京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その1

大正3年に螢谷-浜大津間を開通させた大津電車軌道は坂本までの延長を計画しましたが、江若鉄道との競合の問題もあり、大正11年にまず三井寺まで延長、そこから先坂本までの開通は昭和2年まで待たなければなりませんでした。昭和2年5月15日に開通したのは三井寺―兵営前間、山上―松ノ馬場間で、続いて松ノ馬場―坂本間が同年8月13日に開通、残った中間部分の兵営前-山上間が全通したのは同年9月10日でした。なぜこのように変則的な開通になったのか、また、4か月を待たずに部分開通を繰り返したのか、そこには興味ある話がいくつかありました。そこで第2弾は大津電車軌道の坂本延伸の裏話と言ったものをご紹介しようと思います。
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京阪大津線の歴史を調べて(1-4漣駅)

4.漣駅
大正11年5月15日に三井寺までの延伸を果たした大津電車軌道はさらに北への延伸を画策し、昭和2年に太湖汽船、湖南鉄道と合併した琵琶湖汽船鉄道として昭和2年に三井寺-坂本間を高規格で開通させた。
この区間は開通後、駅の名前の変更、移転、休止など目まぐるしく変わったが、漣駅は旧大津電車軌道部分を合併した京阪電鉄が昭和4年10月10日開業し、昭和19年8月15日廃止された。
設置されたのは当時の錦織駅(現在の近江神宮前から南に約200mのところで、屁ノ尻川沿いに県道から駅に行く道が作られ、対面式のホームが作られた。県道から駅に行く道は現在もそのまま残っており、線路を横断する踏切は漣踏切となっていて駅があったことが偲ばれる。資料7:漣駅付近図、県道から駅への取付け道路が屁ノ尻川に沿って作られている。(県政史料室歴史史料、大と50より作図)

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京阪大津線の歴史を調べて(1-3紺屋関駅)

紺屋関駅の歴史は古い。明治22年東海道線が全通し、馬場-大津間の旅客営業は廃止されたが、明治31年に旅客扱いが復活、その後紺屋関には湖南汽船の大津港があり、乗り換えの便から大津電車軌道発足前の明治35年1月1日、鉄道院大津支線の駅として設置された。大正2年3月1日の大津電車軌道開通と同時に、院線の駅であった紺屋関駅は大津電車軌道の駅となって開業した。当初の院線は単線であり、順次待避線と複線化が進んだ。この過程も県政史料室の歴史史料に残されているが、まだ詳しく読み解けておらず、後日別途発表したい。

資料6:紺屋関駅付近図 浜大津貨物駅に分かれる狭軌の線路の分岐も書かれており、この位置は1969年の江若鉄道廃止当時と変わっていない。(滋賀県政史料室歴史史料昭と6より作図)

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京阪大津線の歴史を調べて(1-2大橋堀駅)

2.大橋堀駅
大橋堀駅は現在のびわ湖浜大津駅の東隣にあった駅である。当初大津電車軌道が路線申請した時は、現在の浜通りを拡幅して、石場から旧東海道を走る併用軌道で予定していたが、拡張費用がかさむことから、馬場より西側は明治22年東海道線が全通して枝線となった鉄道院の大津支線を借用することとなった。この区間が大津電車軌道として開通したのは大正2年3月1日である。大橋堀駅も資料は少なく、開通と同時に駅ができたのかどうかは諸説あり、大津市歴史博物館の大津市制100周年記念企画展「大津の鉄道百科展」図録には駅の開業時期が記載されていない。資料3:大橋堀停留場附近平面図(滋賀県政史料室歴史史料「昭と大6」より作図)大橋堀を渡る鉄橋と坂本町、橋本町(いずれも旧町名)の境界線から場所が特定できる。

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京阪大津線の歴史を調べて(1-1)

京阪大津線は京津線の前身、京津電気軌道が大正元年に三条大橋~札ノ辻間が開通、石坂線の前身、大津電車軌道が大正2年に大津(現在のびわ湖浜大津)~膳所(現在の膳所本町)が開通し、その後延伸、路線の変更があって現在の形となりました。総本家青信号特派員さんからお誘いを受けて、旧東海道線の遺構を調べた後に、京阪大津線についてもその遺構を調べたくていろいろな書物、地図を見ましたが、本によって記載の異なるものが多く、また、不明な点もあったため、滋賀県県政史料室の歴史的資料を調べてこれらを解明したいと考えました。先にご報告したように、県政史料室の歴史的資料は項目ごとに分類されており、そのリストも公開されていて調べやすくなっています。この宝の山の中から、まず、石坂線で廃止された駅について順に報告したいと思います。 続きを読む

滋賀県県政資料室の歴史史料

昨年総本家青信号特派員さまからお誘いいただいて、「レイル」誌の「京都・大津の鉄道遺跡を訪ねる」の大津部分を担当させていただきました。以前から地元を歩いていろいろ調べてはいたのですが、所詮ネット頼みの調査で推測の部分も多く、今から思うと全く恥ずかしい内容となってしまいました。それと相前後していつもお世話になっている大津歴史博物館の学芸員の方から、滋賀県庁にある県政史料室には鉄道関係の資料もいっぱいあるよというお話を伺いました。ネットで調べてみると確かにいろんな資料がありました。ただ、閲覧には申請が必要で、一度にたくさんの資料は閲覧できないとのことでそのままになっていました。 続きを読む

江若鉄道キニ9、キハ14復活!

3年ほど前から大津の民家の片隅でほこりをかぶっていた江若鉄道キニ9、キハ14が整備、動力化され動態保存されました。本線での試運転は7月21日を予定しています。ということで、2015年に発売された鉄道コレクションシリーズ江若鉄道キニ9、キハ14の2両セットに動力ユニットを取り付けました。もともとこのセットはパッケージ用の写真を提供していただいたもので、その後、手付かずのまま置いていましたが、この度模型運転会が行われるということで昨日動力ユニットと走行ユニットを買ってきて取り付けました。パチパチとはめ込みだけで簡単に取り付けられますが、何せ部品が小さいので手を滑らせて落とした時には探すのに往生しました。多分模型運転会が無かったらそのまま部屋の片隅に埋もれていたことでしょう。

皆さん何年も走らせていない模型や、作りかけで放置してある模型はありませんか。先にご案内しましたように7月21日(土)14:00~17:00日本橋「亀屋」に於いて模型運転会を開催します。自慢の車両、気に入った車両を持ち寄ってワイワイ楽しくやりましょう。見学だけでも結構です。参加ご希望の方は事務局までご連絡ください。

東海道旧線を訪ねてー大津編④

馬場駅から約500mのところに石場駅が設けられた。石場には港があり、対岸の矢橋への航路があった。また、東海道と交差する位置にあり、ここから大津の中心部を通る京町通、中町通り、浜通りの3本の道がつながっていたため、馬場から近いにもかかわらず、駅が設けられたものと思われる。
馬場駅から大津駅に行くこの線路は東海道線が全通した明治22年に旅客扱いを中止したが、明治31年8月に旅客列車の運転が再開され、明治35年1月には現在の市民会館付近に紺屋関駅が作られた。石場駅と紺屋関駅の間は500m、また、紺屋関駅と大津駅の間はわずか300mしかないものの、紺屋関には湖南汽船の乗船場があったため、乗り換えの便を考えて作られたようである。図4:大津支線部分(明治22年測量、大日本帝国陸地測量部1/20000)石場駅付近と紺屋関-大津間は複線の記号となっており、交換又は待避線があったのかもしれない。 続きを読む

東海道旧線を訪ねて-大津編③

7.馬場駅

馬場駅には機関庫が設けられた。開通当時の馬場駅の構内配線は不明だが、明治35年の配置図を見るとホームの南側に南東に向かって機関庫があり、大正始めの大津機関庫の絵葉書と一致する。明治22年の東海道線全通で馬場は通過駅となったが、逢坂山の25‰の勾配を越えるため、補機をつける必要があり、大正10年に新線が開通するまで馬場機関庫は重要な機関車基地であった。尚、馬場機関庫は大正2年馬場駅が大津駅に名称を変えたときに大津機関庫と名前を変え、大正10年京都-大津間の新線が開通した時に大津駅の名前は新線の駅に譲り、元の馬場に変わると同時に馬場機関庫の業務は大部分が梅小路に移管され、梅小路機関庫馬場分庫となった。図3:明治35年馬場駅配置図(鉄道史料11号より)
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東海道旧線を訪ねて-大津編②

4.大津駅裏逢坂小学校通学用トンネル

東海道旧線は現在の国道1号線部分を築堤で走っていた。明治22年大日本帝国陸地測量部の地図を見ると現在の大津駅の裏あたりに小道があり、東海道旧線の築堤をくぐるトンネルとして記載されている。東海道旧線の南側には高山寺(向山寺)墓地、霊山正福寺があり、明治10年の西南の役の出征兵にコレラ患者が出たときに霊山正福寺境内を借りて病室にしたが、その後明治12年のコレラ発生の時にも借り上げて施設を作り、以来昭和12年までこの地に避病院があった。築堤は現在の国道1号線を見てもわかるようにその両側とは4mほどの高低差があって、避病院に患者を運ぶためにトンネルとなっていたようである。図2:現大津駅裏逢坂小学校のトンネル(明治22年大日本帝国陸地測量部測量1/20000膳所)このトンネルの位置は先に記した旧東海道を越える橋梁の東側橋台から直線で600mの距離となるが、これと同じ場所には現在国道の南側にある逢坂学校へ行くためのトンネルがある。 続きを読む

東海道旧線を訪ねて-大津編①

総本家青信号特派員様の「東海道開業時の面影を巡る」シリーズに触発されて、私の地元大津に残るこれらの遺構を訪ねてみることにしました。すでに紹介されたものがほとんどで、新しい発見はあまりありませんが、幸いこれらの遺構は自宅から歩いて行ける範囲ですので、散歩がてら何度か訪れじっくりと調べることができました。まずはその概要と逢坂山トンネルから始めたいと思います。図1大津市内の東海道旧線路線図、大谷、馬場、石場、大津の駅が設けられ明治35年に紺屋関駅が作られた。 続きを読む

レイル106号のご紹介

本日発売の「レイル106号」に米手作市さん、今出川浄福寺さん、準特急さんの写真が掲載されています。今号は「誕生から50年のEF66」をメインテーマに、「古いアルバム」、連載の「駅名こぼれ話」などがあり、米手作市さん、今出川浄福寺さんは古いアルバムのコーナーで蒸機の写真を提供されています。また、準特急さんは国鉄時代の東海道、山陽本線でのEF66の活躍の様子をグラフ構成の形で掲載されています。
「レイル」誌には毎号どなたかの写真が掲載されており、改めて諸先輩方の凄さに感じ入りました。一度書店で手にとってご覧ください。

江若鉄道近江今津駅が解体される!

昨日の京都新聞Web版滋賀ニュースに江若鉄道近江今津駅舎が解体されるとのニュースが出ていました。ご存知の通りこの駅舎は昭和5年12月に竣工し、江若鉄道が近江今津まで延伸した翌年1月1日から使用されました。
昭和44年の江若鉄道廃止後、今津町農協が引き取り農協の旅行センターなどに使用され、現在は倉庫として使われています。建設から90年近くたち老朽化が激しいためこの度解体されることになりました。解体の日取りははっきりしていないようですが、早ければ今春にも工事に着手するようです。
この写真は一昨年高島で開催された江若鉄道展の折に、クローバー会の皆さんで訪れたときのものです。コンデジでパチパチ撮っただけでまともな写真がありませんでした。唯一残った江若鉄道の駅舎、私も近いうちにもう一度訪れようと思っています。皆様いかがでしょうか。
ところで、著名なレールウェイライターのS様のFaceBookを拝見しているとこの話題について投稿されていました。やはり、プロの方の情報収集はすごいですね。

北欧のたび7(イェーテボリのトラム)

スウェーデンには前回ご紹介したストックホルムの他、ノルショーピンとイェーテボリの3都市でトラムが運行しています。その中で規模の大きいイェーテボリを訪れました。イェーテボリはスウェーデン第二の都市、ボルボの本社があることでも有名で、ストックホルムから約470㎞、特急列車で3時間20分のところにあります。スウェーデンの鉄道の予約もネットで簡単にできるのでどの列車に乗ろうかと調べていると、早期割引で2等車と変わらない金額で1等に乗れるのがありました。443SEK(約6100円)ためらうことなく購入、1等はストックホルム駅のラウンジが使えると書いていたので朝食は控えめに、30分ほど前に駅に着きました。目指すラウンジに行くと何と土曜日は休み、がっかりでしたがその分ホームで撮影時間が取れました。

↑ SJ2000型特急列車、最高時速210㎞ 続きを読む

北欧のたび6(ストックホルムの市内交通)

ヘルシンキからストックホルムへは間にボスニア湾があり、軌間も異なるため直接鉄道ではいけません。直線距離では400㎞あまり飛行機で行けば1時間の距離ですが、それでは面白くないので船の旅を選びました。先にエストニアに行くときに使ったのと同じタリンク・シリアラインがヘルシンキとストックホルムを約16時間で結んでいます。この船がまた豪華船で、レストラン、バー、免税店はもちろんカジノまであります。今回はC2タイプの船室で2ベッドのシングル使いですが€111と安く、ゆっくりと船旅を楽しむことができました。
 ↑ 船内のプロムナード、レストランやショップが並んでいる。

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京津線800型新塗装

6月の石坂線600型新塗装に続き、京津線800型1編成も8月8日より運用に入りました。8日から運用開始したと聞きつけて、先週の日曜日石山駅の引込線を見た帰りに、浜大津付近で待ち受けました。運用ダイヤを調べてもわからなかったため、待つこと3本目、新塗装色がやってきました。思っていたほどの違和感なく案外似合っているのかなという気がします。みなさんよくご存じで、1本前の通常塗装車の時には誰もいなかったのに、新塗装色が併用軌道に入るころにはどこからともなく10人程度の同業者が現れました。

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石山駅の引込線

JR石山駅の周辺には大きな工場がいくつかあり2方向に専用引込線がありました。現在はいずれも廃止されておりその痕跡もだんだんなくなってきています。米手作市様の“こんなモンもありまっせ!中学修学旅行編その1”の最初の写真は東レ滋賀事業所の引込線を撮られたものでした。このあたりは在職時代によく歩いたところでしたので現在はどんな具合になっているのか久しぶりに訪れました。ついでにもう1か所の日本電気硝子引込線にも行ってみました。
訪れたのはこの地図の左側が東レ専用線、右側が日本電気硝子専用線でJRの線路から下方向と上方向に伸びているのがわかります。図中の番号は写真を撮った位置を表しています。

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北欧のたび5(フィンランド鉄道博物館)

フィンランドの鉄道博物館はヘルシンキから近郊電車で45分ほどのところにあるハイビンカという町にあります。この町とフィンランド南西にある港町ハンコを結ぶ鉄道は1872年に開通したフィンランドで最初の私鉄でした。また、フィンランド最初の鉄道であるヘルシンキからハーメリンナ間の国鉄との接続駅でもありました。現在はハンコへの鉄道の客扱いはなく貨物専用路線となっていますが、古い扇形庫や建物が残っておりこれらを利用して鉄道博物館が作られました。

↑ ハイビンカ駅にて、スペイン製sm4型近郊型電車、ドアの丸窓が何ともユニーク

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北欧のたび4(タリンの鉄道)

サンタクロース急行でヘルシンキに到着したその足で港へと向かいました。バルト三国の一つエストニアに向かうためです。首都タリンはフィンランド湾をはさんでヘルシンキの真向かいにあり、フェリーで2時間の旅、ヘルシンキに荷物を置いて日帰りでタリンへ行きました。
↑ 今年就航したばかりの49000トンの新造船
往復の料金は早割で€40と安く、フェリーは国際航路なので船内には免税店があるため、免税品の買い物目当てに乗る人も多いようです。特に北欧ではアルコール類は高いので船賃払っても十分に元が取れます。ちなみに船内の免税店ではハイネケンの330mlX24缶1ケースが€14.9と日本の発泡酒以下でした。また、エストニアはユーロ圏ですが、国内の物価は安く、他の国と比べると食費などは半額位の感覚です。シェンゲン協定の国ですのでフェリーを降りると入国審査もなく、フェリーふ頭から10分ほど歩くとトラムの走る広い道路に出ました。

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北欧のたび3(サンタクロース急行)

ロバニエミに2日間滞在した後ヘルシンキへの帰りは寝台列車を使うことにしました。今回の旅は乗ることを中心にし、その中でも一番の目的はこの寝台列車に乗ることでした。時刻表には特にサンタクロース急行という名前は出ていませんが、北極圏の入り口で、近くにサンタクロース村のあるロバニエミとヘルシンキを結ぶIC273 、IC266、ロバニエミのさらに先、ケミアルビーとヘルシンキを結ぶIC265、IC274 をサンタクロース急行と呼んでいるようです。
 ↑ 郊外のサンタクロース村を北極圏の北緯66度33分線が通っている。
私の乗ったのはケミアルビーからやってくるIC274でした。ロバニエミはカートレインの積み込み場所となっていますので、30分停車しその間に車の積み込み作業をします。 続きを読む