失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part10 白銀 その1

第10日目 12月9日

哈密21:04(T296次)→12:10蘭州(20分晩点)
② 蘭州12:21(チャーター車)→13:46白銀

兰州站からはトウさんがチャーターした車に乗って、高速道路を白銀に向かいました。約100キロの道のりです。中国鉄路も通ってはいますが、本線上の白銀西站は、約7キロ離れた街外れにあり、上下各7本だけが停車しています。市内には支線の白銀市站がありますが、朝に上り1本、下りは夕方に1本しか旅客列車は走っていません。所要時間も約3時間と、利用できません。


▲ 兰州は中国全土に知れた牛肉麺発祥の地で、前回に準特急先輩と美味しい麺をいただきました。左のこってりした新疆拌麺とは違って、コクがあるのに透き通ったスープは、日本人好みでもあります。麺の種類は選べますので、平麺を注文しました。トッピングは、焼き豚ならぬ焼き牛肉です

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失業者二人の旅日記  初冬の大地へ Part9 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その3

皆様、明けましておめでとうございます。今年も長文の紀行記を投稿し、お読み疲れ等のご迷惑をおかけいたしておりますが、出来るだけの簡略化を目指しますので、なにとぞご勘弁を賜りたくよろしくお願い申しあげます。

第8日目 12月7日  雅満蘇2日目

もし朝に運行があるのではと7時前には起きました。隣の部屋におられるアイグリさんに昨夜の情報をお聞きしましたが、運行は決まらなかったとの残念な返事です。蒸気機関車の様子を見に行かれたO氏からも止まったままだと確認されました。

それではと、夜間撮影でもするかと三脚を持って、まだ真っ暗闇を出かけました。

夜が明けてからアイグリさんが、事務所に行かれていろいろと聞いていただきましたが、検査員の偉いさんが引き上げるまで運行はないだろうとの返事です。そして、 蒸気機関車の運転手が親しい同じウィグル人です。今日彼は、交代でハミに帰っていくので、その前に単機であれば、フョトランができるように頼んでみますが、がどうでしょうかとの提案がありました。O氏と相談しましたが、もう1日あるので、明日に期待しようとお返事しました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part7 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その1

第7日目 12月6日 哈密→雅満蘇

早朝6時前、哈密のホテルをアイグリさんも同行して出発しました。目的地の雅満蘇(牙曼苏)までは、約120キロ、鉱山鉄道の起点がある中国鉄路の山口站までは、鉄道線では97キロあります。道路灯もない真っ暗闇を東方向に約2時間強を走り、近くからは迷走を重ねてようやく8:14山口站に到着しました。以前に来た時の道がなかったそうです。 続きを読む

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part6 三道嶺 その4

第6日目 12月5日 三道嶺4日目

今日は三道嶺撮影の最終日です。今年2月に準特急先輩と来た時は、お互いに何も分からずで、ただ案内されるままでしたが、2回目とあって土地勘も出来ていて、今どこにいるのか分かっての撮影ができました。三道嶺4回目のO氏の存在も大きかったと思います。4日間のまとめの意味からも今日はバッチリと決めたいと起き上がりました。

▲ 8:54、3回目の朝の通勤列車の撮影。今日は少し先まで行ってみました。S字カーブを回って登り坂を上がってくるのが分かりました。日の出が後15分遅ければ、朝日をバックに撮れますO氏は一日ごとに1分間、日の出は違ってくると申されていましたので、来年2月初旬がベストになるのではと思われます。

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失業者二人の旅日記  初冬の大地へ  Part5 三道嶺 その3

第4日目 12月3日 三道嶺撮影3日目

今日は昨日のことのないように起床を30分早めて、 撮影現場には通勤列車が東站を発車する前の8時30分前には到着しました。ようやく東の空が赤くなり始めた8時40分過ぎに発車を告げる白い煙が上がり、ドラフト音が聞こえ始めました。


昨日同様のカットになりましたが、今日は後ろ向きの牽引です。ターンテーブルがありませんので、ズリ捨て路線用の上遊型なのでしょうね。しかし、昨日と同じく前照灯を点けずの走行です。線路上に邪魔物はないとの前提なのでしょうか。牽引機は、SY1304号機でした

 

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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part4 三道嶺 その2

第4日目 12月3日 三道嶺撮影

今日も失業者二人は、7時起きです。と言ってもここでは、北京から西へ遠く離れた新疆ウィグル自治区、約2時間の実質的時差がありますので、5時になります。まだ真っ暗闇の街中で朝食のマンタ(ウィグル料理のパオツ)を買い込んで出発しました。このマンタ、食べると羊肉の肉汁が口中に広がり、絶品です。美味しい朝食に活力を加えて、目指すはO氏お奨めの朝1本の通勤列車の撮影です。

8:43、目的地近くで車を降りて、懐中電灯で足元を 照らしながら撮影ポイントに向かいますが、すぐにドラフト音が聞こえてきました。

▲ 8:49、朝焼けをバックに白蛇のごとき煙を残しながら通勤列車がやって来ました。線路際の小高い丘に駆け上がりかじかむ手でシャッターを押しましたが、撮影準備をする時間がなさすぎました。撮影場所のまだ先はどうなっているのかが分かりません。この路線は東站西站を結ぶ路線でこの通勤列車のみが定期で走ります。明日の朝にリベンジすることにしました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part3 三道嶺 その1

第3日目 12月2日
① 哈密站 13:30(チャーター車)→15:00三道嶺

哈密站から約1時間半、今年2月25日以来の三道嶺に到着しました。期待した天山山脈ですが、残念ながら霞んでいます。しかし今回は、今日を含めて4日間の撮影日を予定しております。何とか一日ぐらいははっきりと見えてくれるだろうと撮影開始しました。▲ 三道嶺では、採炭された石炭を積込み選炭場へと運ぶ運炭線が2本あります。こちらは、蒸気機関車が正向きになりますが、ズリ捨て線では、推進運転となっております。今回私達が狙うのは、天山山脈を背景に驀進する正向きの運炭列車(地点;A・C)、推進運行ながら夕日をバックのズリ捨て列車(地点;B)と、朝焼けをバックに走り来る朝1本の通勤列車でした。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part2 T69次に乗って

第1日目 11月30日

① 長岡天神 5:34(阪急)→5:49 南茨木 5:58(モノレール)→6;21大 阪空港
② 伊丹 7:20(JL102)→8:30 羽田 9:40(JL023)→12:50 北京(空港快速)→三元橋(地铁)→国貿

無事順調に北京空港到着しました。先に着かれたO氏とは、預け手荷物引渡場(バゲージクレーム)でお会いして、常宿にしている京倫飯店に直行しました.


▲ JL北京便の往路機内食。ラウンジでたっぷり朝食を食べましたので、丁度良いぐらいですが、昔と比べるとしょぼくなったのは否めません。

チェックイン後 鄧さん哈密までの切符を依頼していただいておりました北京中国国際旅行社の賀さんに到着の連絡を入れて、受取時間の打合せを済ませてから街に出ました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part1 旅立ち 

中国四川省の辺境の地でお会いしましたO氏とは、お互いに定年退職で失業者となりました身の上が同じです。日程を妨げるものがありませんので、ご一緒にSL撮影の旅をすることになりました。

第1回目は河南省建材廠と阜新・平庄、第2回目のエリトリア鉄道に次いで第3回目は、O氏から新彊ウイグル自治区の哈密近くあるという雅満蘇(Yamansu)に建設型SLが走っているらしい。欧米人は行っているようだが、まだ日本人が行ったというレポートを見たことがない。是非に行きたいと思っています。久しぶりに三道嶺やぶんしゅうさんがまだ行かれたことがない白銀もご案内したい。一緒に行きませんかとのお誘いを受けました。

三道嶺は、今年2月に準特急先輩に同行して参りましたが天山山脈が霞んで思っていた写真が撮れず、リベンジしたいと思っていました。 白銀 は上遊型が客車を牽引する有名な撮影地です。それに日本人がまだ行ったことがない雅満蘇と聞けば、行かないわけにはいきません。飛びつきました。

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エリトリア鉄道 2011年総集編 

エリトリア鉄道は、イタリアの植民地化により建設された鉄道です。
当初は、塩生産のために港湾都市マッサワに敷設された600mmゲージの鉄道が始まりでしたが、1888年に750mmに改軌されてSa’atiまで延伸されました。
ドイツのヘンシェル製(Henschel)の蒸気機関車7両が投入され、1926年まで在籍しました。

海抜約2,400mの現在の首都アスマラまでは、イタリアからの物資を輸送するために950mmに再改軌されて1911年に延伸されています。
左は、1930年の時刻表です。マッサワ~アスマラ間は、1往復の蒸気機関車牽引の列車が運行されています。マッサワを6時30分に発車して、アスマラには12時半に到着しています。120キロを6時間をかけて登っていますので、表定速度は20km/hでした。

▲ 当時の1等車と2等車の結構豪華な車内です。3等車は現在の板張りボックスシートだったようです。

1935年にフィアット社製のディゼル車「リットリナ」が投入されてからは、10時半~11時頃に着いたとの記事がありますので、約4時間強(表定速度は30km/h)にスピードアップされていました。

その後も延伸は続き、1922年にはケルンまで建設されました。1932年には263.7キロ先のビシアまでつながりました。最盛期には、一日30本もの運用が行われました。
最終的には狭軌のスーダン鉄道と結ぶ計画でしたが、1975年からの戦争により中断され、敷設されていたレールや鋼枕木は戦争用のフェンスとして使用されました。

駅は解体され、車両も損害を受けましたが、20年続いた独立戦争が終った1994年には改修プロジェクトが開始されて、2003年2月にはマッサワ~アスマラ間が復旧されました。しかしマッサワからアスマラへの物資や客輸送は日本等のODAで建設された道路に移行しており、エリトリア鉄道の現在は、戦前に残された貴重な950mmゲージの蒸気機関車や内燃車をチャーターして走らす鉄道ファンの撮影地となっております。

【配属蒸気機関車】
蒸気機関車は、前記のように750mm時代の7両と、950mm時代のマレー機56台を含み79台が投入されています。重連での運行もあったようで、多くの物資を積んだ貨車を牽引して、標高差約2,450mもの勾配を登っていく姿は想像するだけでもすばらしかったとろう思われます。

【現在残る車両】

▲ 79台あった蒸気機関車は、リビア等に売却されたり第2次世界大戦、独立戦争で破壊され9台が残りましたが、下記の訪問記でもお分かりのように走行できるのは約半数でした。
内燃車ツアーもあり、DLやDCがフォトランに参加していますので、走行できる車両もあります。世界でも最も貧しい国と評価されていますので、SLや内燃車の観光ツアーは外貨収入を得られる貴重な財源です。路盤のバラストも新しく、これからもツアー受け入れには積極的に対応されると思われます。

【エリトリア鉄道へのアプローチ】
エリトリアは社会主義国家で、ビザなし渡航は認められていません。ビザは、東京にあるエリトリア大使館に個人申請をする必要があります。また現地につきましても移動には許可が必要です。
そのため、今回のエリトリア鉄道SL撮影については、ドイツの旅行代理店”TANAGO”のツアーに参加しました。エリトリア鉄道以外に、中国鉄路、アフリカ等のSL撮影ツアーを企画されています。HPは下記のとおりです。ご覧ください。
http://www.tanago.de/erlebnisreisen/de/eisenbahnreisen.php

今回のエリトリア鉄道訪問記の詳細は、下記をクリックしてご覧ください。

Part  1  旅立ち
Part  2  フランクフルト中央駅
Part  3  フランクフルト交通博物館へ
Part  4  フランクフルト交通博物館
Part  5  路面電車に乗ってフランクフルト市内観光
Part  6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ
Part  7  ミュンヘンは、オクトーバーフェブト
Part  8  ミュンヘンの路面電車に乗って
Part  9  ミュンヘンからエリトリアへ
Part 10 希望へのエリトリア鉄道の今は その1
Part 11 歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ
Part 12 希望へのエリトリア鉄道の今は その3
Part 13 希望へのエリトリア鉄道の今は その4
Part 14 希望へのエリトリア鉄道の今は その5
Part 15 希望へのエリトリア鉄道の今は その6
Part 16 希望へのエリトリア鉄道の今は その7
Part 17 希望へのエリトリア鉄道の今は その8
Part 18 希望へのエリトリア鉄道の今は その9
Part 19 エリトリアからドイツへ
Part 20
帰路

ご同行させていただいたO氏より私が参加できなかった後半のツアーでの撮影写真をいただいております。
O氏のご好意により、ハイライト写真の1部を掲載させていただきます。

 

ご紹介させていただきました写真以外にも秀作の数々があります。フォトランではありますが、私ごときでは写せないすばらしいカットでした。O氏ご自身がお撮りになった40数年間に及ぶ鉄道写真をホームページに掲載される準備をされておられますので、完成されましたらご紹介させていただきます。

帰国後、初めてお会いした中国鉄路に残る蒸気機関車を一緒に撮りにいこうとの話が出ました。11月30日から14泊15日をかけて

続いて『 失業者二人の旅日記 初冬の大地へ』を投稿します。ご覧いただけますようによろしくお願い申し上げます。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part20  帰路

エリトリア鉄道訪問記最終編は、下書きをしたままほったらかしにして、また出かけてしまいました。ずぼらで申し訳ございません。このままでは、次の紀行記がスタートできませんので、勝手ながら再開させていただきます。

第10、11日目 10月3日、4日

① ミュンヘン13:25(ICE516)→17:06フランクフルト空港
② フランクフルト21:05(JL408)→翌日15:25成田16:50→18:15伊丹
③ 大阪空港 (モノレール)→南茨木(阪急)→長岡天神

今日は、昼過ぎにICEに乗車して、直接フランクフルト空港へと向かい、帰国の途につきます。そして、10月3日はドイツ再統一の記念日、またオクトーバーフェストの最終日でもあります。
朝食後、また路面電車に乗って市内遊覧に出ましたが、途中でビール樽を積んだ馬車が線路道を 横切りました。
往路で会場を訪れた時は、ミュンヘン駅から地下鉄で行きましたので、会場がどこにあったのか分かっていませんでした。近くにあるのなら、もう一度美味しいビールを飲んでみたい、家内もあの雰囲気を昼間に見たいと申しますので、降りて行って見ることにしました。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part19  エリトリアからドイツへ

第9日目 10月2日

アスマラ4:05(MS834)→ 5:45カイロ10:45(MS787)→14:55ミュンヘン

昨夜は、エリトリア鉄道SL撮影ツアー前半の最終日でした。ご同行させていただいた皆さんと最後の夕食で盛り上がろうと1Fに行きますと、レストランでは昼間見た結婚式の披露宴が行われていました。民族衣装で着飾った200人以上の方々が、新郎夫婦を中心に食事をしながら、歌ったり踊ったりの大宴会です。近づくと、どうぞどうぞとレストラン内に導かれました。O氏の奥さんと家内は、珍しさにひかれて喜んで参加しておりましたが、別のサブレストランに案内されたツアー参加者は、結婚式のあおりをくってしまいました。
注文した料理が中々出てこないのです。1時間ほどは話をしながら待っていたのですが、2時間経つと、我慢強いドイツ人も不満の表情を露にします。私の方は冷たいビールがきましたので、これで十分でしたが、とうとう怒り出していました。

大宴会は、部屋に戻っても深夜まで続いていましたが、早朝4時の飛行機でしたので仮眠で出発を待ちました。
チェックインには時間がかかると言われ、N氏と3人で1時半過ぎにはアスマラ空港に向かいました。ターミナル前の小屋で荷物検査を受けたましたので、往路に懲りて預け手荷物とはせずに機内に持ち込むことにしました。古びたターミナル内は社会主義国家だけあって写真撮影は禁止で、また現金申告と財布を開けての確認までさせられました。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part18  希望へのエリトリア鉄道の今は その9

第8日目 10月1

① アスマラ6:20(列車)→7:00 Shegereni8:00(列車)→10:33アスマラ
② アスマラ着後。機関区見学、アスマラ11:40(Bus)→13:00ギンダ
③ 
ギンダ(列車)→
マイ・アタル→17:20ギンダ(Bus)→アスマラ


今日は、エリトリア鉄道撮影前半ツアー最終日です。深夜にミュンヘンに戻ります。

朝は、いつものように夜明け前の出発でした。
アスマラ駅からツアー特別列車に乗車しました。今日の編成は、440式マレー機008号機+客車Ⅲクラス04号車+有蓋車+無蓋車の短編成です。
日の出を見ながら約40分をかけて、次の交換できるShegereniまでの海抜差約180mを逆行で下りました。この駅は、アスマラ到着第1日目に訪れましたループ線の途中にあります。
直通ブレーキがないため、客車側ではベテランの親父さんが手ブレーキを巧みに回して減速調整を行っていました。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part16  希望へのエリトリア鉄道の今は その7

第7日目 9月30日 その1

①  マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20
マイ・アタル
② 
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

今日は、早朝5時のレストラン集合で、朝食後の5時30分過ぎにはバスに乗って、まだ真っ暗な夜明け前のマッサワを出発しました。

▲ ようやく明るくなった6:15、昨日夕方に最後の撮影をしたアーチ橋に到着しました。道路にはコンクリート橋が架けられて大型トラックも往来しますが、庶民の足は、ロバが牽く荷車です。
乾いた河川は住民の通行路でもあります。撮っている間にいくつもの往来がありました。


▲ エリトリア鉄道のマッサワ側のハイライトは、石で組まれた頑丈な最長のアーチ橋です。木の名前が分からないのですが、この木の下には長い針を付けた”まきびし”が落ちていました。靴で踏むと、ぐさりと靴底を貫いて足裏を刺します。足元に気をつけて歩きました。
約一時間の撮影タイムが終わると、昨夕同様にまた貨車に乗り換えました。


▲ 貨車内には、お湯を沸かす「かんてき」、大量のミネラルウオータ、コーラと冷やす氷も積込まれています。そして、現地人の若い21歳と25歳のアテンダントさんも乗車されて、車内は華やかになりました。この氷は、火照った身体を冷やすのに役立ち、アテンダントさんに何度もお願いして、アイスピックで氷を砕いていただきました。


▲ 線路際に昨日とは違っての難民部落が出現しました。手をふったり、走ったりの大勢の元気な子供たちがいます。家と言うより小屋やテントの様子からかなり長期間の難民生活がうかがえました。


▲ 8:20、それまで並走していたR1号線とは分かれて、灼熱乾燥地獄の荒野に入っていきました。一旦停車して、1カットの撮影です。標高はまだ海抜66mです。

8:28、再び乗り込み荒野を行きます。途中、破壊された駅舎がありました。マッサワから19.6キロのドガリ駅跡です。


9:20、先で客車を連結すると言われていたマイ・アタル駅に到着しました。マッサワから29.4キロ、海抜181m、荒野の真ん中の駅で、周囲に人家は全くありません。交換駅だったのでしょうね。ここまで来ますとマッサワとは違って、べったりした不快な高温の塩風はなくなりましたが、気温はどんどん上がっていきます。
ここで貨車から搭載物の移動です。側線には、無数の貨車が放置されていました。撮影地点はこちらです。


▲ 機回しが行われました。オープンデッキの客車ですので最後尾を望みましたが、残念ながら機関車の次の連結でした。

▲ 次は、機関車への石炭補充です。ズタ袋に入れた石炭を貨車から機関車まで運んで積みます。水は、タンクローリー車が待機していて、ホースで給水します。独立戦争前は給水設備もあって困らなかったのですが、破壊されて給水車が必要になりました。給水と石炭運びは停車する度に行われましたが、とにかく多くの人手のいる作業を人力作戦で、行っていました。この列車を走らせるために、一体何人の現地の人々がたずさわっているのでしょうか。

約1時間20分の停車の後、ようやくアスマラ方向に向けて出発しました。
 Part17  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part14  希望へのエリトリア鉄道の今は その5

第6日目 9月29日 その1

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

今日は、エリトリア鉄道の紅海に面した始発駅マッサワにBusで向かうので早く起きてください、5:30に朝食ですと言われましたので、気合を入れて5時前には起床して荷物もまとめてホテル1階にあるレストランに行きましたが、開いていません。こんなに早くに朝食を準備するのは従業員にとっては、ありえないことなのでしょうね。

悪びれもなく起きてきた従業員が準備をやりだしましたが、パンと牛乳、コーヒーをかけ込んでの夜明け前の出発でした。

▲ 高原に昇る朝日を見ながら、Busは、いろは坂連続の下り坂を走り続けました。途中いくつかの集落を見ましたが、砂漠地帯に入ると人家はありません。
出発する前は18℃程度だった気温はぐんぐん上がって30℃を超え熱帯の暑さがやってきました。車内冷房が欲しいところですが、原住人は慣れっこなのか、設備はあっても入れてはくれません。窓を開けて温風で凌ぐしかありませんでした。暑さに弱い私は、既に青信号点滅状態です。


▲ 9:10、所要時間約3時間、標高差約2,350mを下って、港湾都市マッサワに到着しました。気温は35度を超えて、塩っけたっぷりの浜風も混じっての、うだるような暑さで、もうタマリマセン。
昨日、山を下りて行った422式54号機がフォトランの準備を整えて、待っていました。撮影場所はオールド駅といわれるこちらです。


▲ エリトリア鉄道マッサワ側の始点は、マッサワ市内から海の道を渡ったタウルド島から、まだ先のポートアイランドにありました。ここで船から降ろされた荷物を積載して遠くアスマラへと運ぶのが、エリトリア鉄道の使命でした。

▲ ウウルド島のオールド駅の他にポートアイランドにも現在はバス停で使用されているホーム屋根のある簡易駅が残っていました。撮影地点はこちらです。ここから先は船着場ヤードです。



▲ 何回もこれでもかと、かつての最盛期の走行を再現できるのがフォトランのウリです。
停泊しているフェリーに入っての撮影や海べりのホテル屋上からの撮影も地元旅行代理店の根回しができているので全てOKでした。

ここマッサワから最盛期には、何と1日30往復もの列車が運行されていました。
しかし、30年間にわたる独立戦争では、マッサワは軍事拠点であったため、戦闘によって街の大半が破壊され、鉄道も運行を停止させられました。

左の写真、背景にある破壊された建物は、旧イタリア銀行です。四面をバルコニーに囲まれ細部の装飾にも贅を尽くされた建築でした。
これから全室スイートの高級ホテルとして復元されるらしいです。


▲ こちらも破壊された旧皇帝宮殿です。かつてエチオピアの皇帝が、海軍士官学校の卒業式のために毎年マッサワを訪れた際に使用したそうです。マッサワのうだるような暑さをしのぐため、建物は、通気をよくする広々としたアーチやドームがつけられています。建物はエリトリア政府の所有で、廃墟のまま保存されていました


▲ 一旦宿泊するホテルにチェックインしました。リゾート風に建てられた部屋は、クーラーがよく効いていてホッとしました。しばし、体力回復タイムです。
天井から蚊帳が取り付けられていました。昔、幼少期には蚊の多い京都の夏には欠かせないものでした。おしゃれな蚊帳に家内も大喜びでしたが、蚊は好きではありません。持ってきた携帯用電子蚊とりをセットしました。
昼食は、別のホテルのレストランでしたが、やはりクーラーはありません。料理は、またスパゲティですが、 ピラフもありました。久しぶりのご飯です。少し落ち着きました。   Part15  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part13  希望へのエリトリア鉄道の今は その4

第5日目 9月28日 その4
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

【ディーゼルカーとディーゼル機関車】
ディーゼルカーは、小型1両と大型2両がいました。このツアーは蒸気機関車撮影が主でした。構内撮影が許可されていた9月28日と、10月1日の空き時間を利用して撮りましたので、両日撮影分をまとめて紹介させていただきます。

しかし、私ごとき博学ない者には、説明ができかねます。幸いにして、クローバー会には、内燃機関車の第一人者であられます 「須磨の大老」さまがいらっしゃいます。ここでは写真にとどめて、説明はお任せいたしたいと思っております。お手数をおかけしますが、よろしくお願い申しあげます。





▲ ディーゼルカー№2。車内にはカウンターが設置されていましたので、簡単な飲食が提供されていたのでしょうか。車両ドアが外開きの観音ドアだったのにはびっくりしました。




▲ 工場兼車庫を入っていきますと、ディーゼルカー№7ディーゼル機関車25Dがいました。№7の車内は、№2とは違って、一方方向にシートが並んでいました。ドアは開きませんでしたので、よじ登っての撮影です。転換クロスなのか分かりません。25Dには、「FRIED.KRUPP 1957」の銘板がありました。



▲ 車庫に入ってすぐに会った、なぜか愛らしい小型ディーゼルカー№2、多分作業用に使用されたのでしょうね。


▲ 大型ディーゼル機関車27D、これもクリップ製ですね。1957年製造のようですので、1番新しい機関車なのでしょうか。

以上が、軌道や車庫にあった内燃車両です。ホテルに帰るのでバスに乗るよう指示がありましたので戻ると駐車場端にトラックに乗せられたDLが2台ありました。少し待ってもらって撮りに走りました。

▲ 銘版を見ますと、1937年とあります。構内用に使用されたものと思われます。これから修理にでも出すのか、それともどこかに持っていくのか分かりませんでした。

今夜の夕食は何だろうと思っていましたら、ホテルから歩いて近くのイタリアンレストランに行きました。席に座ると、メニュー表を渡されて好きなものを注文してくださいとの事です。
日本のツアーと違って、既に注文されている食事を食べるのではなく各自の好みに任されていました。と、言ってもメニューはパスタかピザぐらいしかありません。適当に別々のピザを注文して、皆で回して食べました。
途中で外に出てみますと、街中を散歩する人がたくさんおられます。イタリアでは夕食後に街をそぞろ歩く習慣があるそうですが、アスマラでも同じような習慣が継承されていて、住民たちから「アスマリーノ」と呼ばれているそうです。

植民地として支配されていた国の文化が受け入れられたのは、搾取や争いが起こったイギリスやエチオピアと違って、イタリアは道路整備や都市計画などの街づくりや職業訓練を行い、産業を残したからと考えられています。また歴史的にも古来から様々な文化が交差する土地でもありました。それぞれの文化を柔軟に取り入れる国民性は、現在にも受け継がれてきているのでした。

貨車と客車につきましては、 乗車もいたしましたので、その中でご紹介させていただきます。   Part14  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part12  希望へのエリトリア鉄道の今は その3

第5日目 9月28日 その3
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アスマラ駅に着くと、ツアーの皆さんも市内観光でストレス気味だったのでしょうか、飛ぶように機関区に向かわれていました。


▲ アスマラ駅の航空写真です。ご覧のように蒸気機関車の車庫・修理等を行う工場と、ディーゼル車と機関車の車庫・工場とは駅の左右に分けて設置されていました。

エリトリア鉄道は、かつてアスマラが終点ではなく、この先まで遠く延伸され、隣国の鉄道と結ぶ計画まであったそうです。上空からアスマラ以降の路線跡を探してみましたが、独立戦争等で破壊され痕跡が見つかりません。市内を移動している時に線路跡を1部見ましたが、街中を走るマレー機の姿を見てみたかったですね。
ただ、アスマラから延伸された104km地点のケレン駅は、典型的なイタリア建築物として、大切に保存されているそうで、駅は現在、バスステーションとして使用されているようです。こちらに案内があります。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part11  歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ

第5日目 9月28日 その2

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

SL撮影後はアスマラ市内観光です。標高約2,350mに位置するアスマラは、年間平均気温が17℃と、訪問時も湿気もなく快適な気候でした。古くより商業の中心地で、1897年に首都となり、イタリアが第二のローマとして開発しました。市内には植民地時代に建築された多くのアールデコ建築物が、戦下に会わず数多く残されていました。

アスマラは、アフリカの奴隷制時代につけられた名前です。ティグリーニャ語で、その意味するところは、「女たちが男たちを団結させた」というものであり、これは、当時の(奴隷制時代の)女(母)たちが、奴隷商人から自らの娘や息子を守るために、男たちを団結させたという逸話からきているそうです。


▲ 市内のどこからでも見えるので、ランドマークにもなっているカトリック大聖堂、同行のドイツ人が執拗にシャッターをきっていたのは、世界でも有数の奇抜な建築物の一つ、1938年にイタリア人建築家Giuseppe Pettazziの設計で建てられた飛行機形のガソリンスタンドです。かつて「世界一豪華なガソリンスタンド」と呼ばれたそうで、支柱がない設計は、さすがクリエイティブなデザインに優れたイタリア作品と感心しました。

ブーゲンビリアやジャカランダが咲き乱れる街角には、美しい煉瓦作りのヴィラや、斬新な現代建築があちこちに見られ、イタリアの遺産とアフリカの風土が溶け合った独特の魅力を醸し出しています。建築や歴史の好きな人にはこたえられないでしょうね。
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