この記事は1月21日に掲載されていましたが、関先生からお手紙が来たという連絡を受けたので投稿を控えていたものです。
先生からお許しが出ましたので投稿いたします。
さてこの117系にはいささか思い出があります。記事によると昭和54年の登場とか。ちょうどこの頃から大阪へ行くのは京阪を使うことが多くなり国鉄に乗る機会は無くなりました。でも見ることは多く、113系の通勤電車タイプとは異なる新快速専用のクロスシート車に憧れていました。この電車に乗ったのは遙か後の、DRFCクローバー会で名鉄に乗りに行った帰りでした。木目調の落ち着いた車内になぜか納得したのを覚えています。最近では緑坊主となって湖西線か草津線を走っているようです。
この絵は遠くに阪急の特急らしきものが描かれているので大山崎近辺と思われるが、いかがでしょうか?
絵の場所ですが、阪急とその背後の山並みとの距離から、高槻~島本間、更にいえばKAWANAKA氏宅の東方辺りではないかと思います。大山崎ではもう少し近くを走っているのではないでしょうか。尤も具体的な場所を基にした描画かどうか。高槻~大山崎間の一般的なイメージが元になっているのかもしれませんね。
記事中、独自設計車とありましたが、関東圏に導入された185系汎用車(伊豆特急とローカルの兼用車)と基本設計や車内造作は殆ど一緒で、当時仲間内では「関西では無料だが、東京で走らせれば特急券が要るんだとさ」と揶揄したものでした。設計は同じでも、塗色がかってのモハ52急電を模したところに関西用としての特徴がありましたね。117系登場前に当時の国鉄関西支社が113系の2扉版(山陽線で運用されている115系3000番代のような車かと思われる)を構想したものの、本社に却下されたという噂を聞いたことがありましたが、そんなことが契機となって117系185系が実現したのかもしれません。
現在の京都周辺での運用は、仰る通り湖西線と草津線で共通運用されています。湖西線は朝・夕~晩主体で一応終日運用されていますが、草津線では運用が朝・晩に集中しており日中は走っていません。クリームと茶色の原色車はもう数編成しか残っていません。あと
は塗色が変わっていますが、岡山地区のサンライナー運用と下関地区で走っています。
覚えている人も少なかろうが、1981年神戸ポートアイランドでポートピア81と称した博覧会があり、地方博として空前絶後の1650万人が入場。小生は当初催事、のち宣伝を担当していた。博覧会全体としての構成、演出、宣伝、催事等に阪急(宝塚歌劇団)が全面協力し、出向ではなかったが、随時何人かが事務局で一緒に働いていた。ある日その一人が、今日国鉄の新しい電車の試運転があると、気もそぞろに、事務局があったセンタープラザ西館窓から山陽本線の高架を見下ろしていた。それが117系で、阪急職員としては、新たに登場するライバルの転換クロス新車が大いに気になったのである。
その後JRになって京阪神間は新快速の「一人勝ち」と化し、「昼特切符」もあって阪急だけでなく、京阪、阪神、山陽は歯もたたないのが現状であろう。私鉄各社は特急の名称こそ残しても、通し客は諦め、実質急行か、どうかすると準急並?に停車駅を増やして区間客を拾わざるを得なくなっている。そのいわばきっかけ=国鉄側の反攻のはしり?が、この117系だったように思うのだが。
1900生様、
そうでしたか!117系と185系は、そう言えばよく似ていますね。確かに関東では特急料金を取られ、関西では無料で乗れるとはいい話です。
初期の117系は窓が遠くから見ると田の字に見えました。
yuguchi様、
ポートピアの時でしたか。富士フイルムの担当セールスが「ポーアイ、ポーアイ」というのを聞いて、何のことかいな?と考えたことを思い出しました。隔世の感!
20年弱くらい前かと思いますが、しばしば利用した朝の新快速が117系12連でした。当時でも東海道・山陽筋では少数派となっていて、無意識に3扉乗車位置に並ぶ客が多く、列車到着後にバラバラと両側から割り込まれるのに閉口したのを思い出しました。
確か緑帯車もあって、これは主に福知山線用ではなかったでしょうか?
宇都家様、
ご投稿ありがとうございます。
文中にある「緑帯車」とはグリーン車でしょうか?
117系にもグリーン車があったのですか?
オリジナルの茶帯でなく帯が緑で、地はアイボリーだったでしょうか???うろ覚えですが、、、さらにおぼろげながらの記憶ですが、緑帯車はドア付近がロングシート化されてまして、列車は日により、茶+緑だったり、茶×2、緑×2とかで、乗車車両が緑のときは残念に思ったものでした。京阪神の快速グリーン車はちょうど117系と前後して消えたのではなかったでしょうか?