梅雨のない北海道、なかでも6月の利尻、礼文は花や鳥を満喫できるということで、久方ぶりに北の大地の旅を楽しんできました。主目的は花と鳥ではありますが、かつて訪れた日曹炭鉱専用線の跡をたどることも目的のひとつでした。ただ廃線跡紀行は本やネットで数多く紹介されていますので、ここでは40数年前の様子を中心にご紹介します。日曹炭鉱専用線、正確には日曹炭鉱天塩礦業所専用線には昭和44年3月と昭和46年3月の2度訪れています。いずれも雪の多い季節でした。昭和44年はK先輩と常紋、上興部から天北線を経て稚内まで行き、羽幌線で南下する途中で立ち寄ったのでした。当時は炭鉱の専用線の様子など殆ど情報がなく、列車が豊富駅に着くまで降りるかどうか迷ったあげく、いちかばちかで豊富駅に降りたのでした。この列車の乗客と一緒に礦業所行きの沿岸バスに揺られること30分程で着いたのが車庫のある一坑でした。幸い9615が煙をあげて停まっており、最北の専用線が生きていたのがわかり ホッとしたものでした。
ただ 豊富に戻るバスの時間まで30分ほどしかなく あわただしく写真を撮っていたところ、職員さんから豊富に行く列車に便乗してゆけばよいとうれしい声をかけてもらって、ゆっくりと撮影できました。4両いると思っていた96でしたが、19669は前年に解体され、49678は丁度苗穂工場で定検中で不在。残る9643との2両が稼働中でした。客車はオハ31197が現役でした。
ラッセル車はキ124が現役で、木造のキ74がクラの中で休んでいました。台枠まで木造のように見えました。
さて 豊富から9643が荷物車代用のワム2と空車のトムを牽いて帰ってきて給炭など次の仕業の準備を開始。
出発準備ができた9643のキャブに乗り込んで一坑を発車。それまでに蒸機のキャブに入ったことはありましたが、生きた蒸機に乗って走る、それも1時間近く便乗したのは初めてで大興奮でした。機関士、機関助士の邪魔をしないためにはテンダー側に乗るのですが、しっかりどこかにつかまっていないと上下左右に激しく揺れるのと、寒風が身にしみて楽な旅ではありません。丁度フィルムがなくなって、苦労しながらフィルム交換しました。牽いている石炭を積んだトムは5,6両だったと思いますが、途中の登竜峠をあえぎながら越えました。
約50分で豊富駅に到着。すぐに入れ換えが始まったので、入れ換え中もそのまま便乗し、入れ換えが済んでから降ろしてもらいました。思いがけず96の旅が楽しめて、忘れられない思い出となったのですが 2年後に今度は走行中の写真を撮りたいと友人と2人で再訪しました。この時も事前の情報はないまま、豊富駅前からバスに乗り 登竜峠に近いバス停で降りて雪道を歩いたように思います。この日は快晴で風もなく、やってきた豊富行きの一番列車の白煙が長く尾をひいて残っていたのが印象的でした。
豊富で入れ換え後 すぐ引き返してくるだろうと想定して待つことにはしましたが、一面の雪野原では座って待つこともできず 約1時間後にドラフトが聞こえてくるまで退屈したことを覚えています。
天塩礦業所は昭和47年6月に閉山。7月29日に専用線も廃止されました。あれから40数年の時が流れましたが 日曹、豊富、登竜峠は記憶から消えることなく ようやく彼の地を踏むことがかないました。利尻、礼文の帰りに豊富温泉で1泊して 早朝クルマを走らせたのですが カラー写真にあるような木のないなだらかな山肌がどこだったのかわからず、ここが峠だとはわかったものの どの斜面に登って撮影したのかさっぱり判らず、場所が特定できませんでした。
以前はクマ笹に覆われていた山肌も40数年を経て木が生い茂ったのか 雪景色との違いもあってここが同じ場所かと しばしあたりを眺めました。最盛期には2000人が暮らしていた炭鉱街も無人の荒野と化し 線路跡の確認もままならない変わり様ではありましたが、念願の再訪がかなって すっきりした気分で豊富をあとにしました。なお豊富自然公園内にキハ22216,218とともに保存されていた49678は平成16年6月に解体されており 再会を果たすことはできませんでした。
ところで今回の旅で思い知らされたのは、今や旅行と言えばバスツアーなのだということです。利尻・礼文の離島でさえ道路が整備され、道北でも高速道路規格の立派な直線道路が延々と続くのには驚きました。何よりビックリしたのは 広島でも見ることのない2階建てバス(ハイデッカー)に礼文島で出会ったことでした。
道路の整備とフェリーの大型化もあって大型観光バスごと島に渡り お決まりのコースで観光地をパッパッと回り、移動中は居眠り、お土産屋でどっさりと買い物をするパターンが一般的なのだと改めて感じました。最北の離島にも多くの外国人(韓国、台湾、中国?)が来ているのも驚きでした。また かつて宗谷本線を旭川から稚内まで8時間かけて走る客レには スハ32の1ボックスをカーテンで仕切って車内販売のおねえさんが乗っていたし、和寒、名寄、音威子府では駅弁も買えたものでしたが、稚内、旭川間を4時間足らずで走るキハ183 3両の特急サロベツには車内販売も自販機もなく、当然ながら駅弁など売っておらず 速くはなったものの 何となく味気ない旅でした。
最後に 「抜海現地闘争」に参加された面々にお土産の写真を添えることにしましょう。抜海駅通過の54D スーパー宗谷4号と兜沼駅で交換する61D サロベツと436D キハ54508です。もちろん両駅とも無人駅となっています。
もうひとつ オマケを。何と札幌地下街で新島先生に出会ったのもサプライズでした。
西村様
ありがとうございます。日曹炭鉱専用線跡へ行かれたことをお聞きして、掲示板投稿をお願いしたところ、速攻のアップ、貴重な写真・体験談をじっくり拝見しました。なるほど、40年後の風景は、このように変貌しているのですね。保存車両も朽ち果てた末の廃棄なのでしょうか。
私が豊富を訪れたのは、お書きの“抜海現地闘争”の帰り道でした。夕方、豊富の発車を撮っただけで終わりました。キューロクもさることながら、夏でも煙突を屋根から出したオハ31は、その当時でも、営業用としては、貴重なものでした。
運転台の添乗も貴重な体験ですね。私も、真谷地炭鉱で全く同じ理由で(わざとバスに乗り遅れて)、4110に添乗したことがありました。ただ、こちらは距離が短く、日曹のように、1時間近い添乗は、身体がガタガタになったことでしょう。
抜海のDC特急通過の写真もありましたが、これはわざわざ、乗車して行かれたのですか。
特派員殿
コメントありがとうございます。青信号23号によりますと 昭和44年9月 常紋現地闘争を終えて7日21:00札幌発利尻2号に抜海現地闘争に向かう12名が乗り込んだとあります。特派員殿もその一員だったのですネ。読み進むと 利尻が見える地点から南稚内に戻る線路わきで特派員殿が千円札を拾って7人で山分けしたとか 保線小屋に泊まったとか 豊富で日曹のオハ31に乗っている高校生のことなどが細かく記録されていて 当時の面々の活き活きした姿がよみがえってきます。我々工学部の学生は夏休み明けに試験があって 9月に各地で展開された合宿に参加できず悔しい思いをしたものです。従って私の北海道行きは毎回後期試験の済んだ3月でした。真谷地で4110に乗られたのですネ。実は私も真谷地で乗せてもらって、例の大カーブでわざわざ停めてくれて降ろしてもらい、戻ってくる4110を撮影しました。あとにも先にも蒸機に添乗したのは豊富と真谷地の2度で忘れられない思い出です。さて今回は稚内でレンタカーを借りて一帯を走りました。抜海や兜沼もレンタカーでの訪問です。
西村雅幸様
日曹炭鉱豊富のお話ありがとうございます。
私は現役時代昭和42年と44年の夏に渡道して、私鉄、簡易軌道、専用線を中心に回りましたが、日曹豊富は時間切れで行けませんでした。
全く情報のない所に行くのは、ワクワクする反面、果たして列車は走っているのか、帰りの足はあるのか等の不安もありました。
真谷地の4110は、私も乗せてもらいました。三菱鉱業大夕張鉄道に行って清水沢で降り、駅前のバス停で時刻表を見ると、程なく真谷地行のバスが来るところでした。事務所に行くと帰りの4110の発車時刻とそれに乗るように言われました。
西村さんも行かれておりますが、尺別鉄道も思い出深い鉄道です。専用線ではなく、ちゃんとした地方鉄道でありながら道内時刻表を含め市販の時刻表には一切掲載されておらず、大変でした。私の場合、午前中茶内の簡易軌道に行き、釧路から午後の列車で尺別に着くと南国高知から来たC12001の牽く混合列車が待っていました。帰りはバスで帰りました。このバスがまた変なバスで、中1扉のツーマン仕様で座席が7割方埋まる程度の乗客数でしたが車掌はいません。発車時間になってもだれも扉を閉める気配がなく私が閉めました。尺別に到着すると誰も運賃を払わず降りて行きました。
バスは元々運賃は無料であったようですが、鉄道は有料でした。
藤本さま
コメントありがとうございます。真谷地で4110に乗られたのですね。ところで尺別のバスがどんなバスだったかさっぱり覚えていませんが、荷物や新聞が積まれて、無賃だったことは覚えています。社尺別で帰りの足がないことがわかり、あわてたことを思い出します。郵便局で聞くと タクシーは遠い音別から来てくれるかどうかと言われ、親切にも街に車で出かける人を探してもらって なんとか便乗させてもらうことができました。郵便局でそんなことをしている間に、C12001を撮り逃がしてしまいました。未定ながら道東に行った時には、尺別、雄別、標茶など思い出の場所を再訪しようと思っています。