昭和47(1972)年8月5日 野上電鉄「連絡口」へ
ちょうど50年前の同月同日、野上電鉄を訪問しています。廃止されたのは、平成6(1994)年のことで、廃止間際にも何度か訪れていますが、初めての訪問は、この日でした。御坊臨港鉄道と掛け持ちの訪問で、野上の乗車は叶わず、国鉄紀勢本線の海南駅の裏にある「連絡口」付近のみでした。末期の野上電鉄は、モノも心も荒廃して、良い印象は残っていませんが、この時代は、家族ぐるみで鉄道を利用する、良き昭和のシーンが見られました。▲「連絡口」に到着する野上電鉄104+25 よく知られているように「連絡口」は正式な駅ではなく、約100m離れている終点の日方駅の構内にある別ホーム扱いで、日方駅とは運賃同一の扱いだった。近鉄の八木西口と大和八木の関係と同じである。国鉄紀勢本線の海南駅の裏口に当たり、国鉄から下車して野上に乗り換える乗客で、ホームは賑わい、電車も2両だった。
▲歴史をたどると、鉄道の敷設は、野上のほうが早く、大正5年に日方~紀伊野上が野上軽便鉄道として開業した。和歌山方面へはすぐ近くから、のちの南海和歌山軌道線が連絡していた。国鉄が紀勢西線として海南に通じたのは大正13年のことで、「連絡口」はその後に設けられた。
▲駅名標は、よく見ると「日方」となるべきところ、同一駅を主張するためか貼り紙がされている。「連絡口」での乗降は、国鉄~野上の乗り換え客に限定されていたが、便宜的に、国鉄海南駅の裏口として、国鉄からの下車も黙認されていた。駅員もいたことが分かる。
▲終点の日方駅は約100m先、国鉄海南駅との連絡は、正規の徒歩ルートだと、遠回りになるため、「連絡口」の設置は、乗換客にとっては便利だった。
▲日方から連絡口にかけては車庫になっていて、多くの電車が留置されていた。廃止後は駅、車庫付近は今でも更地になっている。海南駅は高架化されて一新されたのとは対照的。
▲手前は元阪神701形のモハ25 ▲▲“喫茶店”阪神861形のモハ52も健在、塗装は緑に黄帯で、廃止時の塗装とは異なる。▲昭和初期の海南駅付近。中央の「ちまたかひ」(日方町)は、国鉄海南駅の旧駅名、昭和11年に「海南」に改称された。右手、山手から来た野上電鉄線が、日方の中心部に終点を設けた。すぐ左に海岸沿いを向かう、その後の南海和歌山軌道線があり、和歌山方面への接続を図っていた。国鉄(当時は紀勢西線)は、そのあと両線を分断するようにして開通する。
のどかだった時代の野上電鉄を楽しませていただきました。たしかこの頃だったと思うのですが、「鉄道ファン」誌に野上電鉄がカラーで紹介されたことがありました。「へぇ~、こんな電車が走ってるんや。そやけど、えらいぼろい電車やな~。」というのが、当時SL少年だった私の偽らざる印象でした。ところが廃線前になって、慌てて何度も通う羽目になるとは、想像もできませんでした。
連絡口からの乗り換え客も多く、鉄道線を廃止してバスに転換する構想があったとは考えられません。
電車を待つたくさんの親子連れ、傍らの荷物、駅名標にあるジャスコ海南、鉄道が地域の住民と密接な関係にあったことがうかがえます。電車が行った後、ホームに一人残った駅員の姿も良い雰囲気ですねえ。
私は車庫に並ぶ電車を撮りたくて、連絡口を一度だけ利用しました。廃線一年前の1993年、他に同業者の姿はなく、のんびり撮影を楽しめました。
紫の1863さま
私も「鉄道ファン」で野上のことを見た記憶がありますょ。これを見て訪れたのかも知れません。現地に着くと、車両、設備とも整備が行き届いておらず、地方私鉄の苦しさを感じましたが、乗客そのものは、結構の賑わいがあったことを写真からも感じます。また1863さんも指摘されていますが、ホームには、大きな手小荷物があり、これから客室に積み込むのでしょう。旅客だけでなく、貨物も、国鉄と私鉄で、きめ細かな連絡輸送を担っていたことが分かります。
海南は父方の実家があり文中の地図にあるお寺に今でも先祖の墓があるため毎年4回程度は行っています。
子供の頃は国道42号線に南海の軌道線があり野上電鉄もあり賑わっていましたが紀勢本線も高架になり駅前もすっかり寂れてしまいました。
軌道線や野上電鉄の面影も殆どなくなり非常に残念です。
画像からはにぎわっていた頃の盛夏の様子がよくわかります。
子供の頃祖父に連れられて野上電鉄に乗って仕事について行ったこともありました。
特に夏休みは長い間海南の実家に行っていたので印象に残っています。ただ写真はあまり撮っておらずこの画像の恐らく2年後に撮影したものが一番古いと思いますのでアップしておきます。
2年前と同じ場所に同じ車輌が留置されているように思います。
古い塗装はこのときにこの車輌のみ撮影しています。
今年も近々墓参りに行く予定です。
懐かしい思い出を見せて頂きました。
893-2さま
ご先祖さまの墓地があること、初めて知りました。海南駅周辺の変遷もよくご存じなのですね、貴重なカラーもありがとうございます。私も野上の廃止後に、一度、海南駅に降りたことがあります。高架で立派な駅舎になりましたが、駅が広い分、人の少なさを余計に感じました。グーグルの航空写真で見ても、野上の跡地はまだ更地のままでした。墓参りの際、また周辺に変化があれば、お聞かせください。
遅ればせながら、長老様撮影の記録を数枚貼らせて頂きます。
最初は駅前風景です。
米手さま
沖中さんも、電車好きの仲間と一緒に何度か野上へ行っておられました。私も預かった何枚かの写真があります。この写真は、国鉄海南駅側から、「連絡口」を見たところですね。私はこの角度の写真は撮っていませんから、貴重な記録です。沖中さんは、車両だけでなく、周辺の環境にまで撮影されて、今さらながら感心しています。
国鉄からの連絡通路を照らす照明に、電車の前照灯が使われていたのですね。昭和30年代の写真を見ると、車庫の入り口上部に電車の前照灯がありました。通路は仮設のようにも見え、廃線直前の撮影のように思います。
次は車庫遠景です。通称「喫茶店」も写っています。
最後は11号です。撮影日は1992年12月22日となっています。
日方は面白い所で、最近は2006年に行き泊まっています。
この写真は川の舟入りで、地図の野上電鉄の終点を左に進むと2つの川が合流する辺りです。
野上電鉄時代に4度ほど。後は和歌山市内線の跡も歩いてみました。
海南駅前には新町湯という戦前建築の銭湯も残っていましたが無くなりました。
この辺りの土地と、幸福銀行グループを作った山林王の頴川一族との繫がりとか、興味深い歴史もいろいろあります。
今日はコメントを書いていて、日方は干潟から来ているのかと、想像をしました。
こんなに日方と縁が深いKH生さんとは知りませんでした。日方は、“干潟”からの転化、納得できます。添付しました戦前地図を見ると、大きな「養魚池」があるのですね。潟を区切って池にしたのでしょうか。いま海岸線はずっと西ですが、駅のすぐ近くまで海があったことも分かります。
昭和50年8月24日、連絡口、モハ26(車体は元阪神710)です。
昭和46年10月31日、登山口、モハ32(車体は元阪神1150)です。
昭和50年8月24日、日方、モハ23(車体は元阪急1形26)です。
昭和50年8月24日、日方、モハ24(車体は元阪神604)です。
昭和46年10月31.日、日方、モハ51(元阪神869)です。
昭和50年8月24日、日方、元富山地方鉄道デ5035です。改造後デ12になりました。
デ12になる5035はずいぶん早く野上に来ていたのですね。ステップが除去されただけで、印象がすっかり変わったように思います。
私は最晩年しか知りませんが、日中はデ11・13が単行で行き来するだけで、デ12はいつも車庫で休んでいました。
車内は雪国育ちの電車らしく、床は板張りでした。