07 41を探せ!  ここにもクローバー会の協力が

令和3年度の重要文化財に九州鉄道記念館で展示されているキハ07 41(写真:左)が指定された。私も10年以上前に同館を訪れて再会している。現役の415系電車の横に展示され、車内にも立ち入ることができて、現役時代、豊後森で0741の発車を見送ったことを思い出していた。

お蔵入りのネタで恐縮ですが、ちょっとお付き合いを。このたびの重文指定のキハ07 41は、昭和12年製の機械式気動車で、戦後、豊後森機関区にあって宮原線(昭和59年、26.6km廃止)で使用され、昭和44年に廃車後、そのあとは九州鉄道記念館で開館当初から展示されています。車体や内装の多くに製造時の姿をとどめ、昭和初期の旅客車の現存例として重要であると評価されました。気動車としては初の指定で、九州に所在する鉄道車両としても初めです。キハ0741の重文指定を記念した鉄道雑誌では、キーとなる写真にクローバー会のネットワークが、またまた発揮されることに‥‥。

指定を受けた鉄道車両について、資料や記録を誌面に残すことに熱心に取り組んでおられるのが鉄道雑誌「レイル」です。過去に指定された、鉄道省230形、東京地下鉄道1001号電車、鉄道院ナデ614、鉄道省ED4010、ED16、蒸気動車ホジ6014などの特集記事を組んで、写真・資料を展開されています。

記憶に新しいところでは、平成31年に指定された、京都・平安神宮の神苑に展示の京都市電N2号も同様で、取材・調査で何度も京都へ足を運ばれて来ました。「レイル」116号は“N電”三昧となり、名誉ある「鉄道友の会 島秀雄優秀著作賞」も受賞しています。指定されたN2号は、北野線廃止の前年に廃車になっていて、編集部は、現役時代の写真を探すのに苦労されましたが、米手さんのお蔭で、現役時代の写真を巻頭に飾ることができました。その経過については、下記の記事にも記しています。

京都市電北野線に寄せて(3) まるごと特集「レイル」発売 | DRFC-OB デジタル青信号

キハ07は戦前製の0番代、戦後製の100番代、液体式改造の200番代の3区分がある。半円形の07顔は、われわれの時代はよく見た記憶があるのだが、それは、江若などの非電化の私鉄のことで、国鉄に限定すると、私も極めて少なく、木次と豊後森で見ただけ。豊後森機関区には、0番代としては最後の41~43の3両がいた。

今回のキハ07 41でも、「レイル」で特集を組むことになりました。ところが、「宮原線の起点である豊後森へは,久大本線のD60や8620を求めて多くのファンが通い詰めているのだけれど,いざ宮原線のキハ07と話を切り出しても、いやいや,あそこはC11だったからと,足を踏み入れた人の,なんと少なかったことか」と、編集担当のMさんがブログに吐露されているように、特定の1両を見つける苦労が続きました。そんな時、Mさんの頭に閃いたのは、“困ったときのクローバー会頼み”の格言(?)だったのです。

重文指定のキハ07 41の現役時代、宮原線は、土曜日以外は朝夕のみの運転で、豊後森区でD60に囲まれて余生を送っているのを私も撮っていた。例のビネガー状態で、毎日1時間ずつ、1週間かけて修整に勤しんだ。掲載はされたものの、Mさんの要求はきびしく、「止まってたらアカン、宮原線で走ってるとこや」。困り果てて、恐る恐る準特急さんにお伺いを立ててみた。なんと、「後ろ姿やけど撮ってんでぇ」という朗報が。

なんと、撮られたのは昭和42年の夏、狂化合宿が行われた宮原線の麻生釣と言うではありませんか。宮原線らしい草原のなかを走り去るキハ0741が見事に捉えられています。私は高校3年生の時で、DRFC入会時に無理やり買わされた「青信号19号」に旅行記が載っていて、あまりの面白さに、今後DRFC4年間の充実を確信した記事でした。前掲のブログには、「準特急さん(実際は実名)をはじめとする,同志社大学鉄道同好会OB会の皆さんには,大いにお世話になった」と結ばれています。前回のN電2号、今回のキハ0741と言い、クローバー会のネットワーク、趣味資産が遺憾なく発揮されて誌面を飾ったのです。Mさんは、西のほうに絶対に足を向けて寝ないと言っておられます。

「レイル」122号

クローバー会では、ほかにも、西村さんから厳冬の名寄線のキハ07が寄せられたほか、山科の人間国宝さんの貴重な昭和30年代のキハ07が満載、私の保管しているNさんの美しい写真も載せることができた。記事には専門家による、重文の意義についても解説がされている。

 

オマケで、木次線で撮ったキハ07も。訪れた昭和42年は、木次に2両、米子に1両のキハ07がいて、いずれも液体式の200番代、強力型のキハ52への移行期で、木次駅に到着したのはキハ07+キハ52の編成だった。

木次機関区のキハ07とC56、こちらのキハ07 213は金太郎塗り。初めてフィルム現像をした時のもので、増感用のコニドールスーパーを、夏なのに冷やしもせず原液のまま現像したと言う無謀ぶりなうえ、その後にビネガーに襲われ、掲載はすっかり諦めていたが、デジタル技術のお蔭で、A4見開きでもなんとか見られるようになった。

 07 41を探せ!  ここにもクローバー会の協力が」への23件のフィードバック

  1. お早うございます。
    キハ0741との遭遇は高校3年時、受験勉強を放り出して突然、宮原線に乗ろうと宝泉寺まで行き、友人1人と歩いてキャンプ場を目差したものの辿り着けずに、山の中で野宿して、翌朝また宝泉寺まで歩いて戻り、1日に1回だけの宝泉寺の列車交換を見て、豊後森に戻る車中で機関庫の中に眠るキハ07を目撃。
    わが眼を疑いましたが、駅を出て何とか撮影しようと、ひと気の無い機関庫の裏から撮影が出来、現車を確認してびっくりしました。
    昭和52年の8月です。なぜ1両を残していたのでしょう。
    しかし鹿児島交通のキハ100型など、07系は私鉄線路上ではまだいくらでも普通に見られた時代でした。

    • KH生さま
      高校生時代の思い出、ありがとうございます。法泉寺での交換、改めて見ると朝の7:23に上下が交換していたのですね。すると、0743を事故で失くしてから、予備なしの2両で回していたことになりますね。検査の時は、大分からキハ20を回したのでしょうか。
      0741ですが、唯一の機械式のため、明確な保存意思はなかったものの、放置状態で保管していたと思います。

      • これが朝の宝泉寺で見られた唯一の列車交換シーンです。
        この時代はキハ20に代わって10年近く経っていました。
        森区の配属車両は最小限でしたが、大分から直通の客レも朝夕にあり、1両を小倉工場に入場させる時と同じように定期貨物か、客車の後端に繋いで大分区の両運のキハ20を代用したのではないでしょうか。キハ10、11は大分にはおらず直方にいましたが、閑散線区の単行運転は島内では勝田線とここくらいでした。(昭和52年8月 宝泉寺)

  2. 和歌山には北から南海貴志川線(現和歌山電鐵)、和歌山軌道線、野上電鉄、有田鉄道、御坊臨港鉄道とバラエティに富んだ私鉄がありました。
    有田鉄道は母方の実家が湯浅にあったため子供の頃は休みになる度に海南とセットで長期帰省していました。有田鉄道はその昔湯浅港まで路線があった関係で湯浅まで一日数本乗り入れしており湯浅駅で何度も見かけております。最後まで外見は結構原型を保っており好きな車輌でした。趣旨から外れるかもしれませんが画像も添付します。

    • 893-2さま
      貴重なカラー写真、ありがとうございます。海南だけでなく、有田にもご親戚がおられたとのこと、私鉄乗り歩きにはピッタリですね。有田の07は私も乗ったことがありますが、外観上は、窓上にもオレンジ帯があり、国鉄07よりも引き締まって見えました。

  3. 特派員氏が述べておられる通り「レイル」122号には、興部駅で何気なく撮ったキハ07210の写真を採用して頂き、喜んでいます。改めて同誌を眺めなおしていましたら、P.41に宮原線の踏切で横倒しになったキハ07の写真が目にとまりました。はて、どこかで同じような写真を見たような?・・・と思い、探したところ見つかりました。何と江若鉄道でした。日時、場所まで調べていませんが、宮原線の事故とよく似た状況です。「レイル」誌のM里氏はご存知でしたか?

    • 改めて本誌41pの宮原線でキハ0743の転覆事故の記事を見て驚きました。事故は昭和42年4月7日に起こったとのこと、なんと私は、その2日前の昭和42年4月5日に豊後森区で写していました。キハ0743の現役時代最後(?)の写真かもしれません。そのあと、宮原線のキハ07は、使用1両、予備1両で回していたわけです。
      たしかに江若と宮原線、似ていますね。

    • 西村様
      この江若の写真、私も見たような記憶があるのですが、出典がよくわかりません。編集部のMさんが、たいへん気にされています。

  4. 総本家青信号特派員様
    似たような事故があるのですね。キハ07に特有の何かがあるのか疑いますね。さて、キハ0741ですが、1967.8.26麻生釣駅で正面向きに停車中の姿です。この時の狂化合宿で現在もデジ青でご活躍されているのはマルーンさん、ぶんしゅう旅日記さんです。尚、この時にテントに蛇が入ってはきませんでしたが、近くで水浴した時の水の冷たさはよく覚えています。

    • 懐かしいですね!今は無き宮原線麻生釣駅。
      何にもない所でのキャンプとカレーを思い出します。
      ぶんしゅうさんが2010年5月22日にデジ青に「桜前線追っかけ2010年part6 宮原線」として廃線跡のレポートがあります。なんとその中に思い出深い狂化合宿の3葉が載せられています。
      若かりし面々、本当に懐かしいですよ!
      キハ07の前での写真は車番が写っていませんが、これが41なんですね!
      豊後森駅舎前での準特急さんが学帽ヲ被っての笑顔
      素敵ですね!

    • 本文にも書きましたが、私はまだ高校3年生の時でした。入会後に「青信号」を読んで、とにかく楽しそうな合宿だったことが印象に残っています。本誌ではキハ07後部でしたが、到着の正面も撮っておられたのですか、さすがに、しっかり記録されています。

      • 「レイル」MさんはDRFCの会合にお出でいただいたことがありますし、いつもデジ青を見ておられ親しくお付き合いさせていただいております。麻生釣は駅の周囲に民家などなくてホームから撮り放題であったと記憶しておりますが、当時はキハ0741が重文になると思ってもおらず、現地にやってきたキハ20もC11もそれにキハ0741も撮影に気合が入りませんでした。

  5. マルーン様
    コロナや熱中症警戒の中、今日は猛暑年間回数新記録でやってられない感じです。我々の若いころは昼間暑くても朝夕はそれなりに涼しかったのではないでしょうか。阿蘇釣高原は昼でも涼しかったような気がします。懐かしいコメントをいただき有難うございます。ピンボケですが、あの日に走った麻生釣のわき役C11191です。

  6. 小生も九州鉄道記念館で、この07 41を見学したことがあります。しかし、総本家青信号特派員様と同じく、国鉄線上で見たのは2回きり、それも営業中のところを見たのは、1回こっきりで、最初が最後と云う訳でした。ひどい写真で恐縮ですが、この写真がその時撮ったもの。何せ小学校6年で林間学校へ向かう途中のことだったので、ご勘弁下さい。場所は甲府と韮崎の間で調べてみると、どうやら塩崎のようです。子供ながら中央本線で、こんなんが1輌だけで走ってるとは?!、とビックリしました。撮影は、昭和38(1963)年7月。

    • 宮崎繁幹様
      小学6年生のときの撮影とは驚きました。中央東線のキハ07単行も貴重ですが、右手の客車はノーシル、ノーヘッダーのように見えます。一体何者でしょう。オハ30にノーシル、ノーヘッダーがいたような・・・?

  7. 連投お許し下さい。2度目は米子で、大学受験で鉄道趣味を1年封印、漸く進学出来たので、活動再開。あぁそれなのに、遥々やって来た米子では、キハ07は既にお役御免になり、ヤードでほっぽらかしになって居りました。と云う訳で、特派員様のような、新型気動車との併結は記録することができませんでした。撮影は、昭和45(1970)年3月24日です。

    • 宮崎様
      貴重な写真の数々、ありがとうございます。米子に留置されているのは、キハ52と交代した、液体式の07ですね。私も木次で同じようなシーンを見ています。この時は、機械式の廃車群で、木次線は、液体式の07と強力型のキハ52になっていました。

  8. 「西に足を向けて寝られない」Mさんから連絡がありました。奥様にこの件を言うと「あなたは、四方八方お世話になっている人がいるから立って寝ないとダメ」と言われ、さらに「地球の裏側にもお世話になっている人がいるから、宙に浮かんで回って寝ないとダメ」と諭されたそうです。いかにも幅広い人脈をお持ちのMさんらしい会話、ご本人、快諾のうえ(?)紹介します。

  9. 総本家青信号特派員様のおっしゃる通り、米子ヤードの3輌は、木次線で使用されていた最後の07で、213-215でした。序と云っては何ですが、Gordon Davis氏のカラーで、川越線の記録があるので、お目にかけましょう。最初からDCとして、戦後の昭和27(1952)年に新潟鐵工で製造の42611です。後の改番で、→ キハ07 111→ キハ07 210となりました。溶接構造なので、ノッペリとした感じ(良く云えばスマート)です。

  10. 戦後製キハ07とほぼ同等の設計で昭和27年に一気に6両竣工させた南薩鉄道のキハ100型です。垂れ下がったステップ部が無く路面電車のような収納型のステップがついていました。
    加世田が鹿児島県で3番に大きい町であり、そこから鹿児島市に行く乗客を捌くために近代化の立役者となりました。
    07系は珍しい3ドア気動車で、結構通勤型の電車に近い性格があるように思えます。
    写真の2両目はキユニです。手荷物はホームに置かれていますが、結構需要がありました。(昭和52年3月)

    • 07に準拠したキハ100型の室内です。
      乗り心地は菱枠式のTR29系でお世辞にも「よい」とは思えませんでしたが、伊集院から先の薩摩半島西端を、時に砂浜を見ながら、軽快に走る面白い路線でした。

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