《過日、会友の河 昭一郎さんから、「写真を整理していたら気動車の写真が出てきたが、専門外なのでよく解らない(米手注:謙遜デス!)。そこでデジ青に投稿して皆さんから解説していただけたら」とご連絡を頂きました。もちろん大歓迎なので原稿をお願いしましたところ、さっそく頂いたのがこの作品。米手は代理投稿のお手伝いをさせていただきます。》
昨年の年末に、古くから溜まったままのネガを整理しようと思い立ち、スキャナーを引っ張り出して作業を開始。ところが、皆さんもご存知の通りその作業は面倒この上なく、全て手作業に加えて何よりも時間が掛かるのです。
そんな中、写真を何とか皆さんに見て頂けないだろうか?と思い始め、米手作市さんに「写真発表」の機会を頂けないかとお声を掛けた次第。
その中身は順不同に加えて車両もDCに限らず広く「ディーゼル車」とし、DLや今後追加発表させて頂ければ良いなと思っている「路面ディーゼル車」までも対象としました。皆さんのご批評や思い出話、更には記述間違い等の「ご教示・ご注意」など、コメントを頂ければ幸甚です。
▼キハ81 1(東オク) 1960-10-30 岸辺
吹田工場から岸辺駅下を経て東海道本線に張り付いて東へ伸びる試運転線で、「はつかり」用新造気動車の試運転が行われた。同車には当時ブルドッグとの異名もあった。
▼キハ17 撮影日不明 大阪駅(福知山線)
気動車黎明期に全国各地で大活躍したスカ色の気動車は華奢な車体だったが、軽快感が溢れ、当時のファンにとっては一種の憧れだった。特に連結器の小型化が印象的だった。
▼DD91 1 [福] 1962-7-31 京都駅
山陰線ではメーカー売込みのDLが試用され、このDD91は白色基調で人目を引いた。新三菱重工の液体式で、DD54の基礎となったとされている。
▼DF41 1 [福] 1961-9-26 京都駅
汽車会社製の電気式で、1959年から山陰線で試用され、後にはDF92と改称したが、1962年にはメーカーに返却された。前面窓下には小ぶりの貫通扉が有った。
▼ DD12 1 [国] 1966-3-1 横須賀駅
戦後アメリカ軍が持ち込んだ電気式の元8500形入換専用機。
DD13にも通じるスタイルだが、異色の存在で珍しく感じた。
▼キハ55 134(大ウメ)1962-11-19 京都駅鮮やかな黄色に赤い線は当時の国鉄では斬新な色調で、出だしは日光線の準急色だった。その後55系は急行色とされる赤系とベージュ?の2段塗となり、クスンダ印象となった。
▼「かもめ」と「白鳥」1961-9-30 大ムコ
向日町区のDC特急2本が本州を制覇。
キハ81から発展し、洗練された前面デザインとなった82系は不動の地位を築いた。時刻改正前日の慌ただしい大ムコを記録した。
▼キハ55 164(名ナコ)1962-7-14 京都駅準急色から急行色に変身し、急行編成を組んで格上げとなった元「真っ黄色」の日光形?
性能的には58系と遜色も無く、併結運用が常態化し、写真の準急平安号にも併結されていた。
▼キハ20 39(天カメ)1962-8-15 草津駅
典型的ローカルの単行列車。
湖東線の臨電を追って、初めて降りた駅が草津線の起点だった。当時、やたらと田舎(失礼)に憧れていた?
▼キハユニ16 8(天ナラ)1962-8-16 京都駅
懐かしい?湘南顔をした電気式からの改造車。思わずタカバシをバックに珍車を仕留める。今では立入場所が「問題」だが当時は鉄道ファも少なく、特権みたいな風潮も(本当?)
《さて、第一回はここまで。まだまだ続きますのでご感想・ご意見をお待ちしています。また、思い出写真の投稿も歓迎致します。》
昭和40年3月22日、上野駅、特急「はつかり」です。
d)4047年8月6日、宇治川橋梁を通過するキハ17、16の6両編成です。
昭和40年3月22日、京都駅、DD911です。
京都駅9時38分発、山陰線回り門司行(811レ)を福知山まで牽引していました。
昭和45年3月12日、田浦駅、DD121です。
藤本哲男 様
さすが、オールラウンドの藤本様、ディーゼルにも精通しておられますネ。
「はつかり」は、ベストアングルに、うっとり。
また、17系の6連は圧巻です。
ありがとございました。
前にも投稿したかも知れません。
昭和36年2月上野駅です。
まつかぜ 昭和37年1月大阪駅
キハ17293 福知山
準急ときわ 昭和36年2月上野駅
DD911 丹波口
雨の加太駅キハ55
関西線の急行「かすが」に入っていた元碓軽用のキハ57です。1980年柘植
米手作市様
貴殿もDCを沢山持ってますネェ。
嘗てのエリート、マッ黄色のキハ55による宇野線の優等列車、大ムコのキハ82、瀬の八での「みどり」共に圧巻!
そう言えば先に貴殿が投稿された6枚もの写真、夫々にウットリしている間に返信コメントをスッカリ忘れ、申し訳ありません!
雨の加太駅は、雨に濡れたホームを手前に広く入れたアングルは「芸術作品!」
の域に入りますネ。
「ときわ」のショットは撮り鉄に取って「一番腹の立った?」上野駅の典型的なイジワル場面で~す。
ところで、丹波口のDD91では手前の溝にカメラ持って落ちてません?(笑)
昭和39年9月23日、京都駅、キハ8225、特急「かもめ」です。
「はつかり」の撮影場所は上野駅ではなく、仙台駅でした。
お詫びの上訂正します。
昭和47年4月30日、加茂付近、特急「白鳥」です。
昭和40年10月18日、豊肥本線、肥後大津~瀬田間、キハ5532です。
昭和48年1月1日、山田上口~宮川間、キハ20です。
昭和41年1月31日、稲荷~桃山間、キハユニ168です。
米手作市様
「代理投稿」でお手を煩わせた上に、行きがかり上コメント投稿までお付き合い頂きまして、恐縮至極です。
かくなる上は続編も、と思ったりもしますが、小生の「作品」は「在り来たり」で訴求力に欠けているようで、人気薄の現実に直面し、脱力感に苛まれております。
河 昭一郎さん
そのようなお気遣いはご無用です。
皆さんも、いまごろアルバムを探し回っているのではと思います。私も82系特急をかき集めておりますのでしばらくお待ちください。
ちょっと私もよせてください。有田鉄道の機械式ディーゼルカーと82の特急くろしおです。このときは野上電鉄も行っています。珍しくカラーネガで撮っていました。多分1974年頃だと思います。
有田のキハ07は戦後型でした。
どですかでん様
DCの新旧対決?って、「大袈裟好き」の私です。
DC時代になってから「取り残された?」地方にも「最新鋭」が、そのまま津々浦々まで浸透する様になったのは良い事でしたネ。
貴殿の取材力に脱帽。
どですかでん様
返信コメントがH.K.生様の欄に入ってしまいました。
申し訳有りません。
大村線の綺麗なキハ17系3連です。1979年
K.H.生 様
機械式のDCは、この後どんどん淘汰されましたネ。
「その内に撮らなアカン」と思いながら、モタモタしてたら結局は記録漏れ。
積極的に取材された貴殿の写真で、スタンダード化した17系も含めて往時を偲んでおります。
変色、カビのネガで失礼します。小浜線からのキハ20を併結した堂々11両編成です。
西村雅幸 様
これは壮観ですネ。
気になるのは、その運用ですネ。
頭に付いてるのかブラ下がっているのか(尾灯の赤円盤での判別が不可、いや、もう此の頃は赤円盤は省略でしたかナ)58系の優等列車に、乗降用ドアが内に寄った単行用の20を併結しているのが「何で~」ですけど。
河様 昭和45年秋 馬堀・保津峡間での京都行き列車は間違いないのですが、メモなどを残しておらず列車名がわかりません。先頭のキハ20は小浜線から来て西舞鶴で併結されたと思われます。丹後〇号、きのさき〇号のような列車名だったと思いますが、どなたか教えて下さい。
昭和39年10月号の時刻表を基準にすると、撮影されたのは、「丹後1号」で先頭のキハ20は、敦賀4時51分発952D東舞鶴行の前1両、続く6両は、東舞鶴6時56分発906D、続く4両は綾部で併結した、福知山7時19分発2506Dです。
折返しは、京都9時30分発「丹後1号」905Dとなり、それぞれ出発地点に戻ります。
京都駅で撮影した編成全体の写真が見つからず、先頭のキハ20374(昭和39年7月21日撮影)です。
藤本哲男様
ありがとうございます。先頭は小浜発かと思っていましたが敦賀発でしたか。キハ20にはヘッドマークもついていますね。それにしても現在では考えられないような運用ですね。撮影した時間帯は朝も早い時間でしょうから、私は早朝に馬堀に出かけたことはなく、多分DRFCの亀岡合宿?で朝のC57客レを狙った時ではないかと思います。ところで11両編成が山陰線ホーム(0番線)にしっかりと収まり、更に1番線に長編成が収まるわけですから、京都駅の山陰ホーム西端から1番線東端までの長かったことを思い出しました。
こんな写真を公開できる日が来るとは思いませんでした。
河さん、ありがとう!
準急「にしき」宇野線 キハ55。二両目は初期型のキハ55
特急「へいわ」向日町運転所
私には「へいわ」という特急の記憶がありません。どこを走っていたのか、いつ頃まで走っていたのか、全く記憶に無い特急です。
米手作市様
そう言えば「へいわ」、有りましたネ。
たしか京都から西の方へ走ってたような気がしますが。
今更調べる事も無いのかも知れませんが、多分「短命特急」だったんでしょうネ。
昭和36年の事ですので、私も「今時、へいわ」?と思ったのを覚えています。
だから?だったのか、わざわざ大写しでヘッドサインも撮ってます。
特急「みどり」瀬野ー八本松
2月24日の項にコメントしてしまいました!
日付を戻って読んで下さい。
粗忽者が、更に訂正で~す。
どう言う訳か貴殿へのコメントが25日付のK.H.生様の項に混入してしまいました。
米手さま この写真を見て、80系DCは補機の助けを借りずに、瀬野八を越えていたことに、改めて思いを至しました。
そういえば「つばさ」だったかが、EFの補機をつけて坂を登っていたように思いますね。
1965年8月の下り「つばさ」です。峠にて。「つばさ」と「やまばと」はEF16が牽引していました。
河 昭一郎さん、
最後に準急「丹後」ですが、すべて20系とは。
続編をお待ちしております。
米手作市様
20系3重連・・・それが優等列車に?
電車では有り得ないんじゃないかと思いながらも、むしろフットワークの良さに「感心」!
いつもご愛読下さっているS.Nさんから「遅ればせながら関連写真を送るので河さんの投稿に掲載して下さい」と送られてきた写真を代理投稿致します。
DD901(旧DD411)撮影は1968年7月7日大宮機関区
東芝製。1954年に国鉄が購入し大宮操車場で使用され、1971年に廃車
米手作市様 S.N.様
ディーゼル車を集約した「日本の内燃車両」(鉄道図書刊行会)によると「借入機関車」の項に10種のディーゼル機関車が収録されており、その中にDD41(後のDD90)が紹介されております。
同車は大宮区に配属されており、大宮操車場が定位置でしたので当時関西人バリバリの小生は見る機会が無かった訳です。
この機関車は見るからに頼りがいの有るイカツイ感じですネ。
因みに、上記「日本の内燃車両」には小生のDF41とDD91が掲載されております。(DF41は、別のショットも有ったのに、ウカツにも同ネガをデジ青に投稿してしまいました。)
我が家の機関区にDD90が動態保存されています。台車はブリルMCBで代用です。
西村雅幸様
小学生の頃、0番の3線ブリキ軌条でEB10やクモユニ81等を走らせ、16番に乗り換えた後、次はNゲージの113系編成やクモハ40、クハ76など、あれこれカジリましたが、どれも金が続かづ中途半端・・・。
貴殿の特注品?もしくは手製?のDD90は、色合いが「物の本」で確認した通りの派手な色で忠実そのもの。お見事です。
で、小生の模型車両趣味の原点となった0番車両は、結婚した大昔に実家に置いたままにしていて、或る時保管しておいた筈の物置をしらべていたら、オヤジが「捨てたヨ!」の一言。青春時代の「大切な思い出」は霧散しました。(笑)
但し、就職後に始めた16番やNゲージは「肌身離さず(笑)」持って歩いた結果、今も我が寝室に飾られております。
河 昭一郎様
コメントありがとうございます。このDD90は真鍮板からの自社製です。エンジンルームがDD14ほど長くないので、何とか曲げることができました。パワートラック2セットで、スムーズな走行です。
中村進一氏から預かったネガに進駐軍時代のDD12があったので貼ります。たぶん「アメリカ博」での撮影と思われます。
以前にも書き込ませて頂きましたが、8587は八幡製鐵に行ったのでDD12にはなりませんでした。1946年にアメリカ軍が持ち込み進駐軍用貨車の入換に使用されたUS ARMY 8500の8両は1956年に払い下げられ、8585・8586・8588・8592・8593の5両が国鉄に、8584・8589の2両は名古屋鉄道、8587は八幡製鐵の所属になりました。DD12を名乗れるのは国鉄に払い下げられた5両のみです。
乙訓の老人の甥様
8500について懇切丁寧な解説を頂き、ありがとう御座いました。
「目から鱗」とはこの事で、ただ変わったDLやなあと思っていただけの小生は、勉強不足を恥じております。
総数が中途半端な8両で、後には国鉄継承以外に名鉄X2や八幡製鉄X1の内訳だった事を始めて知りました。(恥)
乙訓の老人の甥さま、 細かいことですが8587号機の八幡製鐵への払い下げは、他機より4年遅れの1960(昭35)年でした。この間、8587号は米軍、相模原補給廠で使用されておりました。
詳細な解説ありがとうございます。確かに1956年に移籍したのは国鉄と名鉄分のみですね。
八幡製鐵の8587は1967年には解体されているようですが、名鉄の8584と8589の2両は1966年に廃車となり、再びフィリピンに戻るという数奇な運命の機関車でした。