最近、撮りためたネガを整理していますと、ショッキングなことがありました。以前にも書きましたが、昭和40年ごろのフィルムが劣化(ビネガーシンドローム)状態に陥り、悪臭・キズだらけのフィルムは修復不能になっていました。ただ健全なフィルムもあって、両者を分けて保管していました。ところが、改めて調べると、そこからも悪臭が立ち込め劣化が始まっているではありませんか。50年以上も、ちゃんと残っていたフィルムが、突然、劣化の始まると分かり愕然としました。これ以上放置すると、さらに劣化が進み、将来に持ち越すと、もう公開もできないと思い、軽微なうちから、昭和40年前後のフィルムを「駅撮り一時間」として、過去の連載の続きとしました。
昭和40年9月26日 京都駅
昭和40年前後の国鉄の大きな動きでは、昭和39年10月改正による、東海道新幹線の開業が知られていますが、全体で見れば、翌年の昭和40年10月改正の方が大規模なものでした。もちろん東京~新大阪の新幹線開業、それに伴う在来線の電車特急の撤退・転移は大きな改正ではありました。しかし「ひかり」は4時間運転の14往復、在来線の急行はそのまま残り、何とかオリンピックに間に合わせた暫定開業のような状態でした。所定の3時間10分運転にスピードアップし、「ひかり」「こだま」とも30分ヘッドになる昭和40年10月改正(新幹線のみ11月改正)が、本格開業と言えると思います。京都・大阪においても、同年の改正は大きな変動があり、その前後の変化を収めるべく、鉄道少年の私も、京都、大阪、新大阪で駅撮りをしたものでした。
▲電車特急151系が撤退したあと、京都駅がいちばん華やいだのは、朝の時間帯、京都始発の82系DC特急だろう。7:30発「まつかぜ」、8:00発「かもめ」、いずれも経由は異なるが、6番ホームから発車する博多行きであり、京都が西への優等列車の始発駅と位置づけられていた象徴だった。これに8:48発「白鳥」(上野・青森行き)も加えた、82系三羽烏が、朝の京都駅にまぶしく輝いていた(この写真のみ昭和40年10月3日撮影)。
▲こちらは山陰本線経由の博多行き「まつかぜ」、京都の人間にとっては、なんで直行せず、大阪経由なのか、ずっと訝かっていた。キハ82 92ほかの9連、40-10改正からは10連化される。
▲7:37に東京発大阪行きの夜行急行「金星」が到着、EF58 74〔米〕+客車14両、新幹線が開業しても、夜行列車はすべて残っていたが、この40-10改正で、廃止される。▲7:50ごろ、2番ホームに交直両用電車が「試運転」を掲げて入線して来た。471系は、すでに北陸本線で急行「ゆのくに」「越山」「越前」で運転されていたが、これは、475系で、50、60Hz両方を走れる新形式だった。
▲山陰本線ホームに行ってみると、7:47着の840レを牽いて到着したC51 271が入換中、C51 124が廃車され梅小路区で最後まで残ったC51だった。パイプ煙突ながらも美しく整備されて、C51の魅力を伝えていたが、この活躍も翌々月には廃車となって、C51の歴史を閉じる。
▲そのあと、山陰本線ホームでは8:29発の園部行き843レが据え付けられる。牽引は最近、金沢区から転属したC57 39で、ツララ取りのステーを付けたままの姿。安物のEEカメラでは、逆光でフレアーが出てしまった。
▲廃止される東海道本線の夜行急行群のなかには寝台専用の「月光」もあった。昭和28年11月改正から東京~大阪に運転された。いかにも寝台列車らしい愛称で、金持ちの多い東京~大阪に相応しく、13両編成のうち、ロネが5両も占めたが、これも40-10改正で廃止となり、愛称のみ42-10改正からの電車寝台に移る。
▲奈良線ホームは、まだ新幹線ホーム下にはなく、7番線が奈良線の専用ホームだった。キハ3515〔奈〕ほかのDC5連。
総本家青信号特派員様
ビネガーシンドローム現象というのは数年前から聞いており気になっていました。対策方法を聞いたことがありますが、面倒なのでほったらかしです。早くスキャンしてデジタル化するしかないのかなと思っております。私の場合、8ミリテープとリバーサルカラーが湿気でやられました。貼り付け写真は総本家さんと同じ頃の1963年1月2日の大阪駅での記録です。右から戦時スタイルのC11271[吹田第一]牽引の725列車篠山口行き、出発する1D「かもめ」、到着した「彗星」15列車のEF58169です。
準特急さま
いつも速攻コメント、ありがとうございます。ビネガーシンドロームは今から20年ぐらい前に大量発症があって、以来、箱も別にして、隔離していました。残ったフィルムは、もう安全とタカを食っていましたが、今回の50年ぶりの発症です。やはり、特定の年代に製造されたフィルムは、時期の差こそあれ、発症するようです。