《会友・河 昭一郎様が続編を投稿されましたので米手が代理投稿させていただきます。今回も珍しい写真が登場しますので、関連車両がありましたら(関連がなくても)われ先にとご投稿ください。》
先に『ディーゼル車 アラカルト』を2回掲載させて頂きましたが、駄作と言えども少しは皆様にも興味を持って頂けたと嬉しく思っております。これは一重に米手作市様にご協力を頂いたお陰と感謝しており、特に添付写真に関しては、何回ものヤリトリにお付き合い頂き申し訳なく思っております。
ともあれ、皆様には過去2回とも多数のコメントを頂く事が出来、嬉しく思っております。それに気を良くして「アンコール」の声も無いのに、図々しく続編を掲載させていただこうと考え、しつこくも3度目の登場です。
今回は目玉として恐れ多くもディーゼルカーの歴史に関わる機械式に目を向けて、レールバスを始め42000形(キハ07)をも登場させる事ができました。
出来ればこれに続く電気式をも取り上げたかったのですが、電気式➜液体式のスピードが速く、既存の電気式は元々少数だった事も有って、瞬く間に液体式に改造されてしまった感があり、国電撮影の合間の片手間撮影では対応できなかった事を今になって大いに後悔しております。
▼キサハ453(札ナホ)1964-8-19 苗穂機関区
オハ62 80を1963年3月に改造した付随気動車ではあるが、一見客車そのまま。 室内も無改造で、かろうじて違うのは外部塗色と軽量密連のみ?だった。キハ不足を補ったゲテモノは約3年で退場した。
▼キハ16 91(札サツ)千歳線731D 苗穂
バス窓で小振りな初期液体式のキハ17のグループ。(キハ17のトイレ無しスタイル)次位のキハ20系は次世代車に当たり、キハ17系に比べて車幅と車高が一回り大きくなったのが判る。
▼キハ21 52(札ナホ)1964-8-19 苗穂機関区
キハ20の寒冷地仕様車で床下機器に耐寒対策が施されていた。ドアが内側に寄っており、防寒上の効率が悪く総数84両が製造された後、改良形のキハ22が後に続いた。
▼キハ22 212(札ナホ)1964-8-19 苗穂機関区
キハ21の耐寒改良形で、窓は小型化し客用ドアが車端に移されてデッキ付きとなった。1964年4月1日現在200両(鉄道図書刊行会・動力車配置表)の多くが北海道、東北地 方で活躍した。
▼キハ07 3(旭キミ) 釧路 1964-8-13
戦前のガソリンカーをディーゼル化した機械式の気動車だが、前面が半円形に突き出したデザインは流電にも負けない特徴が有った。戦前を感じる事が出来る同車には一種の憧れがあった。
▼キハ02 11 1964-8-19 苗穂機関区
札クチにて第1種休車となり、札ナホに保管中の同車とかろうじて対面が間に合う。「これが噂に聞いたレールバスか!」と感無量で、色は剥げライトは割れていたが、何故か充実感でいっぱいだったのを思い出す。
▼DF50 59[米] 1962-11-30 京都駅
DF50には0番台の1060PSズルツア形と500番台の1200PSマン社形があったが、外観に変わりはなかった。京都には山陰線のDF50が出入りしており、それまでのC51に代わって活躍した。
▼2001D白鳥 1962-9-10 高槻-山崎間
長駆1000 kmを超えて一気に本州北端まで駆け抜ける長距離走者は、宮崎迄900 kmを越 えて走行する「かもめ」と併せ本州を縦断する大ムコの看板列車として忘れられない。カメラを構えて待つ間、ワクワクしたものだ。
▼キハ82 26のキャブ風景 1961-8-18 大阪駅
DCと言えば82系でしょ! って話が古い?
画期的な発想のキハ81ブルドッグを貫通形に改良した82系は期待通りの大活躍だった。総数180両超が全国各地を走ったが、そのキャブ内は簡素で機器配置も旧態然としていた。
▼キハ82 33 1961-9-28 大ムコにて
車内については、大きく目立った変化点を感じなかったが、特急専用車としての風格は充分保っていた。
▼キシ80 20 1961-9-28
こちらは食堂車だが、当初のキハ81系「はつかり」では付随車のキサシだったが、本格的長距離運用に当たって動力車に設計変更された。
《バックナンバーへのリンクは下記》
キサハ45 3はきれいに妻面が見えていてわかりやすいのですが、尾灯が付けられ、ジャンパ栓受けがあります。ホロは気動車用を付けるのでしょう。また車内は、佐竹さんの写真によりますと、ペイント塗りで腰掛の背ずりにはモケットが張られていました。
これでオハ62のままではなく、キサハになった理由が分かりました。
入学初年度の1979年の年末帰省にキハ82系の「まつかぜ」に大阪ー小倉間の全走行区間の95%に乗車しました。
入学時から交友のあるA君は萩高出身、私は小倉高校ですので、田舎もんにとり国鉄特急は誇りでした。「白鳥」「かもめ」「みどり」「おおぞら」「ひばり」など。特に大ムコにずらり並んだ新鋭特急82系の写真は今見てもシビれます。その帰省時にはキシ80には2回行きました。
今や山陰本線さえ部分的に存在が危うい時代。良い時代に生きて良い列車に乗れた僥倖をつくづく思います。
K.H.生 様
さっそくのコメント、有難うございます。
何より、最初に美人さんのお写真に「目が点」状態です。
ひょっとして、窓の外の後方の美男子は・・・?
そうでしたネ。キハ82は画期的なDCに感じましたネ。
追っかけまわした記憶がよみがえります。
小生、この頃は高槻(摂津富田)から京都の予備校に通っていた「黒歴史」?の時代でした。
通学の行き帰りに、毎日ドンドン出来上がって行く「大ムコ」の真横を通ってましたが、それが唯一の清涼剤でした。
そして、居たたまれず或る日「大ムコ」に潜入してしまいましたが、職員さんを始め出入り業者さんも、みんな忙しそうで気にもされませんでした。
元の国鉄キハ075です。昭和11年にキハ42029として登場しました。今なお片上鉄道保存会で動態保存されていますが、コロナ渦もあり休止中のようです。写真は、平成26年11月です。
遠軽のキハ07211
米手作市様
キハ07って機械式でしたよネ。
写真の右に写っている液体式の20系?とカプラーで完全連結されているようですが・・・。
事情が判れば教えて下さい。
211号ですから液体式です。
米手作市 様
お恥ずかしい。勉強不足が露呈しました。
201~は液体式に改造された車両だったんですネ。
先入観から機械式とばかり・・・200番台と言う飛び番で気付くべきでした!
何れにしても、ご教示ありがとうございました。
河様、初めまして。四方と申します。
河様からDF50を見せられると、「DF50は旧型国電だぞ」と言われているような気がしますが、私の考えすぎでしょうか(KE52が共通なので)。59号は、米子のMAN統一のため亀山へ、さらに紀勢西線電化に伴い高松へ転じ、その生涯を閉じました。
1961年10月24日製 造:新三菱三原(No.1070)→米子機関区
1969年10月11日移 動:→亀山機関区
1978年10月 4日移 動:→高松運転所
1983年 4月 2日仕 業:高松運転所DLA205(最終仕業?)
1983年 4月 8日廃車回送:高松→多度津(271レ) 運転区留置
1983年 4月 9日一次休車:指定(四総通達第308号)
1983年 6月17日一次休車:解除(四総通達第308号)
多度津運転区から多度津工場へ移動
1983年 6月18日二次休車:指定(四総通達第309号)
1983年 7月 2日用途廃止:工車達第269号(2,311,720km)
貼付写真は河様が撮影された21年後の1983年4月1日、高知駅3番線停車中(㋵284レ)の59号です(次位は51号)。写真からはわからないものが多いですが、煙道、SG煙突、タブレット防護柵、ラジエータ散水装置、SGバルブ、スノープラウ、解放テコ、KE52ジャンパ栓受け、ワイパー、KE66ジャンパ栓等に変化が見られます。
連投すいません。河様が撮影された同時代の59号の画像を、かなり以前にネットから拾ったのですが、日付も場所もわからない、現在では画像検索をかけてもヒットしない写真なので、貼付いたします。上新庄でヤラカシタ私が言うのも可笑しな話ですが、この写真の場所は、西舞鶴駅北側の(主)小倉西舞鶴線の踏切(現在は跨線橋ですが)の北側付近ではないかと、思われるのです。「59号のいる線路が海舞鶴線、手前の線路が舞鶴線、59号の奥の枕木の柵の向こう側の空き地っぽいのが舞鶴公園、右端には写ってはいないが『ア』『ヤ』『ボ』『ウ』と屋根上に看板を掲げた工場が見えるだろ」と私の中の悪魔が囁くのです。西舞鶴であるならば、DF50は舞鶴線にも入線実績があったことになります。
この写真の場所に心当たりのある方は、是非ともご教示をお願いいたします。
長々と申し訳ないですがあと2点だけ。
キハ82 26のタコメータを見て思い出しましたが、DF50にも取り付けられていました。1人乗務化を契機に設置されたのではないかと思いますが、タコグラフ速度検出用歯車装置が第2軸右側に取り付けられているのを晩年4号機で見たことがあります。労組の反対があったのか早々に外されたようで、これ以外には見た記憶がありません。
また白鳥のお写真ですが、高槻~山崎ではなく、神足(現長岡京)~山崎ですよね(バックに阪急の架線柱が写っています)。
四方さん
山陰線京都口のDF5059です。
米手作市様、59号のお写真、ありがとうございます。SG煙突は、新しい一方向排出型の新しいタイプは間に合わず、オリジナルだった事がわかります。
あるルートから、この寒地向けのSG煙突の設計図(実物は藤本様の51号を参照願います)を入手していますが、公開してよいものかどうかよくわかりませんので、標題部のみご覧いただきます。臨時車両設計事務所のお歴々のお名前が、苗字だけですがわかります。
また、遠方信号機から通票閉塞の時代かと思われますが、奈良線も含め京都駅で通票を扱っているところを見たことがなく、見ておきたかったなぁ、と後悔しています。
四方誠 様
うわ、うわっ降参します!
小生の「判ったような」事を言う「上っ面だけ」の説明は、貴殿の足元には及びもつきません!!
特に完璧な車歴調査にはグーの音も出ません。
また、装備や設備などの詳細な説明には「感心する」以外ありません。
お陰様で小生の写真が「生きる」事となり、貴殿に感謝する以外ありません。
四方誠 様
連続のコメントを頂き、恐縮しております。
先ず、「白鳥」の撮影地、貴殿の仰る通りです。こんな有名な場所を間違えるなんて!
毎回、山崎で降りて神足に向かってテクテク歩いたのに、何で高槻?と自分でも不思議な間違いでした。
写真を撮り始めたころはSLブームのさなかで、ディーゼルには目が向いていませんでしたが、地元の江若鉄道には何度か足を運び撮影していました。当時は形式も良く知らない中、旧キハ07シリーズはお気に入りの車両でした。今調べてみるとこのキハ21は国鉄時代のキハ42050で、昭和35年8月最終配置だった岡山から転属したとなっていました。前面の5枚窓、キハ07に限らず、この顔の車両は好きですね。昭和44年廃止の少し前に白髭-北小松間で撮りました。
大津の86 様
江若鉄道は小生にも記憶に残る場面があり、折に触れ思い出します。
60年以上も前の中学生の夏、家族4人で近江舞子水泳場へ行った時に見た江若鉄道でした。
ガソリンカー(だったと思う)の重連が通り過ぎ、見ていると各車に運転手が居て、警笛で合図しあっていたのが不思議な光景でした。
後に判ったのは総括制御が不可能で、苦肉の策として「手動式」重連となっていたのが理由でした。
江若鉄道については、DRFCの重鎮福田静二氏が深く研究されておられますので、機会が有ればこの辺の事情をご教示頂きたいと願っております。
河様、ご返信ありがとうございます。
また、過分なお言葉を頂戴し、こちらの方こそ恐縮です。
京都駅山陰2番線(お写真の撮影当時は、この呼び方になる前の時期でしょうか)とその機回しの光景に、テンションが上がり過ぎたのか長々と駄文を連ね、失礼いたしました。
改めてお写真を眺めていると、操車掛の方がスノープラウの下端の僅かな出っ張りに足をかけられていて、よくこんな姿勢で乗れるものだと、驚いています。
1981.6.28瀬棚駅のキハ2149+キハ21219 瀬棚線長万部行き926D
1981.12.5留萌 羽幌線幌延行き853D キユニ212旭フカ+キハ22261旭アサ+キハ247旭アサ
1981.6.28瀬棚駅の926Dはキハ2179+キハ214の間違いです。訂正してお詫び申し上げます。
1981.11.22 深川より深名線927D朱鞠内行きに乗車したのがファーストナンバーキハ221でした。
尚、河 昭一郎さんが発表されたキハ07系ですが、現在発売されている(株)エリエイのレイルNo.122「国重要文化財キハ42000・キハ07」に当会会員4名の記録写真が多数掲載されておりますのでご覧ください。
1980年8月29日の名寄駅にて発車を待つキハ22 2です。
この若番車の他に1も深名線にいたことを知りました。
なお同列車に部員一同乗り、朱鞠内の隣にある湖畔キャンプ場に向かうのですが、途中の峠越えの勾配区間で、普段より多めの乗客を乗せたキハ222は小雨の中空転を始め、峠の途中で諦めて後退し、今度は勢いを付けて登り切りました。
話には聞いていた一旦後退して再度挑戦というのを国鉄線路上で見ることが出来るとは思わず、感心とびっくりと両方経験出来たことを思い出しました。
北海道にキハ02がいたとは知りませんでした。
02は内地型で、寒地向けは03と覚えていたのですが、ちがいますか?
北海道のキハ03を貼ります。
昭和39年5月3日、稲荷、キハ16です。
後追い写真で、先頭はキハユニ162両目はキハ17です。
昭和42年9月6日、石狩沼田駅、キハ2123、札沼線の札幌行です。
昭和42年9月2日、青森駅、キハ22の2連、津軽線の列車です。
昭和42年4月29日、米子機関区、キハ07214です。
藤本さん、
この塗り分けは地方色でしょうか?私はこの塗り方を見たことがありません。
藤本さん、
この塗り分けは地方色でしょうか?私はこの塗り方を見たことがありません。同じ頃に撮った木次の07です。
米手作市様、この塗分けは米子機関区限定でした。ちなみにBOXのハレハレアルバムに御来屋の後藤さん撮影のこの車がキハ28と連結して境港線を走行している写真がありました。
藤本さん
早速の解答、ありがとうございます。
どうりで見たことがなかったはずです。
でも、なにか新鮮で良い感じですね。地方私鉄に払い下げられた07のように感じます。
キハ07のうち、門司の鉄道記念館に保存されているキハ0741が重文にしていされたことを記念して、「レイル」最新号は、キハ07特集です。当会のメンバーも多数写真で参加していますょ。
昭和39年9月26日、京都駅、DF5051です。
藤本哲男様、51号のお写真、ありがとうございます。砂箱が早くから撤去されている(第2~5軸)のがわかります。お写真のファイルネームからは、次位以降の客車まで番号を記録されていることがわかり、先輩の鉄道への愛着を感じました。バックに写る京都タワーも完成の3か月前で、見所満載です。
河様からの時と同様に51号の略歴を紹介させていただきます。
1960年12月15日製造:新三菱三原(No.1045)→米子区
1967年10月16日移動:→高松所
1981年10月14日移動:→高知区
1983年 4月 1日移動:→高松所
(前日知変DLA202-1で転属)
1983年 8月25日仕業:変DLA207(最終仕業)
1983年 8月27日 :BTオロシ
1983年 8月30日 :駅裏1番線で留置
1983年 9月 2日 :一休指定(四総通達第308号)
1983年10月 7日 :一休解除(四総通達第308号)
1983年11月 8日 :二休指定(四総通達第309号)
(10月8日の誤植の可能性が高い?)
1983年11月30日用途廃止:工車達第1251号
(2,392,357km)
貼付写真は19年後の1983年7月25日、大豊トンネルの完成に伴い廃止された大王(信)1番線から出発する281レ牽引の51号です。59号と違い、四国転属時期が早かったため、完全四国スタイルとなっています。また、学生時代に「青信号」には書いたように思いますが、この51号から制御箱の観音開きが上下2段に分かれています(対応するMANの番号は不明です)。
昭和47年4月30日、加茂付近、「白鳥」です。
左の線路は、蒲原鉄道です。
昭和46年12月3日、京都駅、キシ8019です。
藤本哲男 様
キシの写真、撮ってませんでした。昔、大ムコに紛れ込んだ時は82ばっかりが気に成って。
特急3本並びだの、今にして思えば「どれも同じ」なのにトレインマークと勘違いしてたのか、ヘッドサインを一生懸命写して歩いたり。(笑)
こう言う形式写真が本当は大事なんでしょうネ。
河 昭一郎さんが通っていた頃のムコテン
米手作市 様
そうそうこの風景、演歌の花道風に「懐かしいネエ~」。
小生にとって正しく青春真っ只中・・・しかし、我が「黒歴史」の予備校時代ではありましたが。
とは言え、その予備校で彼女が出来て・・・その後の関東生活で遠距離〇〇になり見事に消滅。(大笑い)
DF5059の後に見えるオハ60が気になります。当時でも京都付近では山陰線や草津線で少し見られる程度でした。
DF5059の後に見えるオハ60が気になります。当時でも京都付近では山陰線や草津線で少し見られる程度でした。木造客車の香りを漂わせた、乗客に人気はないけどなにか好きな客車でした。(京都駅・草津線到着)
米手作市 様
何で02が北海道にオルねん?
仰る通り02やったら四国が当たり前、何で1両だけ北海道?
「ごもっとも」ですネ。
休車で札ナホに居たってのは、何か「匂って来そう」ですが。
そうそう四方 誠 様、車歴はどうなってますかネ?
四方 誠 様
キハ02の車歴についての情報を「強要」してしまい、申し訳ありません!
ひょっとしてDCはDLとは違っている事に気が及ばず、反省しております。
これに懲りず今後共よろしくお願いします。
河様、
キハ02は全くの守備範囲外なのですが、こうして折角ネットを通じてお話させていただく機会を得たばかりで「わかりません」とお答えするのも心苦しく、キハ02について少し調べてみました。
・寒地向け(1~11)と暖地向け(12~17)があり、河様撮影の11号は道内に残った唯一両の貴重なお写真であることがわかりました。
・内地は、宇和島、木次、佐々区に配属されていたようです。
・宇和島の写真を見ると前面補強がなされており、四国での踏切障害問題の根深さに改めて気づかされます。また、四国への寒地型気動車の転入は、先頃引退した「伊予灘ものがたり」のキハ47 500、1500番台を想起させます。
以上、ご期待の回答からは程遠いこととは思いますが、ご参考までに。
四方さん
これは参考になりました。
私が木次線で撮ったキハ02は、全て北海道から転入してきた寒地向けだったのですね。いままで知りませんでした。本当にありがとうございました。
なお、上記の表中にある私の撮ったキハ025は木次線です。
四方 誠 様
キハ02についての詳細な調査、ありがとう御座いました。
同時に、貴殿の調査力の凄さを感じました。
自称、国電通の小生も元来は、勉強嫌い➡勉強不足で、米手作市様の仰った「02は内地向け」の意識など無く、札ナホで02と遭遇・撮影しても単純に「レールバスに会えた」事を喜んだだけでした。
小生の写真が北海道に残った寒地向け02の最後の1両だったとは、今頃に成ってレア車を仕留めた満足感に浸っております。
米手作市様、
またヤラカシテしまったようで、申し訳ありません。以後、気をつけます。
河 昭一郎様、
レア車を仕留められたことは、河様が地道に活動されてこられたことの証だと思います。また、いろいろなお写真をご披露いただければ嬉しいです。
お写真そのものだけでなく、59号のお写真に添えられた一文『それまでのC51に代わって活躍した。』も、当時を見てこられた方の証言として、とても貴重なものと受けとめています。無煙化の一言に隠れ誰も言われなかったことですが、運賃値上げが認められず第一次五か年計画が実行に移せずにいた当時、C63の設計が進められていた背景には、C51の老朽化が喫緊の課題としてあったようです。
四方さん、
なにも気をつけることではありませんよ。
感謝こそすれ、文句を言うはずがありません。
これからも私のいいかげんな投稿を見て、喝!を入れてください。お願いします。信頼しています。
四方 誠 様
『それまでのC51に代わって活躍した。』に言及いただき、嬉しく思います。
実は、いつも文章、中でも短い文で著すキャプションには特に気を使います。
今回も車両形式によっては何回も書き直したりしたため、結構時間が掛かり、お世話頂いた
米手作市 様にはイライラさせたんではないかと心苦しく思っております。
河 昭一郎さんの仰る「それまでのC51に代わって活躍するDF50」です。
米手作市 様
地道に撮ってはりますネェ。
一目瞭然。 確かに小生の「説明部分」をビジュアル化していただいたみたいな・・・。
米手作市様、
河様のキャプションを裏付ける見事なワンショット。身内側の私が言うのは可笑しな話ですが、このようなお写真がすっと出てくるあたりは、凄いを通り越えて恐いぐらいです。C51 99号牽引の普通列車を先に出し、DF50 41号が山陰1番線に停車している客車に再連結する直前のシーンかと思われます。
『ここどこ?わただれ?』シリーズではありませんが、
・場所は、京都駅山陰線ホーム(で問題ないかと)
・時期ですが、
C51 99:亀山(1962年01月)梅小路(1963年12月)用途廃止
DF50 41:新製(1959年09月)米子(1967年07月)高松
となっており、かつ41号の乗務員扉脇の手摺がボルト止めとなっていないことから、お召し牽引前の姿であることがわかります。
従って、1962年01月から1962年04月の間の撮影と推察いたしますが、いかがでしょうか。
貼付写真は、1981年7月28日、高松運転所での41号です。1端(貼付写真左側)と両サイドはお召し整備されましたが、2端は重連で見えないため、お召し整備は省略されオリジナルのままです(私の撮影時点では四国での改造が多々見られますが)。
四方さん
過分なお褒めのお言葉、くすぐったいです。
撮影日ですが、ご推察では昭和37年1月から4月とあります。恥ずかしながら日にちがハッキリしないのです。でも入学前なので、たぶんそんなところだと思います。ゴメンナサイ!
お詫びにちがう角度からの写真もご覧下さい。
同日撮影。京都駅山陰線。
四方誠さん
もう一枚、DF5041の良いカットがあるのでご覧下さい。
米手作市様、
私が勝手に『ここどこ?わただれ?』シリーズと勘違いしたために、お手間をとらせてしまったようで、申し訳ありません。お召し整備前の41号は、
・第2~5軸の砂箱撤去
・側窓上部の水切りアフレ止め追設は未施工
・前面操車掛用手摺は大型化(お召し整備と無関係)
・機械室小窓は追設済
・第一サイドエアフィルター下のタブレット防護板は未施工
・SG煙突は未改造
のような状況であったことがわかります。ありがとうございました。
なお、2端(お写真左)側にはスノープラウがありますが、1端側にはなく、操車掛用ステップも見当たりませんので、どこかで事故ってる感があります。
貴兄の参考になれば、と掲載しました。
しかし、そんなことまで調べておられるとは、驚くと共に会員として誇らしげに思います。ありがとうございました。
==追加==
Ⅲを終わってから、残っていた原稿が出て来ました。
DD13 135【静転】1966-3-12 静岡運転所
111の実験車に続く112番以降の第2次車は液体式1000馬力の増強形で、ヘッドライトが二つ目玉になったのが外観上の特徴であった。
第3次以降の後続車には重連機能が追加され、列車牽引の例もあった。
新製直後に梅小路で撮りました。
DD13117 所属はたぶん吹田
米手作市 様
貴殿は本当に「真面目な」「鉄道ファンの鑑」ですネ。
鉄道全般、電車、汽車、気動車、オット忘れてはならない貴殿専攻の客車、それも国鉄、私鉄を問わず小生には真似のできない広汎さ!
さらには、それらの「作品」がほぼ即座に出て来る・・・その整理の抜群の良さ!
当方は、兜を脱ぐ(脱帽)以外ありません!!
今後ともご指導のほど、よろしくお願い致します。
トンネルがあったら入りたい!
==追加2==
キハ16 27先頭の26D4連1964-10-10 新津-荻川間
キハ17系のバス窓車4連は壮観?
気動車黎明期から全盛期への貢献度は誰もが認めるところ。
撮影日は東京オリンピック開会式の日だった。
==追加3==
314D 第2きのくに・南紀2号 キハ58 564(天ワカ)1966-3-14 長滝‐新家
天王寺より阪和線経由で南紀方面へ直通するDC列車が、のどかな田園地帯で阪和形電車の合間を走った。
写真は2列車併結の壮観だった長大編成。
河 昭一郎さん
井原さんが、専門外なので苦労した!と言いながら、キハ02の全車両の車歴を表にして送ってくれました。
その中から河さん撮影の11号の車歴を抜粋して掲載しますのでご覧下さい。
キハ10022 S30.12.23新製 東急車両 31.4旭ワカ 改番 キハ0211→35.3札クチ→37.3一休→40.3.31 達134廃車
11号は唯一北海道で生涯を終えた道産子車両だったのですね。
米手作市 様
稚内➡倶知安にて休車➡苗穂で保管中だった訳ですネ。
井原さん、裏付け調査ありがとうございました。