アベノハルカスⅡ

最近大阪では話題の出てきたアベノハルカスですが、最近外装工事も終わり屋上のクレーンが撤去されました。夜には一部の窓にも明かりが見られ少しはビルらしくなってきました。昭和3年生まれの阪堺線とのツーショットもいつまで見られるか気になるところです。阪堺電車の案内図には超低床ノンステップ電車「堺トラム」が2013年に登場とありました。旧型車の動向が気掛かりですね。

阪堺1

阪堺2

今日の呉線トワイライトエクスプレス

この春3回目の「トワイライトエクスプレス 瀬戸内ランチクルーズ号」が走りました。今日は山の上からの俯瞰撮影をすることにして、三原市の観光名所 筆影山に登りました。早咲きの桜が満開で 穏やかな春の陽をあびてトワイラは呉線をのんびり走ってゆきました。

上りの山陽新幹線が通過

上りの山陽新幹線が通過

呉線は三原駅で山陽本線と分かれ、高架で市街を抜けてゆきます。沼田川(ぬたがわ)を渡る手前で高架が終わります。

山陽線下り115系 353Mが通過。手前の校舎は県立三原高校。

山陽線下り115系 353Mが通過。手前の校舎は県立三原高校。

沼田川の鉄橋脇に約20名ほどが陣取っているのが 山の上からよく見えました。遠くからの遠征 ご苦労様です。

沼田川橋梁脇には多くのファンがカメラの放列。

沼田川橋梁脇には多くのファンがカメラの放列。

左手に瀬戸内海を見ながら呉線の旅が始まる

左手に瀬戸内海を見ながら呉線の旅が始まる

次の運転日は3月28日(木)です。6月まであと5回チャンスがあります。次回の撮影ポイント探しも楽しみのひとつとなりました。

福山レールエクスプレス号

佐川急便の専用列車は有名ですが、福通も鉄道輸送を見直したのは慧眼と言うべきか。「福山」とつくので山陽路でも見られるかと一瞬喜んだのですが 品川-吹田間ということでガッカリ。佐川のような専用電車ではなく、福通のコンテナがずらりと並ぶコキ編成でしょうが 専用編成になるならかつての「たから号」を彷彿させる「福通号」のテールマークをコキ最後尾につけたらいかがでしょうか。夜中に走るのなら誰も見てくれないか・・・。中国新聞朝刊記事を添付します。さて今日は「福山エクスプレス」ならぬ「トワイライトエクスプレス」が呉線を走る日なので これから出かけます。今日はどこで撮ろうか・・・・。

中国新聞2013.3.19

中国新聞2013.3.19

 

尾道鉄道デキ21号

2009年10月5日に小生がテレビで見た尾道鉄道について質問したところ、須磨の大老が例によって即、データと蘊蓄を開陳して下さったのを覚えております。今回はその尾道鉄道。西村さんも解説にご協力下さい。

尾道鉄道デキ21_NEW 尾道鉄道デキ21(文)_NEW

2012年度表彰式行われる

 3月15日(金)、同志社大学寒梅館ハーディーホールにて2012年度 同志社大学文化系公認団体表彰式が行われた。当会は昨年度の「学生支援センター所長地域貢献賞」に引き続き、今年度は「学生支援センター所長奨励賞」を受賞した。8月下旬の寒梅館夏まつり、9月の京阪三条イベント、船場まつりへの参加が評価の対象となった。
 残念ながら昨年度の地域貢献賞を上回る賞ではなかったが、90以上存在する文化系公認団体から当会が2年連続 で選出されたことには大変意義があることであると考える。今回の受賞をきっかけに、鉄道同好会は今年も大いなる発展を遂げていくことになるだろう。
 
 今回の受賞の知らせを頂いたのが直近であったため、事後報告とさせて頂きました。悪しからずご了承ください。今後のイベント等はできるだけ事前かつ早めに報告するようにいたします。今年もDRFCの活躍にぜひご注目ください!

学生支援センター所長から表彰状と盾を受け取る大垣2013年度会長

学生支援センター所長から表彰状と盾を受け取る大垣2013年度会長

京阪(旧)3000系を思う (3)

鴨の流れに沿って

3000系の走る風景を思い起こすと、それは人により、さまざまだろうが、私はやはり鴨川沿いのシーンを忘れることが出来ない。地下線が開通する昭和62年まで見られた、3000系特急が15分ヘッドで上下する全盛時代だった。

赤・黄の派手な3000系の塗色は、鴨川沿いの景観にホントによく似合っていた。車窓から見る鴨川の水は清く、堤の木々は、桜から新緑へ、紅葉へと変化し、雪の降る時もあった。京都らしく、季節の行事に3000が出会うこともあった。主要な通りとは平面で交差し、3000系がより身近に感じることが出来た。

そんな、鴨川と3000のコラボをいくつか綴ってみた。

IMG_0037鴨の流れを見て。 鴨川沿いに育った私から見ると、下水が未整備だった昔の鴨川は、友禅流しで川が赤く染まり、中州もそのまま、ホントに汚い川だった。昭和40年代ごろから急速にキレイに整備された。現在では、生態系の保持のため、中洲を残したまま整備しているが、この時代は、ブルドーザで徹底的に均して、川幅を広げる方式だった

IMG_0005四条通を渡る3000系と市電1600形。四条線が廃止となる昭和47年まで見られた平面クロス。京都第一の繁華な通りを、遮断装置もなく、係員の笛ひとつで電車を通していたとは、今となっては信じられないような保安方式だった

IMG_0045sw始発の三条駅に停車中の3000系。狭い2番ホームが特急用のホーム。6連と7連では停車位置が違う。左が7連でホーム端ギリギリ、右は6連のため、先頭は1両分後退した位置に停車している

IMG_0031四条通を横断する3000系。乙訓老人の“東華菜館”屋上から撮影の京阪特急は余りにも有名だが、私は、その向かいの“いずもや”へ、撮影を兼ねて食事に行った。背後の南座も、その後に改築される

IMG_0040祇園側から見た四条踏切、この頃は、市電が廃止後のため、遮断機も設けられた。向こうに、その東華菜館、阪急百貨店、高島屋が連なる

IMG_0042四条河原町の高島屋の屋上からも、四条踏切を行く3000系が望めた。新緑の頃には、東山が手に取るように近くに見える

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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part5 広田尚敬先生と一緒の弘南鉄道「雪飛ばしツアー」 その2

第5日目 3月3日

青森空港18:05(JL2158)→19:40伊丹空港

起床してすぐに外を見ますと、昨夜からの雪は止んでいました。積雪は、約15㎝で移動には問題なさそうです。朝食後まっすぐに大鰐方面へと向かいました。

01_あけぼの_edited-1▲ 朝から快晴です。前日まで運休が続いていた寝台特急「あけぼの」が今日は約8分遅れですが運行しています。大鰐温泉近くには、定番の有名撮影地があるそうで皆さんまずはここで朝1番の撮影となりました。大多数の皆さんは正面から撮りたいと雪原を渡って行かれましたが、数名は晴れた青空、雪と木、そして「あけぼの」を入れてのカットはそんなに撮れるものではないと横から待ちました。
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下津井電鉄の情景

会員のデジ青への投稿が活発で、あっという間に新しい記事と写真が加わり、前の記事が後方に下がります。関連記事の写真をと思いながらモタモタシテいるとピントはずれ、時代遅れになりそうな昨今。
1961年3月、四国に行く前、茶屋町から児島まで立ち寄りました。
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当会会計役の井原さんが、第1回写真展に左手に海がある写真を出品されていましたが、上の写真左側は海でなく、福田-稗田近辺と思われる(記録なし)山間部です。

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この駅も判りません。

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『電車』機関車の牽く貨物。駅は稗田駅と思われます。1961年3月17日撮影でした。

梅田貨物駅 138年の歴史終える

明日、16日はJRのダイヤ改正日、その前日となると、何かと心が騒ぎ出す。“葬式鉄”など絶対にしないと言い張っておきながら、その日となると、気もそぞろ、足はどこかへ向いてしまう。

関西圏では、183系電車の撤退が話題の中心だろうが、いよいよと言うか、やっとと言うか、梅田貨物駅の廃止も、地味ながらも大きな変更点だ。本日は梅田貨物駅の最後の記録に当てることにした。

130315_026梅田駅は17ヘクタールあり、ピーク時の貨物扱いは年間360万トンあったが、最近では114万トン/年まで減っているという。2年掛けて更地にされて売却されるというが、その利用法は百出されて、いまだ結論が出ていない

梅田の高層ビルから見下ろすと、そこだけ時間が止まったように、錆付いた梅田貨物駅の構内が広がっている。

その歴史は古い。明治7(1874)年、大阪駅の貨物取扱所として開設、昭和3(1928)年に、大阪駅から分離、貨物専用の梅田駅が誕生する。国鉄借金返済のため、国鉄分割民営化時に売却することが決まったものの、貨物拠点の移転先をめぐって紛糾し、なかなか進捗しなかったが、結局、吹田操車場跡地の吹田貨物ターミナル、百済貨物駅に分散移転することになり、明日16日から、この2駅での業務を開始することになった。梅田貨物駅そのものは、今月末まで営業するようだが、貨物列車の発着は本日が最終日となった。

130315_141「さようなら138年間ありがとう」の記念の看板が取り付けられた。138年とは、明治7年の大阪駅時代からの起算

130315_033ss入換はDE10の1500番代が担当、懐かしい突放の作業も見せてくれる

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成18年には、修繕施設などのあった東側部分が先に売却され、跡地には4棟の高層ビルが建ち、“グランフロント大阪”として来月、オープンする

130315_083西側に新大阪と大阪環状線を結ぶ短絡線(東海道支線)がある。「はるか」「くろしお」の通り道。地下地下線化、新駅設置の計画がある

130315_276貨物駅を印象付ける二つのドーム屋根、二本の線路がさらに手前まで伸びていた

130315_300陽が暮れて、背後の梅田のビル街が輝きを増すとともに、貨物駅は深く沈み、最後の貨物の発着を迎える

 

 

2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part4 広田尚敬先生と一緒の弘南鉄道「雪飛ばしツアー」

第4日目 3月2日

今日は、待ちに待った鉄道写真の巨匠広田尚敬先生が参加されての神谷武志さん企画の弘南鉄道{雪飛ばしツアー」の開催です。
朝、ホテルのレストランで皆さんとご挨拶です。今回は、いつも海外鉄でご一緒させていただくO氏も久しぶりにお会いできました。心強い限りです。
ロビーで参加15名の方々と対面しました。半数は面識ありますが、初めての方も半数おられます。じっくりとご挨拶することなくレンタカー5台に分乗しての出発となりました。皆で一緒に行動するのかと思いましたが、最初の目的地大鰐駅だけが決まっていて後は車別での自由行動です。私はO氏、O氏の鉄ちゃん朋友と3人乗車となりました。しかし、3人とも撮影ポイントと道筋を熟知していません。前に行く車に付いていくしかないのですが、出発早々に見失いました。車のナビの言うとおりに行くしかありませんでした。
02_大鰐駅01_大鰐駅▲ 9:06、何とか大鰐駅に到着することができました。先を行かれた神谷隊長も大鰐駅近くで迷走されたようで後からの到着です。構内では、雪が降りしきる中でED221+キ105は、出動準備をされていました。

ED221は、まだ日本の鉄道車両製造技術が未成熟だった1926年(大正15年)にアメリカより輸入された電気機関車です。車体と台 車はボールドウィン社製、電気機器はウェスチングハウス社製です。最初は、信濃鉄道(現;大糸線)で使用され、1937年国有化後ED22-1となり1943年には飯田線に転出しました。その後西武鉄道→近江鉄道→一畑電気鉄道と譲渡され弘南鉄道には1974年に参りました。日本各地へと移動を重ねた波乱万丈の人生だったのですね。弘南鉄道では大鰐線に配属されて、キ105とタッグを組んでの冬期のラッセルが担当業務となっています。年齢は87歳、元気ですね。
キ105は、1929年(昭和4年)国鉄苗穂工場で誕生しました。国鉄時代はキ157で、1927年旭川工場で改造されています。弘南鉄道には1975年に譲渡され、キ105となりました。同型車は、苗穂・大宮・浜松・土崎・郡山の各国鉄工場と、飯野産業(飯野重工業)・立山重工業において製造が行われ、全194両が存在しました。現役で活躍しているのは極めて少なく、弘南鉄道大鰐線弘前線の2両、今回DL不調で運行されなかった津軽鉄道キ101(国鉄時代;キ120)と思われます。

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京阪(旧)3000系を思う 〈2〉

IMG_0017昭和46年8月ダイヤ改正で、昼間時のダイヤパターンが20分ヘッドから15分ヘッドになった。特急も運用数が増加することから、新造されたのが3000系だ。当初は、従来の1900系特急との混結も可能な設計になっていた(大和田)。

IMG_0020昭和46年8月ダイヤ改正を前に、同年7月1日から写真の3501編成ほか6両編成2本の冷房つきの3000系特急の運転を開始したと、沖中忠順編著JTBパブリッシング「京阪特急」には書かれていた(中書島)

3000系特急で通勤の日々

(旧)3000系は、今でこそ趣味としての対象だが、初期の時代は、ユーザーとして乗客の立場だった。

昭和51年4月、大阪の職場に転勤になった私は、京阪三条から北浜まで3000系特急で通うことになった。学生・社会人を通じて、初めて“郊外電車”に定期券で乗れる。本格的なサラリーマンになった気分だった。当時、朝ラッシュ時、特急は20分ヘッドで、三条8時5分発特急に乗ると、同50分ごろに北浜着、歩いてすぐの会社に9時始業前に着く絶妙のダイヤだった。

もちろん、“七条を出ますと、つぎは大阪の京橋まで止まりません”の京都・大阪間無停車の時代で、途中駅で、通勤客を満載した急行・準急を退避させ、特急が悠々と通過して行くのを、ゆったりした座席から眺めるのは、ずいぶん偉い人間になったような優越感さえ感じた。着席するためには、その前の特急の発車直後に並ばなければならないが、当時、社会問題化していた通勤地獄とは無縁の別世界で、まさにエリート特急、ステータス電車だった。

ところが、その2年後、職場が堺筋本町へ移転してしまい、三条8時5分発では始業に間に合わず、その前の三条7時45分発に乗らないと間に合わなくなった。しかも、その頃、住まいは山科になっていたので、朝、道路渋滞に巻き込まれる京津線ダイヤも加味すると、毎朝6時前後の起床を強いられた。

帰宅が遅く、朝の弱い身にはさすがに堪える。朝の京阪特急は、恰好の寝不足解消の場となっていく。七条を過ぎ、車内アナウンスが流れる頃から、すっかり白河夜船、とくに、窓側に座って窓框にアタマを載せると、ちょうどいい枕代わりになり、約30分はぐっすり熟睡できた。

その後、昭和55年3月、守口市~萱島間複々線化によるダイヤ改正で、、ラッシュ時に、特急に抜かれない急行が出現した。急行だと、直前乗車でも座れるから、自宅を出る時刻を多少遅らせることができる。結局、朝の3000系通勤は、4年あまりで終わり、急行乗車に切り替えた。しかし、帰宅時の3000系特急の利用は、いまの阪急沿線に転居する昭和58年まで続くことになる。

帰宅時は、車内で寝ることもあったが、だいたい新聞か本を読んでいた。読み終わった新聞は、下車まで前の座席カバーの中に潜り込ませておくのがツウな3000系ユーザーの仕儀だった。

帰宅時の場合、北浜からの乗車でもまず座れた。テレビカーは混むので避けていたが、ただひとつ、タイガース戦の放映がある時は、歩いて始発の淀屋橋へ向かい、ひと電車遅らせて、テレビカーに乗り込み、小林繁が古巣巨人を相手に勝利するのに喝采を送ったものだ。

ところが、淀屋橋22時以降発になると、編成が分割されて、3両の一編成だけになってしまう。座席定員が一挙に半分になってしまうから、混むのは必至、運が悪いと、深夜の立ちっぱなし、という残酷な仕打ちが待ち受ける。さすがに、これは評判が良くなく、昭和62年に分割は中止されている。

また、昼間も仕事で大阪・京都間を3000系を利用することがあった。とくに、昼間12~14時台は、たいへん空いている。大阪から乗車する場合、最後部はとくに顕著で、一車両、10人以下だった。前の転換シートをひっくり返し、ワンボックスを占有して、ゆっくり午睡を楽しんだものだった。

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複々線上をいく上り特急。淀屋橋9時発の特急には伝統の「びわこ連絡」の副標が取り付けられ、15分ヘッドの特急の中でも、ひとつ格上の感があった(野江)

IMG_0011_edited-1こちらは「ミシガン」副標つき。3000系は昭和47年7月に14両(二次車)、48年6月には一気に32両(三次車)が加わり、9編成58両となり、完全に1900系を置き換え、すべての特急運用を賄った。8000系登場まで、3000系特急の時代が16年間続くことになる(四条)。   

梅小路公園の保存市電その後

過日、京都市が梅小路公園に保存してある市電7両のオープン展示と、運転中のN電について運転区間の変更と蓄電池化すると発表したことをここで報告した。 これに関してはすでに新聞紙上やテレビでも報道されているのでご存じのことと思う。

この件には多くの知人からメールや電話で京都市へ蓄電池化反対の意見を言うべし、とのご意見を頂いた。そこで個人として市長へメールでN電に蓄電池を積むことは車体への負荷が多すぎないか、架線はどうなっているのか、保存車両を民間業者へ貸し出して飲食店に使うのは車体保存に問題が生じないか、等の質問をしたところ回答を得た。
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玉野市営電鉄制御車201号

先日、玉野市営電鉄が紹介された。荒尾市営電鉄と共に市電と言われながら一風変わった雰囲気を持つものであった。専用軌道を走る鉄道線型の車両、これが両社に共通するもので、そして戦争の落し子であったと言えるであろう。玉野の場合、制御車を導入したのは高度成長時代の一現象と思われるが、僅かの間であっただけに知る人も少ない。老人が富山で雪と格闘している時に入線し、大阪に転勤となった時には終焉期を迎えただけに、どんなダイヤで運用されたか知らない。またDC化後、訪問したことなく、どんな色をしていたのかも知らない。制御車クハ201号、野上電鉄時代の姿をお目にかけようと思う。いずれも1958年12月5日、1960年5月15日、日方車庫で調査の合間を縫っての撮影である。ツートンカラーは1958年、上半クリーム下半明るく薄いブルー。1960年は青味かかったグリーン一色であった。102号が玉野201になった由。

デハ7時代は半鋼4輪単車で、ホイルベース2438ミリのブリル21E台車に20馬力の電動機2ケで走った。1946年11月に6、7号は101、102に改番、1954年には自社で車体延長工事を施工した。約8.5m車体が11,2mになったと言うが、工事後の車体長は連結器込の全長であると思う。台車はTR26となっていたが、変芯台車であり、果たして八日市鉄道時代のものかどうか、これは須磨様の解明をお伺いを立てる事にしよう。デハ時代の自重は10トン、クハとなってからは12.4トンとなっていた。

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図面の4輪車はボギー車に改造された

図面の4輪車はボギー車に改造された

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おたずねします。

以前に京都市バスの写真と資料が掲載されていたように思いますが見つかりません。
市バスなら藤本さん、と思ってさかのぼりましたが見つかりませんでした。
誰が書いたものか?いつの掲載か?どなたかご存じの方があればお教え下さい。

京阪(旧)3000系を思う 〈1〉

京阪(旧)3000系の通常の営業運転が去る10日で終了した。沿線は、大変な人出だったらしいが、私はとうとう出動することはなかった。この3月、東西都市圏の鉄道ネタは、東は東急渋谷駅、西は京阪(旧)3000系が抜きん出ていたようだ。

このあとの(旧)3000系の運転は、3月中に4日間のみ、中之島発出町柳行き臨時快速特急として運転される片道一本になる。

3000系の生い立ちを見ると、私のような団塊の世代の人生とオーバーラップして見える。そのデビューは、42年前の昭和46年のこと、ちょうど私が大学4年生の時で、まさに実社会にデビューする時期だった。以来、我々世代も、3000系も、必死になって社会を支えてきた。そして、我々世代が実社会から身を引くように、いま3000系も静かに役目を終えようとしている。

それだけに3000系の引退は、特段、電車に興味を示さない私にも感慨深いものがある。3000系が、京阪特急のすべてだった時代の思い出を綴ってみたい。

3000系見学会

以前の掲示板でも、どですかでんさんが書かれているように、鉄道同好会では、昭和46年6月に、新造・搬入直後の3000系の見学会を、守口車庫で行っている。「参加24名」と青信号22号の活動報告には書かれており、やはり、3000系デビューの人気は高かったようだ。

見学したのは、3002+3102+3502の一次車3両編成だった。

外観では、なんと言っても前面のパノラミックウィンドウが衝撃だった。私鉄車輌では、名鉄5500系、京王5000系といった名車も同様のスタイルだが、関西私鉄では初である。両端に寄ったライトで、オデコが散漫になりがちだが、それをステンレス製の幌枠がうまく引き締めている。

旧3000系の車内にも入って、初の全車クロスシートの座席や自動転換機構、壁面に目を見張った。車内で撮った、たった一枚の写真には、偶然だが、亡くなられた澤村さんが写っていた。

ここで写した編成写真は、先ごろ、送られてきた、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション京阪電気鉄道」の表紙と全く同じ構図の写真だ。撮影者は同好会関係者ではなく、古老の鉄道ファンだが、撮影日を見ると、見学会の前日になっていた。この本は乙訓老人のご厚意で、かなりの会員に献本されていると聞いているが、巻頭企画として書き下ろし担当したのが、クローバー会会員であるほか、本文には、“同志社大学鉄道同好会”の文字が黒々と誌面に躍っている。当会の55年の歴史が凝縮された、記念号でもある。

IMG_0004守口車庫で3002編成を見学した。搬入直後の姿で、編成全体が輝いていた

IMG_0001車内は京阪特急初のオールクロスシート、真っ白な座席カバーも新車らしいIMG_0002

車内を見学する会員たち。故澤村さんの顔も見える IMG_0003 この時は、あまり写真は撮らず、鳩マークを収納した写真を撮って終わっている

下津井モハとクハ

先日玉野市営の写真をご紹介しましたが、昭和44年8月1日に下津井に行き、鷲羽山ユースホステルで1泊して翌日玉野を訪ねています。その際の東下津井駅での交換風景をご紹介します。下津井電鉄は票券閉塞式で 女性車掌が対向列車の運転士から票券を受け取っているひとコマです。この電車はモハ50型だと思いますが、車番不詳です。IMG

さてこの気動車改造電車の一統のなかで モハ50型より窓2つ分短いクハ6が良好な状態で保存されています。場所は岡山県瀬戸内市長船町です。名刀で知られる備前長船の 国道2号線沿いのドライブイン「おさふねサービスエリア」の裏手の山陽新幹線高架下です。ここにはクハ6の他ホハフ2とホワ10が保存されています。高架下とは言え雨ざらしなのですが 誰が手入れされているのか 外観も車内もきれいな状態です。昭和6年製のカハ6がクハ6となり、80年以上を経てこんな場所でこうして残っているのが不思議な気がします。IMG_6996-1

ここは新幹線に乗っていても当然見えませんし、国道2号を走っていてもドライブインの建物の裏手なので見えません。すぐ西側が吉井川の土手ですが 吉井川橋梁を通過する新幹線を写すにはこの土手が好適地のようで撮影者の姿をよく見かけます。赤穂線の香登駅が最寄ですが1Kmほどありクルマの方が便利な場所です。クルマで通るたびに立ち寄っては確認するようにしています(直近は2011年11月7日ですが)。笠岡の高架下の井笠ホジ9とともに要安否確認対象車両です。

下津井電鉄モハ50

これは須磨老人が優先するはずと勝手に決め込み、以下投稿に及ぶ。山陽鉄道による宇野線と宇高航路新設で、岡山一帯と四国琴平さんを結ぶ要路下津井と、途中の味野(児島)の比重に衰えを感じた地元有志が建設した。宇野線茶屋町が起点だが、倉敷との関係も昔から深く、この間の鉄道建設も何度か意図されたが実現せず、長らく国鉄バスが運行。現在では下津井電鉄バスが茶屋町-倉敷、児島-倉敷を運行し、後者は文字通り頻発である。

下津井鉄道は191928年以降ガソリンカーを投入し、当初日車21人、30人乗りの単端式車から、1931年以降60人、68人と大型化し、1934~37年にかけ6両の78人乗り大型車を加藤車輌製作所で新製。これは戦前軽便用としては最大で、これをしのぐ車輌は敗戦後の仙北鉄道キハ2406(92人)のみ。機関はウォーケシャ6MK、延べ14輌も戦前軽便では日本一である。

下津井鉄道カハ51下津井西尾克三郎撮影
下津井鉄道カハ51 下津井 西尾克三郎撮影 鮮魚台奥行きが700mmと狭いが

カハ53以降は855mmに拡大

戦時中は当然代燃で、この鉄道は途中2か所の峠があり、25‰勾配が延々と続くから、苦労は他鉄道より大きく、敗戦後電化したのも当然であった。淡路鉄道や栃尾鉄道とは違い、ガソリンカーの台車に釣掛式で30馬力×4個モーターとした。台車は鋳鋼製で、旧動台車は650+1,000mmの偏心台車だったが、そのまま使ったのである。改造は東洋電機だが、実際の作業は電機車輌株式会社なるところが手掛けたようで、出張工事だったかもしれない。

その後ナニワ工機で台車を新製して偏心がなくなり、前後荷台分車体を延長した車輌もある。

電化による蒸機全廃で、当初中古電機1輌の入手も予定したが、結局は貨車も電車が牽引た。この鉄道は客貨車の連結器は昔ながらの螺旋連環式、気動車はピンリンクから日車の簡易連結器に改めたため、大型のカハ50→モハ50型には、両方の連結器を装着し、精悍さが増した。1950年代では木製ボギー客車が健在で、ラッシュにはMTTTT編成もあった。その後の経緯は諸賢よくご存じだから省略する。

ところでこの鉄道は1925年1月22日、「起業目論見書並ニ工事設計概定書中一部変更」を願い出た。資本金50万円を60万円に増資、軌間1067mmへの拡幅と電化だけなら驚かないが、茶屋町-岡山間、すなわち宇野線の一部も「自前で」600V電化し、岡山-下津井間に電車を走らそうというものだったから、鉄道省は大騒ぎに。

運輸局、工務局は「将来運輸上ニ支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認ナサザルコトト致度」。電気局は「省(=鉄道省)ニ於テ岡山宇野間ヲ電化シ茶屋町岡山間ニ会社(=下津井)車輌ヲ乗入レシムル方技術上便利ト認ムルモ差当リ国鉄ヲ電化スルノ計画ナシ」と、潰してしまった。

結局は1926年4月20日「当線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態ニ御座候間可然(しかるべく)御処理相成度候」と取り下げ。どこまで本気だったか分からないが、その後の下津井自体の歴史にも記録がなく、ファンも一切書いていないのはどうしたことか。

下津井電鉄モハ50

下津井みなとはよ~、入りようて出よてな~と下津井節に謳われた下津井電鉄の出番です。
下津井の町の狭い道を思い出します。

下津井電鉄モハ50_NEW下津井電鉄モハ50(文)_NEW

「へっつい」と登山電車

25-2-22なかよし号停車中2
モデルは熱海駅前に保存展示されている「熱海軽便鉄道」7号機

昨年末、ネコパブ社より湯口先輩が執筆された「RM LIBRARY160 『へっつい』の系譜」が発刊され、購読された方も多いと思う。その中で営業線を引退した「へっつい」が横浜花月園内の遊覧列車に転用された写真が掲載されており、遊園地の乗物に転用できるほどの小さい機関車であったことが伺える。

小田原の遊園地に「へっつい」の形をした機関車が走っていることを知り、予てより見たいと思っていた。2月21日のこと、小田原での所用が、昼前に終わったので、駅の西口(新幹線側)より「いこいの森(わんぱくランド)」行のバスに乗車した。小型バス(日野リエッセ)は10人程の乗客を乗せて発車し、競輪場前を過ぎると山登りになり、尾根沿いの道にさしかかると右手に相模湾、真鶴半島が望まれ、水之尾バス停から人家が途切れ山道となり、15分で終点「いこいの森(わんぱくランド)」に到着した。

バス停のすぐ前が「わんぱくランド」の入口で、正面に「へっつい」の牽く「こども列車」の「エントランス広場駅」があった。列車は520m先の「冒険の丘駅」との間を7分で結んでいる。線路はエンドレスではなく、両端駅がループ線になっている。発車時間まで乗務員氏にお尋ねしたところ、動力は電気50A/100Ⅴで、集電は第3軌条方式とのことであった。要するに「へっつい形電気機関車」である。他に客がいないことを幸いに乗ってみたが、とても遊園地内とは思えないような所を走行した。どうせなら客車も本物っぽく作った方が良かったと思うが、そこまで望むのは無理であろう。帰りは撮影しながら歩いて戻ったが、足の速い人であれば走って追いかけながらの撮影も可能であろう。
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軌間中央の白いベルトはゴム製で、機関車の下に着いているタイヤがこの上を走ることで粘着力を増加させている。
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メーカーは泉陽興業と泉陽機工で2000年(平成12年)製である。
25-2-22 わくわく号
終点の 「冒険の丘」でロードトレインに接続している。
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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part3 弘南鉄道 大鰐線

第3日目 3月1日

① 弘前中央9:00→9:29大鰐9:50→9:56石川プール前
② 石川プール前10:36→10:44義塾高校前12:46→12:49石川
③ 石川14:39→14:53聖愛中高前15:53→15:58弘前中央
④ 中土手町(循環バス)→弘前駅→中土手町
⑤ 弘前中央17:30→17:34聖愛中高前18:34→18:38

今日は3月1日、暦では春ですが、本州北端の地はまだ冬の季節のまっただ中です。
朝から天候が期待できませんので、弘南鉄道大鰐線ロケハンと撮影です。ホテルのデラックスな朝食をたらふく食べてから向かいました。

大鰐線の起点弘前中央駅までは、ホテル前の坂道を下って約5分少々でした。
01_弘前中央駅01_弘前中央駅201_弘前中央駅3▲ 8:47に到着しましたが、電車はまだ入線していません。改札係のおばちゃまは、前回10月に来た時にリンゴをくださった方でした。ご挨拶しますとよく覚えておられて、「また来たね。今日は正常通り運転していますよ。でも、ラッセルは必要ないから運行しないでしょうね。」と申されます。

8:51、大鰐からの折り返しの電車が到着しました。
通勤客と思われる乗客が下りて来られましたが、都会のラッシュとは雲泥の差でパラパラです。
降車客が改札を通過してからの乗車改札です。待合室にはそんなに乗客はいなかったのに車内に入ると半分くらいシートに座っているお客があられました。途中駅は温かい待合室などありませんので、折り返し電車が待合室代わりなのかも・・・。

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