「ディーゼル車」アラカルト (Ⅳ) 河 昭一郎

『ディーゼル車 アラカルト』も過去3回掲載させて頂き、幸いな事に各回ともⅠが52件、Ⅱが45件、Ⅲでは64件と多くのコメント数となり、興味を感じられた方々がそれなりに居られたんだなあと認識を新たにした次第です。

さて、それに気を良くしたと言えば安易過ぎるかも知れませんが、さらにもう1回追加させていただく事になりました事を感謝致します。

最終回に当たる今回は、これまでとは違った視点で、ディーゼル特急の前サボでガッカリした話やキハ81のボンネットに「やたら興味津々」だったが、結果は?などの「軽~いお話し」で締めくくりたいと思います。

キハ30904(南チサ)1991-3-10 茅ヶ崎⇧

⇧ 相模線電化の迫る中、ユニークな塗装のDCを撮るべくスチールカメラとビデオカメラを持って馳せ参じた。
同線は気動車の通勤型とも言える両開きドアを装備したキハ30系で統一されており、通勤通学の時間帯以外は至って閑散とした典型的な田舎のローカル線で、同線にはキハ30系は不似合いの感があった。
相模線の同車は、写真の通りスカ線を思わせるクリーム色と青色の塗分けで他の線区とは違う塗色を採用していた。また前面の塗分けもユニークで、前面に斜め標記した車番も独特だった。
写真のキハ30 904は900番台を名乗る特殊車両扱いだが、その理由は?クイズです。

 

1961-9-28 向日町運転所

⇧左から「白鳥」「みどり」「まつかぜ」

言わずと知れた大ムコでのキハ82特急群の3並びを狙ってパチリ。左から「白鳥」「みどり」「まつかぜ」だが、かつてのSL時代や電車時代とは違ってヘッドマークは無粋なガラス板に文字印刷した物のみであった。
それでも華麗なトレ(イ)ンマークに憧れた世代の筆者は、諦めきれずパチパチと「無駄な」抵抗?をしたものだ。(笑)
写真の「白鳥」と「みどり」は、夫々北に1000キロ超と南に900キロ超を一気に駆け抜ける長距離走者で、新興大ムコのDCが「日本制覇」した記念すべき列車であった。

機械式➡電気式➡液体式へと発展したDCが、飛躍的に長距離列車の地位を獲得した時代でもあった。

 

⇧岸辺試運転線にて 1960-10-30

変ったアングルのキハ81を撮って見たが、それは思い起こすと50年も昔日の撮影で、ネガの保管が悪く画面は一面小さな斑点で覆われており画像は見られたものではない。
そこで代替え案を考える中、その昔にスチール写真とベタ焼きをした記憶を思い出して家探し(ヤサガシ)した結果、スチール写真の方は発見出来なかった物の、大分無理があるがベタ焼きから「何とか判る」画像を作成できた。
特にユニークなキャブ周辺は是非ともお見せしたい一心から、無理を承知の展示ですので目を背けずに(笑)見てやって欲しい。
考えれば、これは電車特急こだま形共々昨今の鉄道車両設計の先駆けとなった?デザインだったと言える。

で、そのボンネットの中身は、何て事は無い実は編成車両分の冷暖房等の電源となる発電機が収納されていただけであった。

 

1964-10-10 新津

⇧DF50512とC57179

列車の牽引機関車がSLからDLへの転換期を迎え、各地でこの様な機関車の並びが見られたが、それは電化の遅れを伴った地方路線での特徴とも言えた。
この日は夜行日帰りで新潟国電の撮影をするべく越後路を訪れ、赤と黄色の厚化粧に塗り替えられたスカ形や、遠く関西から転属の51系(クハ68)やモハ70の100番台車を追っかけ回した。
その時、言わば「序に」撮ったDLとSLの対面であったが、期せずしてそれが鉄道の動力転換の歴史の1ページを記録した写真となった。

なお、一方でこの日は東京オリンピックの開会日に当たり、カメラ片手に線路際で電車を待つ間沿線の家々から開会式の音楽が聞こえていて、それには無関心の自身が如何に鉄チャン度が高かったかと今更呆れている次第である。

 

山中渓1966-3-14

⇧阪和線を行く紀勢線DL急行

紀勢線直通列車は天王寺-東和歌山間を阪和線に乗り入れており、各所で70系の直行電車や快速電車の他20系の阪和形電車との「すれ違い」があった。
ここ山中渓でも阪和色の70系との離合が有り、スカ色とは一味違う「ほんわか」とした色調の阪和色スカ形とのすれ違いは同線ならではの風物詩であった。
もっとも、後に「阪和色はヤマトのトラックと一緒や!」と言われてガッカリした事もあったが。
なお序ながら同線の70系については、後に新性能車化が迫った頃、他線への押し出し転属を見据えた塗色変更が有り、個人的には好評?だった阪和線独自色から在り来たりのスカ色に変更された経緯がある。

 

⇧⇧EF58    ⇧⇦キハ82 ⇧⇨ナハフ11

見ての通り一目瞭然の「格差」で、やっぱりEF58の前サボ(ヘッドマーク)は芸術作品?的な華麗さがあった。後尾の客車に付いたマークは電照式の、いわゆる行灯(アンドン)形で、これも風情があってグーだった。それに引き換え左のDCキハ82のそれは、「ただ付いてるヨ」と言わんばかりの貧相な事!
今でも「もっと何とかならなかったのか」と残念な気持ちが続いている。

なお、機関車のヘッドマークは機関区によって差異があり、EL➡SL➡ELと牽引機の付け替えが有る場合は夫々の区で統一性は無く、デザインが違っていたとの説も有るが、調査未了のまま終わった。この点、何方かご教示頂ければ幸甚です。

 

国府津ー下曽我 1966-11-6

⇧御殿場線でのキハ51 7(後部)

御殿場線は、丹那トンネルが1934(昭和9)年12月1日に開通するまでの間、東海道本線として幹線仕様となっていた名残で複線区間のままであった。しかし、第二次大戦中の物資不足の中、横須賀線の主として軍用に供する横須賀-久里浜間延長に際しては単線化してレールを供出する等で、すっかりローカル線に「落ちぶれた」ままの状態が定着している。
同線でのDC運用は1968(昭和43)年7月1日の電化前まで続き、沼津機関区に配置された21両のDC(キハ51、55、キハ16、17)が活躍した。
電化後は主としてスカ色の72系が活躍した後、新性能電車へと引き継がれている。

《河 昭一郎様が四回に亘って連載下さった「ディーゼル車」アラカルトは今回で終わります。「国電の大家」と呼ばれる河さんのディーゼル車談義はいかがでしたか?皆様もお手持ちの写真などで気軽にウンチクを傾けてください。HPがもっと楽しいものになりますから。河 昭一郎様、永らくありがとうございます。次回の投稿原稿はいつ頃になりますか?楽しみにお待ちしております。米手作市》

 

 

 

 

「ディーゼル車」アラカルト (Ⅳ) 河 昭一郎」への32件のフィードバック

  1. 「かもめ」の写真に蒸機がありません。
    中学生の時に撮ったのでお恥ずかしいのですが貼ります。
    電化直前の倉敷駅西方で。
    トレインマークはEF58と同じようです。

    • 恥ずかしくない、恥ずかしくない、立派なものですよ。ナハ10系の客車の前にはC62が立派なヘッドマークを付けて貴重な写真です。

      • いつもながらの暖かいお言葉、感涙にむせんでおります。
        《あと一秒待てば動輪が写っていたのに・・》とのお叱りが当たり前ですが、中学生のはやる気持ちはそこまで考えが及びませんでした。でも、撮っておいてよかった!と思っています。

        • 米手作市様
          撮っておいてよかったと思いますよ。岡山-糸崎間の電化完成前に昼行客車特急を撮った人は非常に少ないと思います。勿論この頃には地元のファンや有名な先達が撮られていますが、数は少ないです。今後も自信を持ってお宝をご披露ください。

  2. 私の持っているキハ30系は、主に関西線で、それも旅客が無煙化された直後に撮ったものだけです。この写真もそのうちの一枚ですが、どこで撮ったのか、思い出せません。だれか判りませんか?

    • 奈良行きの列車で後追いで撮った写真ですね。運転手が写っていませんので。場所は多分間違いないと思いますが現在の高井田ー河内堅上間です。近くに修徳学院があります。今、
      写真を撮られた場所は立ち入り禁止となっています。むちゃくちゃ速かったパンタグラフのない101系の写真ありがとうございます。

      • 河内堅上ですか!
        どうやって行ったのやら、さっぱり判りません。
        ブドウでも買いに行ったのかな?
        トンネルポータルに比べて橋脚が新しいのには理由があるのでしょうか?複線にしたとか、鉄橋を架け替えたとか?

  3. 昭和40年3月20日、銚子駅、キハ35905です。
    キハ35のステンレス車体は、900番台が付番されました。

  4. 昭和38年11月3日、大阪駅、「みどり」です。
    隣の4番線には、東京駅を7時は発車した「第1こだま」が到着し、10分の接続で13時40分に「みどり」が発車しました。
    これにより、今まで不可能であった、東京~博多間の日着が実現しました。

    • 藤本哲男 様
      キハ51、御殿場線の山中を我が物顔に走った2台エンジンの強力型でしたネ。

    • いや~「手作り感いっぱい」のトレインマークですネ。
      「かもめ」文字を切り抜いて、ネジ止めしてある等、更には「かもめ」
      の文字が工業的では無く手作業の結果、前衛的な切込みになってしまった?
      どうやら後補機の炭水車のようですが、ナンバープレートのうえから
      引っ掛けてあるようで・・・・これ又面白い。

  5. 【参考】最近の相模線です。
    令和4年3月11日、入谷付近です。
    205系から新型のE131系に置き換えられました。

  6. ==訂正==
    御殿場線の記事タイトル「⇧御殿場線でもキハ17系が活躍」は➡「⇧御殿場線でのキハ51 7(後部)」に訂正致します。

  7. 特急「かもめ」下り列車広島駅 8号車のスロ54と9号車のスハフ43 特2のデッキでの見送りの1シーン
    撮影者は私の故父で昭和31年10月頃の撮影。父は山陽本線柳井駅から母の実家のある広島駅まで用事で出かけ、下りの普通列車に乗る前に、山陽道を駆け下る特急列車を眩しく見て写したのでしょう。
    新婚当時は病み上がりで、転職前は貧しく、しかし10年後の昭和40年前後から我家は大阪から広島に向かうのにキハ80系に代わった「かもめ」「みどり」を利用するようになりました。我家の高度経済成長時代の物語です。

  8. 河さんが冒頭珍しく相模線、それも珍しい塗装のキハ35ステンレス車を紹介されました。相模線の支線であり1984年に廃止された西寒川に行ってましたのでその時の写真です。撮影は1981年1月です。朝8時台に1往復、夕方16~19時台に3往復のみで雨しのぎはありましたが、駅舎らしきものはなく、駅名板は落書きだらけで載せられるようなものではありませんでした。

    • 準特急様
      元々は関西人の小生、相模線の西寒川?とキョトン。
      そこで気になり出したのが、東海道線をどうやってクロスしていたんだろうか?です。
      相模線の茅ヶ崎駅は、何本かの構内配線を挟んで東海道線の北側に有りますので、アンダークロスかオーバークロスで越えないと東海道線の南側にある西寒川方面へは行けない筈。
      小生、ある時期根岸線➡東海道線で静岡県まで通勤していた事があり、毎日通っていた訳ですが、茅ヶ崎はずっと素通りで朝は「居眠り?」帰りは「暗い」で記憶にありません。

      貴殿の写真はタラコ色の頃ですが、前面左上に追加設置?されたタイフォンが気になります。
      寒冷地から転入の耐寒改造車とすれば、通常は庇も付いている筈でしょうし。

  9. 河 昭一郎様
    国電のオーソリティーであり、DRFCの大事な会友でもあられます河様に気安く「河さん」とは失礼しました。私も関西育ちですから本当は「河はん」と呼びたいくらいです。
    根岸線から静岡県とは遠距離通勤をされていたようで茅ケ崎辺りはうたた寝の時間帯とは思いますが、その頃は80系湘南電車を利用できたのでしょうか。さて、西寒川ですが東海道本線の南ではなく北側です。茅ケ崎から三つ目の寒川から分岐しておりました。添付写真は同じ日の茅ケ崎橋上駅から見た相模線キハ363橋本行きで奈良からの転属車です。私もずぼらやですのでたらこ色はわかりますがタイフォンや庇のことはよくわかりません。
    相模線と言えばいつも貴重な写真を提供される宮崎繁幹さんがまとめられたGordon Davisさんの「思い出す日本の鉄道国鉄編」の冒頭に相模線が出てきます。C11の客車やキハ42524(キハ07)が見られます。

  10. 準特急様
    先日19日に80才に成ってしまった「耄碌ジジイ」は困ったものです。(笑)
    何を血迷ったか「西寒川」の位置を勝手に茅ヶ崎より南西方向で、相模川の傍と思い込んだようで、貴殿にしてみれば「何ゆうとるネン!」だったでしょう。

    実は「西寒川」が「寒川」から南西方向に有り、相模川支流の目久尻川近くである事を確認した筈だったのに、「南西方向」のみが強く頭に残ったものと思われ、「南西方向」が「一人歩き」して「茅ヶ崎の南西」と「すり替え誤認」したものと考えられます。

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