25年前の新春鉄道写真三昧

【6240】で総本家青信号特派員さんが阪堺電車の初詣風景の素晴らしい画像と書き込みを拝見して、25年前の昭和61年の元旦、ほぼ同じ場所で撮影したことを思い出し、当時の画像を引っ張り出してみた。

昭和58年のゴールデンウィーク期間中に生活の拠点を東京都内東部の亀有に移し、急激な生活環境の変化と旧形国電、旧形客車が姿を消したこともあって、鉄道に対する情熱はすっかり冷え切っていた時期であったが、正月休みに帰省した時に何故か阪堺線の「改々電車」(205形)と元京都市電(251形)が見たくなって出掛けたものと思われる。「改々電車」と元京都市電が営業運転に就くのは、ラッシュ時と初詣輸送時くらいのため、関西在住の頃にまともな写真が撮れておらず、チャンスと思ったのかもしれない。そのため車両中心の画像であるが、満員の乗客で当時を偲んでいただければと思う。

モ205形

旧阪堺電気軌道が開業時に新製した木製車を昭和12年から22年にかけて鋼体化した車両で、205~250の46両在籍した。最後はワンマン化されなかった平野線で使用されていたが、昭和55年11月27日、地下鉄谷町線が八尾南まで延長に伴い、平野線が廃止された時に246~248の3両が中扉を新設してワンマン化され生き残り、主にラッシュ時と正月に使用された。改造を重ねているため「改々電車」と言われた。(怪々電車と言う人もいた)

モ251形

元京都市電の1800形(ワンマン改造前は800形)で251~256の6両が在籍した。京都市電時代の旧番は車号順に1844、1866~1870である。複雑な改番を行った600形→1600形と違い、800形時代の車号に単純に1000をプラスしただけである。転入当初は日常的に使用されたが、パワー不足でスピードが出ないため多客時以外は使用されなかった。廃車後は256(元1870←870)が京都時代の塗装で我孫子道車庫に保存され、一般公開時に見ることができる。また、255(1869→869)はアメリカアリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され、869時代の前後扉に復元の上動態保存されている。

251/元1844←844で、251形の内この車のみ昭和25年近畿車輛製である。844時代は九条車庫の配置にされ、伏見線でよく乗った思い出深い車である。窓枠は昭和30年代後半にアルミサッシに取替えられていた。

 

252/元1866←866で、昭和28年愛知富士産業製、このグループが5両全車転入した。ツーマン時代は間接自動制御で烏丸車庫に配置され、通学時によく乗った車両である。車体は半鋼製であったが、内装は木目プリントの軽金属板が使用されていた。866は、600形を1600形への改造にあたりテストカーとして、ヘッドライトのシールドビーム化(但し1灯)自動昇降式ビューゲルの取付け、車内外スピーカーの取付け、直接制御化が行われた。

 

254/元1868←868で、昭和28年愛知富士産業製。867~870はワンマン改造時に直接制御となった。

 

255/元1869←869で、昭和28年愛知富士産業製。廃車後アリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され動態保存されている。869時代の前後扉に復元されているが、ヘッドライトが窓下に移動、集電装置が阪堺時代のパンタのままと原形とは多少異なるがよく残ったと思う。

 

256/元1870←870で、昭和28年愛知富士産業製。現役時代は「タマノ井酢」の広告車であった。廃車後、京都時代の塗装に戻され動態保存されており、一般公開時に見ることができる。

モ121形

昭和42年に元大阪市電の1601形を譲受け、木製車モ101形の足回りを組合せて竣工した。121~130の10両在籍したが平成12年までに廃車となり、ラストナンバーの130が浜寺公園に保存されている。

 

モ151形

昭和2年川崎造船所兵庫工場製で電4形として10両作られた。モ161形、モ301形への改造により、最終的には151~154の4両となった。当初は直接制御であったが昭和35年に多段式間接制御に改造、昭和54年にワンマン化されたが平成13年までに廃車された。

 

モ161形

昭和3年161~170か川崎車輌で、昭和6年171~176が田中車輌と大阪鉄工所で作られた。当初から総括制御が可能な間接非自動制御で連結器を持ち、昭和26年まで平野線で連結運転を行っていた。現在も10両が健在で多客時を中心に使用されている。

 モ301形

モ151形とモ161形の戦災復旧車で301~307の7両在籍した。制御器は多段式間接制御で301形同士の連結運転は可能であったが、161形とは制御器の相違から不可能であった。

 

モ351形

木製車モ101形の主電動機を流用して昭和37年(351・352)と38年(353~355)に帝国車両で作られた。車体は昭和32年に新製されたモ501形とほぼ同じであるが車掌台の窓が異なる。主電動機を流用しているため釣掛式であるが、台車は空気バネの新品、主電動機も間接自動式の新品である。昭和61年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

モ501形

昭和32年帝国車両で当時の最新鋭技術によって作られた高性能車で501~505の5両在籍した。昭和60年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

 

 

この時点では505は未だ冷房化はされていない。

 

 

 

 

 

 

新春から鉄道写真三昧 (4)

京成“青電”を撮る

続いて京成電鉄を訪れた。同社では創立百周年を記念したリバイバルカラーの3300形を走らせている。“青電”“赤電”“ファイアーオレンジ”の4両編成3本だが、他車と共通運用のため、どこに入るかは運次第。そこは、クローバー会のありがたいところ、F本さんに尋ねるとすぐに的確なアドバイスが返ってきた。

それによると、金町線に入る確立が最も高いという。果たして高砂駅に降り立つと、4番ホームに発車待ちの金町行きが待望の“青電”であった。3300形のラスト編成モハ3353~モハ3356で、このダークグリーンとライトグリーンの塗色は、“赤電”とともに昭和55年に消滅している。

この電車に乗って初めて柴又駅に降りた。正月明けにも関わらず、帝釈天の参拝客で駅周辺は一杯。柴又から単線になった線路端で、バスツアーの客と雑談を交わすうちに、すぐに戻りの“青電”がやって来た。日中は20分ヘッドである。柴又~金町間の中間付近は道路と並行し、サイド気味に撮ることも可能だが、晴れるとどうしてもビル影ができてしまうので、曇天がお勧めだ。

金町線を行く京成リバイバルカラーの3300形

京成の案内所に聞くと、その他のリバイバルカラー2編成は夜間のみの運行とのことで、金町まで撮ったあとは高砂へ戻る。ホームに着くと本線の複々線区間を行く電車を夕陽が染め上げている。あわてて、3・4番ホームの端へ行って写しまくる。この高砂~青砥間、複々線になっており、乗り入れる車両は京成、都営、北総、芝山、千葉NT、京急と6社にも上がり、多種多様な車両、複雑怪奇な運行には、傍目からはほとんど理解できない。これに金町線の発着、車庫への入出庫も加わって、よく上下2面4線で回しているものと感心しきりである。この区間、中川を渡るため、区間の中央部が凸部になっており、望遠レンズで見る編成は写欲を沸かせる。

京成では今年7月の成田スカイアクセス(成田新高速鉄道)の開業を控え、新型スカイライナーがデビューし、現行のスカイライナーにも変化があることだろう。斜光線に側面を照らされて、その特徴ある鋭角の前部を強調していた。 

夕陽を浴びて交換する京成3500形と千葉ニュータウン鉄道9000形

高砂駅を通過する下りスカイライナー

 

 

号外! JR西日本車両カラーの一新!

『冬の芭石鉄道へ』の投稿を編集しながら、一息ついたので、朝日新聞の夕刊を見ていましたら、驚くべき記事が掲載されていました。2010年4月から、順次にJR西日本車両の車体色が、変わります。ホームぺージのトップページは、話題の最新ニュースを投稿していただいておられますが、こうなると、大変でしょうね。
私も、『冬の芭石鉄道へ』の投稿が終わり次第に、『ぶんしゅう7号』を相棒に、撮りまくりの旅に、出なければいけなくなりました。

2009年 冬の芭石鉄道へ Part3 北京西站→成都T7次 その2

第3日目 2009年12月31日

北京西站16:49-(T7次)→18:39成都


7:15
、心地良い、走行振動に熟睡した朝を迎えました。T7次は、北京西站から京广線を南下し、河南省の省都の鄭州北站からは、隴海線を圣由して、乌鲁木齐(ウルムチ)、拉萨(ラサ)方面へ向かう線区との分岐駅の宝鳰站に、15分遅れで、到着していました。外は、遅い夜明けを迎えようとしています。中国国内には、時差はありませんが、実質的には、東北地方(旧;満州)と比べると、1時間以上は、日の出、日の入りが、遅いようです。

宝鳰から成都までは、1956年に開業した宝成線を走ります。直ぐに険しい山間路線となり、大小いくつものトンネルを抜けて、川に沿って、速度も40~70km/hで、ゆっくりと、右へ左へのカーブを走行します。人家が見えると、駅があります。単線ですので、全ての站で、客車や貨物列車の交換がありました。 続きを読む

2009年 冬の芭石鉄道へ Part2 北京西站→成都T7次 その1

遅れましたが、新年おめでとうございます。皆様方は、どのようにお過ごしでしたでしょうか。

私は、同じDRFC-OBのM・T君と一緒に、年末から大地に入り、念願だったナローゲージでSLの走る、四川省の芭石鉄道に行ってきました。芭石鉄道は、中国鐡路とは、直結されていなく、省都成都からも、約4時間以上もかかる、独立した鐡路で、簡単にいける所ではありません。今回の旅も、いつもと同様に、ハプニングと出会いの連続でした。

今年も、身体が動ける限り、国内・海外の鉄道を訪ねて、第2の青春を謳歌するつもりです。その都度、ご報告をさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

第2日目 2009年12月30日

① 永安里-(1号線)→苹果园-(Taxi)→北京植物園
② 北京植物園-(Taxi)→北宫门(4号線)→西単-(1号線)→永安里
③ 永安里-(Taxi)→北京西站
④ 北京西16:49-(T7次)→翌日18:39成都

昨日、チェックイン後、両替をして、フロントの日本人のご好意で、立替払いをしていただいた、成都への特快T7列車の寝台切符を、受け取りました。普通は、こうはいきませんので、感謝、感謝です。

北京西站発車は、16:49です。充分に時間があります。M・T君に、故宮、万里の長城、天壇公園等々、北京の観光地をあげて聞きましたら、意外や、植物が好きなので、植物園に行きたいと言います。植物園は、市内中心部から、北西へ約20数キロ、新緑や紅葉で有名な『香山』の麓にあります。

久しぶりに1号線の終点、苹果园站にも行って見たいので、案内することにしました。苹果园站は、客扱いでは、終点ですが、Part1の北京地鉄路線図でもお分かりのように、実際は、まだ先に工務員専用の3駅があります。しかし、その詳細は、公表されていなく、なぞとなっています。
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【レポート】関東地区の新年会

本年も宜しく@ロギング太郎です。
 
一昨日、関西から佐竹様ご夫妻と、福田さんが東京へ来られたので、関東在住のOB6名が集まり総勢9名で新年会を開催しました。
(宴会後の記念撮影)

 

本当に時間を忘れる程の盛り上がりでした。

記念写真は例によって肖像権の尊重を図っておりますが、今年は寅年に因み警戒色柄の特製標識に仕立ててみました。
しかし「どうしても○○さんの素顔を見たい」と仰る奇特な方は、小生宛に個人メールください。厳重包装のうえ密送します。 (^^;)
今後も東京へ来られる方が居らっしゃいましたら、事前に早川さん、西尾さん、永田さん、小生などに日時をご連絡頂けば、歓迎会の案内を関東在住者へメール同報して通知します。
老若男女が気軽に入れ、しかも料金はリーズナブルなお店もあります。
もちろん「稿料が入ったから今夜は儂に任せろ」てな太っ腹ご提案も大歓迎でございます。 m(_ _;)m
 

新年のご挨拶

クローバー会の皆様、明けましておめでとうございます。

現役の身ですので遠出はできませんが、「ご近所鉄」で近場のニュース等を書き込みしたいと思います。今年もよろしくお願いします。

Tsurukame先輩は西暦でしたので私は平成の年号にしました。

 

ここからはオマケです。

新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
山陽電車 須磨浦公園付近 1965年

山陽電車 須磨浦公園付近 1965年

東京メトロスマイルフェスタ‘09inAYASE

12月5日(土曜日)東京メトロ綾瀬車両基地で「東京メトロスマイルフェスタ‘09inAYASE」が開催された。綾瀬車両基地は北綾瀬駅から徒歩10分の場所にあり、千代田線の他に有楽町線、副都心線、南北線と埼玉高速鉄道の車両の検査を担当している。ちなみに自宅からは自転車で20分程のところである。

昨年までは、最寄り北綾瀬駅が狭いこと、綾瀬~北綾瀬間の電車が3両編成のため輸送力が小さいこと等により混乱を避けるため、事前応募による抽選で参加者数を制限していたが、今年は一部のイベント以外は自由参加であった。

イベント内容でファン向けのものとしては、南北線9000系第5次車、千代田線06系、副都心線10000系の並びの撮影会、日比谷線3000系保存車の車内見学、6000系の車体吊上げ実演、鉄道部品販売等があった。その他にも事前応募制で車両洗浄乗車体験、7000系運転台見学、保守車両運転台見学があった。以下当日の模様を画像で紹介する。

南北線9000系第5次車、千代田線06系、副都心線10000系の並び

 

副都心線10134編成

 

撮影場所は30分間隔で前方の記念撮影用と少し後の3本並び撮影用に別けられていた。

日比谷線3000+3002保存車

 

3002の運転室

 

3001の台車

日比谷線の3000系は廃車後一部の車両が長野電鉄に譲渡さたが、元東急の8500形との置換えにより非冷房車が廃車となり、3001+3002が保存のため里帰りした。保存車とはいえ、MGが稼動し、車内灯は勿論、暖房がよく効き、完全に生きていた。

運転台見学(事前応募制)に使用 副都心線7128

 

運転台見学は募集40名と少なかったため、高倍率となった。

架線保守用軌道モーターカー

 

保守車両運転台見学は募集80名であった。

工場内の6000系

 

上から簡易運転台付の6616、6716、6316、車体吊上げ実演に使用された6016

6000系第1次量産車

 

イベントの対象にはなっていなかったが、6000系第1次量産車、6103と6106を撮影することできた。第1次量産車(02~13編成)は昭和46年に新製され、間もなく車齢40年を迎える。6106は車体更新時に6106は1枚下降窓に、6103は2段窓のままであるが窓構造を変更している。

6000系は綾瀬~北綾瀬間で使用中の第1次試作車3両編成1本、第2次試作車01編成、第1次量産車から平成2年製の第7次量産車まで(02~35編成)計358両が在籍し、千代田線の主力として日夜活躍しているが、第2次試作車のみ車両限界の関係で小田急線への乗り入れができないが、量産車編成は常磐線取手から小田急多摩線唐木田まで走行している。JR車は小田急線への乗り入れが、小田急車はJR線への乗り入れが不可能であるが、現在実施されている金町駅周辺の工場跡地の再開発により、大規模マンションの建設と東京理科大学の移転が計画されており、完成の暁には輸送力の不足が懸念されている。その解決には小田急車のJR線への乗り入れが不可欠となるため、最近の新車、JRのE233系2000番台と小田急の4000系は僅かな改造により3社乗り入れが可能となるように製作されていると言われている。

ここにきて、東京メトロより平成22年秋から6000系の代替として16000系16編成(160両)の投入が発表された。新車の投入は楽しみであるが、代替で廃車されるのはどの編成なるのか気になるところである。

洛西をめぐる話題

元新京阪線が現在、桂~洛西口間で高架工事をしている事はかぶりつき愛乗者はよくご存じと思う。その一人、老人は工事着手以来、連日観察しているが、いよいよ仮線切り替えの日が迫ってきたなと思われる姿となっている。この工事は京都市道中山・稲荷線と立体交差するためで、現在、交差部分上り方には洛西口駅があり、この駅設置の時は仮駅構造で開業した。今回、東側にまたしても仮駅が設けられ、本線東側に敷設中の仮線使用時に切り替えられる。交差部の新設本線上への勾配距離を勘案すると、建設される本格駅の位置は下り方(京都寄)に移設されるようである。切り替え日の発表はまだないが、先日、南茨木~正雀間に新設される”摂津市”駅の開業日を3月14日と発表しているから、それに合わせるのではなかろうか。元新京阪線では更に長岡天神~大山崎間でも新駅の建設が確定しており、新京阪らしいぶっ飛ばす-といってもJRには負けるが-区間が次々と消えていくのは寂しい。

人気物クミオ君こと9300系、12月に入り07、08編成が走り出した。一方、ロミオ君こと6300系は、00、30編成2本しか見られない。04編成は桂で留置中、07編成は正雀で暇を持て余しているのではないだろうか。クミオ君は後2本新造されるらしい、との話も耳にした。ロミオ君撮影は早いうちに……。

次いでJR嵯峨野線は、3月13日から京都~園部間の残る単線区間の複線化に伴いダイヤ改正が行われる。スピードアップ、増発と共に国鉄時代の車両は一掃されると新聞発表があったが、老人は車両についてはほんまかいな、と思っている。過去にもこのような発表があったが、依然として113系が轟音と共に運用される場面に出くわしたことがある。いくら更新したといってもあの轟音はお断りしたい。

2009年 北の大地へ Part13 新冠、追分、夕張、三菱大夕張鉄道車両保存地

前回、投稿してから、3週間を迎えました。その間、厳寒の大地へと、再び訪中をしておりました。現地から投稿をしようと試みましたが、ホテルのインターネット回線は遅く、途中で諦めました。申し訳ありません。続編を続けさせていただきます。

第10日目 10月31日

新冠温泉 レ・コードの湯ホテルヒルズ』8:00→10:45大狩部10:50→節婦付近11:40→13:30追分鉄道記念館14:00→14:40夕張15:00→15:15清水沢15:20→15:30三菱大夕張鉄道車両保存地15:40→三笠道の駅

昨夜は、久しぶりに部屋のベットで寝られましたので、爆睡でした。朝は、露天風呂から、夜明けの新冠の街並みを見ながら、ゆっくりとしました。まともな朝食も久しぶりでした。
厚賀~静内間を丹念にロケハンしましたが、撮影地は、やはり定番の場所が良さそうです、昨日は、道路橋梁から撮った厚別川対岸の丘に車を入れ、撮影ポイントの選択をしますが、川から、ほぼ垂直の崖の上からですので、足場が崩れやすく危険です。また、木々と雑草が生い茂り、全く見晴らしがありません。

庭バサミを取り出し、長靴を履いて、30分以上も、草刈を続けましたが、邪魔な木の枝は、取り除くのは、不可能でした。かといって、他の場所を探すにも、また同じ作業をしなければなりません。ここで撮影するには、電柱作業をするようなクレーン車を必要とします。30分間の労働は、一体、何だったのかと一人呟きながら、列車を待ちました。
▲ 芦別川鉄橋を渡る様似行きの2225D キハ40352
▲ 風・波除けの枕木を植えて、風・波除けの大狩部駅
▲ 撮り終えた後は、節婦付近の海沿いに場所を変えました。

ここでも、釣り人がおられました。列車が来るまで十分時間があります。秋アジを狙っているのかと尋ねますと、ここでは、遡上する川もなく、秋アジは、もう終わった。釣れても、質が悪い。長万部以南なら、80~100㎝級があがる、絶好のシーズンを迎えている等々の釣り談議や、ここでも必要ない箱物や道路ばかりが出来て、困っている等々の話を聞かせてもらいました。

線路と並走する道路は、ひっきりなしに車が走行しています。これだけの往来があるという事は、道路状況が悪く、鉄道を利用するしかなかった時代は、日高本線は、客貨共、大いに盛況だったのだろうと、察しました。
天気予報では、今年1番の寒冷前線が近づいている事を告げています。空も雲が覆い、すぐれません。走行撮影を切り上げて、夕張方面へと向かう事にしました。
▲ 途中、むかわ道の駅で、今が旬の名物“ししゃも”を食しましたが、我々が一般的に食べるのは、一夜干しにして焼いて食べるのが殆どですが、ここでは、刺身、揚げ物や煮物が食べられました。勿論、初めてです。こんな駅弁があったら、列車の旅も一段と楽しくなるでしょうね。

▲ 現在の追分駅、ホームに、構内にも、かつての面影はありません。
▲ 旧追分駅
▲ 40年前は、ホームに乗客があふれていました。




▲ 13:30、追分駅に着きました。
40年前は、とにかく広い構内があって、夕張近辺から集められた石炭貨車が、ヤードを埋め尽くしていました。D51を筆頭に、何本もの煙が上がっていました。広く長いホームにも、SL列車が入線して、じっとしているだけで楽しめました。今の追分駅は、当時の雰囲気は全くなく、殺伐とした光景だけが、広がっていました。






追分駅コンコースには、駅近くにあります追分鉄道資料館の案内が掲載されていましたが、ご覧のとおり、今日は、開館しなく教育委員会に連絡してくださいです。他にも行きたい所がありますので、ちょっと覗いてみるだけにしました。

黒くなってきた雲を見ながら、夕張へと向かいました。JRに乗車すると、約65分を要しますが、今は、道路整備され、高速道路も出来ていて、40分で到着です。


破綻した街、夕張は、車窓を見ても活気は見られず、全国的な名産品となった夕張メロンの道沿い路店が並ぶのみです。夕張駅に立ち寄り、駅員兼観光案内所のおばさんと話をして、SL博物館の場所を聞きましたが、夕張・・・の中にあって、既に廃館となっています。仕方なく、見下ろせる橋まで走り、外観を撮りました。

おばさんの聞くところによると、清水沢駅を曲がって、少し上がった所に、客車が展示されているとの事で、行ってみる事にしました。


車に乗ろうとすると、白い物が降ってきます。細雪です。今年、初めての雪と言っていました。先を急がねばなりません。途中、清水沢駅にも立ち寄りましたが、かつての姿はありません。清水沢を出て、坂道を上がった約30分後に、『三菱大夕張鉄道車輌保存地』に着きました。

除雪車を先頭に3両の客車と、2両の石炭貨車が大事に保存されていました。線路に沿っての道路を走りますが、廃線跡は確認できますが、痕跡は残っていません。この先には、三絃橋がありました。
▲ 1935年(昭和33年)完成した森林鉄道最長の、単線鉄道橋(軌間762mm)、長さ381.80m(最大支間77m、7連)の三弦トラス橋です。貴重な鉄道遺産ですが、新ダム完成後は、水没するそうです。

細雪の中、ゆっくりと道を下り、明日の三笠山鉄道公園視察のために、道の駅『三笠』に停車しました。向かいには、大きな温泉施設とジャスコがありましたが、重宝する湯タンポをもう1つと、残り少なくなったカセットボンベを購入、食事を優先するため、ジャスコとしました。外は、雪まじりの氷雨です。風も強くなり出しましたが、『ぶんしゅう7号』は、安眠を守ってくれました。 Part14 へ続く

「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」

11月14日(土曜日)尾久車両センターで「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」が開催されたので覗いてみた。

当日の朝、大塚で所用を済ませた後出掛けたが、大塚から尾久までJRで行くと、山手線で池袋に出て、埼京線で赤羽、更に宇都宮線か高崎線の中電で尾久というルートか、田端まで行き、京浜東北線で赤羽、中電で尾久というルートとなる。いずれも乗換えが2回伴い、距離の割にはとんでもなく時間がかかる。一方、山手線の高架下から三ノ輪橋行の都電に乗れば15分で荒川車庫前に到着し、そこから尾久駅までは約700mで10分とかからないので、当然このルートを利用した。9時45分に尾久駅に到着すると入場待ちの列が長い地下道を潜り、フェンスに沿って上野寄りまで延々と延びていた。10時を過ぎても列が動かないので入場制限でもしているのかと思いきや、強風でテントが飛ばされ、その片付けのため開場が遅れているとのことで、15分遅れの10時15分頃開場された。

今年の展示車両の目玉は、キハ48の3両編成ジョイフルトレイン「きらきらみちのく」でポスターにも大きく取り上げられていたが、人気はヘッドマーク付のEF651107、EF651118、EF8181、DD51842の機関車に集中していた。客車は、高崎支社の旧形客車、オハニ3611+スハフ322357+スハフ422173+オハ472266+オハ472246+スハフ422234の6両編成が休憩用として、ジョイフルトレイン「ゆとり」編成の両端車(中間車は廃車)、スロフ14701+スロフ14702が展示されていた。また、展示車両ではないがマヤ342004がボロボロの姿で停められていた。検修庫内にE655系「なごみ」が展示されていた。当日は強風の上、時折雨がぱらつく悪天候にもかかわらず入場者数は主催者側の発表で8300人であった。

【尾久駅とポスター】

 

駅名は「おく」と濁らないが、実際の地名は「おぐ」と濁る。都電に「東尾久3丁目」という電停があり、都バスの「尾久駅前」バス停は「おぐえきまえ」と濁っている。また、尾久は荒川区の地名であり、実際の尾久駅の住所は北区昭和町のため更に話がややこしい。類似例で有名なのは「米原」で、実際の地名は「まいはら」と濁らない。ところが町村合併で市に昇格した時に駅名を優先したのか「まいばら」市にしてしまった。中央線と小海線の分岐駅の「小淵沢」は駅名は「こぶちざわ」であるが、実際は「こぶちさわ」と濁らない。私鉄でも西武秩父線の「横瀬」の駅名は「よこぜ」であるが、実際は「よこせ」である。「旭川」のように「あさひかわ」でスタートし、途中(明治38年4月)で「あさひがわ」に改称し、昭和63年3月に元の「あさひかわ」に戻している。実際の地名は、昔から「あさひかわ」と濁らないのに、何故「あさひがわ」にしたのだろうか。駅名に関しては、勝手に途中に「の」を入れた例(常磐線の「原ノ町」、実際の地名は原町「はらまち」で「の」は入らない)、勝手に読み方を変えた例(秋葉原「あきはばら」実際は「あきばはら」)、勝手に漢字を変えた例(わたらせ渓谷鐵道の「神戸」(ごうど)は国鉄時代兵庫県の神戸と間違うという理由で「神土」にした)等もあり、調べてみると面白い。

【き・ら・き・ら・みちのく】

 

ポスターにもある通り展示のメインであった。平成4年12月の東北新幹線八戸延伸に合わせて、一般形のキハ481505・1506・1534を改造した。両端の1505と1506は正面を大幅に改造し、側面窓を拡大の上固定化、中間車の1534は側面のみ改造して運転台は残された。車内は、両端車は1人掛と2人掛の回転リクライニングシート、中間車はボックスシートで座面を畳敷にして背もたれを高くして個室風となっている。休日を中心に運転される八戸~大湊間の快速列車「きらきらみちのく下北号」に使用されている。車体は内外ともに大幅に改造されているが車号は変更されていない。

【機関車】

EF651107、EF651118、EF8181、DD51842の4両が展示され、ヘッドマークは適時取り換えられ、常に撮影者で満員であった。EF8181は終日ターンテーブルに乗り回転していた。

 

入換に使用されていたDE111041

【客車】

 オハニ3611は、JRグループの中では鋼体化改造客車の唯一の生き残りで、優等列車用のため車内はスハ43並みで、台車はナハ10のTR50類似のTR52Aを履いている。重厚な車内と軽量客車用台車の走行音のミスマッチが何とも言えなかった。再度営業運転で乗ってみたい。戦前製のスハフ32は、生き残ったこと事体奇跡で、こちらも是非乗ってみたい。

 

昭和58年8月、14系7両をコンパートメント車に改造したもので「サロンエクスプレス東京」と呼ばれていた。平成9年に堀り炬燵仕様の和風客車に改造され、愛称を「ゆとり」と改め6両編成となった。平成20年3月に使用を休止して両端車以外は廃車となった。(上 スロフ14702  下 スロフ14701)

マヤ34は昭和34年から56年にかけて作られた軌道検測用の事業用客車で、トップナンバーのみスタイルが大きく異なり、昭和42年北海道用の耐寒工事が実施され、マヤ342501に改番された。画像の2004は昭和41年製で、ボロボロの状態で留置されていたが廃車にはなっていないようである。

 

上記以外にも検修庫の中に元「出雲」のオロネ257とオシ24701、「夢空間」のオロネ25901が展示されていたが、場所が狭くて撮影は無理であった。 

【電車】

E655系は平成19年6月、皇室用客車「1号編成」の置換え用として新製した。6両編成で、その内1両が皇族方や国賓がご乗車になる「特別車両」である。通常は「特別車両」を外した5両編成で団体専用列車として使用されており、「なごみ(和)」の愛称が付いている。昨年同様、検修庫内に展示されていた。

 

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続々東海道あれこれ①

三島で宿(アルファ・ワン)を予約したのは2度目である。BHを利用するようになったのは1989年九州旅行の時からで、夕は居酒屋、朝はコンビニのスタイルが確立した。宿は駅前だから荷を置くや5軒先の居酒屋へ潜りこんだ。魚料理売り物の「庄屋」と称する店で、縞鯛の煮付け、おでん、胡瓜の糠付け、飯1杯、ビール大1本で2,500円で釣りがきた。ほろ酔いで宿に戻りしばらくニュースを見ていたら寝てしまった。深夜3時過ぎに目が覚めた。風呂に湯を入れ目覚まし代わりとする。ひげをそり、0415からテレビ観賞。自宅でも土曜日のこのスタイルは変わらない。

 こんなことで三島駅には7時前に登場である。霧が濃い。喫茶店が見当たらないので天麩羅そばを賞味する。伊豆箱根のホームには西武の中古車が客を待っている。「霧のため徐行運転をしておりますので全列車5分遅れています。」と、アナウンスしている。自動改札器は自社線キップとJRのキップを一緒に入れろとあるので2枚入れた。ピンポーン、通してくれない。きっと老人のジパングの方に問題があるのだろう。ホームの中古車は100系の後期車で、最近引退を始めたグループのものだ。1301140122013連だ。これに乗って一先ず大場まで行く事にした。

広小路を出たら霧は益々濃くなってきた。架線電柱の2本目が見えない。視界780mであろう。大場の手前、PSコンクリートの橋は霧に埋まって姿を現さない。この橋の架け替え工事の時、この場所にやって来た。ポン友・三好好三さんと三角トラス組の架線柱が話題となり、1994年東北旅行では仙石線矢本付近で見付け、かぶりつきから一発仕留めた。数年後、大場車庫へ向かう途中、この地で発見。車庫訪問後に撮りにきた。撤去された三角柱は転がっていた。関西では見られないもので、買収国電の線区で時折見られるものであった。

大場の駅付近は少し明るい。駅では8分遅れと言っている。霧が晴れるには後1時間かかるであろう。老人は川べりに住まいしているから分かる。昨日は雨、今日は霧、ついとらんなぁ。そうだ、830分過ぎに東京行きがあったぞ。それに乗ろう。そこで大場から三島に戻ることにした。9分おくれでやって来た300130023501編成に乗る。3001に乗って気付いた事がある。中間車3002の車内が変わっている。3扉車の扉間は明るい茶色の対向クロス22列の筈が、やけにブルーのシート地が目立つではないか。行ってみると扉間62列の転換クロスに取替えられていた。伊豆箱根JR西日本113系更新バージョンといったところである。

東京直通の湘南電車231系を待っていたら、彼方の伊豆急ホームには最新型7200系が到着。こちらの腰部分はカッテングシール張りの賑やかなものになっている。この系列の中間車は2扉車で、はじめから転換クロス車であった。座席指定にして別料金でも取るつもりだったのかもしれないが、今のところ特別扱いはしていない。元西武700系であった1000系は見られなかったから、もう引退したのであろう。当線の7時台は5列車の設定で、岳南も同様である。いつの間にかワンマン運転になっていた。

丹那トンネルを出ると快晴である。伊豆半島の東西でこれだけ気象が異なるのはどうしてであろうか。熱海では伊豆急2100系が乗り換え客を待っていたが、東急中古車の受け皿となり観光電車も引退する日は近いようである。昨春訪問が叶ったが、東急8000系の片側(海)が転換クロスに改造されており、

これには参ったなあ、と思った。これを見て伊豆急の3002号が誕生したのかもしれない。

 小田原を前にして箱根登山いや小田急の登山電車連絡専用の赤い電車と競争になったが、あっと言う間に抜き去った。箱根登山線は湯本~強羅間を4回に分けて東海道を歩いている。この話はまたの機会としよう。酒匂川を越え、恨畜生の富士フィルムの工場を後にすると“富士山”が目に入る。231系ボックスシートで東京に尻を向けている。小田原で乗客の大半の入れ替わりがあり、席の位置を変えておいた。富士は5合目辺りまで雪に覆われている。国府津を過ぎて一旦見えなくなる。二宮あたりで再び見えてくるが、今度は5合目から上で、真っ白である。神々しい思いがする。裾野を引き摺るよりきれいだ。富士を撮るなら富士見へ、富士岡へと撮り鉄のお立ち台があるようだが、老人のような乗り鉄は、あちこちに移動展望区間を設定している。このあたりで幕を引く事にしよう。(2009.12.09.記)

 

1954年3月北陸から長野、三重 その8


三岐鉄道キハ5+ハフ11 (国鉄)富田

最後の余力?を振り絞り、三岐鉄道が分岐する富田へ。この時点架線は既に張ってあったがまだ電化に到らず、蒸機とディーゼルカーだったのに、なぜか蒸機は撮っていない。この鉄道の開業は1931年7月23日と遅いが、初めから客貨分離で客車はなく、旅客用にキハ1~5の同形車5両を投入。江若鉄道キニ3と同図(同形車)だが、機関がウォーケシャ6SRL(江若はブダBA-6)。手荷物室があるのに記号はキハニではなくキハで、1931年6月日車本店製、両荷台は敗戦後の装着である。


キハ5 荷台と窓2段化で分からないが 江若鉄道キニ3と(機関以外)同形車だった

燃料が不自由になった戦時中は混合列車を運行せざるを得ず、私鉄、国鉄からボギー車、2軸車を購入。この時期の買い付けだからまさしく雑多の寄せ集めだが、珍しく半鋼製2軸車が4両あった。


ハフ11←鶴見臨港鉄道モハ51 

ハフ11、12は汽車会社1932年製鶴見臨港鉄道(鉄道線)の2軸電車モハ51、52。台車はブリル、片側車軸上にパンタがあったが、貨車用の単軸受に交換し、当然自連も装備。入線当時はハフ1、2を名乗っていた。


ハフ13 車体は戦時中の新製だが、屋根上のトルペードベンチレーターは旧車から取外した?

ハフ13は芸備鉄道買収車で、その前は日露戦争当時陸軍が多数のB6機関車と共に現地に持ち込んだ新橋工場1904年製木製客車だった。芸備ではハユフ1で三岐でも同番だったが、戦時中名古屋工機部で木製車体を新製。除去した旧車体はその後も三岐の社紋のまま富田に物置で残存していた。


ハフ15←神中鉄道キハ11 のち別府鉄道ハフ6に

ハフ14、15は旧神中鉄道のキハ10、11で、日車東京支店1930年製の、一見丈夫そうな2軸車。下降式窓は2段(下段上昇)に、乗務員扉も埋められ窓になっている。


ハフ16 のち別府鉄道ハフ7 

ハフ16はやはり旧神中鉄道のハ24で、汽車1926年製オープンデッキ車。なお当線電化後ハフ14~16の3両がキハ5、キハニ6とも、別府鉄道にやってきてハフ5~7、キハ2(二代目)、キハ3になったのが周知である。なお別府廃止後キハ3は佐久市に引取られ、本来の佐久鉄道キホハニ56に復元(100%厳密な復元とは言いかねるが)され静態展示。ハフ16も相模鉄道に無償で譲られ、保存されている。

このほか三岐には旧神中鉄道ホハ200も購入しホハフ201としており、車体を半鋼で新製したが、小生が訪ねた前年に日本軽金属(蒲原)に売却したので、結局見ず仕舞であった。

三岐鉄道は1955年電化するが、電気機関車は貨物のみ牽引。旅客はディーゼルカーが分担するという特異な運行を続け、1956年以降社型国電を導入。また貨物は当然関西本線への接続だが、旅客は1970年6月25日近鉄名古屋線の近鉄富田に変更し、数少ない国鉄富田接続のためにディーゼルカーを保有し続けた。その後気動車はキハ1~3を津軽鉄道キハ2406、2405、2404に売り飛ばし、2404はさらに上武鉄道キハ2400に転じている。謎の多いキハ7も北陸鉄道(能登線)に譲渡しキハ5162になったが、廃車後日本海の藻屑―漁礁として沈められた。

最終日のみ個別活動した3人は指定の列車に参集し京都へ。乗車券は草津で切れ、山科で下車すると草津-山科分を払わにゃならん。手元著しく不如意とあって、心ならずも山科では先頭客車からホームと反対側に下車?したら、機関士か助手かに見付かり、「おーい、2人逃げよるぞー」と大声が発せられたが、無事逃げおおせた。当時の駅はどこも開けっぴろげだったから、まことに「人に優し」かった。(この項終わり)

続・東海道あれこれ①

家山駅前で菓子パン2ケと自販機で飲物を調達して、気になっていた豆デジカメの首尾を点検したら2発共に失敗であった。本日やり直しは不可能である。1330発で金谷に戻る。交換した下り列車は元南海210034の2連だが外部塗装はボロボロだ。乗ったのは元吉野特急の16001、まだ荒れ果てた姿とはなっていない。この日、本線上では元吉野が2本稼動しており新金谷庫外に1本、更に庫内にピカピカが1本、計4本。1本増えているが、これが元南海の1本を追放するのであろう。当線は1日4本で運用可能。予備、全検用を各1本とすれば6本あればOKとなる。元近鉄名古屋線特急は姿を消しており、そのうち元女王様も退位の宣告を受け、全て吉野特急になる日が近いのではないかと思う……。仁蓮上人の笑顔が浮かび上って来る。その時は腰が痛いとぼやかずに「川根温泉」で治療に当られたし。

金谷1409発興津行きで東行、211系である。静岡で1454発熱海行きに乗り換え。今度は313系となる。吉原で下車、岳南鉄道である。先ずトイレへ。年を取るとトイレが眼に入るとあれこれ考えずに直行する。外は本降りとなっている。せいせいしたところで出札口へ。終点、往復」といったら、硬券と600円が返ってきた。片道350円なのにと思いながら硬券に目をやると全線1日フリー乗車券とある。出札のオバサンに聞けば土・日・祝日のみ通用で400円なのだそうだ。これはお得な乗車券である。

そして差し出されたコピー、「機関車まつり」とある。SLでなくELである。開催日は1212日(土)、午前930分~15時、会場:比奈駅、催し物【一部を紹介する】比奈駅:機関車乗車体験(会費1,000円)、吉原~比奈間:機関車重連(ED403ED402)運転、下り吉原発938→比奈954、機関車プッシュプル運転(ED403・中間に貨車・ED402)上り比奈発1303→吉原1319着、下り吉原発1404→比奈1421着。詳しくは電話0545330510に問い合わせのこと。哲男君、君が紹介した梓川上流のダム建設工事で活躍した“ELまつり”ですぞ!そして比奈駅1257には7000系、8000系の電車に加えED501ED403ED402を並べて撮影会をするとの耳寄りな話!さあ、京王電鉄で飯を食わせてもらった準特急もお出ましか!

お釣りの600円に30円加えてNゲージ1107形を購入する。孫へのお土産の追加である。15507003号で江尾に向かう。保線状態は誠によい。大井川も少しは力を入れて欲しい。上下分離方式で中部電力に相談を持ち掛けるとどうなるだろうか? ジャトコ前なる駅がある。何時改名したのか、前名は何か思い出せない。7001号入線直後以来の訪問だが、その時はどうだったのかな? あの時は7001号と青蛙の走行音に聞き耳を立てていたので駅名などかまっていなかった。

比奈にはED501が留置されている。今も入換担当なのだろう。構外には元小田急の達磨さんが3両放置されたままである。この辺りには“アパッチ軍団”は出没しないようだ。富士岡の車庫には7002号とED402403が建屋内に、ED291は屋外留置線にある。今も入換に使っているのか気になる。いずれ哲男君から当電鉄の薀蓄が披露されるであろう。

乗降客は途中入れ替わりあって延べ23人。神谷で吉原から一緒だった22人目のご婦人が下車、後は23人目の老人一人で終点到着。80002連が留置されていた。朝のどの列車に充当されるのだろうか、聞き洩らした。雨の中、頭上を新幹線が唸りを立て走り去る。近くに閑静な住宅街があるが、どちらが先住民なのか気になる。運転手君が戻ってきた。一日乗車券を見せたら「どうも恐縮です」と会釈されてしまった。老人の貸し切りとなったのは須津(すど)迄で、それからボツボツ乗降する人が増える。前回乗った時は外国からの出稼者が目立ったが、今回は殆ど見当たらない。これは東海道線でも同じ傾向で、現在の日本を象徴する光景なのである。吉原着で降車客を数えたら40人を超えていた。  

吉原1654発、三島1717着。静岡からは3132500番代ロングシート車で、本日2回目の乗車であった。始めに立てた計画では19時過ぎに三島到着だったのだが、大井川で最悪の女王様のお成りに加え雨のため完全な乗り鉄になってしまい、つまらん東海道中になってしまった。また良いこともあろうと、期待している老人である。(2009.12.08.記)

東海道あれこれ①

息子が関東圏に進出して15年になる。以来、東海道を上り下りする機会が多くなった。時間の許すかぎり普通列車に乗るように心掛けている。2009年は44日、浜松下車で遠州鉄道、静岡下車で静岡鉄道が覗けた。そして今回125日は先ず金谷からスタートである。時間を倹約するため乙訓の陋屋を640に出発、新幹線729京都発、掛川下車935から「あれこれ」開始となった。

 ちょっと省略して新金谷に1000前に到着。連絡列車ないのに、と訝る人もあるかもしれない。島田市民病院行きバスがある。新幹線829発では駄目である。電車は180円、バスは160円。20円の儲けとなる。バスは新金谷駅前には立ち寄らない。大鐡との踏切、「金谷口」で下車。徒歩3分で大鐡本社前に到着する。平日は2階へ上ればいろいろ便宜を図って貰える。土、日は階下の駅事務室に行けば「鐡」向けの応対が保障される。これは白井元副社長の薫陶によるものと思われる。今回は2007921日訪問時、京阪の元女王が検査待ちで家山に留置されている姿しか見られなかったので、今生の思い出に元気に走りだした雄姿に手を合わせたいとの念願でやって来た。盆明けにturukame氏から走り出したとの報を受け行動をおこしたのだが、関ヶ原~掛川間は晴れていたのに牧ノ野原台地へ来ると時雨れており、日頃の精進の悪さを再認識することになった。

 駅では持参した手作りの運行図表に、本日の元女王の足跡予定を赤線でなぞる。千頭1142発。なに、この筋は「撮り鉄」向きではない。金谷1302着の後、新金谷へ戻り検査入場、1705再登場となる絶望運用なのである。今回、老人は体調のこともあり「撮り鉄」ではないが、豆デジカメをポケットに忍ばせてきた。1993年春、白井昭さんから女王が川根路を走ることになると聞かされ、新金谷に留置された仮台車姿の車体を、1995年盆休みには2日間、川筋をはしる姿を追い掛けた。以来、2007年まで毎年のように「大鐡詣で」を続けてきたが2008年に途切れた。今回はどうするか、後の行程を考え奥に入ることは諦め一先ず家山に向かうことにした。

 1010発でビルマから帰国したC56が、空車の客車4両を引き連れED101の後押しで下って行った。老人は1056新金谷発で下る。この日のSL急行設定は新金谷1158発の「かわね路号」なのだが、金谷発1107発の臨レがあり、貸切バスの中高年の女性で駅売店やSLランドをうろつき賑わっている。老人もつられてC12の玩具を買ってしまった。これは孫が「トーマスとその一族」の事で爺に挑んでくるので、「日本のSLはこれだ!」と教育するためである。家山に着いて一思案。構内で上りの女王様を出迎え、下る「かわね路号」を後にして女王様に打ちまたがり金谷に向うか、どうしたものだろうかと迷う。新しいトイレで、まだ考えている。済ませて外に出ると山間が明るくなって来た。よし!決めた、家山鉄橋でお待ち申し上げようとトボトボと歩く事15分、鉄橋の下にたどり着いた。今回はゴム草履なしだから県道利用である。その頃、一度上った筈のが再び時雨れてきた。「大鐵」の鉄橋下は雨宿りにはならない。平行する県道の下、切り株に腰を下ろし「臨レ」を待つ事しばし、1143にやって来た。C11193牽引、E501後押しの客車6両の編成であった。

 そして本番、1220に切り株から再び腰を上げ、木立の間から家山駅方向が見える位置に立つ、:26前部標識灯2ケのものが到着した、鉄橋を今朝見た里帰りC56先頭の「かわね路号」が軽い足取りで家山駅構内に進入して行った。:29、タイフォーンと汽笛が程よい間隔で鳴る。鉄橋に踏み入れたところで一発、100m進行して二発目と計算して豆デジカメを鉄橋の方に向ける。一発目OK、二発目、傘が被さってきた。左手で払う間に女王様は迫ってくる。豆デジカメは言う事を聞かない。つまり連射が利かないのである。タイミングはずれた。アーア、雨の中をお迎えするなんて、大スカタンである。でも、これでもう一度、拝礼のチャンスが与えられた。今度は大井川第4鉄橋でお迎えすることにしよう。turukameさん御推薦の“かわね温泉”泊まりにすることにしよう。(2009.12.07.記)

松本電鉄・大糸線

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重 その4」で松本電鉄上高地線(当時の名称は島々線で昭和30年4月上高地線に改称)と大糸線について、当時の貴重な画像と共にご紹介いただいたが、昭和50年前後の状況を書いてみたい。

松本電鉄上高地線

歴史は意外に古く、大正9年3月筑摩鉄道として設立、翌年の10月松本~新村間を開業、11年5月に波多(昭和31年5月波田に改称)、同年9月に島々まで開業した。以降の動きを簡単に纏めると次の通りである。同年10月社名に「電気」を挿入して「筑摩電気鉄道」に変更、昭和7年12月松本電気鉄道に再度社名変更した。戦後の動きは、昭和30年4月線名を「島々線」から「上高地線」に変更。32年11月架線電圧を600Ⅴから750Ⅴに昇圧。41年10月赤松駅を「新島々」に改称して駅前に上高地、乗鞍方面行のバスターミナルを設置。58年9月28日台風による土砂災害のため新島々~島々間が不通となり休止を経て昭和61年1月廃止。61年12月架線電圧を1500Ⅴに昇圧すると共にワンマン運転開始。平成11年10月ATSを設置。平成19年3月21日新村車庫で保管されていたハニフ1を鉄道博物館に寄贈のため搬出。

松本電鉄は川中島バス、諏訪バス等を統括するアルピコグループの中核企業であるが、少子高齢化による人口の減少、通勤客のマイカーへの転移等で、電車、バスの利用者が減少により、メインバンクに対し私的整理ガイドラインに則った再生支援を要請した。また、大正9年の創業時に建設された、西松本~渚間の田川鉄橋、渚~信濃新井間の奈良井川鉄橋が国交省から「数年以内に抜本的な対策が望ましい」との指摘を受け、架け替え工事費が数十億円もかかるとかで、会社側から「行政の支援がなければ事業継続は困難」との見解を示された。一昨年の8月下旬、槍ヶ岳登山の帰り、上高地から松本行の直通バスに乗車した時、新村を過ぎた辺りから交通渋滞のため、ダイヤ上では40分の新島々~松本間が2時間半もかかり大変な目にあった。松本市はご承知の通り城下町のため市内の道路が狭く、行楽シーズンの午後は大渋滞となることと、沿線の高校、大学の通学の足として学生の利用が相当数あること、夏季を中心に登山客、観光客の利用が相当数あること等により、バスへの転換は無理な面があると思われるため、行政側もしっかり支援していただきたい。

車両について

電車

湯口先輩が訪れられた当時の電車は昭和33年から39年にかけて、当時、日本車両が地方私鉄向けに製造した「日車標準車体」に乗せ替えられて、形式モハ10形・10-1~10-11の奇数の5両(-は解説上付けたもので実車には表示はない)とクハ10形10-2の計6両となっていた。昭和61年12月24日架線電圧の1500Ⅴ昇圧時に元東急デハ5000形改造のモハ5000形5両、クハ5000形3両と交替で廃車となった。モハ5000形も、老朽化のため平成11年と12年に元京王電鉄井の頭線のデハ3100形・3050形改造のモハ3000形+クハ3000形4編成と交替して廃車となった。

 

 

上 モハ103 下 モハ101 波田 (50.11.23)

 

モハ107+モハ1011 森口~下島 (45.3.18)

電動貨車

湯口先輩はデワ2を新村で撮影されておられるが、私が訪れた時は森口駅の直ぐ傍の工場(社名は忘れた)に出入する貨車の入換と、屋根の島々寄りに櫓が取り付けられ、架線修理車して使用されていた。

森口  (45.3.18)

電気機関車

湯口先輩の訪問時には機関車がなく、前述のデワ2がその任に当たっていたが、昭和35年6月西武鉄道からED301を購入、昭和40年から44年かけて梓川に建設された奈川渡、水殿、稲核の各ダム工事の資材輸送のためED402・403の2両を新車で購入し、計3両が在籍した。

ED301

大正15年アメリカ・ボールドウィン社(機械部分)ウェスチングハウス社(電気部分)製で昭和35年6月西武鉄道から購入した。元を正せば、大糸線松本~信濃大町間の前身信濃鉄道電化時に新製された1~3のうちの3で昭和12年6月国有化によりED223に改番、昭和31年に廃車となり西武鉄道に譲渡されA1形A1に改番した。平成7年9月廃車となったが、機器扱いで現在も残されている。

 

森口  (45.3.18)

ED402・403

前述の通りダム工事の資材輸送のため、昭和40年10月日本車両で新製した。新製当時の架線電圧は750Vであったが、工事終了後他社への売却を考慮して1500Vとの複電圧回路であった。工事終了後、昭和46年に岳南鉄道に売却され、改番されることなく使用されている。

 

波田  (45.3.18)

ハニフ1について

前述の通り平成19年3月21日鉄道博物館に寄贈のため新村車庫から搬出されたが、寄贈が決まった平成18年12月から搬出日までの土日に一般公開が実施され、搬送当日には盛大な式典が実施された。当件は後日知り、事前に判っておれば無理をしてでも行っていたのに非常に残念であった。以前から寄贈の話は何度かあったが、交換条件が折り合わず実施に至らなかったという話を聞いたことがある。

大糸線

湯口先輩が北松本区で撮影された元信濃鉄道買収車クハ5101、モハ1101、モハユニ3100は、当時の買収国電を撮影されておられた方が少なかった時代の記録として大変貴重である。車両の詳しい経歴等は佐竹先輩著作のネコパブ社発行「私鉄買収国電」をご覧いただきたい。買収後は東京から17m車が転入して信濃鉄道の買収車を置換えた。モハユニ3100の代わりは20mのモハユニ44000と100が務めた。モハユニ61001が前身のモハユニ44100は昭和35年両運に改造され、クモハユニ64000に改番され、自連付で貨車を牽引していた。昭和45年8月クモユニ81003と交替して岡山区に転属して赤穂線で使用、昭和52年9月静岡に転属して入替えと大船工場への入出庫車の控車として使用、翌年8月に伊那松島区に転属して飯田線で本来の目的で使用後、昭和59年2月に廃車となった。

17m車は、関西から転入したクモハ51、54、関東から転入したクモハ60、クハ55、サハ57等に置き換えられて廃車となった。現在は115系と大糸線専用車として新製されたE127系100番台が使用されている。E127系は交流の701系の直流版とも言うべき車両で0番代は新潟地区で使用されている。昼間の2連の列車は信濃大町以北、一部は有明以北の殆どがワンマン化されている。かつては春から秋にかけての行楽シーズンは、登山客、観光客で賑わい、新宿、名古屋からの臨時の直通列車が多数運転されていたが最近では減少している。理由はマイカーへのシフトもあるが、長野新幹線の影響が大きい。長野新幹線と大糸線は一見関係なさそうに見えるが、東京から白馬や信濃大町へは松本で大糸線に乗換えるよりも、長野で特急バスに乗換える方が断然早い。おまけにバスは栂池やアルペンルートの扇沢まで直通する。また、白馬駅ではバスと新幹線の直通切符を発売しており、山から下りてきた登山者は、運賃が高くても自宅までの所要時間が短い方を選択する傾向がある。

旧形国電時代の車両については書きはじめるとキリがないため、後日機会があれば解説することにして、今回は列車写真を中心に貼り付けた。

 

ED602牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

ED603牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

急行「アルプス4号」細野~北細野 (48.3.25) 中央東線急行の基本編成

南小谷12時16分発信濃大町まで普通、信濃大町から急行となる。5両目は売店付きのサハ164である。

 

急行「アルプス8号」信濃大町 (48.3.25) 中央東線急行の付属編成

新宿を23時45分に発車して、付属編成が松本から普通列車となる南小谷行

 

クモハ51013+クハ55405+クモハ51014+サハ57400+クモハ51011+クハ55439 信濃大町(48..14) 

クモハは全部51形である。旧形の基本編成は4両と2両があり、4+2の6両編成が多かった。

 

クモハ54004+クハ55430+クハ55439+クモハ12000+サハ57400+クモハ60082 信濃大町(48.3.25)

中間に17mのクモハ12が入っている。両運のためクモユニ81003の予備車として残された。2丁パンタで上がっていない方は霜取用である。

 

クモユニ81003他7連 信濃大町 (50.11.23)

 

6両編成の普通列車 細野~北細野 (48.3.25)

 

糸魚川~信濃大町間のDC列車 上 キハ5243 下 キハユニ2629 信濃大町 (50.11.23)

当時、糸魚川から信濃大町まで2往復、白馬まで1往復のDC列車が設定されていた。糸魚川~信濃大町間に2往復もDC列車が残されていた理由は、郵便・荷物輸送のためで、信濃大町でキハユニ26からクモユニ81に積み替えられていた。(下りの場合は逆)南小谷で積み替えを実施しなかった理由は、信濃大町以北のホームの有効長や南小谷駅の設備の関係があった。

 

 

クモハE127-105+クハE126-105   白馬 (H13.8.18)

E127系は、平成10年12月より使用を開始し、MT2両編成が12本、24両在籍する。座席は南小谷方面に向かって左側がクロスシート、右側がロングシートになっている。信濃大町以北(一部の列車は有明以北)はワンマン運転になっている。画像の列車は松本から更に先の辰野行であるが、平成15年12月より松本~塩尻間のATSがSN形からP形に変更されたため、乗り入れができなくなり大糸線専用になった。

1954年3月北陸から長野、三重 その7


北勢線で最後まで残ったコッペル32号機 桑名

前回が11月16日だったから、半月経過してしまったが、その7を続ける。

3人は名古屋鉄道を撮った後、最終関西線215レの「ハテ」で会おうと別れ、各人好きな場所へ。「ハテ」とは我々仲間の隠語で、三等展望車、即ち列車最後尾のデッキを指し、列車の「果て」というわけである。我家には電話がなく、時折「15ヒトカホセ912レハテ」てな電報が来ることがあった。15日東海道本線912列車の最後尾に乗れ、という指示である。

小生はまっしぐらに桑名へ。三重交通北勢線の桑名車庫には32号コッペル機が、荒れてはいたが姿をとどめていた。北勢鉄道→北勢電気鉄道7号→で、1924年製6.9トン。62号電機は松阪線から転じたもので、松阪電気鉄道12が前身。田中車両1927年10月製で、松阪鉄道電化当時の立役者である。


松阪線から転じた62号電機 ←松阪電気鉄道12

モニ226←北勢電気鉄道55 日車1931年3月製

モニ223+サニ431 桑名 軽便車両製作所なるところで1907年12月製造された大日本軌道熊本支社1が伊勢支社→中勢鉄道キホハ28→ 1944年戦災を受け車体を新製

サ105 太平車両なるところで1950年新製した木製車 桑名

右からワ714+713+711 桑名

なお写真で見られる通り連結器(ピンリンク=米国ではリンク&ピンと逆に言うが日本が逆か)の中心高が低く380mm。のち3/4柴田式自連に換装されるのはかなり後である。


三重線モニ228 諏訪 日車1949年3月製で敗戦後全国最初の762mm軌間新製電車

次いで四日市へ行き、諏訪まで歩く。やたらめたらと狭いところに車両がひしめいているが、かつてはこんな狭いところで単端式ガソリンカーの転回を、それも終日やっていたのである。三重線が戦時中に電化できたのは、沿線に海軍燃料廠があったためで、海軍士官は未成年の候補生時代から鉄道は2等に乗る、英国式の教育を受けていた。横須賀線、呉線や大村線に敗色濃くなるまで2等車が健在だったのはその為だが、ここでは超満員の代燃単端式車やボロ客車に音を上げ、海軍の肝煎りによる電化であった。なお三重線の連結器中心高は北勢線よりまだ30mm低い350mm。後年の自連化では流石に上げたが、それでも450mmで、軽便としては低い部類である。


ズラリ並んだ戦後製サ150型客車 164は近畿車両1950年11月製でのちサ158に改番

サ342+324 諏訪 342は三重鉄道ホハ6←四日市鉄道ホハ6 324は戦時中代燃ガソリンカーであるナ141←シハ81に改造されていた三重鉄道ホハ11←中勢鉄道ハニ1←大日本軌道伊勢支社ボコ1が経歴

なお三重交通の762mm線は三重鉄道、北勢電気鉄道、松阪電気鉄道の寄り集まりで、オープンデッキ客車が結構居たが、これを嫌って静岡鉄道、尾小屋鉄道に売り飛ばし、敗戦後密閉型客車を新製。最初は木製車体だったが、その後半鋼で近畿車両、帝国車両、ナニワ工機、日車で総計30両もの客車を作ったのが特異であった。

通信員だより

小春日和の11月25日、商用で京都へ向かうことになり、その前に大長老佐竹翁の写真展を鑑賞すべく烏丸御池駅へと向かう。愛用の日本橋駅から大阪市営地下鉄堺筋線に乗車、乗車券は阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年記念乗車券と称するスルッとKANSAIカードを使う。大阪地下鉄全線と阪急京都千里嵐山線が一日乗り放題というものです。日本橋駅は地下鉄堺筋線千日前線と近鉄難波線の駅であるが、電車は地下鉄と近鉄のほか阪急も乗り入れていたのが今春から阪神まで走り出しいろんな電車に乗れるし便利になりました。
さて阪急の優等列車に乗り換えるべく淡路へと向かうが、淡路駅の手前では高架化工事がおこなわれており、広い空き地が見えてくる。空き地のむこうに梅田からの電車も淡路駅に同時に入線するのが見える。扉が開くや鶯の谷渡りよろしく新型ロマンスシート電車に飛び移る。幸い車端8席のボックス席の一つが空いていたのでしめたと着席するが、7人はすべて女性で?と思うが調べ物の書類があったのですぐ目を通す。終わってふと貫通扉を見ると女性専用車となっていたのでさっそく茨木市で停まるやまたまた次の車輌へ谷渡り。特派員のほかに20代の男性がもうひとり乗っていたが彼がどうしたかはわからない。茨木市を発車して隣の専用車を覗くとオッサン二人が閉じこめられている。ほんの10分ほどの間に同好の士3人を見受けたが、真っ昼間に女性専用車を走らせる必要があるのか困った社会である。特急が淡路に停車するようになって喜んでばかりいられない、「女性専用車両の社会学」堀井光俊著秀明出版会刊などという本が新聞広告に載っていたが、思いがけなく読んでみたい経験をしてしまった。
帰途は四条烏丸より通勤特急に乗るが、大宮・西院と停まるのでてっきり淡路にもとまると思っていたのに十三まで運ばれてしまう。。綺麗なお姐さんの出勤退勤には合わないし、凡人の退勤には遅すぎるのに21時頃の通勤特急とはこれ如何に。準特急というハンドルネームの投稿者がおられるが特急急行準急各停と分かりやすかったのがなつかしい。

最後に、阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年を記念した臨時列車が12日5日と6日に運転されます。市営地下鉄車輌が天下茶屋~嵐山を一往復します。往路は天下茶屋~天六がノンストップで、大阪の地下鉄が京都の街を走る珍しい光景が見られる。今秋さいごの紅葉狩りをかねて嵐山へ行ってみませんか。

往路 天下茶屋10:19→11:24嵐山   帰路 16:32→17:36