ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑥

昭和45(1970)年8月13日 ポールからパンタへ

“ほぼ”シリーズに戻ります。開業以来、ポールで走っていた京阪大津線(京津線・石坂線)の電車が、いっせいにパンタ化されることになり、その最期の姿を写すため、この日、大谷と浜大津へ向かいました。同線にいた80、260、300、350形は、パンタの準備工事が進められ、8月22日から全車パンタとなります。ただ一両生き残った「びわこ」号63号には、もともとパンタ・ポール両方が付いていて、そのまま可能かと思われましたが、同時に行われたATS工事から除外され、唯一廃車となりました。

最後のポール姿を見せて、80形が浜大津の交差点を曲がって行く。浜大津では前年の秋に江若鉄道が廃止になっていて、ターミナルの再開発工事が始まったばかり。まだ夏休みの最中で、琵琶湖の水泳帰りの客で電車も超満員で発車して行く。周りもバスだらけで、右端の近江バス(?)の後部行き先窓には「急行 木之本」と出ている。木之本と言えば、琵琶湖の反対側だ。こんな長距離のバスが走っていたとは驚き。

まず最初に大谷で下車、逢坂山トンネルを出入りするポール電車を撮った。トンネルの前後の旧カーブでポールの離線を防ぐため、車掌が紐を抑えている。左手には、まだ江若の浜大津駅舎がそのままに残っていた。279+264には、パンタも準備済み

浜大津西口前を行く石坂線の358+354、右手には江若鉄道廃止後の代替バスが発着する、仮設のバスのりばができている。ポールを振り上げて浜大津を行く80形もまもなく見られなくなる。自動車、バイク、通行人と、今と較べて、夕方の浜大津は実に賑やか。浜大津で写していると、一年上の(故)澤村達也さんとお会いした。澤村さんも最後のポール電車を撮るために、浜大津へ来られていた。このあと、二人でカキ氷を食べて、あれこれ話に興じたことを覚えている。

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑥」への4件のフィードバック

    • 80形の新製直後ではないでしょうか。グレーの下回りがキレイに出ていますね。山科築堤からの撮影でしたら、本命は何かほかにあったのでしょうか。

  1. 地元にいながらパンタ化された日を知りませんでした。この年は浪人生活を送っていた時代で、さすがに鉄も封印していました。
    浜大津には当時多くのバスが集まっていました。木之本行き以外にも八日市行きや湖西方面行、最後の併用軌道の写真の電車の奥に見えるバスは三条行でしょう。当時のJRは京都行が1時間に3本程度に対し、京津線は6本、それでも足りなかったのか三条行のバスも頻繁に走っていました。総本家様の写真の反対側から撮ったのがこの写真です。80形はもちろんですが、この特急色の300形も好きでした。

    • 大津の86さんを差し置いて、浜大津の80形を出してしまい、失礼しました。当時の浜大津は、電車以上にバスで賑わっていましたね。たしかに三条京阪や八日市などは見た記憶があるのですが、木之本行きは、たまたま写っていて、初めて知りました。最近、傍系の湖国バスの米原~木ノ本の定期バスが廃止になったとネットニュースに載っていました。

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