「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。
東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。
先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった
線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日
山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。
建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋
ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。
なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。
京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。
懐かしい光景だ。大人は築堤に登るルートはどの道だったのだろうか、老人は京阪
御陵駅の踏み切りを渡り南下、築堤を前にして東行、国道の手前から築堤上に踊り出た。高校入学(1954年)の時、クラスメイトにアベ・マリア幼稚園南側の厨子奥なる地名から”潜り”で京の洛外・北の端まで通学したクラスメイトと親しくなり、彼と何度か築堤を登り下りした。ある日1人で、電柱が立つ前にと思ってカメラを持ち上り、構えていたら背後から怒声が飛んできた。振り向けば雲突く細身の大男と4,5人のお兄ちゃんが手を振り口々に怒鳴っている。純情な高校生は何も分からず枕木の上を走り築堤を下りおり逃げた。後に人間国宝から、皆で構えてる前へ若者が現れ構えたので怒鳴ったら、つっかけ履きで器用に枕木の上を飛び跳ねて逃げたものがいた、といわれた。その時、なにを隠そう「あれは私です」と名乗り上げたのは、10年ばかり前かな、人間国宝のお宅で須磨の大人もお出まし願い望年会をしていた時ではなかったかな。つっかけではなく下駄だった筈で、須磨の大人にはDRFC現役時代にその現場で告白した。C51牽引の列車、午後にあった草津線の列車ではないかな?伊勢海老快速は19時以降の京都着だから、普通の方だと思う。この頃、安土行普通があり、C59がマハ47を牽いて東行した。折り返しテンダーを前に(逆行)で返ってきた。電車少年も時折、築堤や高橋で汽車を見ていた時もあったのです。いや、ありがとう。55、6年前の話やなぁー。