ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ②

昭和45(1970)年7月24日 最後の「びわこ」を撮る

京阪大津線を走っていた「びわこ」号60形のうち最後まで残った63号が、大津線全車のパンタ化により、引退することになり、この日、記念の貸切電車が京津線、石坂線で運転されました。日本最初の連接車、昭和9年にデビューし、天満橋~浜大津での活躍を始め、数々の伝説を残してきた「びわこ」60形61~63でした。しかし、次第に活動の場が狭められ、62号が昭和42年12月、61号が昭和43年12月に廃車になり、残るは63号のみになっていました。この1両も、ポール集電(スライダー式)からパンタ集電に改められるのを機に廃車されることになりました。この日は、鉄道友の会の貸切電車として、久しぶりに京津線、石坂線を走ることになったもの、夏休み期間中でBOXでの情報交換も得られない時期でしたが、例によって大西顧問から、詳細な情報を入手し、まずは三条通で待ち構えました。蹴上を通過して、専用軌道へ入って行く臨時の「びわこ」63号、当日は、錦織13:52→(回送)14:33三条14:40→15:05浜大津15:08→15:33三条15:40→16:16(回送)錦織のダイヤで運転された。 続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①

「50年前の同月同日シリーズ」をことし冬に投稿しましたが、予想どおり途中で挫折してしまいました。やはり「50年後の同じ日に投稿する」制限を加えると、その価値は認めるものの、書き手としては、相当な重荷となって、いつの間にやら中断してしまいます。考えるに、48年前であろうと53年前であろうと、今となっては大した問題ではなく、毎日更新をウリとする“デジ青”で価値があるのは「同月同日」の部分だと分かりました。そこで「ほぼ50年前」と看板を改めて、少し気分をラクにして「同月同日」シリーズを適宜、載せて行きます。

昭和43(1968)年7月22日 灼熱のなかの大阪市電

京都市電はあれほど撮っているのに、近くの大阪や神戸の市電はほとんど撮っていません。駅ターミナルへ行くことはあっても、市電が走っている街なかへ出掛けることもありませんでした。それが大阪万博を前に、市電がつぎつぎに廃止されて、他所の街ながら、気がかりになって来ました。

この日の本来の目的は、城東貨物線の蛇草信号場へD52を撮りに行くことで、初めて大阪のミナミへ足を踏み入れて、「天王寺西門前」へ来た。市電上町線が走る谷町筋と、市電天王寺線の走る国道25号線が交差するところで、現在の「四天王寺前」交差点である。写真は、交差点東北から、上町線を見たところ、この左手奥が阿部野橋(天王寺駅前)となる。左手には、信号塔のあるのが分かる。ここで、阿部野橋発の1号系統が大国町・四ツ橋筋へ向かって左折するため設けられている。谷町筋はこの直後に倍以上に拡幅され、今では全く面影は残っていないが、「エコー歌謡学院」という看板が見える。ここは、松山恵子や藤島武雄を生み育てた、大阪の名門の歌謡学院だったそうな。

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JR四国の主要列車を撮影 ~駅撮り一時間 現代版②

鬼無駅で駅撮り一時間半

JR四国6000系2編成を撮影した予讃線鬼無駅で、その前後、停車・通過する列車を撮影しました。その一時間半の成果を見ていただきます。時刻は8時から9時30分まで、朝の時間帯とあって、高松へ向かうJR四国の代表的な列車が通って行きます。

予讃線で高松から二つ駅の鬼無駅、つぎつぎに列車がやって来る。最もポピュラーなのが普通列車、7200系の2連。6000系も含めて約10分ヘッドでやって来る。国鉄時代の四国初の電車121系を完全リニューアルした。鬼無駅は、複線の対向式ホームで、何の変哲もない構造だが、この時間なら珍しく順光で撮れる。背後にある讃岐地方独特の円錐形の山もアクセント、手前の家や広告さえなければ、言うことなし。

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 大好き JR四国6000系 ~駅撮り一時間 現代版①

夏が来ても、遠出ができず、家に籠ったままの生活が続いています。つい思い出すのは、直近に行った旅のことです。クローバー会で行った四国〈多度津・琴平ツアー〉から二ヵ月近くで経ちますが、同じ目的を持った仲間と旅することの楽しさを再認識しました。集合前の朝に、ぶんしゅうさんとともに、小さな駅に降り立って、ホーム端から高松へ向かう列車をつぎつぎに撮影しました。JR四国の列車写真を短時間でこれほど撮ったのは初めてでした。なかでも、前から憧れていた、JR四国6000系電車を全編成(と言っても2編成だけ)撮れたのは大きな収穫でした。

211系顔をしたJR四国の6000系、この顔はJR各社にさまざまな形式があって、端正な顔立ちで最後の国鉄型電車スタイルを確立した。なかでも6000系の高松方は、「前パン」になっていて、その魅力を倍加している。後部には右のように7000系のTc車7100を併結した4両編成となっている。 伊予西条発高松行き114M快速「サンポート」 6001-6201-6101+7108 予讃線鬼無

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京都市バス201系統 50年~祇園囃子を聞きながら

京都に祇園囃子が戻ってきました。昨年、一昨年は、祇園祭の巡行は中止、3年ぶりに囃子を耳にしました。京都の人間は、やっぱり心が浮き立ちます。私も昨日、写真展見学のついでに、四条通へ行ってきました。

高齢者は、無理やり市電と結び付けようとしますが、満員の通行人のうち、市電を知っている世代は皆無に近いほど、若い人たちが多いのに驚きます。市電四条線が無くなったのは昭和47(1972)年1月ですから、ちょうど50年になるわけです。代わりに走り始めたのが京都市バスで、市電の経路に準じた、系統番号200番台の代替バスです。その代表が、市電1号系統の代替バスとなる201号系統です。

祇園祭巡行でつねに先頭を行く長刀鉾の横を走る、京都市バス201号系統。みぶ~千本今出川~百万遍~祇園~壬生と、京都の中心部、千本、今出川、東大路、四条通を循環する。市電の1号系統の代替バスとして走り始めて、ことしで50周年となる。市電廃止時に多くの代替バスが走り始めたが、この間、一度も経路が変わらず、京都の中心部を走り続ける、市バスの代表的な系統となった。

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 駅撮り一時間 〈10〉

昭和47(1972)年2月16日 新大阪駅

新大阪を通過する、下り新快速の西明石行き。設定当初の新快速は、京都~西明石の運転で、昭和46年4月に草津まで延長された。当初の停車駅は大阪、三ノ宮、明石で、新幹線と接続する新大阪、神戸市の代表駅、神戸も無視、あくまで京阪神の中心駅の直結輸送を目的とした。京都~大阪の所要は、特急と遜色のない32分運転だった。

大阪駅で優等列車を写したあと、新大阪へ移動しました。翌月の昭和47年3月改正による新幹線岡山開業に伴い、新幹線接続は新大阪から岡山に移り、新大阪発着の優等列車は、大幅な改廃が実施されることになります。

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 駅撮り一時間 〈9〉

昭和47(1972)年2月16日 大阪駅

581系の特急「つばめ」が大阪駅に4番ホームに到着し、11:37に発車する。「つばめ」は昭和40年10月改正で151系から481系に変わり、さらに昭和43年10月改正で581系に置き換えられた。名古屋~熊本の昼行運転なので車内は座席として使用された。

雑事に追われて、私も投稿ができていませんでした。もちろん毎日閲覧はしていますが、最近のコメントを見ても、8年前の投稿に対して、岩手県にお住いの方から地元ならではの書き込みがありました。検索機能を使って、過去の投稿にも多くの閲覧があることが分かります。「デジ青」が巨大なデータベースに育っていることを痛感しますが、それを継承して行くためには、とにかく「写して、書いて、投稿する」しかないのです。もう停滞はできません。

少し前に昭和40年の大阪駅の「駅撮り」を載せました。それから、7年後に、大阪駅、新大阪駅で、一時間程度の駅撮りをしました。この7年間、国鉄も大きく変わり、その象徴は新幹線の延伸でしょう。昭和40年当時は新大阪まで、その後、山陽新幹線の工事が進捗し、来たる昭和47年3月改正では、岡山まで開業します。新幹線接続も、新大阪から岡山へと移り、ダイヤ改正が実施されます。変動のある列車を求めての駅撮りでした。

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 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈2〉

「デジ青」での沖中さんの活動の足跡を引き続き見て行きます。人生の糧として、元気にデジ青投稿を続けて来られた沖中さんですが、身体に変調を来たされるようになって来ました。外出も少なくなり、キーボードに向かう気力もなくなり、沖中さん自身の投稿は、2017年2月をもって途絶えることになります。

こんな時、「鉄道介護士」を名乗り、敢然と沖中さんへ救いの手を差し伸べたのが米手作市さんなのです。それまでも、東にデジタル難民がいれば、琵琶湖畔のマンションまで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、大阪日本橋の歓楽街まで行って、尻を叩いて叱咤激励するなど、東奔西走の介護活動をされていましたが、乙訓地方にも差し伸べられたのです。さらに「こんなモンありまっせ」シリーズや、長期連載「昭和の電車 改訂版」シリーズなど、会の外においても、介護の成果を発表されて来られました。このような背景をもとに、「鉄道、つれづれ草」シリーズが始まったのです。以降、いくつかのテーマに分かれて連載されました。冒頭に当たっての、マイテさんの言葉をスクリーンショットでお見せします。沖中さんの個展「ドイツの街角に市電」で来場者に説明される。

いくつかの記事を見て行くことにしました。リンクもありますので記事を見てください。

「鉄道、つれづれ草-“乙訓の老人”からのお願い」◎1981年に廃止された福井鉄道南越線の写真が載せられています。最初は米手さんも疑心暗鬼で出されたのですが、沿線近くで青春時代を送られたマルーンさんや紫の1863さんから、詳細な説明が入り、キャプションも完成しました。私としては、以前に廃線跡を訪ねことがあり、粟田部駅の現役時代の写真もあって、今昔対比をすることができました。鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その3 | DRFC-OB デジタル青信号

「鉄道、つれづれ草 -吉川文夫氏作品編」◎沖中さんと同じく熱烈な電車ファンとして名高い吉川文夫さん(故人)とも親交がありました。私も吉川さんが関西に来られると、一緒に酒席に入れてもらうこともありました。吉川さんと沖中さんは、写真交換が長く続き、多くの写真がストックされていました。そんな吉川さんから送られてきた、秋葉線など、貴重な写真をまとめたもの。鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー | DRFC-OB デジタル青信号

「乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 〈三八豪雪のこと〉」◎三八豪雪とは、昭和38年に北陸地方での記録的豪雪のこと、北陸本線は長期間不通になり、閉じ込められた列車の救出劇などがニュースになりました。沖中さんはちょうど富山の勤務時代で、目の当たりにした豪雪の様子を写真で伝えています。さらに湯口徹さんらも迎えて、記録を続けます。乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 《三八豪雪のこと》 | DRFC-OB デジタル青信号

いっぽう私のほうも、沖中さんの写真・原稿を何回か発表しました。これは“介護”と言うより、“これ、載せといてんか”と頼まれた、原稿転載の類いです。

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧」◎“た~ちゃん”とは、沖中さんの幼名です。このシリーズは、沖中さんが業界紙に載せられた「路面電車から街づくりを考える」の再録です。京電の歴史から、欧米のLRTまで、沖中さんの幅広い蘊蓄が満載です。再録に当たっては、同じくクローバー会会員の故・大西友三郎さんの資料、カラーも併催しました。◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧ | DRFC-OB デジタル青信号

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道」◎沖中さんから託された写真の中からテーマを設定して、連載を始めます。これは、昭和32年12月、翌33年5月に訪れた和歌山地方の私鉄です。ここに載せられた和歌山電気軌道は、見たこともなく、沖中さんの撮られた鮮明な写真に、ため息の連続でした。湯口さんからスキャンの技術を褒められたのも、嬉しいことでした。◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道 | DRFC-OB デジタル青信号

最後に、沖中さんの写真、資料の発表、継承に尽力いただいた米手さん、最後の介護活動を伝える、一節を紹介しましょう。

 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈1〉

沖中忠順さんのご逝去に当たり、当掲示板でも、会内外の皆さまから、沖中さんを悼むコメントを頂戴しております。会を代表して、皆様に御礼を申し上げます。先日、ぶんしゅうさんと、ご自宅へ弔問した際にも、デジ青コメントのコピーをご遺族へお渡ししました。“こんなに皆から慕われていたとは‥”と涙ぐんでおられました。当掲示板でも、引き続き生前のご功績を伝えていきますが、まず当掲示板での沖中さんの活動ぶりから振り返ってみたいと思います。

沖中さんは、生まれながらの大の電車好き、話好きでした。そして、何より「書く」ことが大好きな人でした。小学校の頃、学級新聞の担当になり、子ども記者としても活動され、書くことの楽しさに目覚めたと述懐されていました。当(新)掲示板でも、鉄道の話なら何でもアリ~と始めたのが2008年、沖中さんが積極的に投稿を続けられたのも、当然の成り行きでした。沖中さんのハンドルネーム「乙訓の老人」で、掲示板を検索すると約150件の投稿がありました。

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沖中忠順さん ご冥福をお祈りいたします。

すでに会員個別の連絡、また掲示板でもお知らせのとおり、クローバー会会員の沖中忠順(おきなか ただより)さんが、去る6月8日、肺炎のため、お亡くなりになりました。享年84でした。謹んでご冥福をお祈りする次第です。

沖中さんは昭和13年4月生まれ、生まれついての電車好きで、5歳のとき、一人で京阪電車の流線型を三条京阪まで見に行って遅くなり、真っ暗ななか下鴨の家まで、泣きながら帰ったと述懐されています。昭和32年、同志社大学経済学部に入学、翌33年に仲間とともに鉄道同好会を創設されます。卒業後、鉄道ピクトリアルに発表された私鉄車両めぐり「京阪電車」は、私鉄研究のモデルともなり、いまも評価される記事となりました。長じて、昭和59年、故・大西友三郎顧問の退職記念の会で、沖中さんの呼びかけにより、有志によるOB会組織が発足し、事務局の沖中さんによって、現在の基盤が作られました。そして、展望車マイテの運転を機に昭和62年には正式なOB会が発足し、沖中さんは、初代の会長に就任されます。持ち前の面倒見の良さ、統率力を発揮され、先頭に立って、OB会を牽引されて来ました。現在に至る、OB会の活動・隆盛は、沖中さんのお蔭であり、改めて沖中さんの功績に思いを新たにする次第です。 電車が好きで、ビールはもっと好き、みんなと騒ぐことはさらに好きだった沖中さん。みんなで乗った「しまかぜ」車内で乾杯。

沖中さんは、近年、認知能力が衰えられて、家に籠った生活が続いていました。それでも、米手さんともにお宅へお邪魔すると、嬉しそうに電車の話をされます。つくづく、電車が大好きでした。最後にお目にかかったのは、昨年末、佐竹保雄さんと私との写真展の時でした。ぶんしゅうさんにクルマで送ってもらい、奥様とともに会場にお見えになりました。みんなで笑顔で撮った記念写真が最後になりました。佐竹さんからは数日前に「沖中さん入院」の連絡をもらい、奥様に電話をして様子を聞こうと、受話器を上げたものの、“かえって迷惑かな”と思い、下ろしてしまいました。虫が知らせたのでしょうか、ちょうど、その日に息を引き取られました。

現役の鉄道同好会が来年で65年、OB会発足から35年を迎えます。いずれの創設にも係わられ、電車と鉄道同好会を心底から愛した沖中さんが、「路面電車の日」の6月10日、著書の「京阪電車」を胸に天国へ旅立たれました。

ご逝去に際しましては、会則に従い、事務局から弔電を打ちました。通夜・葬儀については「家族葬」と聞きましたので、参列は遠慮させていただき、田野城さんのみ会を代表して、参列いただきました。奥様からは、ご自宅への祭壇にお参りくださいと聞いています。今後の弔意については、各個人にお任せしますが、よろしくお願いいたします。皆さんからは、沖中さんの追悼集、偲ぶ会などの話もいただいています。また時期が来ましたら、私の方で考えさせていただきます。

 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈下〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

多度津機関区・工場を撮影後、長老は土讃線琴平~塩入で走行中の列車を撮影されます。その写真を漫然と眺めていたのですが、よく見ると、線路のカーブ具合、背景の山容から、われわれが、琴平駅からタクシーに乗って行った撮影地と同じなのです。65年前の夏、長老はここまで歩いて来られたのでしょうか。改めて、その並外れた行動力に驚いた次第です(以下、昭和30年8月3日)。

C58 295〔知〕の牽く、高松桟橋発窪川行きの121レ、給水温め器や前梁に縁取りがあって、調べると昭和28年に四国国体でお召列車を牽いていた。左下で手を振る少女がアクセント。 ▲▲一週間前、琴平~塩入で撮影した上り「南風16号」、当日、一年ぶりに土讃線高知以東を走る2000系DC、ツアー列車「Remember2000」を撮るために、タクシー2台に分乗してやって来た。まさか、この場所が、山科の人間国宝さんが。昭和30年に撮られた場所と同じだったとは、知る由も無かった。

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 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈上〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

クローバー会の多度津・琴平ツアー、好天に恵まれて、マスク以外は何の制限もなく、みんなで思い切り楽しみました。お世話になったブギウギさん、77-タツさんには改めて御礼申し上げます。本欄でも、参加の皆さんから当日や前後の行動記録が綴られています。私は、この歳に相応しく、過去の思い出でもと思ったものの、四国には縁がなく、鉄道に接したのは、今世紀に入ってからという奥手です。そこで、一計を案じて、山科の人間国宝様にご登場いただくことにしました。長老は昭和20年代後半から何度も四国を巡っておられます。ほかの地域でも魅力的な車両がいっぱい見られた時代だけに、アクセスも不便だった四国には、地元のファン以外では、きっちりした記録を見かけません。並外れた長老の行動力には、改めて敬意を表します。われわれが訪れた多度津・琴平に限定して、その記録を特別に載せました。昭和30年8月3日、長老は多度津機関区を訪問、「せと」のヘッドマークを付けたC58 255〔多〕の晴れ姿。

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 駅撮り一時間 〈8〉

昭和40年10月3日 新大阪駅

昭和40年10月改正は、前項のように、交直両用の475系・481系の新製・増備、余剰となった151系の転用により、新幹線と接続する山陽筋の特急・急行は、さらに増発されます。そして、もう一つの目玉は、関西発着の寝台特急「あかつき」の新設です。あの憧れのブルートレイン、でも当時は東京発着だけで、明るいうちは京都、大阪で見ることができない列車でした。それが新大阪に到着するとあって、大阪駅の撮影を終えて、新大阪へ急ぎました。

 

新幹線開業1年後にして、初めて新大阪に降り立った。11:31に到着したのが、名古屋発熊本行「つばめ」、クハ481-14ほか481系11連、改正前は新幹線と接続する新大阪~博多の特急だった。151系のため、交流区間の九州では自走できず、ED73+サヤに牽かれていたが、481系になって自力で走れるようになった。運転区間も、東は名古屋まで延長され、新幹線に乗ることなく、山陽・九州へ直通できた。西は、この改正で電化が伸びた熊本まで、多目的な特急としての使命を帯びた。東海道線時代の「つばめ」と同じく、ヘッドサインにはグレー地が入り、ほかの特急とは一線を画していた。

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 駅撮り一時間 〈7〉

昭和40年10月3日 大阪駅

昭和39年10月、東海道新幹線の開業により、東海道本線を走っていた151系「こだま」型電車特急は、新大阪で新幹線と接続する山陽筋の特急として新たな活路を見い出します。京都駅では、一本も「こだま」型が見られないのに、大阪、新大阪へ行くと今までと変わらない、電車特急の華やかな姿を見ることができました。昭和40年10月改正では、交直両用の481系電車が走り始め、さらに特急の増発、運転区間の変更が行われました。再び「こだま」型に接するため、高校一年生は、「京都から大阪まで」金120円の切符を握りしめて、大阪駅に向かったのでした。大阪8:50発の宇野行き特急「うずしお」、クハ151-9ほか151系12連、西行きの列車ホーム3・4番ホームから、朝の時間帯には、特急、急行が10~15分ヘッドで発車して行く。 続きを読む

 駅撮り一時間 〈6〉

昭和40年9月26日 京都駅

京都駅を華やかに彩ったキハ82系特急のもう一本、「白鳥」が8:48に1番ホームに進入する。京都駅1番ホームと言えば、歴代の上り特急や、御召列車も発着した栄えあるホームだが、電車特急の撤退で、明るい時間帯に1番ホームに発着する特急は「白鳥」と「雷鳥」の2本だけだった。「白鳥」の行き先は、青森、上野行き、7両2ユニットが直江津で分割され、上野行きは、信越本線経由となった。ところが、この年、富山~糸魚川の親不知付近の土砂災害により富山までの運転のまま改正を迎える。非電化、旧線、海岸沿いの富山~糸魚川~直江津は災害多発区間で、「白鳥」は運転打ち切りが多かった。40-10改正からは、青森行きの単独運転、新潟経由となり、大阪~新潟は14両、以降は10両運転となる。

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