第一江川橋梁 今昔
三江線最終日、先ほどのニュースでも、最終列車が到着し、営業を終えたことを伝えています。さて、今から約50年前、昭和46年に三江北線を訪問したときは、浜田のユースホステルに泊まり、C56の牽く貨物を撮るため、江津から、当時の終点の浜原へ向かいました。選んだ撮影地は、第一江川橋梁、浜原のひとつ手前、粕淵の近くにあります。河原から見上げた橋梁は、なかなかの迫力でした。しかし、この10ヵ月後、集中豪雨に見舞われた三江線では、この第一橋梁が流され、長期間の不通を余儀なくされます。
◀現在の第一江川橋梁、架け替えられてから、40年余りが経ち、錆も出てきた。左側には歩道橋が併設されており、撮影には好都合。
▲終点の浜原まで行き、ひと駅歩いて、粕淵まで戻り、近くの第一江川鉄橋へ向かった。河原へ降りて、その頃でも本数の少ないDC列車をまず写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。▲続いてバック運転のC56が牽く貨物列車が、ゆっくり通過した。真ん中に車掌車ヨをつないだ編成だった。ところが、その10ヵ月後、三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚は崩壊・流出してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続く。▲現在の第一江川橋梁、三江線と平行して道路橋「あけぼの大橋」が出来ており、そこからの撮影となった。河川の様子がだいぶ変わってしまったが、山の形だけは変わらない。
昭和47年7月12日、三次では72時間雨量425mmを記録する集中豪雨に、三江線沿線は見舞われた。これにより、第一江川橋梁が濁流で倒壊・流出した。ほかの被害もひどいもので、昨年訪れた際に、駅で見掛けた当時の記録写真には、屋根だけ見せて水没したキハ20の写真があった。この橋梁架け替えには日数を要するため、橋梁の近くに仮駅の「野井」を設け、そこから徒歩で江の川へ向かい、江の川は渡船で渡って、対岸の粕淵へ連絡した。新しい第一江川橋梁については、トラスとなり、線路も1mかさ上げされ、また、歩道も設けられた。昭和49年12月に旅客列車の営業を再開した。
余談ながら「江の川」の名称だが、たしか小学校・中学校の地図帳には「江川(ごうかわ)」と記されていたような記憶があり、「江の川」には以前から違和感を持っていた。RMライブラリー「三江線88年の軌跡」によると、たしかに以前は、島根県側は「江川」、広島県側は「郷川」と呼ばれていたそうだ。それが新しい河川法が制定されたことにより、昭和41年4月に両県とも「江の川」と表記することになったそうだ。▲橋梁の架け替え工事中、2年間余り、仮駅が設けられていた野井付近を行く気動車、もちろん旧駅の痕跡は一切残っていなかった。
総本家青信号特派員さま
そういえば野井終点という期間がありましたね。2年前のOB会三江線お別れツアーの際に潮温泉でご参加の皆様に観て頂いたC56の8ミリを撮りに行った時がそうでした。C56の貨物は朝江津発夜帰着のスジで運転されていて、しかも災害臨時ダイヤで川本までしか行っていませんでしたので、お昼寝中のC56を写してからその間の時間を利用して乗りに行きました。野井という臨時駅の名はもう忘れていて、なぜか「明塚」で折り返したと思い込んでいましたが、今回の特派員さまの投稿を読んで記憶が蘇りました。
小生は川戸と因原の鉄橋で撮りました。当時はごく普通のまだ護岸工事も未施工の綺麗な鉄橋でしたが、豪雨災害のあと堤防が嵩上げされ、橋梁の前後には大きな防水扉が設置されてしまいました。
キハユニ26の写真は珍しいですね。当時小生が写したDCは10系で編成されたものでしたが、こんな20系も走っていたのですね。当時の配置表が見当たらず、昭和50年版を見ると浜田には該当車はキハ25 45・46、キハユニ26 18しか配置が無いので、この写真はそれらのオールキャスト編成ということになります。
ところで今回記憶を辿ってみても駅名や橋梁名がはっきりしなかったので、国土地理院地図で確認しようとしたところ、当たり前かもしれませんが、昨日の今朝だというのに、もう地図からはすっかり消し去られていて大きな衝撃を受けました。頭で知っていることを実際に目の当たりにするとやはりショックが大きいようです。まさに百聞は一見に如かずでしょうか。廃線跡になればなおさらでしょうね。
国土地理院のHPにある地理院地図を見ると確かになくなっています。「天空の駅 宇都井駅」も完全に消されています。実際には高架の構造物があるのにこれでは地図の役目がありませんね。場所を特定する目標構造物が書かれていないのは、ちょっとおかしいのではありませんかね。ちなみに土佐電鉄伊野線の終点伊野駅の手前に枝分かれした車庫引込線が表記されています。本線との分岐が撤去されているのですが・・・三江線はそれだけ注目されていたことなのでしょうか?
どですかでん さま
ご覧いただきましたか。ものの見事に消えていましたね。ただ「スッカリ」過ぎて現時点における過渡的な処置のような気もします。というのも各地の廃線跡を見ると、築堤・トンネルポータルの( )印・転用後道路などが描かれていることがままあるからです。今回の廃止でも当然一部は道路になるでしょうし、トンネルポータルは残るはずだからです。宇津井の橋は無理かもしれませんが、おいおいそのうちに何らかのマークが記載されるのではと推測しています。
1900生さま
コメント、ありがとうございます。もう国土地理院の地図から三江線は抹消されているのですか?驚きました。また貨物列車は午前往復かと思っていましたが、朝江津発晩帰着のスジだったのですね。ご指摘、ありがとうございます。仮駅の野井については、私は実見したことがなく、資料からの転載ですが、さらに調べると、仮駅、渡船連絡時代の詳細なサイトがありました。それによると、木組みだけの簡素なホームがあったようです。20系DCですが、たしかに、ほかの列車は10系DCだったと思いますから、珍しい編成かもしれません。試しに昭和46年の車両配置表を見ても、20系は、1900さん調査と同じ、キハ2045・46、キハユニ2618でした。