鉄道展「東北を旅して」開催中

 

本日から、佐竹さん鉄道展「東北を旅して」が、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町五条下ル)で開催されています。

設営時間は午前9時からの午前中のみ、時間内の作業完了が心配されましたが、そこは、応援に駆けつけたクローバー会の少数精鋭たち。開場の5分前には滞りなく終了し、午後から来場者を迎えることが出来ました。

東北の復興、鉄道の復旧を願った、この催し、多彩な展示の中で、とくに感慨深いのは、青森市で行った写真展が、そのまま展示できたこと、青森展にもお見えになった方が来場され「青森の時を思い出しましたよ」と言われたように、1000キロ離れた青森の地で味わった感動を再び味わうことができました。

明日11日は震災2周年、“祈念の集い”が行われます。会期は17日(日)まで。皆さんのお越し、お待ちしています。P1090252

開場後、さっそく多くの来場者、和やかな交歓が見られたP1090247

模型運転は、東北ゆかりの車輌が揃ったP1090237

“乙訓老人”の電車薀蓄を、ありがたく拝聴する会員たち

 

2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part2 津軽鉄道

第2日目 2月28日

① ホテル6:00(Taxi)→弘前6:34(JR)→7:19五所川原
② 津軽五所川原8:10(津軽鉄道3)→8:54大沢内(徒歩)→津軽中里
③ 津軽中里12:50(153)→13:00川倉(徒歩)→芦野公園15:34(156)→
④ 芦野公園15:34(156)→16:06津軽五所川原16:11(JR)→17:01弘前

13今日は5時過ぎに起床。支度を整えてホテルが宿泊者のためにチャーターしている無料TaxiでJR弘前駅へと向かいました。このホテルは、駅から歩くと坂道もあって約30分近くはかかりますのでこのサービスは、宿泊者にはとても便利ですね。

弘前駅では、今回も津軽フリーパスを購入しました。JRの他に津軽鉄道(金木まで)、弘南鉄道全線バスにも使えてとても便利です。雪飛ばしツアーの皆さんと合流するまでの間の2日間は、これで乗り鉄、撮り鉄に使います。
02_弘前ホーム

▲ 弘前駅のホームです。ラッセルされているのは、浪岡駅同様に乗降する場所のみがやっとのようで、後のスペースは雪山です。
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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part1 弘前へ

インドネシアのSL撮影ツアーでお世話になった神谷武志さんから3月2日、3日のひな祭りに津軽鉄道ラッセル車をチャーターしての雪飛ばしツアーを開催するので参加しないかとのお誘いを受けました。津軽鉄道は、昨年10月にリンゴとDCのツーショットを求めて撮り鉄に励みました。冬にはストーブ列車も乗ってみたいし、撮ってみたいと思っておりました。そして今回も巨匠、広田尚敬先生が参加されます。喜んでの参加を申し出ました。

ところが、2年ぶりのラッセルを牽引するDL機関車DD352号機の軸受メタルに不具合が発見されて部品交換等の準備手配をしていたが今年度中の復旧は不可能になったと、残念なお知らせが参りました。
しかし、参加希望者の方々にそれではどうするのかを聞かれた結果は、代わって弘南鉄道(大鰐線、黒石線)のラッセル撮影に振り替えて挑むこととなりました。

参加者の皆さんの行程は3月1日夜に弘前着です。時間に束縛されない失業者の私は、津軽鉄道も訪れてみたいと、例によって2日間前倒しで先乗りすることにしました。

第1日目 2月27日
① 伊丹10:30(JL112)→11:35東京12:30(JL1205)→青森13:50
② 青森空港14:05(リムジンバス)→14:18浪岡BS
③ 浪岡14:30(JR)→14:47弘前15:00(弘南鉄道)→15:19津軽尾上
④ 津軽尾上15:30→15:32柏農高校前16:02→16:19弘前

01_青森空港出発当日までの弘前は、観測史上最高の積雪量153㎝を記録、今シーズン最悪の気象状況となり、行くこと自体危ぶまれましたが、当日は雪も止んで快晴となり到着できました。

02_リムジンバス03_青森空港~浪岡BS 続きを読む

Re.備南電鉄→玉野市営電鉄について

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三井造船所前付近を走行するキハ102/(44-3-18) 検査中のキハ103と廃車後放置状態のクハ201が見える。

「昭和の電車」は、しばらくは山陽地方の小私鉄とのことで下津井電鉄、尾道鉄道、広島電鉄、山陽電軌が続くと思われるがで何が登場するのか楽しみにしている。

今回の備南電鉄について、早速湯口先輩より貴重なモハ102、103の写真と共に解説があった。電車から気動車に切り替わったのが昭和39年12月のため、我々団塊世代では電車時代の撮影は、地元に居住してかつローカル私鉄に興味がないと難しいと思われる。
私自身は、気動車化後の40年8月18日と44年3月18日の2回訪れている。

湯口先輩の補足と、その後の経過について述べてみたい。備南電鉄は、宇野~児島~水島間(31.4㎞)結ぶ目的で、昭和25年4月1日に設立され、28年4月5日宇野~玉間3.5㎞を開業した。この時用意された電車がモハ101、102、103の3両であった。
湯口先輩の解説通り、曰く因縁付きの車両で、蔵王高速電鉄が山形~上山間の開業にあたり日立製作所に5両(モハ3両、クハ2両)発注したが、朝鮮戦争による物価の高騰により工事が中断したためキャンセルになった車両(モハ3両)である。クハ2両は十和田観光電鉄のクハ2401、2402になり、モハ2401、2402を同形で新製して同社に納入したという噂を聞いたことがある。H.K生さんがコメントされている通り、スタイルがそっくりであることは事実であるが真偽の程は不明である。

経営難により31年3月24日付で玉野市に移管され、その後「玉遊園地前」まで延伸され営業距離が4.67㎞になった。この間に駅が11カ所、信号所が1カ所あり、駅間距離は路面電車並みで、高速運転用電車や気動車の使用は不適切であった。

湯口先輩に続き、西村雅幸氏が投稿されており重複する部分もあるが、訪れた時に撮影した写真を貼り付けた。

【気動車】
昭和39年11月17日より運転を開始し、12月24日に全面的に切り替えた。当時のピク誌「読者短信」に電車+気動車のMD編成の写真が掲載されていた記憶がある。
業績悪化により電車から気動車に転換した鉄道は、池田鉄道、栗原電鉄→くりはら田園鉄道、羽後交通御雄勝線等何件かあるが、いずれも転換後数年で廃止されている。

キハ101/上(40-8-18) 三井造船所前 下(44-3-18) 玉遊園地前
三岐鉄道より関西線四日市乗入れ中止により余剰になったキハ81を購入した。昭和9年日本車両製で元鉄道省キハ41097として新製し、26年8月に譲受け、翌年の27年9月エンジンをDMH17に換装した。入線時に変速機を液体式に変更した。
98-25.kiha101.65.8.18.maru
44-3-18 101玉遊園地

キハ102・103
昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道からジハ102、102を譲り受けた。25年汽車会社製で片側(玉遊園地寄り)に荷物台が設置されており、戦後製の気動車で荷物台付は珍しい。変速機は熊延鉄道時代、33年に液体式に変更されている。
キハ102/(44-3-18)  大聖寺前
44-3-18 102
キハ103/上(44-3-18)  三井造船所前車庫で検査中 中・下(40-8-18) 玉
103 44-3-18
98-20.kiha103.65.8.18
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玉野市営をなつかしむ

会長様のお誘いに乗り、湯口先輩の後塵を拝しつつ 昭和44年8月時点と平成21年12月の状況をご報告します。学園紛争で騒然としていた昭和44年の夏、別府、岡山電軌、井笠、水島、下津井、玉野、岡山臨港と山陽路の私鉄めぐりをしたあと KAWANAKA氏と呉線にC62、C59を追いかけ夏バテしたことを思い出します。四国連絡の大動脈であった宇野線ですが、電化されてはいましたがD51牽く貨物列車も走っていた時代でした。宇野駅からまず終点の玉遊園地前まで行きましたが、住宅地の児童公園の横で線路はプツンと終わっていて 予想していた終着駅のイメージとは全く違っていて驚きました。

終点玉遊園地前のキハ101

終点玉遊園地前のキハ101  車掌は発車までタバコ休憩 右手が宇野方面

さて40年後の平成21年12月に現地を訪ねてみました。プラットホームは勿論ありませんが、ガードレール、送電鉄塔やその手前の2階屋などが当時と変わっていないのには また驚きでした。

平成21年12月28日の玉遊園地前

平成21年12月28日の玉遊園地前

このキハ101に揺られて車庫のあった玉造船所前まで戻りました。三井造船玉野造船所に隣接した小さな車庫で、この日は庫外にキハ103、庫内にキハ104休んでいて、すぐに撮影終了。また造船所側の側線にはクハ201がみじめな姿をさらしていました。

熊延鉄道から来たキハ104

熊延鉄道から来たキハ104

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備南電気鉄道→玉野市交通局

備南電鉄モハ103宇野1952.12.24大橋一央 関センセ紹介の、宇野から発する備南電気鉄道は、玉の三井造船所に至る専用鉄道として建設されたが、途中で敗戦、放置されていたものを、1953年動力電気で開業した。電車は日立1951年製モハ101~103の3輌ポッキリ。これは元来山形から上ノ山温泉に至る12.642kmの蔵王高速度電鉄(1948年5月7日免許、1949年7月2日工事施工認可。他に半郷-高湯間13.200kmの免許線あり)が発注した車輌と思われるが、1960年11月15日許可で起業廃止している。

この3輌の電車は1952年末にはパンタもない姿で宇野に放置されていた。この「出物」のお蔭で、備南が開業に至ったと思われる。宇野-三井造船所前3.5kmが1953年4月5日、玉まで0.2kmの延長が1955年9月10日。途中離合設備もなく、進水式などでの突発的乗客増では3輌連結し、プラットホームが1輌分しかないので3回に分け乗客扱いをしたとか。のち野上電鉄クハ102(←デハ102←デハ7)がクハ201として加わっている。

備南電気鉄道モハ102宇野1960.2.18
備南電気鉄道モハ102 1960年2月13日宇野 湯口 徹撮影 ネオパンシンドロームで見る気もしない悲惨なネガを何とかここまで回復

しかし赤字が積み重なって行き詰まり、1956年3月24日玉野市が譲り受け、1960年8月3日には玉からさらに遊園地前まで1.0km延長。この区間は市街地のため用地がなく、街の中央を流れる浅い白砂川の中にコンクリートの工作物を造り、その上にレールを敷いた。橋梁とは河川を横断するものだが、これは川の流れに沿って縦断する、世にも不思議な構造物である。なお宇野-玉野高校前間にはトンネルがあり、無人の離合設備も設けられ、2個列車走行が可能になった。

玉野市交通局キハ101-1965.4.11
白砂川(名前が泣く汚いドブ川)の中を縦に走るキハ101 1965年4月11日湯口 徹撮影  橋の数だけ踏切が出現 架線はまだ外してない

河川所管の建設省は、その断面を減ずることには無茶苦茶神経質で、かような工作物は原則許されないはずだが、なぜか罷り通ったのは、地元選出大物議員=建設族の、星島二郎の横車かと思われる。

それがまた経営不振で赤字を積み重ね、1964年10月8日動力変更認可、11月17日以降電車をやめ中古ディーゼルカー4輌に代替した。キハ101~104の前身は三岐鉄道キハ81(←国鉄キハ41097)、熊延鉄道ヂハ101、102(新製)、103(←島原鉄道キハニ104)である。

しかし経営改善には至らず、1972年4月1日廃止。両備バスに代替した。なお備南電気鉄道は水島までの免許も取得していたが、もちろん実現していない。白砂川の工作物は、廃止直後にはバラスが残り、自動車が置かれたりしていたが、今はどうなっていることか。

備南電鉄モハ100

関先生によりますと、今後しばらくは山陽地方の小私鉄シリーズと言うことで、西村さんはじめ湯口先輩や乙訓の長老様達の出番が多くなるでしょう。
最初は「備南電鉄」という聞き慣れない私鉄です。母の実家が倉敷なので宇野線沿線へは良く出かけましたが備南電鉄は知りませんでした。でもよく読むと玉野市営になった、とのことで、これなら名前だけは知っています。当時は私鉄に興味がなかったため見ることは致しませんでしたが、いまになって悔やんでおります。
後に琴電へ移ったと言うことなので乙訓の長老などはご覧になったことがあるのでしょうか。また、玉野市営では中古のディーゼルカーを購入した、とあるので、これなどは湯口先輩が先週に引き続いてご出座されるかもしれません。よろしくお願い致します。

それにしても関先生の資料はどれほどあるのでしょうか!

備南電鉄モハ100_NEW
備南電鉄モハ100(文)_NEW

伊勢志摩ライナー赤

伊勢志摩ライナーリニューアル車の赤色を載せます。曇りの日で多少条件が悪いですが、写真映りはいいようです。実際にはあまりきれいとは思えないボテッとしたイメージがあります。近鉄標準色のレッド?とも違うようですがその内慣れてくるでしょう。

伊勢志摩赤

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part15 帰路・帰国

第16日目 1月7日

漠河 前日22:26(2668次)→23:00哈尔滨

01_朝食03_昼食車中で目覚めると雪原地帯を走行していました。今日は、食堂車が付いていますので温かい食事の車内販売が回ってきます。
朝食は、お粥定食15元(約200円)です。列車受持ちの鉄道局によって、麺もあったりしますが、お粥は定番ですべての列車で用意されています。違っているのは惣菜等です。
かつては食堂車でバイキングを用意してあったこともありましが、最近は見かけなくなりました。食堂車に行っても注文できるのは、このお粥定食のみです。

昼食は、同じく車内販売の弁当にしました。25元(約350円)です。食堂車内では、1品単位をオーダーできますが、注文しても車内販売の弁当を作り終わってからになります。量も多いので多人数で一緒に食べる時には4~5品頼んで楽しめますが、夜食時の方が良いですね。
03_昼食3

 

夕食です。毎度即席の手書きメニューでしたが、この列車では珍しく印刷された物が出てきました。肉と魚料理を注文しました。哈尔滨鉄路局受け持ちだけあって、見た目濃いめ東北料理の味付けでした。やはり成都鉄道局受持ちの食堂車に勝る料理は出てきませんね。

03_昼食2 続きを読む

春3月 会員イベントふたつ

佐竹さん鉄道展「東北を旅して」(その5)

被災した東北地方の一日も早い復興と、鉄道の復旧を願って、佐竹保雄さんが、折々に開催されてきた「東北を旅して」展も、5回目を迎えました。今回は、とくに昨年秋に青森市で開催の写真展「青森を走った汽車・電車」の再展示を行います。遠隔地の開催のために写真展を観覧できなかった会員の皆さんには、またとないチャンスです。また、震災2周年の3月11日(月)には、祈りの集いもあります。お越しをお待ちしています。

◎会期 3月11(日)~17日(日)11~17時 10日のみ13時開場  

◎会場 ひと・まち交流館京都 展示コーナー     ※入場無料                                                        (京都市下京区河原町五条下る東側、市バス 「河原町正面」前)

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 青森での写真をフルラインナップで展示

西村さん「昭和40年代の浜大津周辺模型」

これまた昨年秋、多くの来場者に共感を呼び起こした、西村雅幸さん制作の浜大津駅周辺のジオラマが、再び浜大津に帰ってきます。「大津百町大博覧会-博物館とまちなかで歴史探検!!」のテーマのもと、旧大津公会堂で開かれる展覧会に、“昭和40年代の浜大津周辺の復元模型”として再登場します。そのほかにも、浜大津周辺の写真・地図が出展されるとのことで、たいへん興味深そうな展覧会です。

◎会期 3月16日(土)~4月14日(日)9~17時  月曜・3月21日は休み

◎会場 旧大津公会堂3階(大津市浜大津1-4-1 京阪浜大津駅東)※入場無料121103 (24)

 ▲浜大津のかつての賑わいが再び見られる

相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

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しまかぜ 他

伊勢志摩しまかぜ本日、しまかぜの試乗列車が走るとのことで伊賀神戸へ行ってきました。近鉄沿線に住んでいながら実物を見るのは初めてです。詳細はこれからも紹介されてくると思います。ついでといってはなんですが伊勢志摩ライナーのリニューアル車も撮りました。黄色の場合は外観上大きな変更はありません車体下部のラインの色が変わったのと側面にロゴが入ったくらいです。しまかぜの方は初日の指定券も20分程度で売り切れたようで今後の乗車会が楽しみです。

北海道のたび

1月31日から2月4日まで北海道に行ってまいりました。北海道には学生時代に夏、冬各1回、その後家族旅行で足を踏み入れたものの、それからもう20年以上経ってしまいました。今回行くにあたり、一番の目的は釧路湿原を走るSL湿原号を撮ること、それに函館、札幌の市電の撮影など、雪の風景と一緒に北海道の冬を実感してみたいと思いました。

函館市電と摩周丸

函館空港から湯の川までバスで行き、湯の川で市電の1日乗車券を購入、途中下車しながら函館駅まで行きました。1992年1993年の一部廃止で系統は2番,5番の2系統に減りましたが、この2系統が夜間を除き12分毎に運行しており、両系統が重複する湯の川と十字街の間は6分ヘッドで頻繁に来る感じがします。但し、2009年の時刻表を見ると10分毎の運行になっていて、こ2,3年で減便されたようです。それでも車内は立ち客も多く、特に五稜郭公園から函館駅の間は地元客の利用が多く、函館駅から西の区間では観光客の利用が多いように見受けられました。現在走っている車両で一番古いものは1948~50年に製造された500形で、これを撮りたかったのですが、残念ながら撮影できず、1両だけある800形を撮影することができました。五稜郭公園にて

五稜郭公園にて

最近は広告のラッピングされた車両の多い中、広告のない旧塗装で、やはりこの塗装が函館の町にはしっくりときます。 続きを読む

東急渋谷の記録今昔

昨今の鉄道写真はイベント列車ややらせの写真が多く、うんざりする。その点、天野克正さんの作品は日常の普段着の世界。予め計算されていたのか難しい逆光線をうまく使っておられ、蒸機ならではの味わいがある。天野さんの作品は当時のDRFC明徳館地下1階写真展では傑出していた。心からご冥福をお祈り申し上げます。デジ青ではどですかでんさんが蒲原電車の同種と思われる他社車両について研究し、助言を求められている。もとより私の如き単なる撮り鉄にはわからない話であるが、それでも大変興味深いものがある。さらなる研究発表を期待したい。

さて、本題であるが、先日、電車少年こと乙訓の老人さんが武州詣でに来られ、@ロギング太郎さん、藤本哲男さんと同行した。池袋より東上線急行に乗車し、越生の梅林も見ず、八高線、西武新交通システム経由で駆け足旅行を終え、渋谷道玄坂近くの高級中国料理店で宴を催した。宴に先立ち、老人さんより「この辺に玉電の渋谷駅あったな、確か谷底のような駅や」と言われ、東急、京王、営団(現メトロ)が共同開発した渋谷マークシティの道玄坂口をご案内した。玉電は1969年5月10日に渋谷~二子玉川と砧線を廃止、残存しているのは三軒茶屋~下高井戸の現在の東急世田谷線であるのは皆様ご存じのとおりである。因みにゲージは京王線と同じ1372ミリである。廃止日である1969年5月10日に撮った装飾電車デハ65の写真がある。左に井の頭線3000系が見えるが今はこのような野ざらしのホームではない。当時は4両編成で急行がない時代である。右に僅かに見えるのは営団(帝都高速度交通営団、現東京メトロ)銀座線の折り返し用引き込み線。↓s-1969.玉電渋谷花電車

これが谷底の駅玉電渋谷で停車中の電車は200形204は中間1軸の連接車。右には営団銀座線の車両が見える。多分2000形と思うが定かではない。廃線後はバスが利用し、奥にはターンテーブルがあった。↓

s-1969.玉電渋谷200

東急渋谷駅と言えば3月16日に東急東横線が東京メトロ副都心線と相互乗り入れを行うのに伴い廃止される。このため、私もその一人であるが、連日カメラを構える人で賑わっている。  ターミナル駅全体を撮り、思い出とするのが一般的であるが、マニアは現在習熟を兼ねて営業運転に入っているメトロの車両を今後見られなくなる渋谷~代官山間で記録することに主眼を置く。走らない日もあるので注意が必要である。写真は本日3月1日渋谷駅1番線に到着したメトロ7029の東横特急の到着シーンである。↓

s-13.3.1渋谷メトロ7029

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相模鉄道クハ1110

この車両が相鉄のクルマとはしらなんだ。日立のオリジナル車両だと思い込んでいました。

相模鉄道クハ1110_NEW
相模鉄道クハ1110(文)_NEW

瀬戸内だより

広島からニュースを2件お届けします。

「トワイライト 呉線を走る」 

去る2月19日に続き、本日もトワイライトエクスプレスの車両を使った団体臨時列車が岡山から呉線経由で広島まで走りました。「トワイライトエクスプレス車両で行く瀬戸内ランチクルーズ」と銘打った企画ツアーで、食堂車での食事がウリのようです。3月以降計6回走るようです。3月19日、28日、4月2日、9日、5月21日、6月4日に予定されています。呉線に電機や客車が走るのは久しぶりで、平日にもかかわらず、レンタカーで追いかける人たちも大勢いました。私の撮影場所は須波ー安芸幸崎間です。来月以降は宮島口まで延長運転されるそうです。この企画ツアーの帰路は新幹線利用なので トワイラはセノハチを越えて空車回送されるはずですが、この回送ダイヤが不明です。田舎町では「ダイヤ情報」が手に入らないので、どなたか教えてください。IMG_6572-1

「ドルトムント電車レストラン 3月末で閉店」

千田町の広電本社前で営業してきたレストランが残念ながら店じまいするそうです。KAWANAKAさま お急ぎください。

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天野克正君の作品

冬隣
『冬隣』

家路
『家路』

雪の晴れ間
『雪の晴れ間』

信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。

筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。

写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。

彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。

筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part14 中国最北端の北極村 その3

第15日目 1月6日
漠河22:26(2668次)→翌日23:00哈尔滨

01_北極村今日は北極村での3日目です。ゆっくりとくつろぎました。夜には、夜行列車で哈尔滨へと向かいます。
小竹先生は、朝食後すぐに朝の村の様子を撮りたいと出かけられました。私は、部屋でゆっくりPCで中国鉄路の列車残席情報のチェックです。
と、言いますのも哈尔滨に戻った後、東方江等の国境の町に向かいたいのですが、往路の切符はあるのですが復路がなく、何処にも行くことができません。切符発売の12日前から同じ状態が続いていて、ネット上で検索が不可能状態です。春節は2月10日ですので、民族大移動にはまだ早いと思われます。站で切符を押さえているのか何か理由がありそうです。

03_02_温度9時過ぎに先生が返ってこられ、今度は山の方へ行こうかと言われ付いて行きました。麓には民俗村もありましたが、冬は閉館です。山頂からはアムール川とロシアが見えるそうです。しばらく登りましたが、私はしんどくなってギブアップしました。老体には雪深い登山は無理です。麓の山小屋でストーブにあたって休憩です。外温はマイナス28℃です。山小屋の番人は、昨夜はマイナス38℃だったと言っていました。陽が昇りだすとすぐに温かくなるそうです。

04_魚売り 続きを読む

天野克正君死去

1977.61977.11974.11

天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。

彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。

写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。

家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part13 中国最北端の北極村 その2

第14日目 1月5日

01_外温02_日の出7:30、中国最北端の北極村で極寒の朝を迎えました。温度計を窓の外に出して外温を測ってみましたが、マイナス28℃とそれほどではありません。深夜にはもっと下がったでしょうが、哈尔滨に着いた時の漠河は、マイナス46℃でした。大寒波に見舞われたそうですが、以降は温かくなったようです。今日と明日は、北極村で極寒の世界を堪能する予定です。朝食後、早速に村の様子を見に行くことにしました。
03_国境警備隊今日の記事にはが出てきません。1月6日と合わせて北極村紹介とさせていただきます。ご了解のうえご覧ください。

最初に訪れたのは、国境警備隊の建物でしたが、門衛はいません。北朝鮮との国境とは雲泥の差です。これを見てもロシアとの緊張感がないことが分かります。

04_国境 続きを読む