▲ 樺太西線の主力は1985年(昭和60年)に富士重工業で製造されたД2系の気動車です。厳寒の冬季対応のために満鉄ジテと同様、ディーゼルエンジンを運転席後部の床上に置いた液体式車両です。運転当初は両端に動力車、中間2両付随車の4両編成で10組が投入されましたが、現在運用されているのは中間車を除いた2両編成、または中間車1両を間引いた3両編成です。
車体長21,300㎜、高さ3,825㎜、車体幅2,950㎜、出力1,177kw、最高速度100km/h、ステンレス車体です。
第4日目 7月12日 その3
▲ ホルムスク北駅(北真岡駅)駅舎です。1921年(大正10年)11月11日、真岡~ 野田が延伸開業した時に荒貝駅として開業しています。1930年(昭和5年)に北真岡駅に改称されました。
▲ 昭和19年10月11日現在の樺太西線の時刻表です。北真岡駅のみ発着時刻が記載されていますので当時の拠点駅だったのですね。北真岡駅にはこの他豊真線の3往復が発着していましたので1日合計18本が発着していました。
▲ こちらは北真岡駅待合室に掲示されていた樺太西線の時刻表です。野田(チェーホフ(Чехов )までは1日3往復、先の泊居(トマリ(Томари))までは1日2往復が運行されています。
但し№6102と№6108は野田~廣地は併合されています。同じく6105と6109も同区間では併合されています。
1日1番下のダイヤグラムは、ヤスベイさん苦心の作成です。
ダイヤから見ますと最低2編成が必要です。両方ともが3両編成なら6両編成で走っていることになります。
※ 地名に日本語からロシア語たい肥については下記の表をご覧ください。
▲ 北真岡駅の待合室ですがきっぷ販売の窓口はありません。車内販売のようです。
▲ 12:38 待つ乗客のいないホームでしたが発車時間が近づくとどこからかベンチに座る乗客が増えてきました。
▲ 12:50 オレンジの作業服を着たお姉さんがヤードで立っておられると3両編成のД2 系気動車がやってきました。
南駅には運行されるDCがいませんでしたので
これが我々の乗車する6103列車の回送なのですね。お姉さんを乗せると列車は南駅へと向かっていきました。
▲ ヤードに留置してある3両の客車です。右から20653+04095+11520で、すべて頭は099が付いています。
13:06 ТГ16形とはちょっと前面のデザインが違う1世代前のディーゼル機関車でしょうか?、線路補修の作業車を牽引してきました。物々しい編成です。これを見ても路盤関係強化のために保守がなされているのが分かります。
▲ 13:25 先ほどのDC3両編成が6103列車として折り返して戻ってきました。これに乗り込みます。
▲ 1日4往復の列車だけあって100%でないにしろ、そこそこ乗客は乗っています。全ての列車がこれなら中々です。
◀ 不銹鋼號さんが駅窓口でまとめて購入していただいたきっぷはバスと同様のペラペラのレシート紙です。
Чехов(チェーホフ、野田)までの44.7㌔の運賃は79.2ルーブル(約158円)です。共産国は鉄道運賃が異常に安い! 乗り鉄にはありがたい事です。
▲ 日本海側に沿って走る車窓は素晴らしいものがあります。並走する道路は未舗装です。出発時は霧が残っていましたがすっかり消えて青空が広がってきました。
▲ 駅名板はこんな具合で距離表示がそのまま駅名になっていたりして戦前の駅と照らし合わせることは困難です。
▲ 14:50 定刻に野田(チェーホフ(Чехов )に到着、ロシアの国鉄は時間ピッタリに運行しています。北真岡と同様の青い色の駅舎です。待合室は北真岡同様にきっぷ販売の窓口はありません。
▲ ホームの向こうのヤードにはД2系の気動車の中間付随車がずらりと留置されていました。また使用されることもあるのでしょうか。
▲ ヤードには作業車たちも留置されています。線路保守にはかなり力を入れているように見えます。
▲ ここから北へは42.3㌔先のトマリ(Томари)泊居駅まで列車で行けますが、1日1本で早朝の6107列車、4:34発です。始発は北真岡で、3:13に出ます。なぜにこんな時刻に走行するのか分かりませんが
◀ 復路のきっぷは、野田駅ではきっぷ販売の窓口がなかったので車内で女車掌さんからまとめて不銹鋼號さんが購入していただきました。南駅までですので運賃はちょっと割り増しの84ルーブル(約168円)です。
▲ 16:32 定刻にホルムスク南駅(真岡駅)へ戻ってきました。終点まで乗って行くと戻りが遅くになります。今日は豊原に戻って夜行寝台列車でノグリキへ向かいますのでここで見送ることにしました。 Part 8へ続く