、石炭扱い量は激減していましたが、最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、石炭車の群れに、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと思ったものでした。

蒸機が無くなってからも、二度ほど若松駅を訪れて、その変化は確認したつもりですが、今回、さらに周辺の様相が変わっていて、小雨のなか速足で回って来ました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❶

北九州市若松区に、“若松市電”とも呼ばれた北九州市営軌道が走っていた。国鉄若松駅から、若松の繁華街を通り、北部に集中していた工場への貨物輸送を担っていた路面軌道だった(昭和50年6月)。

デジ青投稿、再開します。さる土・日に行われたクローバー会の北九州ツアー、楽しかったなぁ、充実の二日間でした。会員や外部の皆さんに、持ち場ごとに協力をいただき、クローバー会ならではの見学・探索となりました。

私にとっても北九州は思い出の地です。デジ青にも載せましたが、高校2年生の時、初めて2週間の一人旅をしたのが九州でした。関門トンネルをくぐって門司に着いた途端、空気感が違ったことを今でも覚えています。あたりかまわず上がる蒸機の煙、顔を真っ黒にして無我夢中で写し続けました。これが北九州なんだと思いました。以来、何度も訪れた九州ですが、コロナ禍もあって数年ぶりの訪問となりました。

その昔に訪れた地と、現在の姿を対比するため、ツアーを終えた翌日の一日、すっかり姿を変えた折尾駅や、直方、若松を一人で駆け回って来ました。今回は若松の街を走っていた貨物軌道です。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~16~

日常の記録 大阪駅の24時間④

最終回の大阪駅24時間は、夕方から最終電車までをお伝えします。ドーム屋根の向こうに陽が傾き始めると、駅は二回目のラッシュ時を迎え、多くの乗客がホームを行き交います。そして、陽が落ちて、あたりが暗く包まれると、大阪駅はいっそう輝きを増して来ます。

 

 

 

 

 

 

 

新快速を補完する快速も頻繁運転される。この列車は、JR東海まで足を伸ばす223系快速の大垣行き、夕方以降、大垣行きは3本運転されていたが、いまではJR東海へ乗り入れる快速はなくなった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~15~

日常の記録 大阪駅の24時間③

昼に「トワイライトエクスプレス」の上下が相次いで大阪駅に発着したあと、午後からは、話題となるように列車の発着もなく、ちょっと気だるい時間が過ぎて行きます。新しくなった大阪駅の視点や、旧来の光景、はたまた“旧線跡”の探索を続けました。

大阪環状線はオレンジ色の電車で占められている。完全なループ運転を開始してから50年を迎え、201系には記念のヘッドマークが掲げられていた。▲▲いっぽうの103系は、高運転台の体質改善車が活躍していた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~14~

日常の記録 大阪駅の24時間②

朝のラッシュも一段落した大阪駅には、特急列車も発着し、かつて長距離輸送も担っていた、大阪駅の華やかな一面を垣間見ました。

食堂車クルーがお辞儀をするなか、札幌行き「トワイライトエクスプレス」が、10番ホームに11時11分、EF81に牽かれて入線して来た。翌2015年3月での運転終了がアナウンスされていて、大阪駅の目玉となっていた。この“お辞儀”が、揃わなかったり、準備で忙しく無かったりして、満足な撮影ができず、何度も通うハメになった(以下、2014年4・5月)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~13~

日常の記録 大阪駅の24時間①

つぎの日常の記録、大阪駅の24時間です。西日本最大の駅、大阪駅は、2014年、大屋根が載った5代目の駅に生まれ変わりました。その後も、大阪駅周辺の再開発事業は進化を続け、ことし3月、大阪駅うめきたエリアが開業し、特急「くろしお」「はるか」、おおさか東線の列車が地下ホームに乗り入れ、大阪駅の拠点性と、関西全体のネットワークがより強化されました。

ある出版社の依頼で、大阪駅の24時間を記録したことがありました。早朝の4時52分、回送で到着する大阪環状線外回りの電車から、深夜0時34分発の「サンライズ出雲・瀬戸」まで、一人で取材・撮影をこなしました。と言っても一回だけの取材では満足な撮影はできず、時間を区切って、何度も大阪駅へ通い詰めたものでした。大阪駅の魅力のひとつは、国鉄型の活躍が見られたこと。大阪環状線を走る奈良区の103系電車ウグイス色編成と、福知山線の「こうのとり」381系電車が顔を揃えた。どちらも、今となっては見られない車両で、まだ10年にも満たない時代の記録だが、改めて鉄道の進化を感じる(以下、2014年4月、5月撮影)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~12~

日常を記録する② 阪和線で103系を駅撮り

日常の記録、つぎは阪和線へと移ります。当時、アーバンネットワークと呼ばれた関西の通勤線区で、輸送が逼迫していたのが阪和線でした。高架工事が進捗し、改正ごとに増発が進みますが、車両の中心は、まだ103系でした。昭和43年10月改正で、関西初となる103系が配属され、全国でも4番目の投入線区となりました。この時期、首都圏では一掃され、残るのはJR西日本と九州の350両程度、そのなかで、吹田総合車両所日根野支所の103系には、最大の90両が配置され、全車が青22号に塗られて、阪和線の主力として活躍を続け来ました。4扉電車には余り関心を示さない私も、日常の記録の要諦として、この時期に何度か阪和線を訪れたものでした。

ラッシュ時の阪和線、次つぎに103系がやって来て圧倒される。日根野区の103系は、「普通」はもちろん、和歌山始発の「快速」運用にも入っていた。前項投稿のコメントで、阪和線を、河昭一郎さんは「憧れの線区」と表現され、阪和線沿線で育った893-2さんは「掃きだめ」と表現された。どちらも至言だと思う。私自身も、高校生の頃、古臭い社型電車ばかりで、掃きだめ感のある阪和線に憧れて、高校2年生の時、はるばる鳳電車区を訪れたことを思い出した。左:天王寺行きクハ103-591ほか、右:鳳行きクハ103-127ほか(以下2010年5月、南田辺、長居、鶴ケ丘にて)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~11~

日常を記録する① 朝の山崎駅

前項でも触れましたが、この大混雑ウィークは、遠出は止めて、近場でサクッと撮るに限ります。この習慣、デジカメを始めた十数年前も同じでした。近くのJR、私鉄へ行って、この時代の「日常」を記録していました。単なる列車写真の羅列にしか過ぎませんが、今となっては、ほとんどの車両が世代交代しています。改めて「当たり前の記録」の重要性を知る5月の連休でした。今回は、東海道本線の山崎駅の午前中、大阪方面行きホームの先端から見た列車を見ていただきます。この場所が、とくに賑わうのが“ネタ”列車の通る時だろう。この時代は、最後のボンネット特急車両となった、金沢車両所の489系H01~03編成がやって来た時に尽きる。少し前までは「はくたか」代走や、時には「雷鳥」でも走ることがあったが、この連休期、一往復だけの臨時特急「ふるさと雷鳥」に充当されて、久しぶりに晴れ姿をとらえられた。あとは、月に数回、北陸方面から、京都への団体輸送・修学旅行に使われることもあり、チャンスが訪れると、白レンズ・三脚・脚立組に囲まれて、小さくなって、すき間から狙ったものだ。最末期はずいぶん汚くなってしまったが、この時期はまだ車体も美しく、ボンネット全盛を彷彿させた。クハ489-3F (2009年5月、以下特記以外同様)。

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 叡電“二ノ瀬”に ぞっこん

新緑が美しい季節になりました。家に籠り勝ちの高齢者も、写しに行きたくてウズウズします。コロナ以降、撮影は「テーマ限定」「短時間」がスタイルになりました。最近、足繁く通っているのが、叡電二ノ瀬です。同じ叡電の八瀬、三宅八幡は以前から、お気に入りとして何度も行っていますが、最近は、二ノ瀬も加わりました。“紅葉のトンネル”として知られている二ノ瀬ですが、最近は“青もみじ”の頃にも、市原~二ノ瀬は徐行運転が行われ、ことしは、夜間ライトアップして特別列車も運転されています。つい一週間前にも二ノ瀬へ行ったが、両側は山が迫ってモミジが覆い被さっていて、陽が射し込まない。午後が適切と踏んでいたが、時間は過ぎていて電車は日陰のなかだった。詳細な方角を検討すると、陽が射し込むのは、午前中のある時間帯だけと判明、一昨日、晴れ間に再度行ってみると、みごと的中して“青もみじ”の「きらら」が撮影できた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~10~

関西本線沿いの私鉄 三岐鉄道

続いて北勢線と並行する三岐鉄道へも寄りましたが、もう夕方で、数枚を撮っただけで退散しました。今では旅客は、西武鉄道から来た電車に占められていますが、この時代は、自社新造、社型電車など、一両ずつ個性のある電車ばかりで、まだ青緑に塗られた旧塗装でした。三岐は、セメント会社と地元株主によって設立された産業鉄道で、長らく貨物は蒸機、旅客は気動車で行われ、電化したのは昭和29年で、貨物は電機に代わったものの、旅客の全線電車化は昭和35年のことで、訪れた年のわずか14年前のことで、電車化の際に用意された車両がほとんどでした(以下、昭和49年4月)。終点の西藤原に着いた電車、かなりの乗降客があったことが分かる。いま、ウィステリア公園として、三岐で使われた蒸機などが保存されているところには、貨車ホームがあったことが分かる。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~9~

関西本線沿いの私鉄 近鉄北勢線

内部・八王子線に続いて、同じナローの北勢線を訪れています。ただ、沿線を訪ねることはなく、Tさんのクルマで終点の阿下喜に、少し寄っただけの初回訪問でした。いまでこそ、同じナローながら、両者は会社も違い、車両も異なりますが、当時は、同じ近鉄の一員で、車両の仕様も同じで、車両の移動も行われていました。北勢線は、大正3年に北勢鉄道として西桑名(現)~楚原の762mm開業に始まり、昭和6年に阿下喜まで開通、同時に電化も完成し、北勢電鉄と改めた。昭和19年には三重交通として、付近の小鉄道が一元化されている。社名は三重電鉄を経て、昭和40年に近鉄に吸収されて、近鉄北勢線となった。私が北勢線で思い出すのは、訪れる少し前の昭和48年の「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールで、終点の阿下喜で、乗客が寒そうにして、電車から降りて改札口に向かうシーンが推選に入った。そのことが頭にあり、阿下喜に着いて、真っ先に同じシーンを狙ってみた(以下、昭和49年4月)。

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