京阪800形オリジナル塗装色終了

京阪京津線を走っていた800形の水色オリジナル塗装色が昨日ラストランとなりました。2017年から京阪本線と塗装色を合わせるということで塗り替えが始まり、2020年度末までに完了の予定でした。まだ年度末には少し時間がありますが、昨日がラストランだったとの記事が、今朝の読売新聞滋賀版に載っていました。京都市営地下鉄東西線に乗り入れるために新造された京阪800形は琵琶湖をイメージした水色で、本線とは全く異なるコンセプトの色で親しまれてきました。本線色もだいぶんなじんできましたが、やはり、前の色の方が好きですね。大津線は本線とつながっておらず、独立しているということで、独自の色でも良かったのではと思いますが、少々残念です。600形の旧塗装色も残り少なくなりました。今のうちにカメラにお納めください。オリジナル塗装800形の思い出の写真を並べてみました。 続きを読む

ぶんしゅうさんが出展されている写真展を見てきました

大阪天満橋OMMビル1F「リコーイメージングスクウェアー大阪」で開催中の第8回火車撮影家集団写真展「死んでも遺したい私のベストショット」を見てきました。会場に行くとぶんしゅうさんもおられていろいろお話をお聞きしました。毎回出展されているのですが、今回はコロナの影響で当初春に予定されていたものが、この時期に延期となったそうです。また、コロナの事もあるので皆さんにはお知らせしなかったとのことで、当会からの見学者は初めてだと言われていました。
ちょっと過激な題ですが50年前の蒸機の写真から最近のものまで、国内外のすばらしい写真が展示されています。会期は10月12日までです。(10:30~18:30/最終日16:00まで)
お近くに来られた折にでも寄ってみられればいかがでしょうか。

「びわこ号色塗装」列車の運行

昨日9月14日より京阪大津線600型(603,604号)が、むかし天満橋-浜大津間を走った「びわこ号」の塗装色に塗られて運行しました。早速撮りに出かけたのですが、所用があったためスマホでの撮影となりました。定番の浜大津交差点には5,6人の同業者がいてカメラを構えています。運用は誰も知らず、仕方なく待つことにしました。まあ短い区間の折り返しですので、浜大津で待っておれば最大1時間待てばやってきます。昨日は幸い2本目でやってきました。写真でしか見たことのないこの色ですが、案外しっくりきます。昨日は1本だけで引き上げ、今日は一眼で撮影しました。

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学生時代最後の旅行

先に投稿した山形交通に続き1974年12月、翌年3月の卒業を目の前にした学生時代最後の北海道旅行の写真が出てきました。当時旅行の記録をつけていなかったので、購入した北海道周遊券を見ると網走と小樽の途中下車印が押してあります。改札で下車印を押さない駅も多く、記憶ではこのほか根室まで足を延ばしていました。目的は最後の蒸機の撮影で、このころ既に本州からは蒸機がなくなり、北海道でも室蘭本線の石炭列車の他は入替作業が中心で、旅客列車の定期運用は室蘭本線しかなかったのではと思います。 続きを読む

廃止直前の山形交通

世間ではコロナ禍で不要不急の外出を避けるようにとのことで、私もコロナに感染してはいけない事情がある為、家でおとなしく過ごしています。主に学生時代に撮ったモノクロネガフィルムはデジタル化が終わっていたものの、ポジフィルムが200枚ほど手つかずで残っており、こちらのデジタル化を進めることにしました。駅撮りに近いものが多く、色も劣化していますが、50年近く前のカラー写真ということに免じて紹介させていただくことにしました。↑ 三山線羽前高松駅 続きを読む

京阪700形旧80型塗装色最終日

2016年9月に「80形誕生55年記念イベント、80形塗装車両」との投稿をさせて頂いてから3年半、3月3日が最終運行日となりました。80形が登場したのは1961年8月12日それから55周年を記念して701,702号がこの色に塗られました。この車両は何度か撮影しましたが、昨日は天気も良く暖かかったので撮影に出かけました。平日にもかかわらず、特に浜大津交差点にはいつもより多くの人が集まっていて、学校が休校になったためか高校生らしき姿も見られます。     ↑ 最終日の700形旧80形塗装色 続きを読む

大津歴史博物館江若鉄道ミニ企画展

今朝の読売新聞滋賀版に大津市歴史博物館で開催中の江若鉄道ミニ企画展が紹介され、DRFCクローバー会が協力したことも書かれています。先にお知らせしましたように11月4日には見学会とその後に懇親会も開催されます。多くの方のお越しをお待ち申し上げます。

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その4)

4.立木登山鉄道

大正11年に比叡山への参詣客を目的として大津電車軌道を含め3社が比叡山へのケーブルカー建設が出願された。これに合わせたのであろうか、大正11年12月1日大津電車軌道は立木観音の参拝客の為に、鹿跳橋手前の瀬田川べりから立木観音へのケーブルカー敷設の免許を出願した。

↑ 図6:立木登山鉄道計画平面図(滋賀県県政史料室歴史史料「大と21-1-7」に加筆)
鹿跳橋手前から立木観音本堂に至るケーブルカーであった。石山寺終点から立木山下停車場まで大津電車軌道の瀬田川沿いの路線の延長も計画されていたようだ。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その3)

3.南郷線
石山線が運行を開始したすぐ後の大正2年8月4日に石山寺から立木観音までの延長の特許が認められた。当時は神社仏閣への参拝者目当ての鉄道路線がいくつかあり、南郷線も厄除けで有名な立木観音への足として計画された。

↑ 図5:南郷線計画図(滋賀県県政史料室歴史史料 明と90-23に加筆)
延長線の起点は現在の石山寺駅ではなく、石山寺門前になっている。石山線の終点は石山寺門前までで特許認可されていたが、石山寺や付近の住民の反対もありこの区間は完成しなかった。石山寺から南郷までは山が迫っておらず、特許線も川から少し離れたところを専用軌道で作ることになっていた。南郷の先、今年できた瀬田川令和大橋より先は山が迫り、細い里道部分を拡張して併用軌道で計画されていた。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その2)

2.大津市内線

市内線は大正10年に京都-大津間の線路付け替えが完成し、新しく作られた大津駅と石山線を結ぶ目的で計画され、大正11年5月25日に三井寺-大津間で特許が認められた。この時の申請書は見当たらず、当時毎年発行されていた今の営業報告にあたる軌道表の大正11年版に、計画線特許として申請距離のみが記載されていた。このためルートははっきりしないが、当初の申請距離は1.046哩(1683m)で国道を使う併用軌道部分が0.15哩(241m)県道を使う併用軌道0.858哩(1381m)、新設軌道0.038哩(61m)となっている。

↑ 図4:市内線(大橋堀線ともいわれる)のルート
当初旧東海道から西近江路を通る路線だったが特許変更後、大橋堀停留場を結ぶ赤実線のルートとなった。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その1)

大津電車軌道は明治39年に由利公正らが発起人となって石山-坂本間の特許出願を行い、翌明治40年9月21日に特許がおりました。その後建設に着手し、大正2年3月1日大津(現在のびわ湖浜大津)-膳所(現在の膳所本町)間を皮切りに路線を伸ばしていきました。
更に開通と同じ時期に堅田、南郷への延伸を図り、大正11年には三井寺と東海道新線にできた大津駅を結ぶ路線を計画しましたが、急な拡大と、不況の影響もあっていずれも建設着手に至らず、運行までこぎつけたのは当初路線の石山寺-坂本間のみとなりました。
1. 堅田延伸
明治40年9月に特許が降りた石山-坂本間の路線は現在のものとは全く違い、浜大津より東は浜通りを通り、石場から旧東海道に沿って石山寺に向かうもので、一方浜大津より西側は西近江路、現在の県道大津高島線(旧国道161号線)を下阪本まで行き、西に転じて坂本に至るものであった。堅田への延伸路線は下阪本から分岐して雄琴を通り、堅田町本堅田までの5哩で、大正2年8月27日付滋賀県知事あてに特許申請が出された。 続きを読む

酷暑の中の模型運転会

昨日京都西大路三光堂にて模型運転会が開催されました。夏場で野外でのイベントができない折に、涼しい室内でできるイベントということで計画されましたが、昨日は京都の最高気温が37℃で、会場に行くまでに既に体力を使い果たしそうな天気でした。加えてHOの運転場のある2階にはクーラーがなく、しばらく運転すると1階に降りて涼むという過酷な状況の中、腰にタオルをぶら下げた戦闘的な会員の方々が運転に励まれました。 続きを読む

’70年代生大集合

 

昨日京橋商店街の一角に集まったのは還暦を過ぎたおっさんたち21名(内お一人は59歳でしたが)、’71~’78年度生の集まりです。数年前からAさんの発案で‘71~’75年度生が集まって年に2回旧交を温めています。私も5年ほど前からお誘いを受けて参加しており、昨日は恒例の夏に向けての暑気払いでした。集合場所の京橋駅切符売り場で待っていると、いつものメンバーの他に、新しいメンバーも来ているよとの連絡で会場に行くと、10人ほどが既に集まっていました。’75~’78年度生のメンバーで4年前の広島旅行、昨年の近鉄「楽」に参加した方もいて、遠くは九州から来た方もおられました。‘77年度生を中心としたメンバーも集まることがあるとのことで、今回は合同の大集会となりました。初対面の方もおられますが、近い年代で話も弾みます。他の年代でもこのように集まっている方がおられるのではないでしょうか?まずは近い年代の方々で旧交を温め、更に広いDRFCクローバー会への参加へと結びつけばと思っています。普段のイベントに参加できない方も、11月10日のホームカミングデーに合わせて行う集会には是非お越しください。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)

坂本仮停留場
反対側の終着駅坂本停留場も延伸開通の当初は仮の停留場が作られた。計画されていた最初の停留場(資料5)は3面のホームがあり、一番長いホームは約100mもあり、短いホームでも約40m、琵琶湖鉄道汽船100型は15m級であったので将来の2両連結運転も考慮されたと思われる立派なものであった。↑ 資料5:当初計画坂本停留場,長いプラットホームに加え、待合室等にもスペースが取られていた。(県政史料歴史史料昭と5より作図)
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京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)その1

前項「大津電車軌道坂本延伸裏話」でも少し触れましたが、三井寺-坂本間が全通した後も両端の坂本、三井寺停留場は仮停留場のままでした。当初の計画は高規格の車両を使い、連結車も走らせるような考えで進んでいましたが、三井寺、坂本の両終端駅は駅部分の用地買収の遅れで開通を優先させて仮停留場で営業を開始しました。この年は大津電車軌道が太湖汽船と合併し、新たに琵琶湖鉄道汽船としてスタートを切った時でしたが、その後、乗客が思うように伸びず、当初の過大投資の為もあって工事は進まず、その内に経営状態が悪くなり、その後2年足らずで京阪電鉄と合併することとなりました。京阪電鉄は大正14年に京津電気鉄道と合併し、昭和4年4月11日に琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を合併して大津、琵琶湖への進出を果たしたわけですが、この合併した部分を今後どうしていくのか、方向性がまだきまらなかったため両駅の仮停留場の状態が続きました。 続きを読む

江若鉄道廃線跡ウォークに行ってきました。

先日投稿しました江若鉄道近江今津駅の保存に向けての新聞記事に載っていました廃線ウォーキングに行ってきました。あの記事をアップするとすぐに、「無印不良品」さんから申し込んだけれどお前も行くかとメールが来ました。興味はあったのですが、一人で行くのもどうかと思っていたところでしたので、内容も分からないまま申し込み、その後米手作市さんにもご案内したところ、二つ返事で参加すると言われ、DRFCクローバー会の重鎮おふたりと一緒に参加しました。集合はJR湖西線新旭駅です。お世話していただいたのは「江若鉄道近江今津駅舎の会」の方が10人ほど、参加者は32名で若い女性の方もおられました。まずは新旭駅から線路沿いに南に200mほど行ったところにある新儀駅跡に行きました。設置当時このあたりは新儀村と言っていて、その後町村合併で新旭町ができたときに新旭に改名されたそうです。遺構となるものは残っておらず、湖西線の高架に埋まってしまったようです。

↑ 新儀駅跡付近:江若のマークの入った境界標がないかと探しましたが見当たりませんでした。

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江若鉄道近江今津駅保存へ

江若鉄道近江今津駅が保存に向けて動き出したと今日の読売新聞滋賀版に出ていました。一時は取り壊しの話も出ていましたが、有志の方がJAに保存を働きかけ、保存だけでなく活用していこうとされています。5月1日に会が設立、5月1日13:30~駅舎西側のJA今津東支店でパネル展示等のイベントが開催されます。また、5月11日10:00から廃線ウォーキングとして旧新旭駅跡から旧今津駅舎までの7kmを歩くイベントもあります。参加費1000円(昼食付)定員50名5月6日締め切りです。

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その3

3. 全線開業までの運行形態
先に開通した三井寺-螢谷間はカーブの多い路線で大正末期には開業時に作られた大津電軌1型(京阪合併後の旧80型)とその後増備された大津電軌11型(京阪合併後の90型)という路面電車タイプの車両によって運行されていた。これに対し、三井寺-坂本間はカーブの少ない直線の線路を主体に、当時の高速高規格電車での運行が計画された。開業時に新製された琵琶湖鉄道汽船100型(京阪合併後の旧800型)は15m級ではあったが片側ロマンスシート、片側ロングシートの当時としては先端を行く車両であった。螢谷-坂本間で線路がつながったと言っても三井寺を境に坂本側は高規格の高床式、螢谷側は路面タイプの低床式と全く異なり乗客は三井寺で乗り換えを強いられ、この状態は昭和6年まで続いた。ところで部分開業の時はどのような運転形態であったのだろうか。開業時に作られた仮停留場の図面を見ると、三井寺停留場と兵営前停留場は路面タイプの低いプラットホームで、これに対して山上停留場、松ノ馬場停留場は高床用のプラットホームであった。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その2

2.5つの仮停留場

部分開業に伴って坂本、三井寺、兵営前、山上、松ノ馬場の5つの仮停留場の設置願いが出された。まず、先に紹介した昭和2年4月25日付「仮停留場設置御届」では兵営前、山上、松ノ馬場の3駅について仮停留場の設置願いが出された。兵営前、山上は前項で述べた陸軍との土地交換が遅れ、兵営前、山上間が完成しないため、三井寺-兵営前、山上-松ノ馬場の折り返し運転用に仮停留場を設置した。ところが同じ文書に書かれている松ノ馬場の理由書を見ると松ノ馬場停留場用地の一部及びその北側の用地で、当初住民の電車敷設反対があり、用地買収が遅れたためとある。

 

資料3:兵営前仮停留場平面図(県政史料室歴史史料、大と1より作図)
折り返しの設備を持ち、路面電車タイプの低床のホームが作られた。

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