青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて -1-

写真展を終えて、一服しているところです。こんな時こそ、久しぶりの旅行をと思うのですが、連日の不順な天気では、その気も失せてしまい、相変わらず引き籠もり生活が続いています。いっぽうデジ青も、「カビが生えたような写真は止めて、色付きの写真でも載せたらどうや」の声に対抗できる新作はほとんどありません。それならばと、数年前から、密かに(?)温め続けていたテーマを、今回、公開しようと思った次第です。と言っても、「またか」の発表済み写真もありますが、「デジ青テーマは無限、タテで切ったら、ヨコにも、斜めにも切れる。もっと横断的なテーマを」と吹聴した当事者としては、これもアリかなと思った次第です。

テーマは、Blue Moment(ブルーモーメント)。日没後に一瞬だけ訪れる、空が青く染まった時間帯です。デジカメの普及で、アプローチしやすいテーマとなり、写真用語では「マジックアワー」とも言われています。ここ数年、意識して、“青い時”を求めて、写した記録をランダムに見ていただきます。

夕景でも夜景でもない、日没後の5分程度見られる“青い世界”、撮影には事前の計画も大事だ。遠くへ出かける気力・体力がめっきり減退した高齢者体質となったいまは、自宅近くの鴨川での“夕練”が日課になった(8月30日撮影)。

 

続きを読む

 “ナメクジ”に 魅せられる  (6)

貨物列車を牽く“ナメクジ”

本シリーズも最後となりました。今回は、“ナメクジ”が本領を発揮した貨物列車を牽くシーンです。旅客を牽いた前回と比べて、さすがに多くの写真を撮っていました。いまの動態D51は旅客ばかり牽いていますが、やはり、D51は貨物を牽く機関車だったと改めて思います。その中の“ナメクジ”ですが、全国分布は、前回に記したとおり、東北・北海道に多く見られました。機構上、集煙装置を取り付けられないことと、第一動輪の軸重が少し軽く、勾配区間ではあまり好まれなかったようですが、それでも、全国的に“ナメクジ”の牽く貨物列車が見られました。最終回に当たり、改めて“ナメクジ”と標準型の差異を並べて見た。左:D51 61[尻] 初期グループの半流線形、1~85、91~100の95両がいた。右:D51 164[戸] 給水温メ器を煙突前に置いた、“デゴイチ”の代名詞、日本の蒸機の代表的スタイル。これ以外に戦時タイプの1001~1161の161両がある。両者を比べると、“ナメクジ”は煙室端面にRがあるが、標準型は角型、煙室扉の取っ手は、“ナメクジ”は両側の2個、標準型は片側1個。

続きを読む

 写真展 トークショー行われる!

20日(土)16時から行われたトークショー

祇園「ぎゃらりぃ西利」で開催中の第9回クローバー会写真展「鉄路輝く」も、あと2日を残すのみとなりました。来場者は、この5日間で120名程度でしょうか。決して“大賑わい”と評価するほどの数ではありませんが、その分、来場の皆さんとは、ゆっくりと対話を楽しむことができました。遠来からは、首都圏からわざわざお越しいただいた方も数人、なかには鉄道雑誌の敏腕編集部員にも来ていただきました。

さて、20日(土)16時からは、恒例となった「トークショー」が会場で行われました。16時前から続々と会員が集まり、開始時には14名、そのあと、途中入場、終わってからの来場も含めて、計18名が集まりました。遠く、四国は香川県から、愛知県、兵庫県からも来場をいただき、皆さんで写真にまつわる、自慢話、失敗談、あの話この話で大いに盛り上がりを見せました。

トークショーを前に参加者が続々と来場

さっそく、あちこちで話が盛り上がる

撮影者でないと語れない興味深い話が惜しげもなく披露された。

開始前に記念撮影、その後も途中入場者も含めて18名が来場、その場にいた出品者全員から、ありがたい話を聞くことができた。

 “ナメクジ”に 魅せられる  (5)

旅客列車を牽く“ナメクジ”

昨日からクローバー会写真展「鉄路輝く」が開かれています。私も初日から受付をさせてもらいましたが、東京、京都、大阪から著名な鉄道ファンや、デジ青でお馴染みのコメンテーターの皆さんに来場いただきました。3年半ぶりに行われた写真展では、同席した会員相互の親睦だけでなく、外部の皆さんとも交流できるのは、何より写真展の魅力です。来場者との話は、デジ青にも及び、やはりクローバー会活動の源泉を担っていることも再認識しました。

さて、“ナメクジ”のこと進めます。これからは、客貨列車を牽く“ナメクジ”を見て行きます。改めて“ナメクジ”の地域別の配置を調べてみました。昭和42年(55年前)の配置を見ますと、“ナメクジ”95両のうち、廃車になったのは4両だけ、なんと91両が現役で走っていたのです。地域別にみると、北海道33両、東北30両、中部・近畿13両、九州15両となり、北海道・東北で大半を占めています。なぜ、こんな偏りがあるのでしょうか。考えられるものとして、“ナメクジ”製造直後の配置には北海道が多く、その後も道内を転々として、海を渡らなければならない北海道では蒸機も封じ込めの例があったこと、“ナメクジ”は構造上、集煙装置を取り付けられず、北海道には集煙装置の使用線区が無かったことなどが挙げられます。ただ、貨物を牽く“ナメクジ”は多く撮ったものの、旅客列車に限定すると極めて少数です。

雪に覆われたニセコ・アンヌプリを背景に上目名の勾配を上がって行くD51 64[長] C62重連「ていね」「ニセコ」の先頭が時々D51に差し替えられてガックリきたと聞くことがある。それがもし“ナメクジ”だったら、C622先頭より価値があっただろう(上目名~目名、昭和46年3月)。

続きを読む

 “ナメクジ”に 魅せられる  (4)

これも“ナメクジ” 変形機のいろいろ

“ナメクジ”95両のうち、ほかとは異なる外観をした機体もいました。前号の長鉄式デフの95号も含まれるかもしれませんが、今回は、デフなしナメクジと、標準型になったナメクジという珍品です。

吹田第一機関区のデフなしナメクジ、D51 78 吹田一区のD51の役目は、おもに吹田操車場での入換え。付近を電車で通ると、はてしなく広がる操車場のあちこちにD51の煙が立ち上っていたものだ。何十両も連結した貨車編成を、ハンプへ押し上げて突放し、係員がデッキに飛び乗り、前後動を繰り返していた。係員の立ち位置の確保と見通しを良くするため、思い切ってデフを取り去ったもの(梅小路、昭和41年10月)。

 

続きを読む

 “ナメクジ”に 魅せられる  (3)

形式写真を見直す

先般の鉄道ピクトリアル「D51」特集で、改めて思ったのは、形式写真の美しさでした。小さいころ、車両だけをきっちり写した形式写真にも憧れを持ちました。ピク蒸機特集に載った、形式写真の第一人者、西尾克三郎さんの写真を飽かずに眺めたものでした。自分でも形式写真を撮りたいと思うようになり、フィルム現像を覚えたり、ブロニー判のカメラを買ったりしたものでした。周囲に邪魔がなく、ロッドが降りて、下回りにも光線が当たり、公式側を3:7あたりで撮った、形式写真の条件を満たす写真の美しさを改めて思ったものでした。こんな好条件で撮れるのは、万にひとつぐらいですが、それだけに、近い条件で撮れた時の喜びは大きく、現在では、個人レベルで、現業部門で形式写真を撮ることなど、不可能になっただけに、余計にその価値を感じます。

▲ D51 25[福] 近くの山陰本線にも“ナメクジ”がいた。福知山機関区にD5125、D5166の2両がいて、貨物を牽いている姿が見られた。66号は米手さんもコメント欄に寄せていただいた。もう1両の25号は、で、正面に形式入りナンバープレートを付けた白眉の“ナメクジ”。「形式D51」と小さく入るだけで、なんとも格が上がったように見える。私の写した“ナメクジ”のなかで、形式入りはあと1両、出水区のD5194だけだった。梅小路区に配置の時代もあり、その時は東海道本線で貨物を牽いていた(福知山区、昭和42年10月)。

続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑥

昭和45(1970)年8月13日 ポールからパンタへ

“ほぼ”シリーズに戻ります。開業以来、ポールで走っていた京阪大津線(京津線・石坂線)の電車が、いっせいにパンタ化されることになり、その最期の姿を写すため、この日、大谷と浜大津へ向かいました。同線にいた80、260、300、350形は、パンタの準備工事が進められ、8月22日から全車パンタとなります。ただ一両生き残った「びわこ」号63号には、もともとパンタ・ポール両方が付いていて、そのまま可能かと思われましたが、同時に行われたATS工事から除外され、唯一廃車となりました。

最後のポール姿を見せて、80形が浜大津の交差点を曲がって行く。浜大津では前年の秋に江若鉄道が廃止になっていて、ターミナルの再開発工事が始まったばかり。まだ夏休みの最中で、琵琶湖の水泳帰りの客で電車も超満員で発車して行く。周りもバスだらけで、右端の近江バス(?)の後部行き先窓には「急行 木之本」と出ている。木之本と言えば、琵琶湖の反対側だ。こんな長距離のバスが走っていたとは驚き。

続きを読む

 “ナメクジ”に 魅せられる  (2)

(2) 一桁ナンバーの潔さ

D51の製造番号は、ほとんどが3桁、または4桁です。形式の51も入れると、5桁、6桁の数字がナンバープレートに並び、ちょっと煩雑な印象です。ところが、この“ナメクジ”、なかでも1~9の一桁番号のナンバプレートは、何ともコンパクトでシンプル、その潔さに魅せられます。私は、1~9の一桁ナンバーのうち、滝川区で撮り逃がした3号機を除いて、写真に収めることができました。

常紋越えで25‰勾配に挑み、迫り来る一桁ナンバー機 D51 6 大きな煙室に、小さいナンバープレート、これが正面から見る、D51若番機の魅力。

続きを読む

 “ナメクジ”に 魅せられる  ⑴

ナメクジと言っても、少し前にネットニュースを賑わした餃子チェーン店のナメクジ騒ぎではありませんよ。ご存じのとおり、D51蒸気機関車の一次形、愛称“ナメクジ”のことです。

蒸気機関車の代名詞ともいうべきD51は、1936年から9年間で1115両が製造され、単一形式としては最多数となる蒸機だが、初期グループ(1~85、91~100)の95両は、給水温メ器を煙突の後方の缶胴の上に置き、煙突から、砂箱、蒸気溜までを一体のカバーで覆う半流線型で、“ナメクジ”の愛称が古くから定着している(筑豊本線中間付近、昭和44年3月)。

続きを読む

 07 41を探せ!  ここにもクローバー会の協力が

令和3年度の重要文化財に九州鉄道記念館で展示されているキハ07 41(写真:左)が指定された。私も10年以上前に同館を訪れて再会している。現役の415系電車の横に展示され、車内にも立ち入ることができて、現役時代、豊後森で0741の発車を見送ったことを思い出していた。

お蔵入りのネタで恐縮ですが、ちょっとお付き合いを。このたびの重文指定のキハ07 41は、昭和12年製の機械式気動車で、戦後、豊後森機関区にあって宮原線(昭和59年、26.6km廃止)で使用され、昭和44年に廃車後、そのあとは九州鉄道記念館で開館当初から展示されています。車体や内装の多くに製造時の姿をとどめ、昭和初期の旅客車の現存例として重要であると評価されました。気動車としては初の指定で、九州に所在する鉄道車両としても初めです。キハ0741の重文指定を記念した鉄道雑誌では、キーとなる写真にクローバー会のネットワークが、またまた発揮されることに‥‥。

続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑤

昭和47(1972)年8月5日 野上電鉄「連絡口」へ

ちょうど50年前の同月同日、野上電鉄を訪問しています。廃止されたのは、平成6(1994)年のことで、廃止間際にも何度か訪れていますが、初めての訪問は、この日でした。御坊臨港鉄道と掛け持ちの訪問で、野上の乗車は叶わず、国鉄紀勢本線の海南駅の裏にある「連絡口」付近のみでした。末期の野上電鉄は、モノも心も荒廃して、良い印象は残っていませんが、この時代は、家族ぐるみで鉄道を利用する、良き昭和のシーンが見られました。「連絡口」に到着する野上電鉄104+25 よく知られているように「連絡口」は正式な駅ではなく、約100m離れている終点の日方駅の構内にある別ホーム扱いで、日方駅とは運賃同一の扱いだった。近鉄の八木西口と大和八木の関係と同じである。国鉄紀勢本線の海南駅の裏口に当たり、国鉄から下車して野上に乗り換える乗客で、ホームは賑わい、電車も2両だった。

続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ④

昭和44(1969)年7月29日 真夏の宮津線・加悦鉄道合宿 (2)

風の通らない蒸し風呂のようなテントになかで、朦朧としながら、朝を迎えました。昨日は暗くてよく分からなかったものの、加悦駅の構内で寝たはずなのに、明るくなって周囲を見てみると、田んぼのあぜ道のようなところで寝ていたことが分かりました。参加者全員、もう一泊する気力・体力はなく、全員一致で「解散」を決議、この後の行動は、各自に一任となりました。

朝の加悦駅構内、転車台に乗った2号機、木造単車、DLなどが留置されている。

続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ③

昭和44(1969)年7月28日 真夏の宮津線、加悦鉄道合宿 (1)

われわれのDRFC時代、“夏の狂化合宿”は、7月、8月の2回に渡って実施していました。7月は近距離のところで実施、この年は、7月28日から、二泊三日で宮津線、加悦鉄道で行われる予定でした。ところが、あまりの炎天下、劣悪な合宿環境に耐え切れず、参加者全員が一泊しただけで途中で敗走するという、前代未聞の過酷な合宿になりました。

とにかく暑かったこと以外に、合宿参加メンバーも記憶がなく、思い出も残っていない。ただ会誌には参加記が残っていて、すこし様子が分かった。第一日目の集合地は西舞鶴で、夏季の水泳シーズンに運転されていた「はしだてビーチ」を撮るのが目的だった。「はしだてビーチ」は、以前にも本欄で紹介したように、寝台急行「音戸」の“ヒルネ”間合い利用で、編成のうち7両を座席に転換して、京都~天橋立で臨時急行として、昭和42年から運転されていた。「涼しい列車で水のきれいな日本海へ」がウリだった。西舞鶴からは、全国でもここだけの9600先頭の急行列車となる。

続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ②

昭和45(1970)年7月24日 最後の「びわこ」を撮る

京阪大津線を走っていた「びわこ」号60形のうち最後まで残った63号が、大津線全車のパンタ化により、引退することになり、この日、記念の貸切電車が京津線、石坂線で運転されました。日本最初の連接車、昭和9年にデビューし、天満橋~浜大津での活躍を始め、数々の伝説を残してきた「びわこ」60形61~63でした。しかし、次第に活動の場が狭められ、62号が昭和42年12月、61号が昭和43年12月に廃車になり、残るは63号のみになっていました。この1両も、ポール集電(スライダー式)からパンタ集電に改められるのを機に廃車されることになりました。この日は、鉄道友の会の貸切電車として、久しぶりに京津線、石坂線を走ることになったもの、夏休み期間中でBOXでの情報交換も得られない時期でしたが、例によって大西顧問から、詳細な情報を入手し、まずは三条通で待ち構えました。蹴上を通過して、専用軌道へ入って行く臨時の「びわこ」63号、当日は、錦織13:52→(回送)14:33三条14:40→15:05浜大津15:08→15:33三条15:40→16:16(回送)錦織のダイヤで運転された。 続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①

「50年前の同月同日シリーズ」をことし冬に投稿しましたが、予想どおり途中で挫折してしまいました。やはり「50年後の同じ日に投稿する」制限を加えると、その価値は認めるものの、書き手としては、相当な重荷となって、いつの間にやら中断してしまいます。考えるに、48年前であろうと53年前であろうと、今となっては大した問題ではなく、毎日更新をウリとする“デジ青”で価値があるのは「同月同日」の部分だと分かりました。そこで「ほぼ50年前」と看板を改めて、少し気分をラクにして「同月同日」シリーズを適宜、載せて行きます。

昭和43(1968)年7月22日 灼熱のなかの大阪市電

京都市電はあれほど撮っているのに、近くの大阪や神戸の市電はほとんど撮っていません。駅ターミナルへ行くことはあっても、市電が走っている街なかへ出掛けることもありませんでした。それが大阪万博を前に、市電がつぎつぎに廃止されて、他所の街ながら、気がかりになって来ました。

この日の本来の目的は、城東貨物線の蛇草信号場へD52を撮りに行くことで、初めて大阪のミナミへ足を踏み入れて、「天王寺西門前」へ来た。市電上町線が走る谷町筋と、市電天王寺線の走る国道25号線が交差するところで、現在の「四天王寺前」交差点である。写真は、交差点東北から、上町線を見たところ、この左手奥が阿部野橋(天王寺駅前)となる。左手には、信号塔のあるのが分かる。ここで、阿部野橋発の1号系統が大国町・四ツ橋筋へ向かって左折するため設けられている。谷町筋はこの直後に倍以上に拡幅され、今では全く面影は残っていないが、「エコー歌謡学院」という看板が見える。ここは、松山恵子や藤島武雄を生み育てた、大阪の名門の歌謡学院だったそうな。

続きを読む

JR四国の主要列車を撮影 ~駅撮り一時間 現代版②

鬼無駅で駅撮り一時間半

JR四国6000系2編成を撮影した予讃線鬼無駅で、その前後、停車・通過する列車を撮影しました。その一時間半の成果を見ていただきます。時刻は8時から9時30分まで、朝の時間帯とあって、高松へ向かうJR四国の代表的な列車が通って行きます。

予讃線で高松から二つ駅の鬼無駅、つぎつぎに列車がやって来る。最もポピュラーなのが普通列車、7200系の2連。6000系も含めて約10分ヘッドでやって来る。国鉄時代の四国初の電車121系を完全リニューアルした。鬼無駅は、複線の対向式ホームで、何の変哲もない構造だが、この時間なら珍しく順光で撮れる。背後にある讃岐地方独特の円錐形の山もアクセント、手前の家や広告さえなければ、言うことなし。

続きを読む

 大好き JR四国6000系 ~駅撮り一時間 現代版①

夏が来ても、遠出ができず、家に籠ったままの生活が続いています。つい思い出すのは、直近に行った旅のことです。クローバー会で行った四国〈多度津・琴平ツアー〉から二ヵ月近くで経ちますが、同じ目的を持った仲間と旅することの楽しさを再認識しました。集合前の朝に、ぶんしゅうさんとともに、小さな駅に降り立って、ホーム端から高松へ向かう列車をつぎつぎに撮影しました。JR四国の列車写真を短時間でこれほど撮ったのは初めてでした。なかでも、前から憧れていた、JR四国6000系電車を全編成(と言っても2編成だけ)撮れたのは大きな収穫でした。

211系顔をしたJR四国の6000系、この顔はJR各社にさまざまな形式があって、端正な顔立ちで最後の国鉄型電車スタイルを確立した。なかでも6000系の高松方は、「前パン」になっていて、その魅力を倍加している。後部には右のように7000系のTc車7100を併結した4両編成となっている。 伊予西条発高松行き114M快速「サンポート」 6001-6201-6101+7108 予讃線鬼無

続きを読む