式敷~口羽 開通式 (山科の人間国宝提供)
三江線も、いよいよ明日に最終日を迎えます。デジタル元祖青信号では、訪問記や新聞記事が掲載されて、私も関心を持って推移を見守ってきました。三江線最終日は、どこで迎えようかと、以前から思っていました。しかし、現地で立ち会うことは叶わず、静かに見守ることにしました。結局、私が三江線に行ったのは、三江北線時代の昭和46年と、昨年の9月の2回だけでした。一昨年春、当会の三江線ツアーにも参加できずで、今でも桜満開の潮駅で、江の川沿いを行く列車を、みんなで撮りたかった、と思っています。このように、三江線に対する思い出は乏しいのですが、その思い出を振り絞り、三江線に対する餞としたいと思います。
▲まずは、山科の人間国宝から貸してもらった写真の代理投稿。三江南線の式敷~口羽13.7kmが延長され、昭和38年6月20日に開通を迎えた。その当日、口羽で行われた開通式の様子だ。
実は、先の三江線ツアーがあった際に、人間国宝から、“参加の人たちに見せてあげてください”とネガを渡されました。それが昭和38年の式敷~口羽の開通式で、本来なら、私のほうで写真にして参加者に渡すべきでしたが、人間国宝のご厚意に応えられないまま、最後になっての寄稿をお許しください。
▲開通式に用意されたのは、キハ28・58系3連の初期車両、出来たばっかりのピッカピッカ、ゴージャスなデコレーションも、この時代らしい。
まだ三江線が、南線と北線に別れていた時代であるが、三江南線のうち、式敷~口羽13.7kmの延長工事は、途中で江の川の電源開発工事が浮上したため、工事が一時凍結されていた。だがダム計画が取りやめとなり、昭和35年から工事が再開され、昭和38年6月20日に開通を迎えた。これで、三江南線は三次~口羽28.4kmとなり、三次~式敷8往復、式敷~口羽4往復の気動車列車の運転が始まった。
写真は、その開業当日に撮られたものである。三江線は、その後、口羽~浜原が昭和50年8月31日につながり全通を見る。そのときにも開通式は行われているが、そこから12年さかのぼる開通式の記録はたいへん貴重だ。▲開業当日、終点となる口羽駅、当日は初発から営業列車が運転していたようで、人間国宝は、左のキハ20の列車で、口羽に到着し、下車直後に撮影したようだ。▲駅名標から手前側が開通区間だと分かる。向こうの未開業区間には引上線があり、そこに祝賀列車が待機している。カーブした駅構内は、昨年訪れたときも確認できた。▲折り返しの営業列車の出発だろう。見送る人たちが道路上にたくさん集まっている。このあと、祝賀列車が入線して開通式が行われたようだ。▲当時の国鉄中国支社の支社長によるテープカット。人間国宝は、テープカットの直後、テープが宙を舞っている瞬間を写すことを信条としたと語っておられる。当時のピク誌には、毎号のように人間国宝の開通式の写真が載っていた。▲祝賀列車が式敷に向かって発車する。関係者でホームは埋まったが、新線区間はすべて無人駅で、どんな閑散駅でも駅員がいた時代、オール無人駅は極めて珍しかった。国鉄が予想した営業係数は1400で、当時最悪の根北線をしのぐ、ワーストワンになると予想しており、開業から前途は多難だった。