浜原、石見川本駅を訪ねる
最初に訪れた昭和46年9月、当時はまだ三江南線と三江北線に分かれていて、江津から三江北線の終点、浜原へ向かいました。前項の第一江川橋梁で一日一往復の貨物列車を写したあと、再び浜原へ行くと、江津へ戻る貨物列車の入換えが行われていました。今回は、終点・浜原、途中の石見川本、2つの駅の新旧を紹介し、三江線の締めくくりとしました。
▲三江北線の貨物列車を牽いていたのは、浜田区のC56で、98、106、110、127の4両が、三江北線のほか、浜田などの入換用として使われていた。
▲浜原駅舎、開業時の建設と思われ、廃止時まで、この姿だった。駅舎中央の看板は、国鉄バスのもので、当時は、大田市~浜原~三次を結ぶ雲芸線のターミナルでもあった。
浜原
浜原は、昭和12年に石見簗瀬から延長されて開業した。昭和50年に、三江南線と北線がつながり途中駅となった。いまは美郷町のなかの駅だが、この地域の中心は、隣の粕淵であり、浜原には目立った集落はなく、駅前道路に沿って数軒の民家があるだけだった。当時は夜間留置車両もあって、終始、運輸上の駅として機能したと言える。
▲終点を示す、浜原の駅名標。▲▲駅では、駅員や関係者が総出で貨車を押していた。
▲浜原駅は二面三線の典型的な国鉄式の配線で、跨線橋はなかった。
▲駅舎側から見たC56、戻りの貨物は、右のヨ1両だけのようだ。
▲浜原で折り返すキハ20系の列車が到着、C56と顔を合わす。
▲廃止の列車ダイヤでは、浜原は、朝の一番列車の始発、晩の最終列車の終着となっているほか、夕刻に交換する列車は、それぞれ30分前後停車する。18きっぷのシーズンでも、この頃になると、乗客はウンと少なくなり、ふだんの三江線の姿を見せる。
石見川本
▲昭和46年の朝の石見川本駅、キハ17系の列車と交換する。川本町の中心で、三江北線では、いちばん乗降が多かった。とくに県立高校があって、朝は高校生の乗り降りがあった。
▲時間帯は違うが、ほぼ同位置からの対比ができた。その県立高校は名前が変わったものの、まだ在るが、高校のホームページを見ると、スクールバスが各方面から運転されている。しかもスクールバスは無料だから、ローカル線のメイン乗客である高校生すらも三江線には乗らないようだ。最近、石見川本を有名にしたのは、三次10時2分発、石見川本行きが18キッパーで満員になり、つぎの江津行きまでの1時間30分ほど、川本町の団体・商店が総出で、乗客を歓迎するイベントを打ったことだが、逆に言えば、それ以外の時間帯は、ほんとに寂しい駅になってしまった。とくに夜間は駅頭に出ても、灯りすらない駅前風景に、これが廃止前の三江線だと、思ったものだった。