マレー国鉄に少しだけ乗ってきました。

昨年、12月9日から12日まで、会社の職場旅行で、マレーシアのペナン島へ行ってまいりました。

一日、自由行動があり、何をしようか迷っていたところ、対岸のBUTTERWORTHまで渡ると、鉄道があることがわかり、早速、海にも入らず「鉄」してきました。

12月10日、ホテルを出て、午前中は、世界遺産にも登録されているジョージタウンを散策。昼過ぎに、対岸に渡るフェリーターミナルへ移動。ターミナル内で、BUTTERWORTH1400発の11列車SINARAN UTARAの切符を購入。行先は、1445着Nibong Tebaiです。プレミアシート(1等)で14マレーシアリンギット(約366円)です。帰りの切符も予約しようとしましたが、すぐ折り返すような行動が理解されず、どうしても売ってくれませんでした。

フェリーで渡ること、約15分。対岸のバタワースに到着。フェリー乗り場近くの駅に移動しますが、駅前には、SLとDLが展示されています。

駅自体は、プレハブの仮設駅です。

ここバタワースからは、クアラルンプールまで、一日2往復(昼行・夜行)。クアラルンプールを経由して、シンガポール近くのウットランズまで1往復(昼行)。バンコクまで1往復(夜行)の列車が発着しています。ここで、無事帰りのNibong Tebai1516発10列車SINARAN UTARAの切符を購入。BUTTERWORTHは、1615着の予定です。帰りは、スーペリアクラスで11マレーシアリンギット(約286円)です。

乗車するBUTTERWORTH1400発の11列車SINARAN UTARAは、機関車26110+ASC2216+ASC2155+ASC2151+ASC2201+AFC1413+ADNS2616+ADNS2640+ADNS2617+ADNA2604+PCC212の8両編成で、ASCは、スーペリア(二等車)。AFCは、プレミア(1等車)。ADNSは、寝台車(開放型二段寝台でオロネ24のような感じです。PCCは、電源車です。車両番号は、車体に書かれておらず、車体中央の水タンクか空気溜めのようなものに書かれており、ほとんどが韓国HUNDAI製です。一日二往復ですので、夜行でクアラルンプールから来たものが、昼行で、クアラルンプールへ折り返すのだと思います。

運転士に身振り手ぶりで、「ジャパンの鉄」であることを伝え、26110機関車運転室に乗り込むことに成功。

最高速度は、120キロのようです。ただ、この機関車の長さが異様に長く、客車と同じくらいの長さです。線路に下りての撮影も、こころよくOKをもらいました。

そののちに、プレミアシートに移動。革張りのシートで一列と二列の配置で、なかなかのものです。

車中では、パン(フジパン製のアンパンかココナッツパン)とミネラルウォーターの配られました。小一時間の旅で、Nibong Tebaiで到着。途中、長大編成のコンテナ列車と何度かすれ違いました。また、、現在は、非電化ですが、電化工事と路盤改良工事たけなわでした。Nibong Tebaiは、一面の駅でこちらも仮設駅で、駅舎は、プレハブです。隣で高架駅の工事がたけなわです。ただ、一日に往復しかない旅客列車のためにこのような工事が必要なのか?甚だ疑問です。

左に見えるのが、高架化した新しい駅です。

帰りの列車は、クアラルンプールを0845に出た列車ですが、約35分遅れて、NibongI Tebaiに到着しました。帰りは、スーぺリアクラスは、二列・二列で、パンなどの配布もありませんでした。パン代だけでも3マレーシアリンギットは、しますので、絶対プレミアがお得です。その上、このスーペリアには、人の他、赤アリが巣を作っているくらい大量に乗車しており、一緒に行った後輩は、うとうとしているうちにTシャツの中にアリが入り込み、体中に刺されておりました。

ということで、少しだけ、マレー国鉄に乗車してきました。

ペナン島に行く機会がありましたら、是非、お勧めします。

白銀、三道嶺、雅満蘇 失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part15 総集編 

今回は、O氏と2人の初冬の大地への失業者二人の旅になりました。一人旅は訪れる地での出会いがあったりでそれなりに楽しいのですが、道連れがあるのは話も弾み楽しく旅をすごせます。特に老人となった今は、ボケることが多くなり注意力が散漫になりますので、何よりも安心感がありました。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part14 帰路

第14・15日目 12月13・14日

① (T76次) →9:16 鄭州 19:43(K284次)→翌6:55上海(18分早点)
②  14日 上海浦東13:10(JL894)→16:15関空
③ 14日 関空(JR)→新大阪→長岡京

▲ 兰州始発の北京西行きのT95次に乗車して郑州で下りました。切符をご覧のように快適な高級軟座寝台(二人1室)です。当日でも空席のある切符ですので、站の切符売場に並んで購入予定でしたが、時間がもったいないとトウさん圣由で依頼しました。手数料は50元と朋友料金で、良心的に対応してくださりました。
O氏は、いつもは時間優先でのんびりと長距離夜行寝台列車には乗っておられなかったので、高級軟臥は初めての経験だそうです。軟臥4人分のスペースを二人で使用しますので、料金も2倍(軟臥下鋪で740元=約9,250円)しますが、トイレ洗面所がついていますので非常に快適です。兰州局の看板列車だけあって、列車乗務員も若くて美女揃いです。兰州から郑州までは、1,187キロ、14時間9分の快適な乗り鉄旅でした。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part13 白銀 その4

第13日目 12月12日  白銀4日目

① 白銀 15:30(チャーター車)→蘭州
② 蘭州1 9:07(T76次) →翌 9:16 鄭州

今日は、
359次撮影後に兰州に向かい夜行列車に乗車して翌日郑州下車、鄭州鉄道日記さんとお会いしてからO氏は北京へ、私は彼と一緒に上海へと向かいます。ご一緒に帰国したいのですが、JAL北京線は関空への直行便はありません。東京圣由だと、午後便では翌日のトランジットとなりますので、上海からの直行便としました。


▲ 今日は土日運休だった三冶錬往復の客車列車が走りますので、両方撮ることにしましたが、7:53三治錬行きの355次は暗くて、ISO3200でも開放で、シャッタースピードは80分の1しか切れません。初めて前照灯を点けて来ました。
357次は、場所を三冶錬よりに変えましたが、こちらも 8:19と日の出前の薄明るい状態で、ISO400の開放で160分の1です。

折り返しも撮った後、貨物は入るのか、SY牽引ではないかと情報収集のために踏切番小屋に行きますと、今日はDL牽引で今ヤードで待機中との連絡が入りました。私はDLでも一応撮っておきたいと近くの丘に向かうことにしましたが、O氏は蒸気以外に興味がないと動かれません。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part12 白銀 その3

第12日目 12月11日 白銀3日目


8:22、朝日が顔を見せる頃に来る1470号機牽引の357次をお立ち台で、9:14の折り返しをDongchanggou站で撮りました。
山間に陽があたるようになりましたので、時間は分からないがいつもは、DL貨物列車が上ってくる事があるので、暇ついでに11時までは待って撮ろうかと、O氏と意見が一致しました。
11時近くになり、そろそろ引き上げようかと話をしていると、踏切番小屋に行っていたトウさんが来られて、昨日DLが故障したので蒸気機関車が来るようですと、思いもかけぬ知らせを持ってきてくださりました。

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part11 白銀 その2

第11日目 12月10日  白銀2日目

今日も夜明け前に目覚めて、いつものように朝食を仕入れて出発しました。7:50白銀新站を出る357次を撮影するには、日の出の関係上、昨日行った深部銅鉱手前の丘に登らなければなりません。


8:19、朝焼けの中、白煙を吹き上げながら1470号機牽引の357次がやって来ました。白銀のハイライトです。撮り終わった後も余韻に痺れました。 続きを読む

失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part10 白銀 その1

第10日目 12月9日

哈密21:04(T296次)→12:10蘭州(20分晩点)
② 蘭州12:21(チャーター車)→13:46白銀

兰州站からはトウさんがチャーターした車に乗って、高速道路を白銀に向かいました。約100キロの道のりです。中国鉄路も通ってはいますが、本線上の白銀西站は、約7キロ離れた街外れにあり、上下各7本だけが停車しています。市内には支線の白銀市站がありますが、朝に上り1本、下りは夕方に1本しか旅客列車は走っていません。所要時間も約3時間と、利用できません。


▲ 兰州は中国全土に知れた牛肉麺発祥の地で、前回に準特急先輩と美味しい麺をいただきました。左のこってりした新疆拌麺とは違って、コクがあるのに透き通ったスープは、日本人好みでもあります。麺の種類は選べますので、平麺を注文しました。トッピングは、焼き豚ならぬ焼き牛肉です

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失業者二人の旅日記  初冬の大地へ Part9 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その3

皆様、明けましておめでとうございます。今年も長文の紀行記を投稿し、お読み疲れ等のご迷惑をおかけいたしておりますが、出来るだけの簡略化を目指しますので、なにとぞご勘弁を賜りたくよろしくお願い申しあげます。

第8日目 12月7日  雅満蘇2日目

もし朝に運行があるのではと7時前には起きました。隣の部屋におられるアイグリさんに昨夜の情報をお聞きしましたが、運行は決まらなかったとの残念な返事です。蒸気機関車の様子を見に行かれたO氏からも止まったままだと確認されました。

それではと、夜間撮影でもするかと三脚を持って、まだ真っ暗闇を出かけました。

夜が明けてからアイグリさんが、事務所に行かれていろいろと聞いていただきましたが、検査員の偉いさんが引き上げるまで運行はないだろうとの返事です。そして、 蒸気機関車の運転手が親しい同じウィグル人です。今日彼は、交代でハミに帰っていくので、その前に単機であれば、フョトランができるように頼んでみますが、がどうでしょうかとの提案がありました。O氏と相談しましたが、もう1日あるので、明日に期待しようとお返事しました。
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年末 大慌ての決算報告(3)

今年は遠方へは行けなかった代わりに、近郊の撮影はよく行きました。住まい近くの東海道本線山崎~長岡京、また嵐電、叡電など、季節ごとに訪れるようにしました。天候や時間帯に応じて、即行動に移せます。地元でお気に入りの撮影地を持つことは、撮影の原点への回帰でもあり、写真のクォリティを高める大きな要素になるとも感じました。
そして、もうひとつ見つけた原点がありました。
自分が楽しければ、それでいいのが趣味活動です。しかし趣味活動の過程で得られた生成物(写真でも、模型でも、調査でも)が、人々の心に何らかの語りかけができれば、それはそれで趣味活動の醍醐味だとも感じました。
それを感じたのは、浜大津での江若復元模型運転会でした。西村さんの緻密な再現力・製作力や、誠実で真摯な対応が、来場者に大きな感動を呼びました。これぞ、趣味活動の着地点であると痛切に感じました。
僭越ながら、昨日までの私の写真展でも、”懐かしい””楽しませてもらいました”のメッセージをいただきました。ただ古いだけの写真が、人の心を癒したとすれば、こんな嬉しいことはありません。大震災でも、泥まみれの写真を復元することが話題になりました。”写真の力”なのですね。
加齢を重ねると、撮っただけでは勿体ない。やはり人様に感じ取っていただく活動も、趣味の大きなテーマだと感じた一年でした。
しかし、過日、王将で餃子を食べながら、準特急さんが思わず述懐された”ワシは外へ出るのが好きなんや。歩くのも大好きなんや”の言葉に、やっぱり写真を撮ることも楽しい、要はインとアウト、そのバランスをよく保ちながら、これから趣味活動を進めたいと思うのでありました(ふぅー、除夜の鐘に間に合った)。

▲屋代線晩秋 ここへ来て私鉄の廃止が各地で取り沙汰されるようになった。長野電鉄屋代線も、来年3月に廃止されることになった。屋代~須坂間の24.4キロ、かつて首都圏から信越本線経由で急行が乗り入れいたのも遠い思い出、いまや単に千曲川右岸の集落を結ぶ使命しかない。乗ってみると、想定外に乗客がいない。90分ヘッドで3500系2連はガラガラだ。最盛期の6分の1以下に減少しているらしい。起死回生の増発などの社会実験も不発に終わったようだ。
人が押し寄せないうちにと、晩秋の信州入りとなった。屋代線の中間にある松代駅は、隣り合う松代城跡が秋色に染まり、木造駅舎とあいまって、実にいい味を出している。ただ、駅前からは、長野駅前へ向かう他社バスが頻発する。長野まで超大回りする電車では全く勝ち目が無い。屋代線は、ほかにも木造駅舎が多い。今まではさして気にも留めなかった木造駅舎だが、とみに気になる存在になった。

▲消えた京福原色 叡電のデオ700系から、京福電鉄時代のデュー時に塗られた、当時の京福福井支社や京都バスと同じ塗色のマルーンとクリームの原色車が消え、新色に塗り替えられた。新色は洛北の自然をイメージしたという、訳ありのカラーのようだが、明るすぎて弱々しい。その点、原色車は電車に相応しい色に思う。八瀬比叡山口、三宅八幡と、私の好きな駅で、最後の1両となった原色車724号は、紅葉の背景によく映えていた。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。
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年末 大慌ての決算報告(2)

「高崎周辺が騒がしい」と以前の掲示板にも投稿がありました。高崎を中心に群馬県下では”群馬デスティネーションキャンペーン”が繰り広げられ、「ぐんまツーデーパスSP」を手に現地を訪れました。9月は多くの鉄道イベントが目白押しで、C61も含めた蒸機の運転も盛んに行われましたが、イベントは避けてもっぱら私鉄巡りに時間を費やしました。
「ぐんまツーデーパスSP」は、2日間、群馬県下のJR・私鉄乗り放題で3600円、これまた超お買い得切符で、JR東日本の大人の休日倶楽部会員だとさらに安くなるため、わざわざ同会の会員になりました。JR西日本内の居住であっても、J東日本の格安企画切符は大きな魅力です。制限の多い格安きっぷをうまく利用できるのも、毎日が日曜日族の特権ではあります。

▲上信夕景 出版社での仕事が予定外に早く終わったため、東京から明るいうちの高崎入りとなった。まだ宿へ入るには早い。日が暮れるまでのひと時に、ふと思い付いたのは上信電鉄南高崎~根子屋の烏川鉄橋だった。3年前に来た時は急にカメラの調子がおかしくなり、眼前を通過する電車を泣く泣く見送ったことがある。今回はリベンジでもある。南高崎で下車して歩き出すと、ちょうどいい具合に陽が傾き始め、鉄橋を渡る電車がシルエットになった。

▲”わ鐵”爽秋 群馬県下の3私鉄に全線乗車したが、いちばん印象的だったのは、わたらせ渓谷鐵道(わ鐵)だ。前身の足尾線から通じて初乗車となったが、沿線の光景にすっかり魅せられた。栃木県に入る北半分は、ずっと渡良瀬川に並行している。そして、沿線の上神梅、神戸、沢入、通洞、足尾などの駅をはじめ38の施設が登録有形文化財に指定されており、昔の国鉄時代が、ごく自然に、そのままの形で残っている。好天もあいまって、清々しい光景が続く。
終点の間藤から、川沿いに歩き、次駅の足尾まで来た。背後の緑、青空に木造駅舎が美しく映えていた。丸型ポストもいいアクセントになっている。つぎの列車が来るまで、ポッカリ空いた時間、付近をウロつくのが無上の楽しみとなった。すぐ近くで公開されている明治建築、古河掛水倶楽部も、たいへん興味深く内部を見学することができた。

阪神電鉄国道線(3)甲子園線

 さてさて、3回目は甲子園線です。当線は先の国道線建設のように、阪急や省線との対抗や、それらの防衛対策上から建設されたのではない。

『大正末期から昭和初期にかけて、阪神電鉄で推進された支線計画のうち、その使命がもっとも純粋に輸送・開発機能に置かれたのが、甲子園線である。当社は、大正1110月に買収した武庫川の支流であり、洪水対策から廃川になった枝川・申川の廃川地の開発のため、大正14年甲子園・甲子園浜間および甲子園・上甲子園問の軌道敷設特許を申請し、それぞれ翌大正15年に特許を得た。そして、早くも716日から甲子園・甲子園浜問、昭和3711日には甲子園・上甲子園間の営業を開始した。甲子園線はさらに昭和579日には、今津出屋敷線の一部である浜甲子園・中津浜問(複線、42チェーン13リンク)の営業を開始し、上甲子園。中津浜間を通常4車両で営業する体制となって、甲子園開発のバックボーンを形成した』のである。(阪神電気鉄道八十年史、阪神電鉄より)

 さらに、『昭和初期までに、大阪・神戸の2大都市よりも阪神問地域に人口増加が著しく進行し、市街化、住宅地化が拡がるようになった。昭和初期における支線展開やバス路線の開設は、こうした趨勢に対応するものである。』(中略)

『当社は,単なる路線展開にとどまらず、地域開発の形でこのような趣勢を積極的にリードした。その最大のものが甲子園開発である。甲子園は、大正1110月に兵庫県から410万円で譲渡された224000坪の枝川・中川廃川敷の開発から始まり、大正137月に完成した野球場が開発の初めであった。甲子園の住宅地としての開発は,大正151025日、株主総会で「食堂業及び土地家屋の売買等」を定款に追加を決議することから出発した。昭和371日から「甲子園住宅経営地」の第1回分譲が始まった。この第1回分譲地は、阪神本線の甲子園停留場の北側、旧国道付近から甲子園線沿いに拡がる中甲子園であった。』(出展:同上)

 このように、甲子園地区は北側の甲子園一番町から、海側の十番町に至るまでの街づくりがはじまり、甲子園線が活用されたのです。現在も、十番町を除いて地名番地がそのまま残っています。

国道側から眺めた甲子園線。今ちょうど211号が終点に到着して、客扱いを始めている。ドアーは車道側でなく、反対の軌道側を開けている。遠い画像だがステップの降りているのが見えます。

91号が軌道の下り車線側に入って来た。この後、客扱いと、Yゲルを転換し出発する。終点手前にX字クロスポイントがあり、亘ってから客扱いし直進で折り返す方法(上の写真)と、直進後客扱い(先のカラー写真)し、その後亘って折り返す二方法が採られていました。

同じ91号の反対側。右手が進行方向の浜甲子園側、電柱に駅名票が見える。乗車待ちらしき女性の姿も。左手が本線上甲子園。9191号。終戦直後の1947年、製造割当が少なく3両だけの製造になった内の1両。汽車製造製。

211号の出発。客扱いを終わりYゲルを転換、少し先のクロスで下り線に亘り、甲子園浜に向かう。右手に駅名票、カラーでよく判る。進行方向にに第一生命のビルが、現在もこの地で同じ姿で残っています。


71
号。上甲子園行き。この71号は74号と共に、後にパンタグラフに付け替え、武庫川線に転出。その後尼崎市の公園に静態保存されています。(後述)

 
71号の後ろ姿。周りは敷地の広い戸建ちの、静かな住宅街です。

211号。甲子園駅の北側。緩やかなカーブを経て、北の方向上甲子園に向かう。

阪神本線甲子園。高架上が甲子園駅の西側部分。高架下の甲子園線甲子園駅を出発、北に向かう。付近の電柱に赤い“ワシとんかつソース”の看板が目立つ。近畿地方にとんかつソースメーカーは多いけれど今も残っているのかしら。電車と全く無関係な話でした。
 これで甲子園線と国道線の紹介はお仕舞いです。阪神パーク前や浜甲子園の写真はありません。子供たちを連れて阪神パークにレオポンを見に行ったことはあるのですが、子供たちに精一杯で電車どころでなかったのでした。

 

 尼崎市の公園2か所に、71号と74号が静態保存されています。

尼崎市藻川公園。フェンスが車両ぎりぎりに作ってあり、姿をよく撮影できません。上の覆いも屋根ギリギリです。腰下のマルーン色がすっかり褪せていました。近くで見るとさすがに大きいです。バスよりも大きいでしょう。電車側面に案内板がありました。

 

上の公園の近く、尼崎市水明公園。尼崎センタープール(競艇場)の北側にあります。ここもフェンスが二重。木が生い茂り全容が見えません。わずかに往年の姿を思い浮かべられる程度でした。寂しさが一層増しました。 

 電車好きの少年の頃、尼崎から神戸・平野の叔母宅へのルートが34通りありました。阪神電車本線出屋敷→三宮→神戸市電→平野。国道線→東神戸→脇の浜→市電。国道線→住吉駅前→省線電車→三宮→市電。省線立花→三宮→市電。 

 住宅が尼崎市の中南部でしたこの頃、阪急電車は全く利用しなかったですね。そして国道線、神戸市電がもうとっくに無くなった今、同じ尼崎市の阪急沿線に住んでいます。

年末大慌ての決算報告 (1)

年も押し詰まってきました。今年は、私自身の写真展がまだ開催中で、その準備・対応に忙殺され、掲示板投稿もままならない状態での年末突入となりました。個別の記事は今さら望むべくもなく、ここでは、今年をまとめて大慌てで振り返ることにしました。
毎日が日曜日状態が始まって3年目となる今年、鉄道旅行に関してはすっかり少なくなってしまいました。3泊程度の旅行が数回だけ、海外はもちろん、北海道・九州へも行かず、もっぱら近郊ばかりでした。堰を切ったように出かけた昨年とは大きな違いでした。さまざまな事情もありますが、のちほど述べる心情の変化に依るところも多いようでした。

▲3・11の最終「雷鳥」 今年、「雷鳥」がついに消えた。イヤほど走っていた「雷鳥」だったが、消えるのはあっけなかった。最終日の3月11日は朝から追い掛けた。15時過ぎ、新幹線京都駅を通ると、なにやら騒がしい。新幹線が運転抑止と駅の案内が伝えている。たいして気にも留めなかったが、電車内の乗客の会話から東北地方で大地震が起こったらしいことが判った。
夕方に発車する最後の「雷鳥」はどこで撮ろうかと考えた。「雷鳥」の運転初日の昭和40年12月1日、高校一年生の私は京都駅で撮った。同じ京都駅1番ホーム(現0番ホーム)で「雷鳥」を見送ろうと考えた。やや薄暗くなりかけた1番ホームに来たのは、ボンネットではないものの、国鉄色を纏った485系である。サイドだけなら45年前の光景と変わらない。運転初日、京都駅1番ホームにはほんの2、3人が写していたように思うが、今は自分の子・孫のような世代に取り囲まれて写していた。

▲激安切符で四国へ もっとも遠くへ行ったのは、バースデーきっぷを使った四国だろう(と言ってもわずか3日だが…)。この切符、誕生月のみの発売で、四国の特急グリーン車乗り放題で1万円ポッキリという破格もの。もっとも四国でグリーン車込みの特急は少なく、1度乗った切りだが、土佐くろしお鉄道も乗れる。私は初日から乗り倒し、予讃本線の一部を除いて、JR・土佐くろの全線乗車ができた。憧れの下灘へも夕方を狙って下車した。期待の夕陽はイマイチだったが、色温度を変えて楽しんでみた。
撮影以外に、旅行のもうひとつの目的である近代建築を中心にした街歩きにも精を出し、未踏の地であった愛媛県西部の八幡浜、内子、大洲、宇和島も短時間ながら訪問することができた。

▲路面電車の街で 四国でもうひとつ、高知・土佐電はりまや橋交差点で、四方向から来る路面電車を体感したかった。夕景を、まず交差点西の歩道橋から狙ってみた。泊まりも、すぐ近くにある、トレインビューが売り物のホテルを選んだ。朝のラッシュ時に、この交差点に立つと、まだ路面電車が街のインフラを維持していることが体感させられた。
ホテルの客室からも確かに、交差点の全景が俯瞰できる。すべてに渡り線のある交差点はここだけのようだ。普段は通らない渡り線を回送電車が行く光景も撮れた。ただ、背景に、以前はデパートがあったはずのところに、今は何とパチンコ屋が煌々と交差点を照らしている。これも地方都市の一断面でもあるのだった。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part7 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その1

第7日目 12月6日 哈密→雅満蘇

早朝6時前、哈密のホテルをアイグリさんも同行して出発しました。目的地の雅満蘇(牙曼苏)までは、約120キロ、鉱山鉄道の起点がある中国鉄路の山口站までは、鉄道線では97キロあります。道路灯もない真っ暗闇を東方向に約2時間強を走り、近くからは迷走を重ねてようやく8:14山口站に到着しました。以前に来た時の道がなかったそうです。 続きを読む

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part6 三道嶺 その4

第6日目 12月5日 三道嶺4日目

今日は三道嶺撮影の最終日です。今年2月に準特急先輩と来た時は、お互いに何も分からずで、ただ案内されるままでしたが、2回目とあって土地勘も出来ていて、今どこにいるのか分かっての撮影ができました。三道嶺4回目のO氏の存在も大きかったと思います。4日間のまとめの意味からも今日はバッチリと決めたいと起き上がりました。

▲ 8:54、3回目の朝の通勤列車の撮影。今日は少し先まで行ってみました。S字カーブを回って登り坂を上がってくるのが分かりました。日の出が後15分遅ければ、朝日をバックに撮れますO氏は一日ごとに1分間、日の出は違ってくると申されていましたので、来年2月初旬がベストになるのではと思われます。

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失業者二人の旅日記  初冬の大地へ  Part5 三道嶺 その3

第4日目 12月3日 三道嶺撮影3日目

今日は昨日のことのないように起床を30分早めて、 撮影現場には通勤列車が東站を発車する前の8時30分前には到着しました。ようやく東の空が赤くなり始めた8時40分過ぎに発車を告げる白い煙が上がり、ドラフト音が聞こえ始めました。


昨日同様のカットになりましたが、今日は後ろ向きの牽引です。ターンテーブルがありませんので、ズリ捨て路線用の上遊型なのでしょうね。しかし、昨日と同じく前照灯を点けずの走行です。線路上に邪魔物はないとの前提なのでしょうか。牽引機は、SY1304号機でした

 

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阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part4 三道嶺 その2

第4日目 12月3日 三道嶺撮影

今日も失業者二人は、7時起きです。と言ってもここでは、北京から西へ遠く離れた新疆ウィグル自治区、約2時間の実質的時差がありますので、5時になります。まだ真っ暗闇の街中で朝食のマンタ(ウィグル料理のパオツ)を買い込んで出発しました。このマンタ、食べると羊肉の肉汁が口中に広がり、絶品です。美味しい朝食に活力を加えて、目指すはO氏お奨めの朝1本の通勤列車の撮影です。

8:43、目的地近くで車を降りて、懐中電灯で足元を 照らしながら撮影ポイントに向かいますが、すぐにドラフト音が聞こえてきました。

▲ 8:49、朝焼けをバックに白蛇のごとき煙を残しながら通勤列車がやって来ました。線路際の小高い丘に駆け上がりかじかむ手でシャッターを押しましたが、撮影準備をする時間がなさすぎました。撮影場所のまだ先はどうなっているのかが分かりません。この路線は東站西站を結ぶ路線でこの通勤列車のみが定期で走ります。明日の朝にリベンジすることにしました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part3 三道嶺 その1

第3日目 12月2日
① 哈密站 13:30(チャーター車)→15:00三道嶺

哈密站から約1時間半、今年2月25日以来の三道嶺に到着しました。期待した天山山脈ですが、残念ながら霞んでいます。しかし今回は、今日を含めて4日間の撮影日を予定しております。何とか一日ぐらいははっきりと見えてくれるだろうと撮影開始しました。▲ 三道嶺では、採炭された石炭を積込み選炭場へと運ぶ運炭線が2本あります。こちらは、蒸気機関車が正向きになりますが、ズリ捨て線では、推進運転となっております。今回私達が狙うのは、天山山脈を背景に驀進する正向きの運炭列車(地点;A・C)、推進運行ながら夕日をバックのズリ捨て列車(地点;B)と、朝焼けをバックに走り来る朝1本の通勤列車でした。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part2 T69次に乗って

第1日目 11月30日

① 長岡天神 5:34(阪急)→5:49 南茨木 5:58(モノレール)→6;21大 阪空港
② 伊丹 7:20(JL102)→8:30 羽田 9:40(JL023)→12:50 北京(空港快速)→三元橋(地铁)→国貿

無事順調に北京空港到着しました。先に着かれたO氏とは、預け手荷物引渡場(バゲージクレーム)でお会いして、常宿にしている京倫飯店に直行しました.


▲ JL北京便の往路機内食。ラウンジでたっぷり朝食を食べましたので、丁度良いぐらいですが、昔と比べるとしょぼくなったのは否めません。

チェックイン後 鄧さん哈密までの切符を依頼していただいておりました北京中国国際旅行社の賀さんに到着の連絡を入れて、受取時間の打合せを済ませてから街に出ました。
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