工房便り D50の制作(3)

前回の投稿からあっという間に一月経ってしまいました。前回までで足回りの目処が立ちましたので今回は上回り、主として給水加熱器回りの太いパイピングを中心に、それに関連する工作をご紹介します。苦労して叩き戻したサンドドームでしたが、どうやら高さも高すぎたようで、結局約1mm高さを低くしました。幸い、断面がほぼ同じ部分がありましたので水平にスライスし、再度ハンダ付けで接合しました。ただしこれも1度では決まらず、2回切り接ぎましたのでご覧の通り、継ぎ目が現れています。同時にロストワックス製の蓋と砂撒き管元栓をつけておきました。なお、当社では煙突、ドーム類などに限らず、可能なパーツは出来る限りねじ止めするように心がけています。手順によってはあとで取り外す必要がでてくるからです。

シリンダーブロックの側板にシリンダ排水弁をつけ、シリンダーブロックに仮留めしたところです。ご覧のようにロストワックス製のこの排水弁はとても良く出来てはいるのですが、強度不足でご覧のようにすぐに曲がってしまいます。スケールだけを重視した製品にありがちなこの問題は困ったもので、後日裏側に補強を添えることにします。

フロントデッキには給水加熱器がつきました。ネジの頭が見えていますが、パイピングで隠れてしまうでしょう。シリンダーブロックの真上、ランボード上に突き出しているものはD50特有のバイパス弁の一部です。通常のデフレクターなら省略しても隠れてしまうところですが、門鉄デフではそうはいきませんね。ただし、少々オーバースケールとなっています。

非公式側、給水加熱器へのパイピング中。蒸気管、給水管は布巻きを模した製品で、B6では極薄の帯を真鍮線に巻き付けましたが、ショップでこれを見つけ、今回使ってみました。缶廻りのパイピング が終わっていないので、ハンドレールはノブに差し込んであるだけです。そのため、管支えの位置もずれています。
煙突は実物同様少し延長してあります。7mmのパイプがジャストフィット。前照灯も250Wの大型を奢りました。
ボイラーサイドの給水用逆止弁は下側から入って横に出るタイプ。長い間パーツ箱を暖めていました。

公式側。逆転棒、缶梯子、冷却管、そして砂撒き管もつきました。

これで随分出来て来たように見えますが、まだまだ工作が 残っています。キャブ下の主台枠後部が最大の難関です。次回は従台車廻りと共にご紹介しましょう。(つづく)

2010年 早春の中国一人旅 Part8 芭石鉄道 菜子坥→楽山

第9日目 2010年3月10日

① 蜜蜂岩站6:32(第1次)→6:47蜜蜂岩站
② 菜子坥站10:20-(バイク)→10:25蜜蜂岩站
③ 蜜蜂岩站11:30-(第2次)→11:40躍進站
④ 三井バス停12:00-(バス)→12:35犍為バスターミナル
⑤ 犍為バスターミナル13:00-(白Taxi)→14:30楽山市
⑥ 楽山市14:30-(自転車Taxi)→14:50安逸158連鎖酒店

蜜蜂岩站で撮影すると言うご両人を残して、始発第1次に乗車して、菜子坥站で降りました。ロケハンでマークした3ケ所での撮影です。
今日は、楽山市のホテルに予約を入れていましたので、余裕を持って、菜子坥站11:28発の第2次下りの乗車する必要性があります。3ケ所を撮るには、貨物列車の運行が必要不可欠ですが、前もっての確認方法が分りません。

芭沟であれば、踏切番か、トンネル番を探せば、少なくとも当日の運行情報は、分るはずです。菜子坥もスイッチバック站ですので、駅員に聞けば、この日の運行ぐらいは、確認できなければおかしいと思いますが、聞いてもはっきりとした返事が、返ってこないのです。

私が中国語堪能でないから、正しく質問して、正しく聞けていないのかと言うと、そうでもありません。1月に来た時に旅行社の通訳が質問した時も、走ると聞いた観光列車が、実際は運休でした。どうすれば、分るのか、今回も課題として残りました。

▲ 7:45 気に入っていた菜子坥站~仙人脚站で、第1次下りを撮った後、登って来るであろう石炭列車を待ちましたが、推定通過時刻になっても汽笛すら聞こえません。蜜蜂岩站にいる、ご両人の通訳の鄧さんの携帯に電話しますと、今日は、登って来ていないとの返事です。

仕方がありません。お腹がへっていたので、菜子坥站近くの部落に入り、麺を美味しそうに食べていたおばちゃまに、同じものを作って欲しいと頼みましたら、『いいよ』と、気楽に引き受けてくれました。
一応、10元=約140円を支払いましたが、家庭料理で大変美味でした。

▲ 10:22、芭石鉄道での最後のカットを撮った後、民宿の主人に電話して、前回乗ったバイクでの迎えを要請しました。
快く要請を受けてくれたご主人のバイクにまたがり、約3.5キロを下りました。途中で、ご両人と通訳に会いましたが、すれ違いで言葉を交わす事ができなく、挨拶だけでした。歩けば、40分以上は、必要ですが、線路横の犬走りを走り、約15分で到着しました


余裕を持って11:30発の第2次に乗車できましたが、これからが、また大変でした。終点の石渓站からバスは遠いので、1つ手前の躍進站で下車しました。楽山に行くバスターミナルのある犍為まで、小型バスが走っています。
バスに乗って、犍為バスターミナルまでは、約30分強です。小型バスので、犍為に近づく度に、乗客が乗り込み、超満員になりました。

1月に宿泊した犍為は、田舎町かと思っていましたが、昼間見ると、通りには、食堂や商店、人も多く、活気のある大きな街です。聞けば、人口約60万人と、言っていました。
着いたバスターミナルは、引っ切り無しにバスが発着して、待合室は大混雑です。丁度、昼飯時なので、ターミナル前のリヤカーの屋台を覗いて見ました。熊笹に巻かれたお餅がありましたので、直ぐにゲットしました。初めて食べましたが、これが中々美味しいのです。追加をして、満腹になりました。

こんな所で、日本人が食しているのは、珍しいのでしょう。周りを取り囲むように、おばさん達がやってきて、いろいろと聞きますが、残念ながら、さっぱり分りません。

白タクの客引きも来て、楽山まで相乗りで、20元=約280円で、どうかと聞いてきます。来る時は、260元=約3,640円でしたので、これは、格安です。直ぐに、荷物を持たせて、車に行きました。車は、しばらくすると発車しましたがゆっくりと走り、相乗り客を探しますが、中々いません。

犍為郊外にある眠江の橋を渡って、運転手が諦めかけた時に、ようやく客が見つかりました。工事中で渋滞する楽山までの国道を走り、1時間半で楽山市内に入りましたが、運転手さんホテルが分りません。
どうするのかと思ったら、自転車タクシーを呼び止めて、乗換えです。約15分の乗車で、14:50に、ホテルに着きました。芭石鉄道も蜜蜂岩站から、約3時間20分の所要時間でした。

このホテルは、インターネットが無料で使用できます。まずは。久しぶりにシャワーで、身体を洗って、衣類の洗濯と、仕切りなおしをしました。

ただ、このホテル、楽山の市内から遠くにあって、周りには、酒屋があるだけで、食堂も商店も見当たりません。C級グルメを諦め、ホテル内のレストランで、夕食を済まし、明日の沙湾行きに備えて、石渓に行く時に乗ったタクシーへ、一日貸切の予約を入れました。 Part9 へ続く

2010年 早春の中国一人旅 Part7 芭石鉄道 芭沟~菜子埧

第8日目 2010年3月9日

① 蜜蜂岩站6:32-(第1次)→7:10芭沟站
② 芭沟站-(徒歩)→焦埧站-(徒歩)→仙人脚站-(徒歩)→菜子坥站
③ 菜子坥站16:10-(第3次)→16:25蜜蜂岩站

昨夜は、大牟田市から来られたA・Kと、犬山市から来られたM・O氏、そして、芭石鉄道を案内してもらうために、遠く寧夏回族自治区の銀川市から、ご両名が呼びよせた、鉄ちゃんでもあるツアーコンダクターの鄧有貴さんと一緒に、中国鉄路の撮影談義に盛り上がりました。

A・K氏は、1993年から中国鉄路に魅入られ、30回以上も訪中して、撮影を続けておられる猛者。M・O氏は、6回目ですが、熱意たるもの相当な方でした。

鄧氏とは、以前からインターネットで知り合い、今回も日本人2名を引率して来られる事を確認済みでした。しかし、お会いするのは、初めてでした。中国鉄路のSL撮影専門のツアーコンダクターで、今まで数多くの日本人を中国各地に、案内されておられ、経験豊富です。

従って、最新現地情報は、熟知しておられますので、もし訪中される方がいらっしゃいましたら、ご指名されると良いと思います。費用は、それなりに必要ですが、何処へでも飛んで来てくださいます。
▲ 馬氏は、英国人の案内人です。英語が堪能な方は彼を、日本語のみの方は、鄧さんをご指名してください。どちらも、甲乙付けがたい熱心な鉄ちゃんです。

ご両名は、上海で合流されて、成都までは、空路で入られ、1週間のご滞在です。お二人ともビール好きで、昼間から水のように飲んでおられました。私も好きですが、今回は、長く歩くので、年齢を考えて、撮影後の楽しみにしました。

▲ 7:22 第1次、芭沟站到着。7:38、折り返しの下り列車、第1トンネルを出る。右側の小屋は、列車が走行する際に、トンネルに人が入らぬように注意するトンネル番人です。踏切番と同様に、通過時には何処からか現れます。

今日も一緒に始発列車で出発、芭沟を目指しました。朝の天気は、いつもと同様の雨です。ご両名とは、芭沟站で別れ、私は、第1トンネルを抜けた場所で、折り返しの石渓行き列車を待ちました。

撮影後は、朝食を食べに、芭沟の青空市場に行きましたら、食堂で、またお会いしました。小さな町ですので、食べに行く所は、まあ決まっています。お粥とマントウで3元=約42円です。昨日の朝食より、雰囲気もよく、美味しく格安でした。
▲ 魚、肉、野菜等々の朝市が広場で開催されます。芭石鉄道沿線の人々は、ここで新鮮な食料品を調達します。

他に、ミシンを持参して、靴や衣類の製造や修理もやっていました。

ご両名が、定番の撮影地、溜池に先に向かわれた後、青空市場を散策していたら、突然にSLの汽笛が聞こえました。どうやら、不定期の貨物列車が、今日は運行されたようです。站へと急ぎ、売店で通過したのを確認後、第1トンネルに向かうと、どこからか、踏切番が現れて、踏切の遮断機が降ろされていました。

折り返しの列車は何時に来るのかを聞きましたが、直ぐに来るだけの返事です。トンネル上に登って、待ちました。

9:18、石炭列車、芭沟を通過。芭石鉄道の踏切遮断機は、全て手動式です。

次の撮影予定地は、上り列車が、第2トンネルを出た所です。少し長い第1トンネルを地元の人と一緒に抜けて、向かいました。ここでは、トンネルも日常の生活道路です。

▲ 10:58 第2トンネルを出る、上り第2次▲ 11:16、第1トンネルを出て、第2トンネルに向かう下り第2次。

今日は、足の痛みが、幾分消えました。しかし、無理は禁物です。ゆっくりと歩き、昨日、休憩した焦埧站に、11:40到着。中国語を教えていただいた雑貨店のおばさんは、近所の人3人で、何か分りませんが、中国版花札のような物で、遊んでいました。この辺りでは、2人寄れば、トランプ、3人寄れば花札、4人寄れば麻雀をする。成都に近づくと、麻雀の音がするというぐらいゲーム好きな人々が多いそうです。

焦埧站から約8分で、観光列車のみ停車する溜池の站に到着しました。
芭石鉄道一の大築堤がある撮影地の山を登ってみましたが、最高部まで行っても、背景に菜の花畑はありません。
そうなんです。菜の花は、種を秋に蒔かないと、咲きません。毎年、菜の花畑の位置は変わっています。残念ながら、今年この地区には、種が蒔かれなかったのです。

今日も撮れる列車は、後3本です。買っておいたソーセージ等で昼食をとりながら、ここで撮ろうか、どうしようかと思案しましたが、今回はパスしました。

再び、徒歩でのロケハンを続けました。気に入った撮影地は、第4トンネルを出た背景に菜の花畑が見える場所でしたが、約2時間半もあります。時間つぶしが必要です。仙人脚站まで歩き、焦埧站と同様に、駅構内の雑貨店前の椅子に腰掛けて、寒くなってきましたので、火鉢にあたりながら、おばさんとの中国語勉強を始めました。

▲ しばらくすると、どこからか、地元のイケメン高校生がやってきて、バトンタッチです。聞けば、今日は学校が休みで、犍為の寄宿舎から自宅に戻ってきていると言います。

芭石鉄道沿線には、小学校が菜子坥站近くにありますが、中学校以降は、石渓站からバスに乗って犍為の町まで行かないとありません。授業時間は、8:00~21:00までですので、自宅からの通学は無理です。学生は、寄宿舎で合同生活をします。

彼との会話は、自己紹介に始まり、何処から何をしに来たか、学校で勉強した日本を、いろいろと聞いてきます。分らない言葉は、電子辞書を開けて、ノートに筆談です。

丁度、撮影に良い時刻になった頃、彼の友達が呼びに来ました。再見と次回の再開を約束して、撮影場所に向かいました。

▲ 15:20 上り第3次の撮影が終わった後、次の撮影地の菜子埧站までの、約2キロ強を約40分余りかけて、ロケハンしながら歩きました。

菜子埧站到着の菜の花畑の下り第3次を撮影後、すぐにその列車に乗車して、蜜蜂岩站に戻りました。

▲ 16:18 蜜蜂岩站到着。この站でのの撮影を忘れていましたので、第4次も含めて、発着を撮りました。

まだ、ご両名は撮影に没頭されているようでしたので、1本3元=約42円ビールを飲みながら、待ちました。今夜も4名だけの宿泊客の民宿です。

もう少しは、芭石鉄道での撮影を続けたかったのですが、既に明日のホテルを予約しています。鉄路切符も購入していましたので、予定変更が出来ません。今回、撮れなかったシーンは、来年に残しておこうと、決めました。

民宿の主人に明日の出発を伝えて、宿賃を支払いましたが、4泊と1朝食4夕食の合計は、210元=2,940円でした。ここに来るには、大変な苦労が必要ですが、短期滞在だけでしたら、多少散財しても、福澤諭吉さん1枚でお釣がきます。

この夜は、撮影した画像を見せ合いながらの昨日にも増して、盛り上がった夕食兼宴会タイムでした。 Part8 へ続く

京阪100年展、紹介記事転載

4月7日京都新聞の朝刊に掲載された記事の転載です。京都新聞を見られない会員に見ていただきたく思います。

2010年 早春の中国一人旅 Part6 雨の芭石鉄道

帰国後、桜前線を求めて、九州、四国とぶんしゅう7号と旅にでました。その間、投稿ができずで、間が空きましたが、芭石鉄道の続編を掲載します。

第7日目 2010年3月8日

① 蜜蜂岩6:52-(第1次)→7:32黄村井
② 焦埧15:40-(第3次)→16:04蜜蜂岩

今日も早起きして、英国人親子&通訳と一緒に、6:32発(実際は、20分延着)黄村井行きの始発列車に乗車しました。彼らは、次の菜子埧站で下車しましたが、私は、終点まで向かいます。

▲ どの站も土日を実家で過ごし、寄宿舎へと向かう中高生が、始発の石渓行きを待っていました。左は、焦埧站、右は、芭沟站です。
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教えましょう【7658】

彼の家の裏の線路際です。

但し、ストリートビューのない時代、1965年10月16日の撮影です。この次のコマが、蒸機が金色に輝いて見え、ピク191号D51特集に掲載された有名な写真です。4,5人が蒸機の接近に慌てて、彼の家の木戸を開け撮影に走ったのですが、できたのはこの撮影者のみ。自慢作の一コマ前がこれです。彼の家も写っているでしょう。
列車は小荷物2045レ、D51145【奈】+D51934【亀】

次にも彼の家が写っています。上の写真と共に、スキャナーの苦手な軟調写真です。ゴミ箱に入っていたのですが、ひょんなことから復活しました。この撮影日は精査中です。上の写真とは、2階や物干し台の様子が異なります。理由は判りません。D51145【亀】単機回送です。

これらの写真は24日に持参すべく考えていたのですが、【7658】との行き掛かり上、先んじて公開します。また、この他にカラー写真が1枚あります。数人の青年と共に、彼の家の屋号が写っています。肖像権(これとて50年の時効寸前で問題になるほどの代物ではありませんが)もあり、24日に持参とします。

教えて下さい!

検索サイトのストリートビューを覗いていましたら、こんなお家がありました。こんな田舎まで町並みを撮影しに行ってるのか?と思いましたが、だれが撮ったかは差し置いて何てお家なのでしょう。家のすぐ裏には線路があるようです。

教えて下さい!

昨日淀屋橋から特急に乗りました。いつものことでなにも変わらないことですが、ふと疑問が浮かんだのです。

このホームにはタテに2列車が同時に止まることがあります。1列車は8両、2本で16両。新幹線と同じ両数です。18mと22mの違いはありますが約300mほどにはなるのでは?

一本のホームでこれほど長いものは私鉄では他にないのでは?と思うと調べなくてはおられません。早速ネットで調べましたが京都駅旧1番線ホームは出ていますが私鉄で一番長いホームの記録は見あたりませんでした。

そこで京阪お宅、いや京阪ファンの物知りの方にお尋ねします。淀屋橋は日本の私鉄では一番長いホームですか?違ったらどこが一番長いのですか?

教えて下さい!

元京阪特急は元気でした


30日、笹間渡で撮りました。
乙訓のご老人様へ。元京阪は3月28日(日)、30日(火)、31日(水)動いていました。29日(月)はお休みでした。

4/1から『京阪電車100年のあゆみ』展 開催!

クローバー会の今年度の公式行事第一号、『写真でつづる京阪電車100年のあゆみ』が、いよいよ4月1日から、京阪七条駅歩いて1分の「集酉楽サカタニ」で開催されます。
開催前日の31日、関係者が夕方から集まり設営を行いました。事前の準備もあって午後9時には滞りなく完了、あとは開場を待つばかりとなりました。会員がカネとヒマに飽かして撮りまくった珠玉の写真約30点が並びます。
会期は4月30日までの1ヵ月、会場の当番はとくに定めていませんが、来客の多い土日はぜひ来場いただき、来客の接待をしていただきますようお願いいたします。

着々と進む準備作業。今回は、京阪電鉄からの協力もいただき、一部の写真の提供のほか、多くのポスター・パンフレットの提供もいただいた。

芦生佐竹保雄写真展のご案内

つぼみも花も気まぐれな天候に戸惑っているこの頃です。

お変わりなくお過ごしのことと思います。

私たちも相変わらず元気に忙しく過ごしております。

さて、「佐竹保雄鉄道写真展in芦生」のご案内をさせていただきます。

トレランス号のころからときどき訪ねたり、木のおもちゃオータンやそれにちなむトレランス号の記念品などでかかわりの深い芦生での催しです。

廃校になった小学校の分校舎で芦生木工を営む鈴木さんとのお出会いで、この催しが実現しました。鈴木直道さんの仕事場で木工作品とのコラボです。

思えば京都府と滋賀県と福井県の国境に位置するこの地は、鉄道と何のかかわりもありません。今日でも秘境といってよいほどの山奥です。近くには美山のかやぶきの里がありますが、そこからさらに13キロ離れた芦生へは、アクセスが難しいです。だからこそ芦生という気がします。

 今回の企画は、大阪の友人グループと同志社の鉄道同好会OB・クローバー会のご協力をいただきました。外国の鉄道ではシベリア、ペルー、中国など、路面電車ではキエフ、タシケント、サンフランシスコなど外国の作品は全部未発表です。枚数も今までで最大規模となります。

また51日のみ、展示写真の説明も含めて「特別企画・佐竹の話、夜呭(よばなし)ということで、ゆっくりした時間を予定しております。

翌日は由良川源流のせせらぎを聞きながらの森林浴もよし、生き物の多様性がうれしい京都大学演習林辺りの散策もよし、きっと日頃の疲れを癒してくれることでしょう。ゴールデンウイークを1泊2日芦生の旅に是非どうぞ。

私たちも、おかげさまでこの1年を喜寿と古稀夫婦として過ごしてきております。この企画も自分の越し方の振り返りや整理になるように思います。

お会いできるのを楽しみにしております。

取り急ぎご案内まで。    

   

 

 

        2010年3月吉日  佐 竹 保 雄                        

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      「佐竹保雄鉄道写真展in芦生」

 

会   期:201051(土)~5日(水)10時~17(12時~13時休み)

観覧自由、1日の午後・夜に佐竹の話、聴講無料。宿泊お勧めします。

在 廊 日:430(準備)、5月1日・2日宿泊,3日(午前中)。

会   場:芦 生 木 工 (南丹市美山町芦生)、     主催:芦 生 木 工 

   合:芦生山の家(0771-77-0290)  佐竹保雄 (&fax075-593-4276

アクセス:5/12のみ園部駅前から専用送迎バス1回運行。  他はマイカー。

宿泊募集:12日(5/1・2)、定員20名。  他の日の宿泊については山の家へ

費   用:10200(12食・バス利用・2日の昼弁当付き)

申   込:417日、別紙申込用紙にて佐竹宛FAXで、先着順。詳細・相談等は佐竹へご連絡ください。(&fax 075-593-4276090-1248-3321)

 

 

 

 

     FAX 075-593-4276 佐竹宛

 

「佐竹保雄鉄道写真展in芦生」宿泊・専用バス・弁当 申込み用紙

  

                     申込日 :  月  日  

 

お名前 :

                     

連絡先 :電話・FAX・携帯    

 

 

参加者お名前(性別)

 

小人は( )ご記入ください。

 

1、             (  )

 

2、              (  )

 

 

 

 

 

 

宿 泊 日 

(7350円、小人5775)

 

 他の日の宿泊は山の家へ

 

1、51(土)人数(  )人 ⇒万一の   場合2日に変更(可・否)

 

2、52(日)人数(  )

 

 

 

昼食弁当 (850)

 

 

 

1、52() (  )ケ

 

2、53() (  )ケ

 

 

専用バス利用(片道1000) 

 

JR園部駅西口1300

芦生山の家  1330?

52日園部迎えは希望者があれば運行予定、時間は15時頃?

1、利用しない(マイカー)

 

251() 園部発(  )人

352() 芦生発(  )人

452()  園部発(  )人   ⇒

553()  芦生発(  )人

 

 

 

 

運行決まれば発車時刻を改めてご案内します。

 

  5月1日は、山の家は貸切となります。宿泊定員は32名です。相部屋をご了承ください。先着順。万一定員オーバーの場合は2日に変更できる方にご協力をお願いし少しでもご参加できるようにしたいです。申し訳ありませんが調整不能の場合は参加をお断りします。受付結果は返信します。

430日、51日、2日に佐竹は泊まります。30日または2日のみの宿泊、または連泊は可能のようですが、至急佐竹まで。3日は満席とのことです。

この用紙で4月17日までにfaxまたはE メールでで佐竹へ申し込んでください。 大阪グループは小川さん取りまとめお願いします。

問合先:宿・展覧会・散策ガイド⇒芦生山の家 ℡ :   0771770290

    その他・相談等    ⇒佐竹 保雄 電話&fax 075593-4276

                佐竹紀美子 携帯 :09012483321

一般観光・町内バス  ⇒美山町観光協会℡ 0771751906

 

 

※このお知らせは佐竹先輩よりのご依頼を受けて田野城が代理投稿いたしました。

※お問い合わせは乙訓の長老、会計の井原会員、佐竹さんまでお願いいたします。

※佐竹さんのアドレス

   yks-tole@kyoto.zaq.ne.jp   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江若鉄道白鬚駅復元工事(その3)

ぷるぷるさんのD50に圧倒されながら、当方は相変わらず江若にのめりこんでいます。当初計画では高島町が完成すればそれでよし としていて、続いて白鬚駅もと考えていなかったため、コントロールパネルなど制御系でいろいろ問題が発生してきました。白鬚駅は交換駅なのですが、ポイント切換えをあたかもCTCのように 高島町から遠隔操作するかどうかで迷ったのですが、白鬚駅単独でポイントの自動切換えをすることにしました。今回新たな試みとして 角型の9V電池を電源とし、高島町で実績のあるDCソレノイドを駆動させることにしました。運転会を想定すると 白鬚駅に駅員を1名配置してポイント切換えのみを行ってもらう。但し高島町駅からポイント切換えの指示を出すというイメージです。その指示のためのLEDランプを設けてあります。自作のポイントマシンも調子がよく 白鬚駅でもパチン、パチンといい音で動いてくれています。

日本橋だより

 
27日に近畿日本鉄道と国立文楽劇場が企画した文楽列車が走った。大阪難波駅を9:38に出発した列車は車体を平城遷都1300年仕様に装飾した6輛で、前部のみ洋食皿ぐらいの大きさのヘッドステッカーが貼り付け。前5輛に文楽友の会会員150名と一般募集客50名が乗車する貸切列車である。乗り込むには二千円が必要であるが、弁当飲物はもとより乗車券も別途購入という厳しいもの。文楽劇場もよりの日本橋駅に停車し人形二体が最後部一輛に乗り込む。

奈良駅へは10:27到着という各停並みの所要時間。奈良駅では着ぐるみ人形のせんとくんが文楽人形をお出迎え。遷都1300年を記念し文楽劇場が奈良猿沢池を舞台にした出し物「妹背山婦女庭訓」を上演するのに乗じたイベント列車である。
大阪難波駅で写真を撮っていたのは劇場の職員と特派員と参加者の3人だけ。駅員は昨今の鉄ちゃん騒ぎを予想してか多勢が待機。特派員は見送っただけで、売店で赤福を土産に買って日本橋駅まで阪神電車に乗って帰る。奈良行きの阪神電車なんて変な感じ。山陽電車も遠慮せんと奈良まできたらええのに。

新聞によりますと、大阪府知事が関西空港の活性化のため新大阪駅と南海難波駅を結ぶ鉄道を造れとか、寝屋川市長が京阪びわこ号を動態保存し寝屋川市の目玉にしたいといってるとか伝えています。びわこ号復活したら、もちろんクローバー会の貸切
列車でしょう。

500系・北陸・能登・阪急特急・キハ52と話題のつきなかった三月ももう終わり。東奔西走いただいたトップページ写真撮影隊のみなさま楽しませていただきました。500系は、こだまに格下げ。入口付近をロングシートにして走っているのかな。

ウインドウズ95でも投稿出来るか徹夜で勉強しました。

そうだ京都いこう。七条で写真でつづる京阪電車100年のあゆみ展だ。

黒部上部軌道

                                                                                                                                     山の中に建設された黒部川第4発電所を発車して黒部川本流の鉄橋の手前を通過。休憩中にいきなり列車が顔を出したのでシャッターのタイミングが遅れてしまった。鉄橋の渡った先が有名な高熱隧道である。

2004年11月3日付で旧掲示板【285】に澤村達也氏が小林純爾氏とご一緒に黒部上部軌道を見学された時のレポートを「高熱隧道」のタイトルで発表された。

登山の写真を整理していたところ、昭和56年9月23日、黒部ダムから黒部川に沿って「下ノ廊下」を欅平まで歩いた時に撮影した「上部軌道」の写真が出てきたのでご覧いただきたい。 

旧掲示板【167】と重複する部分もあるが、京都から前夜の「ちくま」で出発し、松本で大糸線に乗換え信濃大町で下車。扇沢まで「北アルプス交通」の路線バス(松本電鉄と川中島バスの共同運行)に乗車した。扇沢から黒部ダムまでのトロリーバスは8両の続行運転であったが満員であった。ダム到着後、乗客の大部分は黒部ダム方面の出口に向かうが、何名かの登山客は「下ノ廊下」方面の出口へ。そこには係員が登山届と各人の行き先と装備のチェック等を行っていた。「阿曽原の小屋で宿泊して欅平に行く」と答えると、「前の2人連れと一緒に行ってくれ」と言われた。途中に危険箇所が何カ所もあり、単独行の場合万一の時のためである。ここで滑洛した場合は絶対助からないし、遺体の収容すら困難である。前の2人連れは、山慣れした20代前半のアベックで、一緒に歩く訳には行かないので少し離れて後ろを歩いた。黒部川の断崖絶壁沿いに危うく取付けられた道は、一歩足を踏み外せば絶対に助からない。何カ所かの難所を無事通過して、十字峡で昼食にした。ここは、黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が十字になって合流する所である。更に進むと、山の中に建設された黒部川第4(通称黒四)発電所の送電線の出口が見え、本流を吊橋で渡り少し行くと、仙人谷ダムに到着し、その向こうに上部軌道の線路が見えた。ここで休憩中に3両の客車を引いたバッテリー機関車がいきなりトンネルから顔を出し、欅平方面に結構なスピードで通過し、屋根付きの鉄橋を渡り、高熱隧道に吸い込まれて行った。(タイトルの画像)

ダムの堰堤を渡り、暫く行くと、仙人湯から池の平を経て剣岳方面に向かう雲切新道との分岐で、ここで仙人湯まで行くアベックと別れた。小屋に到着したのは午後2時半頃で一番乗りであった。夕食まですることがないので露天風呂に浸かったり、その辺をブラブラして過ごしたが、今から思うと、仙人谷ダムまで引き返してもう少し撮影すればよかったと思うが、朝から一歩間違えばあの世行きのような所を延々と6時間も歩いたため、とてもそんな気にはならなかったのであろう。

翌日は雨の中、朝6時に出発して、傘をさしながら水平歩道を約5時間歩き、11時頃欅平に到着した。昨日よりは危険度は少ないが、道幅は50㎝位で下まで200mはあろうかという相変わらず断崖絶壁沿いの道で、途中には真っ暗なトンネルが2ヶ所あった。

黒部峡谷鉄道で宇奈月に出て、富山地鉄で富山へ。折角の機会であるので富山地鉄を少しだけ撮影して急行「立山」で帰った。

現在は、鉄橋部分は冒頭の写真の箇所を含めて完全なシェルターで覆われてしまったようで、走行中の写真は無理なようである。それでも走行中を見たいと言われる方は、私までご連絡いただきたい。都合がつけばご案内する。但し、黒部ダム、欅平のいづれから歩いても最低6時間はかかり、それなりの登山経験が必要であるが、欅平からの方が危険は少ない。また、高所恐怖症の人は諦めること。途中の画像も貼りつけたので参考にしていただきたい。

 

下から見た黒部ダム

 

黒部川本流に沿って。右側のくぼみが登山道。

 

黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が合流する十字峡。

 

この辺りの山の中に黒部川第4発電所がある。左が登山道。

 

黒部川第4発電所の送電線の出口。

黒部川本流を渡る登山道の吊り橋。

 

仙人谷ダム。昭和11年に着工して15年に完成した。資材運搬用のトンネル建設中に摂氏165度にも達する岩盤を掘削して完成した。

 

黒部川を渡る鉄橋。当時から屋根が付いていたが、現在はシェルターになっている。

 

宿泊した阿曽原小屋。小屋の営業期間は例年7月から10月下旬まで。先の鉄橋の写真共々人物の写っていないものがないので止むを得ずこれを使用した。顔の部分を修正しようと思ったが、今更修正してもしゃーないと思ったので、素顔のままにしておいた。

 

ED24/欅平 昭和55年日立製

 

ED28/欅平 昭和57年日立製

 

ED21/宇奈月 昭和49年日立製

 

ハフ1027/宇奈月

なぜ新規投稿者が増えないか?

今日、準特急氏と久しぶりに雑談する機会を得ました。全国を巡礼して回る途中とのことで学生時代の悪行を懺悔しているのだそうです。雑談も後半に入った頃、準特急氏が言いました。「どうして常連以外の会員からの投稿が増えないのだろうか」

私は答えました。「パソコンの使い方がわからんのだろう。なんせガリ版しかシラン世代やからな」

準特急氏「須磨の大老や乙訓の長老かて使っているやないか」

私「・・・・・・・」

鉄道に関する知識なら鉄道趣味界の人間国宝、世界遺産、ワシントン条約保護生物と称される至宝であるが、この諸先輩方がデジタル時代に適応していけるとは思ってもいませんでした。だが言われてみると確かにご両所だけではなく丹頂鶴氏もすばらしいHPを作っておられるではないか!ということは何かほかに投稿しづらい理由があるのではないかと考えました。準特急氏が千鳥足で去っていくのを見届けてから急いでこのHPを開けました。するとなんと言うことでしょう!ぷるぷる氏も同じように悩んでおられたではないですか。そしてもう投稿しないとすねておられる様子。そこで大阪通信員氏に電話してみました。氏もこのところ投稿がないお一人ですから。案の定帰ってきた言葉は「新しいアップローダーの使い方がわからへん。最近頭のメモリーが不足気味と、CPUの計算速度がついていけないんや。なにせ頭はまだwindows95のままやから」とのたまわっている始末。「近くの日本橋へいって最新型windows7にかえてください」といって電話を切りました。

幸いにも管理者jrが解決策を考えてくれるとか。これでROM生活を送って書かない会員諸兄からも投稿がぞくぞくと入る日も近いのではと安心しました。

読むだけで批評ばかりしているあなた、投稿してみませんか?近況報告一行だけ書いても楽しいものですよ。待ってます。

工房便り D50の制作(2)

(「D50の制作(1)」の続き) 
このキットには下回りが含まれていませんので、前回の記事通りダイカスト製の主台枠、動輪、サイドロッドとテンダー台車を別に購入していました。あとのパーツは手持ち部品から最大限の流用をはかることにして、メインロッドはAdachi製、クロスヘッドは天賞堂製を使うことにしました。問題はバルブギヤーです。使えそうなのはD51用ですが、加減リンクの位置がD50とは模型寸法で1mm程度異なるため、全体の流用を諦め、作るのが面倒な加減リンクのみ流用することにし、エキセントリックロッド、ツリリンク、同腕、芯向キ棒、合併テコ、結ビリンクを0.5mm厚の洋白板から、返りクランクは1mmの洋白板からそれぞれ切り出しました。
切り出したバルブギヤー。このうち合併テコは下部の二股部分が大きすぎ、シリンダー後蓋部に干渉するため、作り直しました。
切り出したバルブギヤー。このうち合併テコは下部の二股部分が大きすぎ、シリンダー後蓋部に干渉するため、作り直しました。 
モーションプレート組立。面倒でも製作図を描いてから作ります。

モーションプレート組立。面倒でも製作図を引いて・・。
 
 
 
これらの取付の中心となるのがモーションプレートですが、これも市販品がなく自作です。中心位置が狂うとバルブギヤーの寸法に影響するので製作図を引き各パーツを作ります。半田付けで組み上がったところがこの写真です。バルブガイドは丸棒をドリルレースで削り出しました。
             バルブガイドは丸棒をドリルレースで削り出しました。

蒸気機関車でよく目立つシリンダーブロックも自作です、手持ち品流用パーツはメインシリンダー前後蓋(挽き物)、空気弁(ロストワックス)です。

写真は弁室の後蓋とバルブガイドで、真鍮丸棒をドリルレースで削り出しました。バルブガイドの周囲を弁室の後蓋を止めるボルトの頭が取り囲んでいますが、これは丁度寸法の合う平ワッシャに、リベットを埋めるのと同じやり方で0.4mmの真鍮線を埋め、表現しました。

二枚重��で左右分を一度に加工します。
二枚重ねで左右分を一度に加工します。

スライドバーも自作しました。1mm厚の洋白板を寸法に切り出し、二枚重ねてヤスリで側面から見た形に整えますが、このときに中央部の溝になっている部分は溝を加工した後上下の滑り金の表現も兼ねて帯板を半田付けするため、細く加工しておきます。

ク��スヘッドとスライドバーを合わせます。スムーズに動くように調整します。

クロスヘッドとスライドバーを合わせます。スムーズに動くように調整します。

出来上がったスライドバーとクロスヘッドを合わせます。スムーズにしかも大きな型のないように調整します。クロスヘッドは天賞堂製のC51用(ロストワックス製)が形がよく似ているためこれを使いました。後で判ったことですが、D50のクロスヘッドは後年、多くの機がD51用に似た近代機設計のものに交換されています。しかし、今回は元設計の形にすることにしました。

クロスヘッドはメッキ処理がされていません。昔は使い古しの写真の定着液に浸して銀メッキを施したものですが、今は「メッキ工房」なるメッキキットが製品化されています。約1万円もするキットを買うが良いか・・思案中。 

シリンダーブ��ックとモーションプレートを主台車枠に取り付けます。
シリンダーブロックとモーションプレートを主台車枠に取り付けます。
バルブギヤーの組み込みが出来、上回りと下回りがドッ��ングしました。

ブギヤーの組み込みが出来、上回りと下回りがドッキングしました。

シリンダーブロックの前後板は0.8mm、側板は0.3mmの真鍮版ですが、この寸法が機の前部の高さ寸法を決定しますので慎重に寸法を決めます。外から見える側板はこの時点では必要なく、むしろ先に付けてしまうとスライドバーや各パーツの組立がやりにくいので後回しにします。次回に紹介しますが、側板には点検蓋(0.1mm真鍮版)を貼り付け、0.4mmのリベットを打ってから空気弁のパーツを半田付けし、シリンダーブロックに沿うように曲げて行きます。なお、この側板の本付けは最後にします。シリンダ排水弁、シリンダ安全弁(共にロストワックス)を購入しましたので、このあと取り付ける予定です。 

シリンダーブロック、モーションプレートを主台枠に取り付け、バルブギヤーが無事所定の位置に組み込み込めました。なお、先台車は簡単に自作できますが、ショップでAdachi製のD51用をつい買ってしまい、これで時間と労力の節約をするつもりでしたが車輪をφ11.5mmに交換しようとすると軸径が異なり、取り付け位置も異なるなどけっこう手間取りました。

主台車枠後部と従台車は自作が必要で、これ以上に手間取るので、後回しです。 

ようやく機関車らしくなってきました。
少し機関車らしくなってきました。

ようやくこれで上回りと下回りのドッキングが可能となりました。バルブギヤーも組み込んだ下回りに上回りを載せ、前部デッキ、間高さと傾斜キャブの屋根高さなど所定寸歩が得られているか良くチェックし、修正可能なところは今のうちに少々の手戻りが出ても修正しておきます。(つづく) 

びわこ号復活!

 大阪府寝屋川市と京阪電鉄は25日、昭和9年に製造され「びわこ号」(60形)の愛称で親しまれていた車両を復活走行させると発表した。

 昭和45年の引退まで大阪・天満橋-滋賀・浜大津間を運行した人気車両。10年前から寝屋川車両工場に保管されており、市が活用を提案した。

 復元に必要な数千万円の費用は市民から寄付を募る。イベント車両として走らせるほか、グッズ販売も。市は「寝屋川を鉄道ファンの聖地にしたい」と話している。

産経イザ3/25より転載

続 ことでん 復刻色走る

早春の中国一人旅の出稿中ですが、帰国後直ぐに琴電に行って参りましたので、ご報告させていただきます。

一緒に行きました、総本家 青信号特派員さんが、用事があるとかで、帰られる事になりました。JR高松駅までお送りした後、高松で活動されておられるK氏に、近くに温泉がないかと、お聞きしますと、仏生山駅近くに評判の温泉があると教えてもらいましたので、行ってみました。

四国で温泉と言えば、道後温泉しか知りませんでしたが、この温泉、私が今まで行った中でも10本指に入ります。泉質は、ナトリウム炭酸水素塩・塩化物泉で、すべすべ感抜群です。源泉温度は、50度程度あるそうですが、湯船に流される頃は、40度以下になっているので、加熱してあります。勿論、掛け流しです。源泉低温の露天風呂もあって、これが、ゆっくりと身体をほぐしてくれます。

仏生山には、琴電の車庫もありますので、皆様方もご訪問の際は、是非とも行ってみて、浸かって下さい。仏生山駅から、徒歩10分内にあります。私は、当日のみならず、翌日も行きました。ちょっとない、一押しの湯です。
今宵の宿は、勿論、琴電335号が静態保存されている、道の駅『源平の里むれ』です。国道11号線と、琴電塩屋駅と房前駅の中間辺りに挟まれた、絶好のロケーションにあります。

3月21日は、早朝から、長尾線2往復と、琴平線1往復半が走ります。前もって、インターネットや本等で調べはしましたが、ロケハンしないと、気に入る場所かどうか分りません。頼りにしていた総本家 青信号特派員さんは、帰ってしまったので、現地のK氏に問い合わせて、朝の7時半走行は、井戸駅付近に決めました。

出発前に、ナビに目的地をセットするのですが、どう間違ったのか、同じ『戸』の付く、池戸駅を選択してしまいました。普段は、近くの駅によって、駅舎を撮ったりするので、場所確認ができるのですが、こんな時に限って、怠るものです。土地勘がありません。着いた頃は、井戸駅付近と思い込んでしまいました。
それに沿線には、結構、鉄ちゃんもいましたので、疑う余地がありませんでした。まだ、少し時間もありましたので、ロケハンをやりながら、ふとナビを見ますと、駅名表示が違っています。電車が来る直前で、間違いに気づきました。



画像が黄色いのは、何も色調補正をしたわけではありません。大糸線に行かれたのと同様に、太陽は月の様に見え、黄沙の来襲です。私が、中国から運んで来た訳ではありません。猛烈な突風も吹き荒れ、いつもは、簡易三脚で、HDDを撮るのですが、吹き飛ばされますので、止めました。

近くの踏切を探して、何とか正面からのカットを撮りましたが、気に入ったシーンではなく、トホホのスタートでした。やはり、土地勘のない場所での撮影は、前もってのロケハンを行い、自分の目で確認してから、撮影に行く鉄則を怠ると、こういう目に遭います。この日は、この後も道路が渋滞して、希望する場所に行く着く直前に、電車は通過していきました。


実は、今回の撮影旅行は、桜前線を追おうと、この後、四国、そして九州を目指していました。中国に出かける前に、高知で開花宣言があったので、2週間以上経った今は、既に高知では、満開と思っていました。用意もして出てきました。帰国してから、時間が無かったので、桜前線予報を確認していなく、これも完全な思い込みでした。
昨夕、K氏にその事を話すと、『え~まだ咲いてないよ。満開は、1週間後でしょう。』と、言われ、大ショックでした。高知の友人にも確認電話を入れると、同様な返答がありました。

今年の春は、四国と九州の桜前線を追いかけてから、準特急さんが行かれている瀋陽の調兵に合流しようかと思っていましたので、大誤算です。どちらかを選択しなければなりません。困りました。身体が2つ必要です。

残念ながら、今回は、仕切りなおしです。3連休の半ばなのに、四国の高速道路は、大渋滞でした。その殆どが、関西や名古屋ナンバーでした。早く、休日割引がなくならないと、JR四国の経営は大変だと思いました。

ことでん 復刻色走る

季節は巡って、もう桜の開花の季節を迎えました。想定外の多忙な業務に翻弄され、この一ヵ月半は、掲示板の投稿も儘ならない状況が続きました。2月に行った大糸線の投稿も途中で滞ったまま、今さら季節はずれの旅行記を続ける訳にもいかず‥、ということで、つい先日に訪れた琴電の旧型電車復刻色の運転について記してみたいと思います。
今回もお世話になったのは、中国から帰ったばかりのぶんしゅうさん。深夜の京都を”ぶんしゅう号”で出発、途中の高速道路のSAで二人仲良く車上のテントで仮眠。夜明けとともに車を琴平線の沿線まで走らせました。

今回の旧型電車の特別運転は、3000型300号が開業当時の茶色一色に復刻されたことを記念したもの。同車は、琴平線の前身、琴平電鉄が大正15年の開業時に新製した車両。昭和10年代には、グリーン濃淡の2色塗色に改められており、茶色一色は、約70年ぶりの復活になる。3月20、21日の両日運転されたが、とくに20日午前中の琴平線仏生山~琴平間の1往復は、琴電で動態保存されている旧型電車フルラインナップの4両編成となり、パンタ4丁を上げ吊り掛け音を響かせて走った。
せっかく保存車を茶・クリームの2色に統一したのに、編成美を乱す復刻色もいかがなものかとの意見もあろうが、会社の愛着が伝わってくるような渋い茶色の輝きであった。(羽間~榎井)

いま琴電でイベント用に動態保存されている旧型電車は4両。琴平側先頭の3000形300号、写真の高松築港側先頭の5000形500号、1000形120号の3両は、琴平電鉄が創業時に新製した車両で、大正末から昭和初期の製造、残る20形23号は、近鉄南大阪千の前身、大阪鉄道デロ20形を出自とする電車である。行き先の「仏生山」が旧字になっている、芸の細かいところを見せている。(一宮付近)

 

琴平線の撮影地としては、前掲の羽間~榎井間の土器川鉄橋、一宮~円座間の香東川鉄橋、2つの鉄橋が代表的。仏生山から琴平までは、ほぼ東北から西南へ向かってレールが伸びているため、光線の当たり方は一定である。今回の運転は、途中の滝宮駅で7分停車があるため、車だと追っ掛けができる。円座~一宮間の香東川鉄橋を目指して走っていたところ、道が判らなくなり、慌てて鉄橋近くの築堤に掛け上って写した。たまたま背後には、讃岐平野特有の山容も入り、梅の花も入れて工事現場も隠せた。(一宮~円座)

 

昼は地元の高松で活動するKさんと再会し、仏生山近くのうどん店で160円也のかけうどんを食す。Kさんから琴平近くに菜の花畑があることを聞き及び、午後からの1往復は、衆議一決ここで撮影することにした。当初は、桜も開花かと期待して、桜の撮影で有名な、挿頭丘駅へも下見に行ったが、全くのつぼみ状態。沿線では菜の花だけが、春を演出していた。芭石鉄道の菜の花には程遠いが、沿線では唯一両側に菜の花が広がっていた。午後からの1往復の運転は、300+120の2連。これぐらいが、ローカル私鉄には似つかわしい感じがする。(榎井~琴電琴平)

2010年 早春の中国一人旅 Part5 菜の花いっぱいの芭石鉄道

第6日目 2010年3月7日(日曜日)

昨夜のパーティは、深夜まで続いていましたが、英国人親子(親子といっても、20歳台の若者と、初老の方)と私達は、鉄道談義に花が咲きました。聞けば、英国を出発してから、各国を回り、鉄道写真を撮っているとの事。

カバンの中から出てきたのは、何と懐かしいゼンザブロニカで、びっくりしました。日本も行って来たと言っていました。中国には、50日間滞在して、SL撮影に励むそうです。SLを目的に、世界中を旅行しておられます。半端じゃありません。いろいろと、お話ししたかったのですが、疲れから睡魔が襲ってきました。

朝は、夜明け前に目覚めましたが、外は雨。まだ、4日間もあるので、6:32の始発列車のが、上がってくるまで、ウトウトしました。まだ真っ暗です。部屋の窓下を走るC2型機の火床から、放出される真っ赤な石炭ガラが、闇夜を一瞬染めて、印象的でした。

朝食前の一仕事に、始発の折り返し列車が、蜜月岩駅を下る場所で、撮った後、雨があがった民宿前(食堂は、1階屋外)で、ゆっくりと、朝食を食べていると、遠くからドラフト音が聞こえてきます。次の列車は、約2時間後に上がってくる定期列車なのに、どうしてと思っていると、ドラフト音は、だんだんと近づいてきます。



▲ 撮影時間8:52。臨時の臨時の観光列車。時間からすると、8:00頃に石渓站を発車して、躍進站で第2次と交換して、上がって来たと思われます。牽引機は、№09機関車+№10テンダー車と、観光客車4両

時刻の分っていない貨物列車かもと思い、蜜蜂岩站から上がった定番のお立ち台に向かいました。昨夕と違って、後から来て、前に立って邪魔するような撮影者はいません。
撮影場所から見える、蜜蜂岩站でスイッチバックしたC2型機は、一旦上がってきた線路に戻って、石炭ガラを全部捨てます。C2型機は、火床が小さく、直ぐに石炭ガラが溜まってしまいますので、勾配の続く芭石鉄道は、所定の場所のみならず、走行中でも平気で、ばら撒いています。日本じゃ、考えられないですね。

やがて、発車の汽笛が鳴り、ドラフト音が山間に響きわたりました。ちょっと冷やっこい朝です。煙も期待してカメラを構えました。

しかし、
C2型機
が姿を見せ始めると、それまで爆煙は尻すぼみです。止まってしまいました。昨日みた連絡書に記載無かった観光列車です。大勢の観光客が降りて、記念撮影です。
観光列車は、7分停車した後、上へと、上がっていきました。



▲ 10:17 第5トンネルを出る第2次。牽引機は、№14機関車+№09テンダー車と、客車7両(12+19+9+13+11+16+14)。

ここからは、前回、列車が来なくて、悔しい思いをした第5トンネル付近での撮影リベンジです。折角の菜の花シーズンですので、花を入れて撮れる場所は、無限に近くあるのですが、まずはすっきりとしないと、後が続きません。定期の2番列車を待ちました。


11:26、C型カーブを下る第2次の折り返し。白い花を入れたかったので、欲張りすぎました。

11:49、C型カーブを回った観光列車。牽引機は、№7機関車・テンダー車と、観光客車4両(4+6+1+7)

第1トンネルから、随所に菜子埧站間も撮ってみたい、撮影地が続きますが、第2次の折り返しの撮影地は、やはり菜の花畑のC型カーブです。煙は、上下とも期待できませんが、押さえておきたい場所です。約25分で到着しました。

ここで、中国人鉄道ファン多数と遭遇しました。カメラは、やはりNIKONとCANONの一眼レフばかりで、でかい三脚や水準器まで付けています。まさに、『ここはどこ?』の世界です。
▲ 12:01 丁度菜子埧站付近。ロケハンをしながら歩いていたら、突然に朝に上がっていった臨時の臨時の観光客車が、折り返してきました。

撮影後は、菜子埧站を上がった所までロケハンして、午後からの本数の多い蜜蜂岩站から石渓方面へと、歩きました。途中、行ったり戻ったりで、この日は、20km以上は、歩いたと思います。最後は、登り勾配でしたので、一気に疲れが出ました。夕闇迫る民宿のある蜜蜂岩站にたどり着いた時は、もう一歩も歩けない状態でした。

▲ 14:24 第3次上がってきました。牽引機は、№14機関車+№09テンダー車+客車7両。

▲ 15:04 蜜蜂岩で折り返しの観光列車が、一押しの、菜の花畑に囲まれた中を来ました。

▲ 15:41 黄村井からの折り返しの観光列車が下りてきました。

▲ 続いて、15:55、蜜蜂岩から折り返しの観光列車も下りてきました。 

 
▲ 16:15 第3次定期列車です。3本も続けて来ることなんか、通常はありません。菜の花の段々畑と、急坂を猛煙を出して力行するC2型機を撮影したいのですが、こういったシーンを正面から撮るのは、難しい限りです。


▲ 17:53 撮影可能な最終第4次。山を登って撮影しましたが、無理がたたり、下山後、力尽きました。もうろうとして、民宿にたどり着きました。

今夜は、英国人親子と、その通訳、そして私の計4名の宿泊客でした。ビールを飲みながら、昨夜の続きを聞いていくと、JS建設型が走る三道嶺、JS型が走る白銀に行って来たと、たくさんのコンデジの写真を見せていただきました。

明日夕刻には、また何処かに行かれるそうです。通訳の方は、3週間連続で案内されるそうで、牡丹江の旅行社の鉄ちゃんでした。明日は、日本人専用の旅行社の鉄ちゃんが、日本人を引率して来られます。この方は、インターネットで知り合った方で、連絡を取り合っていましたが、お会いするのは初めてです。いろいろと、聞いてみたいと思っています。

明日は、始発列車で、終点の黄村井站まで行く予定です。今夜も睡魔が襲うまで、英国人親子と話をしました。 Part6 へ続く