昭和40年10月3日 新大阪駅
昭和40年10月改正は、前項のように、交直両用の475系・481系の新製・増備、余剰となった151系の転用により、新幹線と接続する山陽筋の特急・急行は、さらに増発されます。そして、もう一つの目玉は、関西発着の寝台特急「あかつき」の新設です。あの憧れのブルートレイン、でも当時は東京発着だけで、明るいうちは京都、大阪で見ることができない列車でした。それが新大阪に到着するとあって、大阪駅の撮影を終えて、新大阪へ急ぎました。
▲新幹線開業1年後にして、初めて新大阪に降り立った。11:31に到着したのが、名古屋発熊本行「つばめ」、クハ481-14ほか481系11連、改正前は新幹線と接続する新大阪~博多の特急だった。151系のため、交流区間の九州では自走できず、ED73+サヤに牽かれていたが、481系になって自力で走れるようになった。運転区間も、東は名古屋まで延長され、新幹線に乗ることなく、山陽・九州へ直通できた。西は、この改正で電化が伸びた熊本まで、多目的な特急としての使命を帯びた。東海道線時代の「つばめ」と同じく、ヘッドサインにはグレー地が入り、ほかの特急とは一線を画していた。
▲西鹿児島・長崎~新大阪に新設された寝台特急「あかつき」。11:40に到着、ゆっくり終点で撮れると思って、新大阪へ来た。EF65PF+20系客車15両がホームに停車すると、EF65の半分はホームからハミ出す。当然のように、線路に下りて、さぁ写そうとした途端、「コラ~ッ!」と怒鳴る声が。あわてて、下半分切れたまま撮って、ホームに上がった。声の方向を見ると、隣のホームから、駅員がしっかり監視していて、その大声となった。
▲しばらく停車ののち、向日町運転所へ向けて回送される、深いブルーの車体に3本の白線の20系編成。とくにマニ20の後部、半円の3枚窓、深い屋根、バックサインは、ブルトレの象徴で、やっと関西で見られた感激は大きかった。
▲13:55ごろ大阪発東京行急行「よど」が新大阪を通過する。「よど」は40-10改正で廃止されたはずだが、新幹線は40-11改正のため、移行に伴う輸送力不足を補うため、臨時急行として、40-11改正まで運転されていた。
▲駅を出て、陸橋から発車・到着を撮る。新大阪発博多行「はと」、クハ481-12ほか11連、広島発新大阪行「宮島」153系12連。「はと」は40-10改正で151系から481系になった。ホームのすぐ横まで民家が迫っている。
▲新大阪14:30発の宇野行「ゆうなぎ」、クロ151-1ほかの151系12連、東京~宇野の特急「富士」が新幹線開業でなくなり、代わりに新大阪~宇野の特急として39-10改正で誕生した。しかし前出の「うずしお」と区間が同じため、43-10改正で「うずしお」に統合された。この時期の特急としては、いちばん短命だった。
▲新大阪15:30発の下関行「第2しおじ」、クロ181-8ほかの181系12連、151系は、順次パワーアップした181系に改造されていた。自連は、かつての九州でのEL牽引、セノハチの補機連結の名残りで。カバーなしだった。
▲準急もまだ活躍していた。三原発新大阪行「びんご2号」、京都発宇野行「鷲羽6号」。「びんご」は広島県東部の旧国名であり、「ビンゴ」ではない。3往復が設定されていたが、43-10改正で「とも」に変更される。「鷲羽」は岡山県児島半島の山名、読みは、山名は「わしゅう」だが、列車名は「わしう」としている。四国連絡には特急もデビューしているが、準急料金100円で乗れる「鷲羽」は大人気で、この時期、京都・新大阪・大阪~宇野に、夜行を含む7往復が設定されていた。
▲16:40に博多発「はと」が11番ホームに到着、クハ481-4ほかの481系11連、この改正で新幹線に接続する特急・急行が増発されたものの、乗換客は数えるほどだった。乗継ぎの半額料金もまだ設定されておらず、料金が割高で、乗換えの手間も掛かる新大阪乗換えを避けて、まだ多く走っていた直通の特急・急行の利用客が多かったようだ。
「宮島」は、以前に京都駅で撮っていました。
総本家青信号特派員様
名古屋―熊本間481系の「つばめ」、失礼ながらこの時ウッカリ九州に足を踏み入れてしまったお陰で「我らが」「つばめ」はドサクサ紛れに九州のものとなってしまい、ガッカリ!
今や国鉄の伝統ある看板路線・東海道本線で栄華を極めた「つばめ」「はと」時代のお株は、すっかりJR九州に取られてしまった感があるのが残念でなりません。
「こだま」も良いけど、やっぱり東海道には「つばめ」が居ないと様になりません!
って、これは全く「個人的見解」に過ぎませんので、九州ひいきの方々ご容赦を。
一方の「はと」は何処へ行ってしまったのか?
「はと」は地道に本州内にトドマリ山陽道を中心にした地味な存在で終わったようですネ。
河さま
いえいえ、私も同感です。「つばめ」は、やはり天下の東海道線にふさわしい愛称だったと思います。新幹線の延伸で、西へ西へと追いやられて、行き場がなくなり、九州で復活した感じですから、これも鉄道の歴史の成せる業だったなのでしょう。「はと」は、どうなったのでしょうね。東海道線時代から、「つばめ」の弟分のようで、いつも目立たない印象でした。
総本家青信号特派員様
「つばめ」「はと」談義の続きです。
大変残念ながら「はと」はずっと昔に消滅し、新幹線では共に復活もできず、JR九州が「つばめ」で漁夫の利?を得ての決着でしょうか。
157系から引きずった「こだま」が一躍新幹線に躍り出て、そのドサクサに紛れて「速さイメージ」の繋がりで新幹線に「ひかり」なる列車名が潜り込んだ感があります。
「ひかり」は九州全域をカバーした列車名とは言え、「準急」クラスの列車(一時期は「急行」の時も)が大出世したものです。
河 昭一郎さん、
昭和38年の急行ひかりです。西鹿児島
総本家青信号特派員様
このシリーズも興味深く拝見しています。
昭和40年といえば私は高三、受験に向けて・・という年。
その頃のある意味華やかな国鉄特急や急行のオンパレード、改めて素晴らしいなぁと思います。北陸に居た身にとっては憧れの列車がこれでもかこれでもかと出てくるんですから・・
それにしても総本家さんがしっかりと撮影されたお陰でその昔を楽しませて頂いているのですから、感謝しかありません。
マルーンさま
感謝していただき、ありがとうございます。最初にも書きましたが、フィルムの劣化が激しく、今後さらに進めば、修復不可能となるため、今回、まだ軽微なうちに、載せることにしました。この時期、北陸本線の列車で見ても、劇的に変わりましたね。北陸トンネルの開通、電化の延伸があり、「雷鳥」がこの前年から走り、今改正で、客車の「立山」が電車化されています。近代化が一気に進められました。