名古屋駅のDC今昔

tsurukame先輩より加太で撮影されたDCの貴重なカラー画像が公開されたが、団塊の世代以前の方は非常に懐かしく思われたであろう。当時「カラー」は贅沢という思いが強く、モノクロでしか撮影しておらず、今から考えると、もう一寸お金をかけてカラーで撮っておけばと後悔することしきりである。まあ、モノクロでも「撮ってないよりマシ」と思って諦めざるを得ない。

画像を拝見すると通勤型のキハ35が幅を利かせていることに気付かれると思う。所謂一般形のDCの流れを見ると、キハ17系に代わり、昭和32年から41年にかけてキハ20系が新製され、キハ17系と比較すると車体の大型化とアコモデーションの向上が図られた。ちなみに今回大糸線から引退したキハ52は115と125が昭和40年製、156が昭和41年製で半世紀近く活躍したことになる。また、現役のひたちなか海浜鉄道のキハ205は元キハ20522で昭和40年製である。

関西線の湊町~奈良間の増発と快速運転開始時に、通勤型のキハ35系が昭和36年から41年にかけて新製され、大都市近郊を中心に投入されたが、関西線の奈良~亀山間のように、不適切と思われるような線区にも投入された。私自身、昭和41年3月、新見~津山間で乗車した時は、小雪の舞う非常に寒い日で、停車駅毎に扉が全開し、停車時間の長い交換駅では、車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。津山でC11の引く姫路行に乗換えた時には本当に暖かく感じた。キハ30が62・98・100の3両が久留里線に健在で、夏ともなれば窓全開で運用に就いている。関東鉄道常総線には、旧キハ30・35・36が8両健在で、平日の朝ラッシュ時を中心に使用されている。

昭和41年から44年にかけて、キハ20系とキハ35系を折衷した近郊型のキハ45系が新製された。

注目は(3)の上から2番目、キハ17+キハ16の338Dで、時刻表を確認すると湊町10時35分発名古屋行(奈良まで快速)で名古屋まで約5時間かけて走行した。恐らく奈良まではキハ35が2両位増結されていたと思われる。

今回、昭和48年2月11日と昨年末の12月12日に名古屋駅で撮影した画像を比較を試みたのでご笑覧いただければ幸いである。

 

武豊線931Dキハ35118他5連/武豊線の一般型DCは美濃太田区の所属で、名古屋まで太多線・中央西線で営業運転をしながら送り込みがされた。

 

中央西線527D多治見行キハ26135他9連。(隣は643M高蔵寺行72系5連)/キハ26135+キハ25+キハ186+キハ26+キハ35×5

 

キハ186 車体断面が小さいキハ17系の中間車で、昭和29年製の第一次車である。車内はオールクロスシートであったが、背擦りが低く、後ろ座席の人と頭をぶつける可能性があった。また座席の生地はビニール製であった。

 

武豊線快速 キハ75-404他4連/転換クロスシートでワンマン対応車

 

快速「みえ」 キハ75-201+キハ75-301/鳥羽寄の前半分は指定席で別途指定席料金が必要である。

 

特急「くろしお」天王寺行 キハ811/名古屋~天王寺間を紀伊半島の海岸線に沿って7時間半で結んでいた。

 

【参考】特急「はつかり」昭和41年3月22日 仙台

 

特急「南紀」 /キハ85-6+キロハ84-2+キハ84-7+キハ85

 

特急「南紀」 キロハ84-2/.H生さんが「キロハ」についてコメントされているが「南紀」に連結されている。当初「ひだ」用として新製されたが、「南紀」の「キロ」とトレードされた。

 

特急「南紀」 キハ84-7

 

特急「ひだ」 キハ85-2 

キハ91系

昭和41年、従来のDMH17系エンジンに代わる大出力エンジンDMF15HZA(300PS)を搭載したキハ901とDML30HSA(500PS)を搭載したキハ911の2両が新製され、比較検討された結果、500PSのDML30HSAが新系列DC用エンジンとして制式採用された。

翌42年新エンジンを搭載した車両を営業運転に投入して長期的な性能試験を実施することになり、キハ91形7両とキサロ90形3両が新製された。形式からも判る通り、一等車が付随車として誕生したことは特筆される。

当初は房総西線(現在の内房線)でテスト後名古屋機関区に転属。昭和41年11月25日より急行「しなの」に使用。昭和43年10月1日特急に格上げ後は、急行「きそ」に使用。昭和48年7月10日電車化後は、高山線の急行「のりくら」に転用され、昭和51年9月3日まで使用され、昭和53年8月31日付で廃車された。キハ901は昭和46年3月31日付でエンジンをキハ91と同じものに換装して、キハ919に改番された。

キハ91形は僅か10年程度しか使用されなかったが、その技術はその後に新製されたキハ65形、キハ181系に生かされた。特にキハ181系とは混結可能であったようで、クローバー会会員の中に特急「しなの」でキハ181系の中間に連結されている写真を撮影された方がおられる。

 

キハ912他7連

 

キサロ901

 

キハ912

 

キハ919(←キハ901)

 

キハ901 昭和41年7月23日

キヤ97

平成19年12月に新製された定尺レール運搬車で、0番台が上り向き、100番台が下り向きの2両固定編成で4編成在籍する。エンジンはカミンズ製C-DMF14HZC型360PSを搭載しており、最高速度は空車時110㎞/h、レール運搬時95㎞/hである。

 

上 キヤ97-2  下 キヤ97-103

2010年 早春の中国一人旅 Part3 武漢から成都へ

第3・4日目 2010年3月4・5日

① 武昌17:55-(T246)→11:29成都   今回1回目の車中泊 17時間34分

今日は、夕刻の乗車で、ゆっくりです。ホテル正面には、有名な湖北省博物館があります。普段は、観光見物するより、駅でブラブラしますが、せっかくですので、見に行きました。
長江文明の石器時代からの遺跡発掘品の数々が、時代別に展示してありました。大きな立派な博物館ですが、日本と違って無料です。そして、中身がすごい! 日本では、これだけの物は、見られません。堪能しました。

少し教養も身に付けましたので、ホテル近くのC級グルメ屋で、昼飯を済ませてから、夕方乗車する武昌駅に向かいました。
芭石鉄道訪問後の予定も立てました。成都→西安→鄭州→広州の3列車ルートで、希望列車を第1候補から柔軟にあげて、窓口で空席を聞く事にしました。ホテル手配は、それからです。
▲ 武昌駅は、前々回の訪中時に視察済みです。その時とは違って、駅前広場と切符売場は、大混雑でした。公安(警察)に加えて、防弾チョッキを身に付けた軍人まで巡回している、厳戒態勢です。

この駅には、他の乗車駅からの切符を売る専用窓口がありますが、長蛇の列です。こりゃ、1時間はかかるなと、トイレに行ってから、時刻表を見ながら、ゆっくり並び待つ事にしました。二人であれば、トイレの心配もなくビールを飲みながら、待てるのですが、このへんが一人旅の辛さです。

並んでいると胡散臭い連中が、この切符を買わないかと堂々と聞いてきます。確か10日までに乗車する在来線切符は、中国鉄路初めての名前入り(実際は、身分証番号かパスポート番号)ですので、買っても使えない場合があると思いますが、関係なく売っています。

切符は、思ったより早く30分で、順番がきました。前に並んでいた多くの人は、満席と言われて、脱落していったのが原因です。
私の希望した切符は、すべて第1候補で買えました。これも、インターネットで残席状況をチェックできて、買える確率の高い列車を選択できたおかげです。今まで、結構苦労していましたので、これで、かなり楽になりました。
▲ 切符が確保できたので、安心してビールを飲みながら、待つ事にしましたが、待合室も大混雑です。



乗車するT246の改札の開始は、通常30分前ですが、春運のこの日は1時間前に始まりました。1番ホーム発ですので階段はなく、移動は楽です。乗車する車両は、編成の真ん中ですので直ぐに乗れましたが、硬座(普通車)は大変です。有座(座席指定)客が乗車した後、無座(立席)客が、ずらりと列車ドア前に並んでいます。

今日は学生が多いのか、窓から入る人はいなく、むしろ整然と並んでいます。礼儀が出来ていない今の中国ですが、さすが教養の高い人や、若い人となると、違ってきます。時折、席を譲ってくれたり、荷物を持ってくれたりもします。生活の格差ばかりを話題にされますが、教養の格差も大きいのです。

今日のコンパートメント客室は、孫連れのおばあさんが、下段。上段は、40歳代の男性でした。車両は25K型で、電源コンセントが客室内についていましたので、通電しているかを乗務員に聞きましたが、『没有=ない』との返事です。1月に乗車した、北京西站~成都間のT7&8共、通電していませんでした。
パソコンで映画も見れるので、車窓の見えない夜間は重宝していたので、残念です。どうも、殆どの乗客が携帯電話の充電をするので、何かトラブルがあったのでしょう。通電を止めたのではないかと、推測します。

列車は、定刻よりに10分遅れの発車でした。いつものように、食堂車に行き、今日のお薦めの魚料理とビールを注文しましたら、発車前にホームで話していた列車長から、野菜炒めの差し入れがありました。感謝、感謝です。

食事が終ってから、昨夜切符購入後に予約しておいた、成都の有名なバックハイカー向けのシムズホステルに確認の電話を入れますと、駅からタクシーでのお迎えをしますと言われてびっくりです。いつも、駅からホテルまで行くのに、一番苦労をしているので、助かります。
客室に戻ると、皆さん既に寝ておられましたので、こちらも早々に寝ころび、直ぐの熟睡でした。

朝の車窓を見ると、武广高鐡線にも増しての、一面の菜の花畑の中を走行しています。これでもかと、続き、今回の中国鉄路乗車中、1番綺麗でした。ただ、太陽は見えません。四川省で、太陽が見えて青空が広がる事は稀(マレ)です。

▲ 11:29 翌日、成都駅には珍しく定刻ぴったりに到着しました。ここでも列車待ちの乗客で、駅前広場は大混雑です。武昌駅と同様にテント村も設置されていて、進むにも大変です。

出口には、シムズホステルの小姐が迎えに来てくれていました。一緒にタクシー乗り場で並んで待つと、乗車後は次のお客さんを待ちますと言って、タクシーに行先を告げてくれました。タクシー代の15元は、宿泊代の180元から引いてくれました。

▲ 世界中のバックパッカーに大人気のシムズホステル。アジアティックな庭園もあります。
このホステルには、たくさんの若い欧米人が宿泊していました。さすが、ここに泊るのを目的に来る人がいると言わしめるだけのキャパがあります。YHですので、ドミトリーの部屋が多いですが、私が泊まったような大きなベットの、広い個室もあります。皆様方も若い頃に戻って、こんなホステルに泊ってみられては、いかがでしょうか。芭石鉄道へ行くには、丁度良いロケーションにあります。

部屋から、インターネットがつながらなかったので、日本人スタッフを呼んで調べてもらいましたら、途中で断線していたようです。工事が終わるまで、芭石鉄道へのバスターミナルへの行き方や、どうしてこんなところで働いているのかを聞きましたら、大連に留学後、英語の勉強も兼ねて来てみたという富山出身の男性でしたので、富山地鉄の事やらで、話が弾みました。

夜は、早めに近くのC級グルメ屋で、汗を拭きながら、四川料理を楽しみました。
温度ですが、広州では、30度の夏。ここでは、日本の京都と同様でした。
 Part4 へ続く

写真でつづる京阪電車開業100年展

南国土佐から桜のたよりが届いた3月10日は箕面有馬電気軌道の開業100年記念日。その年1910年は引き続き15日に兵庫電気軌道、25日は嵐山電車軌道、月が変わって4月5日は神戸電気鉄道、そして15日は京阪電気鉄道が開業した。この100年前は”撮り鉄”はまだ存在していなかったようで、”乗り鉄”の動勢を当時の新聞は伝えていた。

DRFCクローバー会は、鉄道ピクトリアルを通じ因縁浅からぬ京阪電車開業100年を記念して、会員及び会友撮影と会社提供の写真25枚で100年の歴史を紹介する。会場は京阪電車七条駅下車東へ2分、コンビニ・ファミリーマート2階、”集酉楽”。会期は2010年4月1日~30日、10時~18時の間。ただし、月曜日は休み。入場無料。飲食物は有料。

4月24日(土)18時から例会を”集酉楽”で行う。今回のテーマは【レイル掲載のC6120(奥山会員)、京阪特急物語(澤村会員)の祝賀会】、間に合えば【鉄道図書刊行会:日本の客車の再販(佐竹会員)】と大盛りです。会費は3000円、申し込み受け付けは先着24人まで。FAXは075(315)7801(4月22日まで)、電話は090(3654)8224:沖中まで。入学年度と氏名を正確に告げてください。席上、今夏発売予定の鉄道ピクトリアル特集”阪急電鉄”・グラフコーナーへ参加希望者を募集します。そしてテーマについて提案行います。また、11月7日(日)ホームカミングディの内容について幹事会+加太会から提案を行います。以上、今年も多彩な行事がてんこ盛りのクローバー会となりますが、ご協力お願いします。

またまた米手氏の誘いに乗る

米手作市氏ご幼年のみぎりのご撮影になるDF411の写真が出た。まだ反応がないので、致し方なく?その実ニコニコと老人が誘いに乗ることにした。こんな大型ディーゼル機関車は全く老人の趣味の対象外だが、まあ試運転だと聞いて、DRFCメンバーに付き合って京都駅まで出かけた。最後までさしたる興味も湧かなかった。撮影は1959年5月30日である。

いずれ詳しい方からの解説があるだろうから、アウトラインだけを。汽車会社1958年の作品で、国鉄では当初DF411、のち試作車は90台ということでDF921に改番した。機関はバーマイスタB&WDE1222VL形2サイクル、1,320PS電気式で、当時国鉄ではDF50、DD13を導入していたから、借り入れて(義理で?)使用したものの、1962年には返却してしまった。こんな大きな機関車は国鉄以外に買手がある訳ないから、結局は解体されたんじゃないか。

妻面窓下中央に小さな扉があり、乗務員が次位の客車に貫通?できるのが珍しかった。SGも積んでおり、福知山区に配属され、山陰本線で客貨に使われたが、大体国鉄は自前設計以外の車両には毛嫌いというか、極めて冷たい傾向が顕著である。

鷹取工場のBタンク機

米手作市氏の誘いにすぐ乗って(こんな世捨て人暮らしでも結構忙しいのに、急ぎの仕事をほったらかして)、ネガを探し、スキャンし、「縮小専科」でファイルを小さくしている間に、「ほへほへ」氏のレスポンスがあって先を越されてしまった。二番煎じになるが、小生の1955年7月15日鷹取工場での写真をご笑覧に供する。

将来電化する積りでの社名で、1916年7月1日撫養(むや)-古川間を阿波電気軌道が開業。1923年池谷-加冶屋原、1928年ゑびす前-撫養と開業を続け、1926年5月10日には阿波鉄道と改称していた。1933年7月1日買収され阿波線に。その後撫養線、鳴門線と名称を変え、国鉄自体の建設線が加わるなど、この地区の時代による変遷は結構ややこしいが、その阿波鉄道7号機(コッペル1921年9月、製番9752)が前身である。

私鉄買収機には軸配置、重量・寸法等で数字の形式が与えられるのだが、頭に「ア」を付した不思議な形式番号が付された。この阿波7号機はア4となったが、元来12トン弱と軽便並みの小型機で、国鉄としてはこんな半端な小型機など眼中になく、線路がC12入線に耐えられるよう改修されるまでは仕方なく(嫌々)使った。

今村 潔「買収せる阿南鉄道」(鉄道趣味35号)には、阿波鉄道買収機には当初通常の形式番号を与える予定で、この機関車は80を予定していたことが記されている。数字が小さいことは即小型であることを示す。要はすぐ廃棄するつもりだったのであろう。

その後岡山機関庫で6検入換(6か月検査のため火を落とした機関車の移動)用に。我々の時代でも、奈良機関区には同じ役目でB20がおり、その以前は60型だった。

1936年5月廃車され、解体もされず鷹取工場構内で忘れ去られていた?が、同工場技能者養成所が教材として養成員の手で整備。新たにキャブやサイドタンクを新製して「若鷹号」と命名したものである。米手氏が不思議に思った、小さいが一人前、鳥の羽根型プレートには「鷹養」と鋳込んであり、サイドタンクには「鷹養実習機」のレタリングがある。

戦時中には復活してどこかで使う話もあったそうだが、結局は安治川口用品庫での入換ぐらいしか用途がなく、また鷹取に戻って放置を続けていたものである。

通過列車への運行変更指示

1956年10月15日の参宮線大事故に関し、急行や準急など、通過する列車の乗務員に対して離合駅変更等の運行変更の指示はどうするのか、に関してメールを頂戴した。時間の余裕があれば通過駅で交換するタブレットのキャリアに変更指示書をつけて乗務員に知らせることもあろうが、間に合わなければ=大概は地上の信号機のみのこと。成程なるほど。

無線があろうとなかろうと、機関士、助手とも、信号機を必ず確認するのが建前なのだが、六軒駅は本来離合する松阪駅の隣りである。11分遅れてはいたが、まさか離合駅が一つ前の六軒駅に変更されていたとは思っていなかった―離合駅変更を乗務員は知らなかったわけで、信号機以外の手段がなく、それを無視した結果だったのである。無線のある現在なら、少なくとも事前に運行指令の変更指示が届くから、かような事故の発生率は希少になる。

亀山の参宮線事故機

米手作市氏が亀山で参宮線事故機を撮られたのが1963年3月とのことで、小生は1957年3月だから、6年前になる。早けりゃいいというもんじゃないが、折角の機会だから小生の分も諸賢の御目を汚すことにする。なお事故のあらましは、以下鉄道ピクトリアル65号(1956年12月)から引用する。

参宮線で不祥事故
10月15日18時22分、国鉄参宮線六軒駅において、準客243列車(本務C51203亀山、補機C51101亀山)が11分延で同駅進入に際し、下り安全側線に突入本線機及び次位補機は築堤したの田甫内に転落脱線傾斜、つづく1・2両目客車は全軸脱線横転本線を支障中、折柄松阪を定発した準客246列車(本務C57110山田、補機C51172亀山)がこれに接触し本務機及び次位補機とも全軸脱線し、これがために死者40重傷56死傷者計107名を出すという不祥事故が発生して世人の耳目を聳動(湯口注しょうどう=恐れ驚かす)した。

(中略)いままで判明した点は、243列車が遅延のため対向246列車と行きちがいを変更して六軒駅(所定は松阪駅)とし臨時停車の扱いをしたところ、243列車の機関士が出発信号機を見誤(場内信号機は上下共「進行」現示)ったのではないかと推定されている。243列車が脱線してから246列車の進入までにわずか45秒であるために列車防護の時間はなかったもので、246列車としてはやむを得ないとしても、243列車の4人の乗務員が大切な信号を見落としたという結果になると、事柄はきわめて重大である。(後略)

離合個所変更の通知を機関士にどう伝えたのかが分からないが、無線などありえない時代だから、例えば通過駅で駅長から錘にくるんだ通信文を機関室に投げ込む、といった原始的な連絡方法だったのかもしれない。これは列車に急病人が出た際などに、車掌が通過駅に投げ下ろす方法で、車掌のカバンにはこの為の錘が入っていたのである。

C57110のぶっ潰れぶりが酷いが、それにしても車輪は4両とも、ちゃんとレールに乗っている。すなわち台枠はさして損傷がないことになる。




で、以下は全然事故と関係がないが、上記鉄道ピクトリアルの記事の最初のフレーズは、約270字がマルなしで延々と続いている。野坂昭如の文なら独特の芸術だが、こんな「へったら長い」文が雑誌に掲載されていたことにいささか驚く。なお小生はサラリーマン最初、かつ8年勤めた職場―広報課で、先輩から新聞記事(15字詰)では10行=150字がマルなし文の限度だと叩き込まれた。

山科電化当時の記憶(その4)


暖房車5輌を加えた牽引試験列車 もうD51やD52の姿はない 機関車の次位は試験車

先回の最後の写真はEF15が単機で走行しているが、やっと試験や試運転列車から蒸機が抜け、電機単独での試験走行が開始されたことを示す。暖房車を含む客車牽引での試験列車は1956年10月10日―電化開業が11月19日だから、約1か月前である。暖房車は前にも記したとおり、冬場以外用がなく失業中の上、適当に重量もあるというところから、電化の直前の試験列車には必ず登場した。

電車の試運転も始まった。モハ80系300台=窓枠がアルミサッシュになり、窓の四隅もRが付き、一段と斬新さがまばゆかった。


山科の大カーブに初めて姿を現した80系300台 

そして11月19日。二浪中で(表向き)撮影を自粛していた小生も、流石に京都駅に出かけた。生憎と薄く霧が立ち込め、その中に現れた電化最初の上り特急「つばめ」は、何と何と、EF58、客車とも草緑、屋根は銀色に塗られているではないか。現在と違い事前に情報も流れず、当然報道もなかったから、この色彩作戦には並みいる者すべてド肝を抜かれたといっていい。EF58には大阪と東京のマークをあしらった、記念のヘッドマークがついており、このマークはその後長らく神田の交通博物館に展示してあった。

霧の中にやたら明るい色の列車だから、現像したネガは真っ黒で、粒子がやたら荒れている。参集したファンはそれでも15人ぐらいはいたか。大方は顔見知りだったが。今なら考えられないのんびりムードではあった。

この後間もなく、この草緑色列車には「青大将」なるあだ名が付いた。


電化完成の記念乗車券と準急行券

209系 京浜東北線から引退

京浜東北線・根岸線で運用されていた209系が1月24日限りで運用を離脱した。1週間前の1月17日から最後まで残る「ウラ52編成」に「ありがとう 京浜東北 根岸線209系1993-2009」と書かれたヘッドマークが取り付けられた。

私自身、新車で登場時から通勤でお世話になった電車であり、ヘッドマークだけでも記録に留めたいと思い、コンデジ持参で通勤したが、チャンスに恵まれなかった。最終日は予定があったのと混雑が予想されたので、前日の23日午前中時間が空いていたので出かけてみた。当日の運用は「CLUB103」の知人から「19A」に入る可能性が高いと聞いていたので、その時間帯に出掛けると、予想通り「19A」であった。

最初は横浜駅で撮影したが、この時点での同業者は8名位であった。東海道線で新橋まで先回りをして有楽町で撮影、ここは同業者ゼロであった。次の電車で南浦和に行き、折り返しで発車待ちを撮影。撮影者が増えてきたのは運用が判明したからであろう。最後の乗り納めで赤羽まで行き、高崎線の電車で上野に先回りをして撮影したが5名程であった。一旦本屋に立寄り再度有楽町に行くと5名程の人がいたが、殆どの人は500系が目的のようであった。最後は田端でヘッドマークを撮影して終りにした。

23日は比較的平穏であったが、最終日は運用が公開されたため大変な混雑であったとのことである。特に最終運用はフーリガンもどきが乗車し、車内は大変な騒ぎであったとのこと。列車は遅れたものの無事に運用を終了した。27日まで南浦和電車区で予備車として待機していたが、28日に東大宮操車場に疎開回送され、2月17日には長野総合車両センターに向けて廃車回送された

京浜東北線から姿を消した209系であるが、浦和電車区配置の0番台78編成の内68編成は4連×42本、6連×26本に改造の上、総武本線(千葉~銚子間)、成田、内房、外房、東金の各線で運用されている113系250両、211系70両、計320両を置換える予定となっている。既に改造されて運用に入っている編成もあるが、改造待ちで尾久車両センター、両毛線下新田、高崎線深谷駅等に留置されている車両が多数存在する。編成が短縮されるため中間車はすべて解体され、特に6扉車は全滅する。また、クハはセミクロスシートに改造、中間のモハ1両にトイレが設置される。

思えば、上記の各線が電化された時、東京、大阪から4扉の72系が転用された。その中には元モハ63、戦前製のサロハ46の4扉改造車も混じっており、トイレが無いこともあり、大変な不評で早々に113系に置き換えられた。今回の転属は、正に「歴史は繰返す」である。トイレが設置されたため、その方面の問題は解決されているが、車内のアコモデーションは113系の方が格段に上である。209系は元々寿命半分で製作された車両、果たしてどの程度使用されるのか注目したいところである。

また、209系に置き換えられた211系で三鷹区の115系を置換える計画もあり、実施されれば、中央東線のローカルは相当本数がロングシート化されることになる。

 

横浜駅に進入する52編成

←大宮 クハ209-53+サハ209-183+モハ209-105+モハ208-105+サハ208-52+サハ209-2+サハ209-134+モハ209-106+モハ208-106+クハ208-53

 

有楽町駅発車

 

大宮寄り先頭のクハ209-53

 

9号車 サハ209-183

 

6号車は6扉車 サハ208-52

 

5号車 サハ209-2

 

上野駅到着 先頭車はクハ208-53

 

上野駅発車(後追い)

 

有楽町駅通過(後追い)

 

ポスター

 

6扉車乗車位置

続・乙訓の薫風 ロミオ君さよなら運転

やっと15日に新聞報道があったが、中身に乏しいので少々アチコチに問い合わせをしていたのでお知らせが遅くなってしまった。まず土日ダイヤの2/21,27,28は桂12:10出庫で河原町へ、折り返し12:30河原町発で京阪間を折り返し特急運用に入るようだ。桂には19:19入庫というから2/28梅田18:20発は立席満員となりそうだからおさけになると良いだろう。次いで平日2/20~26間だが、こちらも仕立は全て桂で、朝7時過ぎに河原町へ下り、7:30から特急運用に入る。梅田13:20発で河原町到着後、回送で桂へ向い少憩後、再び15:52再出庫、河原町へは回送で向う。16:09から特急運用に入るが、2/24はこの少憩時にヘッドマークを取り付ける予定。以後、最終列車まで取り外しはしない予定である。河原町で特急運用に入ると梅田で50分後の発車、更に50分後に河原町発車となるから追いやすい。但し平日河原町21:09発の特急は梅田到着後は快速急行で折り返すようで、河原町到着後どのような行動をとるのかしらない。23:24発長岡天神行となれば、老人が43年にわたり愛用している西向日まで乗せて頂けるのだが、そうは問屋は卸さないだろう。

さて「鉄」の行儀がとやかく話題になっている。JR西日本は告訴すると報道された。当然だと思う。京阪も磯島事件(枚方上手、天の川鉄橋を降りたあたりで5000系が脱線転覆)では告訴して勝訴となった。問題の本質が違うとは言え、列車妨害には違いない。「うるさいこと言うな!」の声もあるが、半世紀以上建築現場を飯の舞台としてきた老人には許しがたい行為である。叡電デナ20形引退興行でも市原~二ノ瀬間の鞍馬川沿いで、今回の行動が見受けられた。気付く度ごとに注意をしたり怒鳴ったり忙しい休日を送った。時には集めて話し合った。この時気付いたのは自動車でおいでになる輩に横着な御仁が多いことだ。昨年12/03松尾駅で「一般の人」と言われ安堵したことがある。4両が良いと教えられ、それを気遣っていた時はやはり敷地内に入っていた。1987年復活後は線路敷き内は極力入らないように気をつけている。

三脚に思う

列車写真撮影でのトラブルが報じられている。まずマニア(それも俄かマニアが少なくないのかもしれないが)の絶対数が増えた。次に皆同じものを狙うというか、人が撮るものしか撮らない、興味がないという、大勢順応が挙げられる。皆同じものを、何故か同じ場所で、押し合い、ひしめき合って狙うのである。さらには望遠レンズの普及があり、これは三脚の使用とほぼ裏腹でもある。

なぜ鉄道写真、それも列車写真の撮影に三脚が必要なのか。誰も分析(というほどの大袈裟な話でもないか)したという話は聞かないが、判で押したように丈夫な三脚を使うようになったのは、昭和40年代後半ぐらいからか。

恐らくは三脚を当然のように使っている「皆の衆」とて、何故三脚が必要なのか、あるいは三脚なしで写真が撮れないのか、などと考えたこともないのではないか。フイルム感度が低い時代に望遠―それも相当に長いタマを使うなら、三脚は必需品である。しかしデジタル化で幾らでも感度が上げられる今日、何故営々と三脚なんだろうか。不思議でしょうがない。

例えばかの布原信号場。まさに三脚の林立(行った事はないが)だった。自分の経験だけから言うと、蒸機列車の撮影は、その日の風や天候次第で、煙はどうたなびくか分からないことが多い。横位置で狙っていて、咄嗟にカメラを縦に持ち替えたことも少なくない。三脚にカメラを固定していれば、カメラぶれは防げても、構図変更は不可能だろう。一説に三脚は、①場所取り=先着権顕示②いざケンカになった際の武器、だから丈夫でないといかん、という。

カメラの複数設置もあるとしても、それ以前に三脚は絶対必要との、固定観念がしみ込んでいるのが実態じゃなかろうか。もし「皆の衆」が三脚を自粛すれば、同じ面積の「お立ち台」には、恐らく3倍かそれ以上の人間が物理的に立てるはずである。とすると、三脚とは自分以外の「同業」を、なるべく閉め出すのが目的なのか。

拙老はこれらの「皆の衆」と一緒あるいは競合状態で写真を撮る気は毛頭ないが、もしその必要が生じれば、三脚ではなく脚立を持っていく。それも1段の小さなもので充分だ。

かつて報道写真には脚立が必需品で、しかも脚立持ち=助手がほぼ必然であった。4×5インチのスピグラなら、脚立まで持てないからで、拙老も若かりし日、本職の報道カメラマンに混じっての撮影競争を数年続けた。TVもまだ16mmフイルムで、照明助手が必須だった。そのうち報道も35mmに切り替わり、TVは大袈裟な「担ぎカメラ」になり、これは今でも継続しているが、助手は大方使わなくなった。そのかわり録音技手がマイクをかざす。

拙老も50数年前三脚を持って九州・東北をめぐったことがある。これは真っ暗な庫内に収められた蒸機を、シャッターをバルブにし、マグネシュームを焚き込んで撮る=いわゆる「ポン焚き」のためであった。また中村卓之氏は海外の路面電車や停車中の列車などを、夜景として見事にカラーで撮影しておられ、ホトホト感心したものである。聞けば2~3,000円程度の特価の三脚を使い捨て同然としている由。

上記「皆の衆」は、いずれもスリックなど、3~5万円ぐらいするアマチュアにしては高級な三脚をお使いのようである。三脚屋にとっては、またとない顧客であることは確かで、他にアマチュアでこんな三脚を買ってくれるのは、やたら元気なカメラばあさんグループか、野鳥観察者ぐらいではなかろうか。鉄チャン「皆の衆」の三脚依存シンドロームは、もしかすると三脚屋の陰謀か。

拙老が未だに捨てずに持っているスリック(3段)は、就職した昭和36年以来使っており、黒塗りがすっかり禿げ、アルミが露出している。雲台が潰れ、これだけはマンフロットに買い直したのが確か20年程前。組立図等の複写に大活躍したが、今では1~2年に1回、正月に参集する家族の記念撮影ぐらいしか出番がない。しかもその上に据えられるのは、コンパクトデジカメである。

なにが問題か?

昨日テレビで「関西線で鉄道ファンが列車を止めた」と報じていた。見た人も多いと思うがもう一度読売新聞記事の一部を掲載する。

 14日午前10時40分頃、大阪府柏原市青谷のJR関西線河内(かわち)堅上(かたかみ)―三郷(さんごう)駅間で、加茂発天王寺行き快速電車(6両、乗客約500人)の運転士が、線路脇に4、5人が入り、カメラの三脚を立てているのに気付き、約50メートル手前で電車を止めた。連絡を受けたJR西日本社員が説得を重ね、約30分後に敷地外に出た。

 午前11時25分頃には、約600メートル西の河内堅上―高井田間でも、JR難波発奈良行き普通電車(6両、乗客約200人)の運転士が、線路脇にカメラを持った人が入っているのを見つけ、約10分間、停車した。2度の停車で上下19本が運休、同26本が最大39分遅れ、約1万3000人に影響した。

 同社によると、当時、運行回数の少ない団体用お座敷列車「あすか」(6両)が、カーブが多く撮影ポイントになっている現場付近を通るため、鉄道ファン約50人が沿線に集まっていた。(以下略)

写真撮影をやめて久しいので最近の線路端の雰囲気はわからないが、昔と比べてなにやら殺伐としすぎていないか。

JRの対応やファンの態度にも疑問を感じる。

線路端といってもファンも危険な範囲には入らないだろうと言うこと、それなのにJRは電車いちいちを止めたりするのか?50mも手前で止まっていることから運転士はだいぶ前から視認しているし徐行・停車しているので係員を繰り出して説得まですることなのだろうか。

またファンもJRから危険だから立ち退くように、と言われたら素直に移動するのが常識であろう。

古いのかもしれないが、どちらも行動が硬直的で敵対的なのが気になるのだ。かつては機関士と手を振りながら撮影していたではないか。

撮影を趣味にしている会員諸兄のお考えと最近の現場状況をぜひとも聞かせていただきたい。

山科電化当時の記憶(その3)


具体的な電化工事の第一歩はコンクリートポールの配置から

直線区間のみポールが建植され ビームが付いた状態 列車は姫路発鳥羽行快速440レでシーズン増結時は後部にC51の補機がつく 上り列車では特急とこの列車だけ我家の2階のガラス戸が共鳴した

曲線部分にもポールが建ったが、ビーム取付はまだ 

まだ架線が張ってない下を山科名物?8620牽引9662レ無蓋車列車が行く 極めて早朝のためこの列車を撮影したファンは高橋弘 佐竹保雄 小寺康正 それに山科在住の久富あきら(日偏に華)と小生ぐらい 膳所はじめ86が入換をする駅に石炭を配給する業務列車で 電化半年前である

まだ架線が張ってない大築堤を疎水から見下ろす 北側には京津線20型が この写真は以前のピク京阪特集で特派員氏により大きく扱って頂いた

京都駅に姿を現した牽引試験列車 DH10×2+ヨ+D51 右側には70系客車が覗く

大築堤の電化工事はまず直線区間から始まり、ポールとビームを取り付けた後曲線部分に着手、架線は当然ながら一気に張られた。築堤下に変電所も完工しており、通電が開始され、EH10がD51を従えて大築堤に姿を現した。これは「集電試験列車」だが、我々は「煤払い列車」と呼んでいた。当然ながら旅客・貨物全定期列車は蒸機牽引だから、架線は煤でいぶされ続けている。


いよいよ走り出した「煤払い」列車 D51は万一に備えた控えである

そのうちEH10以外、EF15も姿を見せ始めた。本格的な牽引試験も実施され、また暖房車をズラリ繋いだ列車も。これは冬季以外出番のない暖房車を死重として牽引する、当時の電化前のいわば定番行事ともいうべきものであった。


上り牽引試験列車 EH10の次位にパンタを上げた試験車 その次にはD52が

下り線のレール交換中の保線区員が見守る 当時はすべて直営工事だった

山科駅構内西端での下り牽引試験列車 

10月19日の電化開業日は刻々と迫り、試験列車や乗務員習熟運転も熱を増してきた。


EF15がワフ1両を牽いて試験走行

カラフルDC-加太編(2)

l       加太会
 昭和3912月6日(日) 30年台も残すところあと25日の日に生まれました。メンバーは、N氏(経営者、現・デジタル青信号大阪特派員)、U氏(住職兼某女子大学理事)、I氏(元・某銀行員)、T氏(筆者)でした。『小海線を愛する会』に続く、DRFC公認部会の一つです。『小海線を愛する会』は高原列車の撮影合間に軍事教練が課題であると聞いたことがありますが、当会は純心な関西本線の列車撮影会でした。時には、呼びもしないのに勝手に来て大きな顔をしていたゲスト陣の参加もありました。ある時など、会員の数以上で、近くの小学校の校庭で朝礼台の前で整列し遊んでいました。
 活動は、2,3ケ月に1回程度、土曜日の夜、三重県鈴鹿郡(現・亀山市)加太板屋の、旅館村田屋に一泊し、翌日曜日に加太-柘植間で撮影です。旅館には、当時建設中の東名阪国道の関係者も宿泊していて賑やかでした。手でハンドルを廻し交換を呼び出す自動(・・・)電話(・・・)は『加太の1番』でした。
蒸機の煙と山間の新鮮な空気を吸った後、夕刻に列車で帰途に付く、そんな具合で、およそ45年は続いたでしょうか。いつしか自然消滅でした。
 加太の作品については、散発的な写真発表や、活動報告はあるものの、これまでに主だった報告はあまりなし得ていないようです。また、何十年ぶりかの撮影会なども行っていません。
 ところが最近、鉄道ファンでJTSのメンバーの村田屋の親戚の方が、乙訓の老人と話され、元村田屋のご主人をも呼んでスライド映写会等どうかとの話が持ち上がって来ました。本年中にも開催したくメンバーに連絡を取ろうと考えています。

8. 4D特急「あすか」です。当掲示板にも藤本さんが詳しく説明されていたし、いまさら説明の必要もないと思います。伊賀上野から亀山まで柘植にも止まらず、山を下ります。

  
9.この撮影の前日(1966.3.5)に他の全ての準急と共に格上げされたばかりの212D急行「かすが1号」。いつもの編成に後部2両はキハ35併結です。これも客扱いはしていないのでしょうか。時刻改正時期の回送でしょうか。  
10.328D、梅雨も近い522日、この日は朝から雨でした。横着にも外へ出ずに村田屋の2階から撮影です。手前に電線が沢山ありますが、雨天で目立ちません。過去に同じ場所から、C57補機の貨物を撮ったことがあります。その時には電線がはっきりとしており、消去したことがあります。先頭車は、キハユニ15ですか? どなたか形式を教えてください。

 

11.加太駅に到着の2216D急行「はやたま」。駅員は雨具着用です。先頭からキハ55、キハ58、キロ28、後部は58系で交換の為停車します。

 12.左はキハ55213D急行「かすが2号」、加太には停車しません。右が先の「はやたま」キハ58 

 13.時は秋、稲穂は黄金色、ところどころに彼岸花が残っていました。335Dキハ354連です。この日は雨雲が低く垂れ込めていました。 

 14.ようやく雨があがり始めた頃、墨絵のような山をバックに「あすか」が下って行きます。天気の悪い日でもDCは見栄えがします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15.村田屋付近を通過する2216D急行「はやたま」。右に加太の木造小学校が写っています。村田屋に続く民家の屋根も見えます。

次回は、加太トンネルの山上から見た、中在家信号所のDC同士の交換風景などです。

山科電化当時の記憶(その2)

山科大築堤での直線部分ポール建植/ビーム取り付けが終わり、次いでカーブ部分が着手された。前者のポールは先端がやや細くなったものだが、カーブ部分は根本から先端まで全部同じ太さのズングリである。


中央腰にカバンを下げているのが責任者 右側制服姿は立会いの保線区員

東山隧道東口付近でポールを下ろす作業を撮影していて、若い監督と仲良くなった。恐らくは大卒の電気技術者であろう。腰に下げたカバンには、非常時用の雷管や発火信号が入っている由。無線機もない時代だから、もし作業中に本線運行に支障するような事態が発生すれば、赤旗かレールに仕掛ける雷管信号(列車が踏むと火と煙が出て非常事態を告げる。相当に走って前方に仕掛けないと効果がない)、それに発煙信号しかないのである。

山科-京都間5.5kmには途中に亘り線などないから、山科からポールを運んできたトロリーは、荷を降ろすとまた山科に戻らねばならない。その帰りのトロに乗せて貰った。車輪径が小さく、床が極めて低いからバラスをかすめて這うようで、速度は40~45km/hぐらいかと思うが、何とも迫力充分で、そのスピード感は小生の乏しい表現能力を超える。安全ベルトの類は一切なく、何かに掴まっているだけだから、放り出されたら「一巻の終わり」は間違いない。流石に天下の東海道線だから50kレールだが、スプリングはいいとは言えず、結構突き上げショックや縦横斜めの「全方位」振動があり、余計迫力を増す。

運行休止中の中央線(上り右側線)を走ったのだが、途中D51745牽引の976レを後ろから一気に追い抜いた。1/50ぐらいでシャッターを切ればまさしく迫力満点の列車写真が撮れるのだが、何分ともトロリーの振動が激しく、1/250にせざるを得ず、余り地面も流れていない。それでもブレているのはトロリーの振動である。画面をクリック拡大してご覧あれ。撮影は1956年1月24日。


976レを追い抜いたトロリー列車

その翌日だったか、翌々日だったか、朝刊雑報を見て絶句した。大築堤上で電化工事関連輸送中のトロリー列車が脱線転覆し、何人かが殉職。その中にあの若い技術者もいた。原因はスピードの出しすぎとあった。


直線部分には既にポールが建ちビームも取付済 京津線は200型

穴にポールを吊り下げてソロリソロリと入れ 土を埋め戻し踏み固める 全て手作業

山科電化前後の記憶(1)

「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。

東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。


先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった

線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日

山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。


建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋

ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。

なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。


京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。

Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散

..生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。

関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。

堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。

西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。

我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H..生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。

昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)

昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。

スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。

関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。

昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。

スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。

会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。

モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。

丸形車体

 

京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)

 

42年式BR20(北野線代替バス)

 

仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)

 

群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。

 

宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。

かまぼこ形

 

かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)

 

ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)

 

定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)

 

改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。

 

京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)

 

近江鉄道/44年式RE120

 

江若交通/46年式BU05

 

尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)

 

京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)

 

京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。

はんぺん型

 

京都市交通局/54年式RE121

 

京都市交通局/57年式K-MP118K

 

熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)

 

熊本電鉄/57年式K-MP118M

 

 

 

 

 

 

 

 

続・電車は4両がええ

元電車少年は電車の話となるといまでも眼の色、顔の色、爪の色も変わる。4両がええなあとなったのは、線路脇でカメラを構え1列車を入れるのに頃合いの角度となるからであった。理由は窓の数、台車の格好がよく分かったからだ。この話を高橋師匠にしたら、「架線柱の間隔は何メーター毎か知ってるか?」との質問があった。元電車少年は知らなんだ。「50メーターおきやで。」と教えられた。「これをもとにしてパンタの位置を頭の中で計算して撮るのに4連が一番うまい具合に入る。」つまりパンタと架線柱が重ならない方法だとのこと。それから時々意識するようになった。でも、どの電鉄でどんな形式の4連での話しだったかは覚えていない。準特急さんの写真をわくわくしながらみせていただいているが、近鉄2200系4連、おしいなぁ-。奈良線900系片パンならうまくいったかも。小田急ちょいと首ひねれば・・・・・・。汽車撮る時はハエ叩きを意識したものだが、電車はパンタと架線柱、元電車少年は窓配置と台車。50ミリ標準レンズ1本、1/500で勝負していた時代のお話。今は撮影機材に恵まれているが、元電車少年にはPC同様さっぱり理解できない見えない世界のことだけに悔しい。でも皆さんのおかげでたのしい世界を垣間見る事が出来て、冥途の土産話は増える一方だ!

電車は4両がええ

 中国旅日記であんなことあるのかと怖くなり、また、日々デジカメとパソコンで悩んでいる超アナログ人間が今日は失礼して割り込まさせてもらいます。

 近鉄大阪線長谷寺~榛原と言えば超有名な撮影場所。もうかれこれ5年くらい前のことであるが、近鉄特急の著者、総本家青信号特派員、新京阪沿線在住の元電車少年各氏と行った時のことである。元電車がふともらした言葉。「あんなー、電車ちゅうもんやなー、4両くらいが丁度ええんや」

 この含蓄のある言葉。小生なりに4両ならMT半々が多く、パンタの位置も対称的で横から撮るにはいいのかなとか考えてみた。しかし、待てよ。ローカルムードは単行がいいし、長編成の方が堂々としてカッコいいとも思う。これは人それぞれのような気がする。

 そして、やはり、各人それぞれが通勤通学などで毎日乗ったり、眺めたり、つまり、最も接触度の高い電車が好みとなるのではないか。それが、4両の特急であったり、10両の急行であったりするのであろう。撮影地などで鉄道少年に好みを訊くと殆んどが、JRのブルートレイン、特急電車と自分の住む近くの私鉄をあげる。多分、好みの電車は地域と時代が影響するのであろうと言うのが小生なりの結論である。勿論、そうでないという人も居られることは承知している。 

 ところで、京都の趣味の世界の大御所高橋弘さんの「関西の鉄道、その懐かしき時代」と言う交友社発行の写真集がある。お持ちの方も多いと思うが、この本は昭和20年代後半から昭和30年代のまさしく4両編成全盛期と言っても過言ではない時代の作品集である。戦前の古豪と各社競って発表した初期の高性能車が競演したこの時代は趣味的にも最も面白い時代であったような気がする。元電車少年の「電車は4両くらいがええ」と言うのはこの地域のこの時代を言われており、もっと言うなら、最近の暖かみの無い人間運搬車と化したステンレス長編成電車に対してうんざりされての発言ではないかと言う気もする。断っておくが、元電車少年はベースは地元関西であると思うが、日本全国くまなく行脚され、路面電車に至ってはドイツを制覇されたことを申し上げておく。

 小生はそのような諸先輩から10年遅れて趣味の世界に入った。最初は蒸機で出発したが、DRFCの会員となった時、授業をサボって連日行われた伝統(?)の京阪・阪急論戦に巻き込まれ、次第に大手私鉄にも趣味の対象が拡がっていった。しかし、私鉄撮影を始めた頃には戦前の古豪はローカル運用中心で、初期の高性能車も阪神3011系や京阪1800系のように3ドア化されたり、ロングシート化されたりして原型を留めていなかった。それでも凡そ40年前の記録なのでフィルムに古傷の多い毎度の拙作ではあるが、数点披露したい。

①阪急900、920(1967.6.6 宝塚南口~宝塚武庫川橋梁 宝塚行き)

4両と言えば、阪急神戸線の900、920の特急を思い出す。赤い円形には白地で大きく特急、その両側に大阪、神戸と書かれていた。猛スピードで阪神間を往復していたが、気づいた時の920系は6~7連の各停運用。後年、今津線で写した4連に特急時代を重ね合わせた。

 

②阪急1000~1003(1969.3.4今津線仁川~甲東園 宝塚行き)

 阪急初の高性能車。戦前の阪急スタイル920を踏襲して製造された戦後製の710、810の直ぐ後にデビュー。そのスタイルは大きく変化して次の時代の阪急スタイルとなった。そのスムーズな加速と静かな音は小学生には驚きで、2連で今津線に入線した時はわざわざ折り返して来るのを待って乗った思い出がある。

 

③阪急107・1529・105・1525(1969.1.30西向日町~長岡天神 天神橋行き)

 関西3名車の一つP6が幌枠付きで4連で特急、急行で走る姿が最高。その姿には間に合わなかったが、それでも学生時代は各停3連と急行6連が結構見られた。撮影メモを見ると1968年頃から京都本線の各停には4連が登場していた。この独特の風貌を持つP6の最盛期は戦前の新京阪時代の2連あたりであったのかもしれないが、晩年の6~7連の線路が傷むほどの走行ぶりも魅力的であった。この電車に乗りたくて下宿を京都郊外に構えたほどである。

 

④近鉄2205・3011・2233・2304(1968.9.9赤目口 上本町行き急行)

 近鉄特急の著者から、学生時代に当時旧2200で2ドアの原型が2両残っていることを教えられ、時々、大阪線、名古屋線を覗いて見た。急行は5~6連が主体であったが、4連も見られ、2ドアの片目スタイルが先頭で来た時はやったと思った。

 

⑤近鉄908(1968.4.20東生駒 上本町行き特急)

 大型化された奈良線で無料の通勤タイプの特急が4または6連で走っていた。中には白色も残っていた。ネガを見ると800等小型高性能車も写っている。昨年、兵庫県で近鉄車両を撮ったので、今度は奈良県で阪神電車を撮りたい。

 

⑥南海2017・2818・2024・サハ4801(1969.3新今宮 難波行き特急)

 南海2000も大出力の古豪電車。客車を牽く姿であるが、新宮発の客車は和服のおばさんの影になってしまった。これも4連電車である。

 

⑦京阪1804~1805(八幡町~淀 淀屋橋行き急行)

 京阪の初期の高性能車。後に続く1810系とは車長が1メートルほど短いことは最近知った。この時期はまだ、特急色で2ドアの姿であったが、ロングシート化され、主に急行運用に入っていた。当時のネガを見ると他の急行も5~6連が多く、4連の急行はこの時期にはなかったのではないかと思われる。

⑧小田急1159~1059(2009.10.4富水 箱根湯本行き)

 最近デジカメで撮った4連のうち二つ披露する。箱根登山カラーと言おうか、スイスカラーと言おうか、新松田~湯本間に毎日見られるもの。

⑨富士急1101~1205(2009.9.13 寿~三つ峠 大月行き)

 元京王5000の2連+2連の4連。最近、富士急では客寄せでレトロカラーなどを復活させており、その都度、訪問せざるを得なくなった。

 以上4連を中心にした古いネガを出してみた。 ご笑覧下され。

上毛電鉄「新春イベント2010」

総本家・青信号特派員さんが1月10日から14日にかけて6回に亘り「新春から鉄道写真三昧」のタイトルで正月期間中の活動報告をされた。私は年末の28日に「銚子電鉄」、29日に「ひたちなか海浜鉄道」に出かけたこともあって、元旦と2日は自宅でおとなしくして、3日に「上毛電鉄」を訪れた。当日、上毛電鉄は「新春イベント2010」が開催され、群馬県近代化遺産に登録されているデハ101の臨電の運転、昨年東急から入線したデキ3021が大胡電車庫内での運転が実施された。

 上毛電鉄の前に伊勢崎の華蔵寺遊園地に保存されているC6120を見学した。年末に高崎での仕事帰りに行ったのであるが、閉園間際で夜景しか撮れなかったためである。

高崎駅で両毛線小山行(441M)に乗換待ちの間に、信越線横川行(127M)クモハ107-110+クハ106-110を撮影し、これが今年の撮り初めとなった。伊勢崎到着後急ぎ足で華蔵寺遊園地へ。駅から約3キロあるため30分かかり、9時30分開園直後に到着した。既に10人位の人が撮影しており、その後も続々と撮影者が来園してきた。20分程で見学と撮影を切上げ、前橋までバックして上毛電鉄の中央前橋駅へ。JRの前橋駅から約1キロ離れており、レトロ調のシャトルバスが運賃100円で結んでいる。乗車予定の電車まで少し時間があるので駅の直ぐ横の踏切で到着電車の撮影をしたが、既に三脚が数台並んでいた。撮影後、電車に乗り4つ目の上泉で下車して桐生寄りの踏切でデハ101を撮影した。次の電車で大胡に行くと、車庫内ではパンタを上げたデキ3021と、デハ104が停車していた。暫くすると前橋方面からデハ101が戻ってきて3両並びとなった。その他にも元銚子電鉄デハ101が履いていた雨宮製の台車、東武伊勢崎線の急行に使用されていた行先板等が展示され充実した内容であった。

今年の撮り初め クモハ107-110+クハ106-110

 

華蔵寺遊園地のC6120

12月の初めの地元の新聞には1月8日搬出と書かれていたが、実際には1月19日に搬出された。12月16日から1月4日まではキャブ内が一般公開された。

 デキ3021+元東武鉄道テ241

 

昨年10月に東急から入線後、整備が続けられて自走できるまでになった。貨車は昭和3年日本車輌製で、野田線七光台検修区の非常用機材倉庫として使用されていた。

 デハ101

開業時に昭和3年川崎車輌で新製された車両で、現役の営業車としては最も古いと云われている。)この日は、臨時電車として大胡→西桐生→中央前橋→大胡と営業運転された。1往復9万円で貸切運転ができるため、結構走っているようである。

 

上泉~赤坂間(真横から狙えばバックに赤城山が綺麗に入るが、人が多かったため踏切から撮影した。

デハ104

 

平成9年に廃車されたが解体されずに残されている。デハ101が1両しかなく多人数の団体に対応できないため、復活を期待したいところである。電装品が老朽化して復活が難しければ、クハ化してデハ101とMT編成を組んでも良いと思う。

 デハ711+クハ721

 

上は中央前橋駅直ぐ横の踏切から手軽に撮影できるので、時間の無い時におススメである。下は大胡

東武鉄道で使用されていたヘッドマーク

 

ヘッドマークからも判る通り、浅草~中央前橋間を直通運転していた時期があった

台車

 

銚子電鉄デハ101が履いていた台車で、762mmから1067mmに改造した痕跡がはっきり残っていた。

 

東武鉄道クハ701が履いていたKS105