1957年3月呉線

ここしばらく鳴を静めていたら、須磨の老人は右目緑内障発症を苦にして病臥、いや小学生以来=湯口家先祖伝来の業病たる痔が歳とともに悪化して立てない、などとあらぬ噂が蔓延?しているやに仄聞する。実は両方共間違いはないのだが、病臥は幾らなんでも大袈裟で、悪意が籠っている。

で、久しぶりにブローニーのネガを取り出した。35mmの方は例のヴィネガー・シンドロームにやられ、見る気もしないからである。2年の浪人生活から何とかドーヤン生の資格を得た1957年3月、高校生時代に山ほど確保していた「日付未記入」学割証を活用し、乗車券としては以前ご笑覧頂いた名古屋鉄道の木製車や、亀山区の「参宮線六軒事故」機関車、伊予鉄道路面電車の続きの行使であった。

1957年3月10日松山から堀江に。ここから呉線仁方をつなぐ国鉄仁堀航路は、戦時中宇高航路の補完というか、万一の爆撃に備え民間の航路を買収したもので、この時は153トンのディーゼル船五十鈴丸が1日2往復していた。これは1943年竣功の旧陸軍船で、仁堀航路への就役は1951年。1964年に宮島航路に移り、1966年廃船となった由。当時連絡線に何の興味もなく、写真を撮るなど考えすらしなかった。

ちゃんと「工」の字がファンネルマークに入り、船内では白上着のボーイがお盆に土瓶、茶碗(両方共「工」のマークが入っていた)をのせ番茶をサービスする。原則?無料というが、現実にはほぼ100%の客がチップをはずむ。それも飲んだ茶碗に10円硬貨を何枚か入れておき、ボーイは下げる際巧みにそのコインを片手の指を駆使してポケットに収めるのである。この習慣は青函航路でも見られ、チップをはずむとお湯の差替えサービスが得られると聞いたが、小生は例え10円でも惜しい極度の貧乏旅行故、飲んだことはない。イザヤ・ベンダサンではないが、長らく日本では水と安全はタダであった。

堀江発は12時48分と19時、仁方着は15時15分、21時25分。どちらの桟橋も国鉄駅とはやや離れ、堀江では連絡バス(民営)があって10円。当然小生は歩いた。


仁方駅でのC6243牽引ローカル列車 時間表にも2・3等車となっている

若干早く到着した仁方駅には、広島発仁方折り返しのローカル列車912/921レが停まっていた。転車台がないから、機回り前の機関車はC6243が逆行である。編成には2等車もあり、元来海軍士官は未成年の候補生時代から2等に乗る英国式教育を受けていたから、敗色濃くなる1944年まで2等車が連結されていたのは、横須賀線や佐世保線とも共通する。


C59164牽引の上り急行「安芸」
機関車がC6243だから、これは逆向きから機回りをした下りローカル列車であろう

この後はメモがなくよく分からないが、上り急行「安芸」、機回りを終え正位になったC6243牽引のローカル列車921レを撮る。また仁方にはETという形式の、れっきとした国鉄機関車がいる。ETといってもスピルバーグ監督の映画とは関係がなく、海軍時代の形式番号そのままである。日立製の25トン産業機関車で旧海軍呉工廠、ET4は1948年、ET5は広工廠で1944年製の由(栗林宗人「呉海軍工廠の機関車」鉄道史料94号)。米軍関連の入換機として使われていたのだろうが、国鉄にこんな機関車がいたとは知らない人も多いようだ。自連の下にポケット式連結器を持っているのも、海軍工廠時代の名残である。


ET4

ET5

また周辺の吉浦にはDD122もいた。旧米軍8586で、制式形式を付さない米軍供与時代の8585(→DD121)は品川での写真を以前ご覧頂いた。8584と8589は名古屋鉄道に入っている。メーカーはキャタピラー/GE、電気式で、優秀な機関車だったと聞く。


DD122 吉浦

呉には軍関係の客車も何両かいた。軍番号2915はスヘと遠慮がちに小さく標記されているのは、占領軍人がカタカナが読めないから軍番号を強要し、日本人には不便だからである。これは国鉄ではスヘ3112として扱った病院車。軍名称は英連邦軍貸与のためBONBAY、改造前はスヘ303、指定解除は1956年6月30日だから、この時点では用途を失っていたわけである。


スヘ2915 赤十字のマークがある
オイ1811

もう1両、オイ1811もいた。これも英連邦軍貸与車(軍団長車、寝台12名)で、国鉄ではスイネ3011として扱い、改造前はスヘ307、軍名称MARQUETTE、指定解除は1956年7月7日。


ついでに撮ったC1131 ナンバープレートが古い形式入りだけが取柄

会員の皆様にお尋ねします。

故あって、ある写真を探しています。お持ちの方がおられればここへでもメールで私へ直接でもご連絡下さい。

梅小路に保存されている蒸機の“現役で走っている”写真をお持ちでしょうか。ナンバープレートが判読されることが条件です。とりあえず持っておられるかどうかだけお知らせ下さい。

保存蒸機の機番は下記の通りです。

1080,9633,8630,D50140,C51239,C5345,C551,C1164,C571,C581

D511,D51200,C56160,B2010,C59164,D52468,C612,C621,C622 以上17機種19両です。

C5345は鷹取工場で復元公式試運転時の写真でも可。C571は山口線での復活後は不可。1080は日鉄鉱業時代で可。

東京都交通局「2010路面電車の日」

路面電車の日(6月10日)を記念して開催された東京都交通局「2010路面電車の日」に行ってきました。

今回の目玉は、

距離を越えて、時代を超えて・・・・都電荒川線と阪堺電車が入れ替わる!?都電荒川線と阪堺電気軌道の「PR相互乗り入れ」開始セレモニーでした。

都電と阪堺電車それぞれ一両がお互いの旧塗装に塗り替えて、それぞれの路線で運行するという企画で、先日のレポートにあった江ノ電と嵐電と同じような企画です。

10時半ごろ荒川電車営業所に到着。8801と8804を並べた撮影会の真っ最中でした

8801と8804の並び

その後、8804が出庫。8801に牽引された6086が姿を現しました。

姿を現した里帰りの6086

8801が出庫して行き、6086が11時開始のセレモニーを待ちます。

6086の前で、司会者の鉄道女優 史絵さんがスタンバイ。

司会者の史絵さん
11時からセレモニー開始。同時刻 阪堺電車でもイベントが行われているとのことでした。

東京都交通局長の挨拶。続いて、南海電鉄の取締役の挨拶。荒川区を選挙区に持つであろう来賓の都議会議員の紹介。特大切符の交換に続き、いよいよ、車庫から阪堺電車旧塗色となった7511の登場です。
塗変えられた7511の前で、巨大切符と記念撮影

なかなか落ち着いた色です。来年まで走るようですので、関西の方も、東下りされた際には、是非お立ち寄りください。

ジャンクメール対応について 管理者より

田野城先輩から投稿がありましたように、ここ数日ジャンクメールが無数と言っていいほど届いています。
ジャンクメールは一方的に送られてくる迷惑メールで、認められていない悪意のメールです。決して、あけないでください。一旦あけますと、今後永遠に望まないメールが届きます。
今までこういった悪質なメールや投稿ができないように防御線を張ってきましたが、ハッキング技術が高まり、防御線をくぐって送られてきます。
ジュニアーとも相談して、新たな防御線を張りましたが、万全ではありません。防御線を強くすると、今度は会員方々の投稿に影響が出ます。また、100%ができないのが、インターネットです。当分、様子を見ますので、その間は、お気をつけてください。

管理人よりお知らせ

最近コメントスパムが増加しているためAkismetプラグインによるスパムフィルタを強化いたしました。変更に伴ない、投稿コメントが即座に反映されない(=管理人による認証待ち)となる可能性が高くなります。認証待ちになると再投稿しても反映されません。エラーではありませんので、認証されるまでしばしお待ちください。

西村雅幸さんへ

 以心伝心とはこういうことかと思いました。と、いうのは今日思い立って今津まで出かけることになりました。途中白鬚を通るので、以前から気になっていた貴兄の白鬚駅の模型の件で白鬚神社に車を止めました。参拝してから社務所に宮司さんをお訪ねして「後輩にこの駅を模型で復元するために資料を集めている人がいますが写真はないでしょうか」とお尋ねしたところ、社務所にあげていただき壁に掛かった写真を見せていただきました。小さい写真ですが廃止直前の白鬚駅でした。また宮司さんのお母様も“目で見る旧高島町の移りかわり”という冊子を出してくださり該当写真の部分をコピーしてくださいました。

 もうご存じの写真かもしれませんがここに載せますのでご覧下さい。コピーですので不鮮明ですが宮司さんに名前を名乗っておりますので直接行っていただければ拝見させていただけることになっています。

ふるさとに学ぶ会平成22年3月1日発行「目で見る旧高島町の移り変わり」より

白鬚神社社務所にあった写真

 

完成を楽しみに待っています。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その6)

別府鉄道から返り咲いたDC301

別府鉄道から返り咲いたDC301

駅の復元工事は遅々として進んでいない分、車両の工事が割り込んでいます。キハ5122、ハ5010、キハ5121もかなり形になったのですが、通販頼みのパーツが品切れで工事がSTOP。一方アダチ製のキットを入手して、DC301が完成しました。別府鉄道から呼び戻したことになります。もう1両 このキットを手に入れて 下回りだけを使ってDC251を作ろうと考えていますが、アダチのキットも売り切れでガッカリ。そんなわけで車両製作の浮気の虫がおさまるまで 白鬚駅の開業は水泳シーズンに間に合いそうにない状態です。

24年前の南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道の軽動車 高森

5月6日(#7991)、8日(#8015)にぶんしゅう氏の南阿蘇鉄道がアップされた。半月出遅れたが、拙老も1986年に南阿蘇鉄道を「ひと覗き」し、早いもので23年半たってしまったが、この3セク鉄道開業は同年4月1日だから、半年後である。

1986年10月18日天気不良の中で甘木鉄道を往復し、その日の内に高森へ。土曜日の午後とあって乗客(非地元民)は結構あったが、大方は阿蘇下田までに降りてしまった。新潟製の非貫通軽動車は1軸駆動にしては33‰を苦にせず上る。車内はネジ頭が丸見えのバス並で安かろう、上等でなかろう(これでも内燃動車ファンのはしくれだからあえて「悪かろう」とはいわない)だが、本年2月の登場だから、この時点まだピカピカだった。今年なら車令24年になる。


立野駅 かつてC58、96、C12が躍動した面影はカケラもない

この時点乙女チックな駅舎は立野だけだったように記憶するが、高森は「インテリジェント・バレー」を目指しといるとかで、木造でひなびた駅舎をぶっ潰し、数千万円をかけてニューメディア・特産品展示、陶芸教室などを併設した新駅舎に建て替えるんだと、駅員は力説していた。当時のことだから、農水省等の補助金での町興しの一環だったのだろう。

そのニューメディアの一端というか、実験か、待合室にキャプテンの端末があった、といっても今では完全に死語になってしまったが、Character And Pattern Telephone Information System の略。物の本によると「電話回線を使って受像機と情報センターを結び、センターに蓄積されている各種情報を利用者の選択に応じ呼び出し、受像機の画面に文字と図形で映し出すシステム。国際的にはビデオテックスと呼ばれ、キャプテンは日本での呼称」とある。

NTTがこのサービスを開始したのが1984年だったが、端末機がやたら高価ででっかく、技術未熟、何にもまして魅力あるコンテンツに乏しく、公共施設などに端末を無理やり設置はしたが、利用者も極めて少なく、結局ほぼ普及しないまま消滅した。

高森駅では列車の時間表がプリントアウトできるという表示があったので、早速トライ。ところが出てきたのは改正前ダイヤで、これじゃ何の役にも立たない。修正されていない―誰も利用していないのが歴然だった。政府はずいぶん金を投じたはずだが、全く無駄な投資ではあった。


高森に保存されていたC12241

高森の町はかつて木材で賑わい、営林署、簡易裁判所、専売公社支所(葉タバコ集積)等、官公庁出先機関も多数あったのだが、すっかり寂れてしまっていた。それでもリーズナブルな旅籠を見つけ投宿。晩飯はいらんと宣言したらヘンな顔をされ、何かいいたそうだったが、それっきり。

下駄履きで町へ出てヘンな顔の意味がわかった。飯屋、飲み屋の類も何軒かはあるのだが、一軒も営業していないのである。土曜日の晩だったからかもしれない。散々歩き回ってシケた料理屋が何と開いていたので、板長か主人かに、かくかくしかじか、何か腹のふくれるものと酒をと嘆願。

親父は見習いと思しき若者に、何か作って上げなさい、酒も、と指示し、恐らく若者の実地研修の一環で、無人のカウンターで一人淋しく、それでもともかく餓死からは逃れられた。

 翌朝はカルデラ内で軽動車を撮ったが、やはり平地では面白くない。立野11時18分発トロッコ列車は日曜とあって、沿線温泉宿泊客がかなり乗車し、かつ寒いため、標準編成の後尾にディーゼルカーを連結した珍編成だった。折り返し立野行き上りの乗客は約30人だったが、半分が阿蘇下田で降り、以後乗降なし。出入り口はチェーンと数字合わせ錠で固められ、必要の都度ガチャガチャと開閉する。

そのトロッコ列車は、2両の協三工業製「半キャブ」(国鉄貨車移動機の再生車)間に2軸無蓋貨車(トラ)を改造したテント屋根の客車が2両。中には木製の椅子、テーブルがしつらえてあり、貫通路もある。先頭機関車でキーを回すと、前後の機関車のセルモーターが回り、エンジンが始動した。総括制御だったのである。


高原の秋は結構寒く、心底燗酒がほしかった

この機関車は現在二代目が就役しており、初代は確か旧門司港駅構内を往復しているはずである。

なお高森線には私事ながら想い出がある。新婚旅行で伊丹から飛行機で福岡へ、列車で長崎、雲仙、三角から熊本、ここから大奮発で特急「はやぶさ」に乗り鹿児島へ。フェリーで櫻島へ渡り、袴腰から国鉄バスで海潟へ。古江線、日南線を全線乗車し、宮崎へ。更に日ノ影線に乗るはずが、手違いで宮崎交通バスで高千穂へ。翌日高森へ抜けたが途中でパンクし、予定が狂って高森線の13時10分発116レ(C12牽引)に間に合わなかった。それでも貨物が来るというので、嫁様を待合室に荷物と共にほったらかし、彼女曰く「右も左も分からないのに走って行ってしまった」。これはかなり後まで祟った。

パクリとニセ情報

ファイト、馬力、酒量いささかも衰えぬぶんしゅう氏が「新緑の赤沢森林鉄道」をアップされた。その中のF4型ボギー式機関車に添え、「上松停車場で出発寸前の『みどり号』を連結したF4型ボギー式機関車」とのキャプションが付された写真がある。

実はこの写真、「おじん2人+1人 ヨーロッパ軽便」トリオの「+1人」氏の作品で、どこかでパクラれ、堂々と展示されている訳である。かような公共展示であっても、撮影者の了解を取るのは当然だし、それが叶わぬなら、せめて出所(複写元)を明示するべきであろう。パクリが数々指摘されている上海「パク博」のことをあんまり言えないのが情けない。

パクリと言えば、すさまじいのがウイキペディアである。勿論真面目なものも多いのだが、執筆者の名前が出ないからか、パクリが大手を振って白昼堂々と横行し、全く恥ずるところがない。拙著「内燃動車発達史」等からも丸写しが山ほどあってうんざりするくらい。せめて出典を記す最低限度のマナーなんぞ、糞でも喰らえ、ないしは引用してやったのだから有難いと思え、といわんばかりである。

反面、まことしやかな記事で、うっかり信用して引用しようものならとんでもないことになるものも少なくない。最近必要があって「皇室用客車」から「軽便用御料車」を検索して驚いた。ちゃんと形式図まで入っているのに、それがまるで関係ない=違う図なのである。エイプリルフールじゃあるまいし、この執筆者は、まるっきりのガセネタ=ニセ情報で、読者を騙して喜ぶ愉快犯なのかもしれない。

両備鉄道は762mm軌間ながら1927年電化し、日立製凸型B-B電機11~16が就役。客貨車は日車製ばかりで、2・3等合造車の記号がトナ(特等・並等)、3等車がナであった。1930年の陸軍大演習で天皇が臨席されるとあって、両備鉄道は日車で「四輪ボギー貴賓車」1両「キ1」を新製。この時期木製車体で、それ以前の密閉車体並等車と実質同型だが、中央2個の窓を1個の広窓とした。これは用済後2個に割り、通常客車に格下げできる設計であった。


両備鉄道キ1組立図 『日車の車両史 図面集-戦前私鉄編下』より

現実には改造はなされず1933年現在キ1のまま、1940年1月1日買収され、福塩南線に。国鉄でも始末に困ってたった一度使っただけの客車だが、解体してしまったようである。

日車には数種の図面が残っているが、売上台帳には「木製御料車 1両 代価6,571円 製作費5,005円40銭」とある。即ちこの時期、しかも木製車体なのに、著しく高価であった。ガラスがすべて「磨硝子」だったが、それだけでこんな値段にはならないだろう。

ウイキペディアを即信用してはいけないとは、かねがね聞かされていたが、諸兄、上記のウソツキ図面(最大寸法7,170×7フィート×10フィート6インチ=なんでメートル法とフィート・インチ法が混ざっているんだろう)を検索し、日車組立図と比較してみてはいかが。

豊肥本線と高森線



立野をバックで発車する717レC58424

国内、国外を駆け回っておられるぶんしゅう氏の、1970年の豊肥本線、高森線が出た。拙老も豊肥本線は何度か足を運んでいるので、ゴソゴソとブローニーのネガを取り出して、ご笑覧いただく。

時は1958年3月31日、目出度くドーヤン生になって1年から2年になる春休み。3月11日山科の自宅を出発し、山陽線電化試運転[臨試電2858T]を撮り、両備バス西大寺鉄道を皮切りに倉敷市交通局、井笠鉄道、尾道電鉄等山陽路私鉄をめぐって九州入り。均一周遊券をフルに使い、夜になると門司港、長崎、西鹿児島のどこかに行き、夜行各停に乗車して宿賃を節約。ステホは三田尻と大分だけだった。

その九州最終日、早朝熊本に着き、5時40分初発717レで立野へ。このとき豊肥本線は熊本-大分間直通列車は6本、熊本-宮路間が3本、宮路以東のローカルが3本。直通の内2本のみが2等車を連結で、その1本は快速「火の山」だった。これは翌年ディーゼル準急「ひかり」になる。


高森線初発113レ

立野着6時48分。高森からの初発列車は2分前に到着しており、機周りを済ませ7時12分発113レが初発で、C12逆行を白川鉄橋で待つ。多分にオハナシめくが、この鉄橋のペンキ塗りだけで飯が食える塗装業者がいたとか。


スイッチバックを下ってきた716レC58115

前後3コマ719レ69686


119レC58427、補機69699

立野のスイッチバックは大畑とともに雄大である。なにしろ景色が広く、おまけに天気がいいから撮影していても実に気持ちがいい。ただ翌年には、一番いい景色のど真ん中にナショナルのどでかい広告塔が建ち、ぶち壊しになった。


宮地止まりのローカル721レ 69657

これは鉄道ピクトリアル第4回写真コンクールで推薦5点中に入り、賞金3000円也をゲット。87号に掲載された。その時の特選は佐竹保雄氏の「準急ひだ号」で5000円、小生は宮崎交通でのコッペル機牽引「軽便列車」も入賞し1500円也。

この頃はネガ提出がなく推薦にも何度か入ったが、その後ネガ召し上げが条件になり、それにしては賞金が「薄謝」に過ぎると判断し、以後応募はご辞退申し上げている。

1955年3月福知山

1か月半ご無沙汰をしてしまい、常連諸氏もその間うつ状態?と見え、ぶんしゅう氏がほぼ一人で頑張って支えて下さった。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も何やらおとなしく、要は一定期間(かなりの個人差はあるが)以上休むと、従前いわば義務感(単なる惰性?)に近かった投稿意欲が急速に萎えてしまい、ついつい楽な読む側に廻ってしまうもののようである。

ところでこちらは相も変らぬ半世紀以上古い写真と、記憶の残滓を、あたかも老残の醜さのようにしつこく披露するのみ。古いことしか語れない老人の歎きは、何分にもご寛容の程を。


「いずも」ヘッドマークのC57128 重油タンクがドームの後ろにあって石炭と併燃

1955年3月小生は18歳で、高校を「辛うじて」卒業した。正確には「卒業できた」。単位と出席日数はまさしくギリギリで、これを6年後大学卒業の際にも性懲りなく繰り返す。高校最後の試験寸前に痔の手術で入院し、いくつかの科目が受験できなかったが、重大な発見をした。試験を受けると、その成績は通知書に5段階評価で2か1であっても、入院という「大義名分」があると、教師はその生徒の「真実?」が分からないから、中庸は徳の至れるものなりとしてか、単に無難あるいは面倒だからか、3を呉れるのである。半世紀前の老人は、この手術のおかげで、皆目歯すら立たなかった自然科学系―解析Ⅰ、生物、化学に3を頂戴し、卒業できた。受けていたらほぼ間違いなく単位不足で留年=卒業延期していたはずである。

その前から浪人は覚悟していたから、万全の対策?として、膨大な「発行日付の入っていない」国鉄学割証を貯めこみ、かつ学生証紛失を申し立てて再交付を受け、その日付も「修正」して備えていた。

で、前途=進路全く暗黒の中、ともかくはアルバイトで稼いだ僅かな金で、九州から東北まで、軽便と非電化私鉄探訪の旅に出たのであった。親は止めもしなかったが、小遣いも呉れなかった。

最初訪れたのは別府鉄道で、加古川線を北上し福知山へ。以下非電化私鉄のボロ車両は諸兄辟易気味と見て(それぐらいの自覚はある)、未発表の国鉄車両や私鉄電車だけをご笑覧に供する次第である。今回の撮影はいずれも1955年3月15日、福知山。こんな誰でも撮る国鉄車両なんぞにかまけておらず、まっしぐらに北丹鉄道福知山西に行くべきだったと、今更後悔しても始まらないが。


やはり「いずも」だがC57152 重油タンクがある

休車中のC5415 制式機ではE10を除き最も短命に終わった不運な機関車

同じくC5411

C5118 矍鑠として活躍中 


ナユニ16420 鋼帯での補強が痛々しい

オハニ25764 大型木製車だがトラス棒がないのに注意 これは魚腹台枠だから

銚子電鉄デハ1001、1002の連結器

長老よりご質問の連結器の件をもう少し詳しく解説したい。

コメント欄でも書き込みした通り、デハ1001、1002は営団地下鉄時代からトムリンソン式密着連結器を装備しているが、ツアー客の増加等により、自連を装備しているデハ701、702(引退済)、801との連結に対応するため、密着連結器の頭にアダプターとして中間連結器を取り付けている。

 

上/デハ1001の外川向き、中/同車の銚子向き、下/連結器の拡大画像

 

上/デハ1002の外川向き、下/同車の銚子向き

画像でお判りいただけると思うがナックル部分が固定のため、自連とは連結できるが、中間連結器同志の連結はできない。 

実際の連結状態の画像は、銚子電鉄のものがないため、旧国鉄時代のもので代用する。少々古いが、クハ47とワ23814の連結状態である。(昭和41年3月10日、移転前の富士電車区で撮影)

 

銚子電鉄の2連は、昨年8月12日付けの書込み「銚子電鉄を訪ねて(1)」に画像を掲載した「デハ701+702」以外乗車したことがなく、旧形車が引退するまでにデハ1001、1002と701、801の新性能車+吊掛車の協調運転に乗車したいと思っている。諸般の事情で果たしてその機会があるかどうかは極めて疑問あるが、元近江鉄道モハ51のデハ701には是非乗車したいと思っている。

銚子電鉄近況

4月10日(土曜日)銚子電鉄を訪れたので近況等をお知らせする。事前に鉄子色のデハ1002が検査中で旧形が走っているとの情報を得ていたが、銚子駅にはそのデハ1002が停まっていた。運転士氏に尋ねたところ今日から復帰した。客が増えれば、デハ701を増結に使うかもしれないとのことであった。

今回は成田で113系の成田空港行を駅撮りするため成田線回りで行くことにして、最寄り駅6時59分発の電車で出発した。松戸、我孫子とタイミングよく乗換え、成田に8時10分に到着し、113系8連の8時13分発成田空港行の発車を撮影した。この電車も近々京浜東北線から来た209系に置換えられてしまうのであろう。8時18分発銚子行は113系4連であった。下総神崎で「あやめ4号」と交換したが乗客は疎らであった。そもそも鹿島神宮~東京間は10~20分間隔で高速バスが頻発しており勝負にならない。その高速バスでさえ、公共交通機関を無視した「高速道路1000円」の愚策の影響により乗客が減少していると言われている。銚子には9時48分に到着し、すぐ接続の9時50分発の外川行の電車(デハ1002)に乗車した。

 

成田駅を発車する成田空港行1431M

 

成田~銚子間を乗車した2433M/下総神崎駅で特急「あやめ4号」と交換待ち 

外川駅の留置線にはグリーン塗装のデハ2001+クハ2501が停められており、パンタを上げれば直ぐにでも走りそうな雰囲気であった。また、奥の方には1月23日にさよなら運転を行ったデハ702がユ101と連結されて停められていた。デハ702は一時期ネットで売りに出されていたが、買い手はついたのだろうか。これらの車両を撮影後、次の電車で君ガ浜まで戻り、海鹿島との間で約1時間撮影して本銚子に移動した。観光協会のおばさんが乗車しており、沿線のガイドと共に「この電車は東京メトロさんから譲り受けました」と説明していた。「東京メトロとちゃいまっせ。営団地下鉄でっせ」と突っ込みを入れる客がいないか心配したが、そのようなことはなかった。その後、仲ノ町車庫、笠上黒生駅の交換風景を撮影後、211系5連のロングシート車で来た道を戻った。

 

外川に留置されているデハ702+ユ101 

新車について

デハ2001+クハ2501は外川駅に留置されているが、終電後に試運転を行っているようである。デハ2002+クハ2502も整備が完了し、パンタを上げて仲ノ町車庫に留置されていた。塗装はアイボリー一色で、東武熊谷線キハ2000形のような感じである。諸般の事情で営業運転の開始が遅れているが、4月28日に笠上黒生駅のホーム伸延工事が完成すると営業運転に入るのではないかと思われる。

 

外川駅に留置されているデハ2001+クハ2501

 

整備が完了して仲ノ町車庫で待機中のデハ2002+クハ2502

 

ホームの伸延工事が行われている笠上黒生駅、完成は4月28日の予定である。

旧形車について

デハ1001、1002、701、801の4両が稼働しており、通常はデハ1001、1002が使用され、ツアーの団体客等で客が多ければデハ701、801が増結される。1001、1002のいずれかが検査等に入った場合は801が使用されることが多いようである。10日から12日にかけて、20年に1度の「銚子大神幸祭」が開催され、11日の祭りのメイン会場が外川であったため、朝から夕方まで全列車2連(デハ701+デハ1001・デハ801+デハ1002)で運転された。ちなみに訪れた10日のメイン会場は、成田線の下総豊里駅と総武本線と成田線が分岐する松岸駅付近であった。事前に情報をキャッチしていれば、1日ずらして11日に訪れたのに残念であった。

デハ701と801は「ラストラン」のシールが貼られており、ゴールデンウィーク期間中に「ラストラン」が実施されるのではないかと思われる。デハ1001、1002は新車稼働後も引き続き使用されるが、夏季を中心に稼働日は減少すると思われる。しかし、団体客がない時は単行でも十分まかなえるため、冷房が必要でない時期を中心に使用されるものと思われる。

 

ラストランのシールがついたデハ701

 

デハ801のラストランシール

 

キャベツ畑を走るデハ1001/君ヶ浜~海鹿島間

 

犬吠埼灯台をバックに走るデハ1002/君ヶ浜~海鹿島間

 

本銚子~笠上黒生間の切り通しを走るデハ1001

ダイヤ改正について

3月13日のJRのダイヤ改正に合わせて当線でも実施された。それにより早朝、深夜を除き、銚子、外川発が毎時20分、50分に統一され、非常にわかりやすくなった。笠上黒生駅での列車交換は、従来通り外川行が先着する。

 

その他

デハ701は昭和53年に近江鉄道から入線以来32年間、デハ801は昭和61年に伊予鉄道から入線以来24年に亘り活躍を続けたが遂に引退の時期を迎えた。特にデハ701は近江鉄道縁の車両であり、近江鉄道時代に乗車、撮影された方もおられるのではないだろうか。

 

デハ701の近江鉄道時代/上 昭和40年1月6日彦根、 下昭和47年9月9日貴生川(モユニの代わりに郵便車として使用されている)

鉄道の車庫は基本的に部外者立入禁止で、見学は年1回の一般公開時以外は不可能であるが、有難いことに仲ノ町の車庫は入場券を購入すれば見学が可能である。

2月26日から27日にかけて583系が両国~銚子間を団体臨時列車で運転され、撮影に行かれた方もおられると思われるが、銚子電鉄でも記念入場券を発売中である。仲ノ町駅で購入すれば、車庫見学も可能である。

見学、撮影に行かれた時は、記念乗車券、家族へのお土産に濡れ煎餅、観音駅の鯛焼き等を購入して、わずかでも収入に貢献していただきたいと思う。

 

仲ノ町駅の入場券

 

時々デザインが変更されている一日乗車券

調兵山再訪とパシナ

 4月8日から4日間、1年半振りに旧満州(中国東北部)の遼寧省瀋陽、撫順、調兵山、大連を訪問したので簡単に報告する。

 

<撫順炭鉱の電車は絶望的>

 前回訪問時は運よくジテが現れたが、今回はジテどころか2枚窓の通常見られる電車でさえ、朝出て夕方戻る1往復のみ。露天掘りの中をのぞくと運炭列車がまだ見られたが、市内電車は絶望的で、以前、ぶんしゅう氏が決死の撮影をされた留置線への立ち入りは中国人ガイドが飛び込みで交渉したが断られる。このガイド氏は中国人鉄ちゃんでノート型パソコンに収めた作品を自慢げに見せてくれる。彼が言うには運炭列車は撫順駅国鉄線に向かう列車が集約する東崗駅付近がかなりの本数を稼げる場所とのこと。実際彼の言う通り頻繁にやってきた。

2010.04.08 車庫駅に留置中の本日運行の電車

2008.04.08 車崗駅の電気機関車1522

 

<減っていた鉄媒集団の蒸機>

 調兵山は瀋陽から北へ車で約2時間の所にある。上遊型蒸機は1771のみ稼動。翌日、機務段(機関区)では1770が検査中で、午後から稼動したので2両を見たのみである。また、以前イベント等で稼動していた1943年アメリカのリマ社製KD6-487は香港の映画に出演するとかで動かすことはできないが、蒸気をあげた状態でいた。翌9日は朝から雪化粧で久し振りに蒸機牽引客車列車撮影を楽しんだ。調兵山近郊は炭鉱地帯でボタ山があり、複線もあり、線路配置が複雑であることは、かつての九州筑豊地方を思い出させてくれる。

2010.04.09 7:20 雪の複線区間三家子~調兵山を行く301列車大青行き

2010.04.09 暁南~橋南を行く203列車調兵山発暁南行き 

2010.04.09 15:15 三井~暁南 ボタ山をバックに築堤を登る105レ大明行き

2010.04.09 大青機務段 アメリカ製KD6-487 煙が上がっているが動かない

2010.04.10 調兵山 上遊型1771 10日朝快晴となり、形式写真撮影

 

<哀れなパシナを見る>

 大連では日本製の市電は健在である。低床式の欧州スタイル新型車よりずっと数多く見られた。今回はその写真は割愛する。さて、最後の11日は満鉄(南満州鉄道株式会社)大連の扇形庫に残るアジア号牽引機パシナ757を見学した。庫から顔を出した状態で、ほこりだらけで運転室はゴミだめのような感じ。2メートルの大動輪もグリスが固まってしまっており、全体撮影は到底無理。かつてアカシアの大連から奉天(瀋陽)、新京(長春)と満州の平原を表定速度82.5Km/h、最高速度130Km/hで駆け抜けた機関車にしては寂しいものを感じた。アジア号は後にハルビンまで延長された。黒龍江省出身のガイド氏によるとパシナはここの他に瀋陽と黒龍江省の黒河と言う所に残っているとのこと。瀋陽のパシナは98年に瀋陽郊外の蘇家屯の陳列館で撮影したことがあるのがそれで、屋外のため、風雨にさらされてこれも惨めな状態であったが、全体が見えるので参考にのせてみた。

2010.04.11 大連 パシナ757はこのような姿で保存されていた

1998.07.01 瀋陽郊外蘇家屯機関車陳列館 パシナ751

 <最後に>

 満鉄と言えば星名秦先生を思い出す。京都帝国大学を卒業後、満鉄の技術者となる。戦後、同志社大学工学部教授となり、学長になられた。星名先生が有名なのは京大時代から卓越したラグビーの選手であり、指導者であったことである。同志社に来られてからは同志社ラグビーを育てられ、岡仁詩元監督は教え子であった。関東の早慶明を相手に三連覇したのはもう遠い昔のことである。最近の同志社ラグビーの体たらくは岡仁詩先生とともに嘆いておられることと思う。その星名先生は小生の記憶では、同志社大学鉄道同好会の顧問か相談役になられていた。当時の青信号の会員名簿の最初にお名前を拝見したような記憶がある。このあたりの事情をDRFC生みの親(本人はそうでないと否定されるが)であり、、育ての親である元電車少年さんにご教示いただければ幸いである。

教えましょう【7658】

彼の家の裏の線路際です。

但し、ストリートビューのない時代、1965年10月16日の撮影です。この次のコマが、蒸機が金色に輝いて見え、ピク191号D51特集に掲載された有名な写真です。4,5人が蒸機の接近に慌てて、彼の家の木戸を開け撮影に走ったのですが、できたのはこの撮影者のみ。自慢作の一コマ前がこれです。彼の家も写っているでしょう。
列車は小荷物2045レ、D51145【奈】+D51934【亀】

次にも彼の家が写っています。上の写真と共に、スキャナーの苦手な軟調写真です。ゴミ箱に入っていたのですが、ひょんなことから復活しました。この撮影日は精査中です。上の写真とは、2階や物干し台の様子が異なります。理由は判りません。D51145【亀】単機回送です。

これらの写真は24日に持参すべく考えていたのですが、【7658】との行き掛かり上、先んじて公開します。また、この他にカラー写真が1枚あります。数人の青年と共に、彼の家の屋号が写っています。肖像権(これとて50年の時効寸前で問題になるほどの代物ではありませんが)もあり、24日に持参とします。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その3)

ぷるぷるさんのD50に圧倒されながら、当方は相変わらず江若にのめりこんでいます。当初計画では高島町が完成すればそれでよし としていて、続いて白鬚駅もと考えていなかったため、コントロールパネルなど制御系でいろいろ問題が発生してきました。白鬚駅は交換駅なのですが、ポイント切換えをあたかもCTCのように 高島町から遠隔操作するかどうかで迷ったのですが、白鬚駅単独でポイントの自動切換えをすることにしました。今回新たな試みとして 角型の9V電池を電源とし、高島町で実績のあるDCソレノイドを駆動させることにしました。運転会を想定すると 白鬚駅に駅員を1名配置してポイント切換えのみを行ってもらう。但し高島町駅からポイント切換えの指示を出すというイメージです。その指示のためのLEDランプを設けてあります。自作のポイントマシンも調子がよく 白鬚駅でもパチン、パチンといい音で動いてくれています。

黒部上部軌道

                                                                                                                                     山の中に建設された黒部川第4発電所を発車して黒部川本流の鉄橋の手前を通過。休憩中にいきなり列車が顔を出したのでシャッターのタイミングが遅れてしまった。鉄橋の渡った先が有名な高熱隧道である。

2004年11月3日付で旧掲示板【285】に澤村達也氏が小林純爾氏とご一緒に黒部上部軌道を見学された時のレポートを「高熱隧道」のタイトルで発表された。

登山の写真を整理していたところ、昭和56年9月23日、黒部ダムから黒部川に沿って「下ノ廊下」を欅平まで歩いた時に撮影した「上部軌道」の写真が出てきたのでご覧いただきたい。 

旧掲示板【167】と重複する部分もあるが、京都から前夜の「ちくま」で出発し、松本で大糸線に乗換え信濃大町で下車。扇沢まで「北アルプス交通」の路線バス(松本電鉄と川中島バスの共同運行)に乗車した。扇沢から黒部ダムまでのトロリーバスは8両の続行運転であったが満員であった。ダム到着後、乗客の大部分は黒部ダム方面の出口に向かうが、何名かの登山客は「下ノ廊下」方面の出口へ。そこには係員が登山届と各人の行き先と装備のチェック等を行っていた。「阿曽原の小屋で宿泊して欅平に行く」と答えると、「前の2人連れと一緒に行ってくれ」と言われた。途中に危険箇所が何カ所もあり、単独行の場合万一の時のためである。ここで滑洛した場合は絶対助からないし、遺体の収容すら困難である。前の2人連れは、山慣れした20代前半のアベックで、一緒に歩く訳には行かないので少し離れて後ろを歩いた。黒部川の断崖絶壁沿いに危うく取付けられた道は、一歩足を踏み外せば絶対に助からない。何カ所かの難所を無事通過して、十字峡で昼食にした。ここは、黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が十字になって合流する所である。更に進むと、山の中に建設された黒部川第4(通称黒四)発電所の送電線の出口が見え、本流を吊橋で渡り少し行くと、仙人谷ダムに到着し、その向こうに上部軌道の線路が見えた。ここで休憩中に3両の客車を引いたバッテリー機関車がいきなりトンネルから顔を出し、欅平方面に結構なスピードで通過し、屋根付きの鉄橋を渡り、高熱隧道に吸い込まれて行った。(タイトルの画像)

ダムの堰堤を渡り、暫く行くと、仙人湯から池の平を経て剣岳方面に向かう雲切新道との分岐で、ここで仙人湯まで行くアベックと別れた。小屋に到着したのは午後2時半頃で一番乗りであった。夕食まですることがないので露天風呂に浸かったり、その辺をブラブラして過ごしたが、今から思うと、仙人谷ダムまで引き返してもう少し撮影すればよかったと思うが、朝から一歩間違えばあの世行きのような所を延々と6時間も歩いたため、とてもそんな気にはならなかったのであろう。

翌日は雨の中、朝6時に出発して、傘をさしながら水平歩道を約5時間歩き、11時頃欅平に到着した。昨日よりは危険度は少ないが、道幅は50㎝位で下まで200mはあろうかという相変わらず断崖絶壁沿いの道で、途中には真っ暗なトンネルが2ヶ所あった。

黒部峡谷鉄道で宇奈月に出て、富山地鉄で富山へ。折角の機会であるので富山地鉄を少しだけ撮影して急行「立山」で帰った。

現在は、鉄橋部分は冒頭の写真の箇所を含めて完全なシェルターで覆われてしまったようで、走行中の写真は無理なようである。それでも走行中を見たいと言われる方は、私までご連絡いただきたい。都合がつけばご案内する。但し、黒部ダム、欅平のいづれから歩いても最低6時間はかかり、それなりの登山経験が必要であるが、欅平からの方が危険は少ない。また、高所恐怖症の人は諦めること。途中の画像も貼りつけたので参考にしていただきたい。

 

下から見た黒部ダム

 

黒部川本流に沿って。右側のくぼみが登山道。

 

黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が合流する十字峡。

 

この辺りの山の中に黒部川第4発電所がある。左が登山道。

 

黒部川第4発電所の送電線の出口。

黒部川本流を渡る登山道の吊り橋。

 

仙人谷ダム。昭和11年に着工して15年に完成した。資材運搬用のトンネル建設中に摂氏165度にも達する岩盤を掘削して完成した。

 

黒部川を渡る鉄橋。当時から屋根が付いていたが、現在はシェルターになっている。

 

宿泊した阿曽原小屋。小屋の営業期間は例年7月から10月下旬まで。先の鉄橋の写真共々人物の写っていないものがないので止むを得ずこれを使用した。顔の部分を修正しようと思ったが、今更修正してもしゃーないと思ったので、素顔のままにしておいた。

 

ED24/欅平 昭和55年日立製

 

ED28/欅平 昭和57年日立製

 

ED21/宇奈月 昭和49年日立製

 

ハフ1027/宇奈月

江若鉄道白鬚駅復元工事近況(その2)

水荳・?居1

水中鳥居1

水荳・?居2
水中鳥居2

白鬚駅のイメージはなんと言っても水中鳥居でしょう。この1ケ月の成果は鳥居の完成です。高島町では駅舎などを初めて作りましたが、さすがに鳥居は作ったこともなく、まず情報集めから始めて 何とか出来上がりました。ちょっと大きすぎた感もありますが、そこはご愛嬌。ご笑覧あれ。

名古屋駅のDC今昔

tsurukame先輩より加太で撮影されたDCの貴重なカラー画像が公開されたが、団塊の世代以前の方は非常に懐かしく思われたであろう。当時「カラー」は贅沢という思いが強く、モノクロでしか撮影しておらず、今から考えると、もう一寸お金をかけてカラーで撮っておけばと後悔することしきりである。まあ、モノクロでも「撮ってないよりマシ」と思って諦めざるを得ない。

画像を拝見すると通勤型のキハ35が幅を利かせていることに気付かれると思う。所謂一般形のDCの流れを見ると、キハ17系に代わり、昭和32年から41年にかけてキハ20系が新製され、キハ17系と比較すると車体の大型化とアコモデーションの向上が図られた。ちなみに今回大糸線から引退したキハ52は115と125が昭和40年製、156が昭和41年製で半世紀近く活躍したことになる。また、現役のひたちなか海浜鉄道のキハ205は元キハ20522で昭和40年製である。

関西線の湊町~奈良間の増発と快速運転開始時に、通勤型のキハ35系が昭和36年から41年にかけて新製され、大都市近郊を中心に投入されたが、関西線の奈良~亀山間のように、不適切と思われるような線区にも投入された。私自身、昭和41年3月、新見~津山間で乗車した時は、小雪の舞う非常に寒い日で、停車駅毎に扉が全開し、停車時間の長い交換駅では、車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。津山でC11の引く姫路行に乗換えた時には本当に暖かく感じた。キハ30が62・98・100の3両が久留里線に健在で、夏ともなれば窓全開で運用に就いている。関東鉄道常総線には、旧キハ30・35・36が8両健在で、平日の朝ラッシュ時を中心に使用されている。

昭和41年から44年にかけて、キハ20系とキハ35系を折衷した近郊型のキハ45系が新製された。

注目は(3)の上から2番目、キハ17+キハ16の338Dで、時刻表を確認すると湊町10時35分発名古屋行(奈良まで快速)で名古屋まで約5時間かけて走行した。恐らく奈良まではキハ35が2両位増結されていたと思われる。

今回、昭和48年2月11日と昨年末の12月12日に名古屋駅で撮影した画像を比較を試みたのでご笑覧いただければ幸いである。

 

武豊線931Dキハ35118他5連/武豊線の一般型DCは美濃太田区の所属で、名古屋まで太多線・中央西線で営業運転をしながら送り込みがされた。

 

中央西線527D多治見行キハ26135他9連。(隣は643M高蔵寺行72系5連)/キハ26135+キハ25+キハ186+キハ26+キハ35×5

 

キハ186 車体断面が小さいキハ17系の中間車で、昭和29年製の第一次車である。車内はオールクロスシートであったが、背擦りが低く、後ろ座席の人と頭をぶつける可能性があった。また座席の生地はビニール製であった。

 

武豊線快速 キハ75-404他4連/転換クロスシートでワンマン対応車

 

快速「みえ」 キハ75-201+キハ75-301/鳥羽寄の前半分は指定席で別途指定席料金が必要である。

 

特急「くろしお」天王寺行 キハ811/名古屋~天王寺間を紀伊半島の海岸線に沿って7時間半で結んでいた。

 

【参考】特急「はつかり」昭和41年3月22日 仙台

 

特急「南紀」 /キハ85-6+キロハ84-2+キハ84-7+キハ85

 

特急「南紀」 キロハ84-2/.H生さんが「キロハ」についてコメントされているが「南紀」に連結されている。当初「ひだ」用として新製されたが、「南紀」の「キロ」とトレードされた。

 

特急「南紀」 キハ84-7

 

特急「ひだ」 キハ85-2 

キハ91系

昭和41年、従来のDMH17系エンジンに代わる大出力エンジンDMF15HZA(300PS)を搭載したキハ901とDML30HSA(500PS)を搭載したキハ911の2両が新製され、比較検討された結果、500PSのDML30HSAが新系列DC用エンジンとして制式採用された。

翌42年新エンジンを搭載した車両を営業運転に投入して長期的な性能試験を実施することになり、キハ91形7両とキサロ90形3両が新製された。形式からも判る通り、一等車が付随車として誕生したことは特筆される。

当初は房総西線(現在の内房線)でテスト後名古屋機関区に転属。昭和41年11月25日より急行「しなの」に使用。昭和43年10月1日特急に格上げ後は、急行「きそ」に使用。昭和48年7月10日電車化後は、高山線の急行「のりくら」に転用され、昭和51年9月3日まで使用され、昭和53年8月31日付で廃車された。キハ901は昭和46年3月31日付でエンジンをキハ91と同じものに換装して、キハ919に改番された。

キハ91形は僅か10年程度しか使用されなかったが、その技術はその後に新製されたキハ65形、キハ181系に生かされた。特にキハ181系とは混結可能であったようで、クローバー会会員の中に特急「しなの」でキハ181系の中間に連結されている写真を撮影された方がおられる。

 

キハ912他7連

 

キサロ901

 

キハ912

 

キハ919(←キハ901)

 

キハ901 昭和41年7月23日

キヤ97

平成19年12月に新製された定尺レール運搬車で、0番台が上り向き、100番台が下り向きの2両固定編成で4編成在籍する。エンジンはカミンズ製C-DMF14HZC型360PSを搭載しており、最高速度は空車時110㎞/h、レール運搬時95㎞/hである。

 

上 キヤ97-2  下 キヤ97-103