ここしばらく鳴を静めていたら、須磨の老人は右目緑内障発症を苦にして病臥、いや小学生以来=湯口家先祖伝来の業病たる痔が歳とともに悪化して立てない、などとあらぬ噂が蔓延?しているやに仄聞する。実は両方共間違いはないのだが、病臥は幾らなんでも大袈裟で、悪意が籠っている。
で、久しぶりにブローニーのネガを取り出した。35mmの方は例のヴィネガー・シンドロームにやられ、見る気もしないからである。2年の浪人生活から何とかドーヤン生の資格を得た1957年3月、高校生時代に山ほど確保していた「日付未記入」学割証を活用し、乗車券としては以前ご笑覧頂いた名古屋鉄道の木製車や、亀山区の「参宮線六軒事故」機関車、伊予鉄道路面電車の続きの行使であった。
1957年3月10日松山から堀江に。ここから呉線仁方をつなぐ国鉄仁堀航路は、戦時中宇高航路の補完というか、万一の爆撃に備え民間の航路を買収したもので、この時は153トンのディーゼル船五十鈴丸が1日2往復していた。これは1943年竣功の旧陸軍船で、仁堀航路への就役は1951年。1964年に宮島航路に移り、1966年廃船となった由。当時連絡線に何の興味もなく、写真を撮るなど考えすらしなかった。
ちゃんと「工」の字がファンネルマークに入り、船内では白上着のボーイがお盆に土瓶、茶碗(両方共「工」のマークが入っていた)をのせ番茶をサービスする。原則?無料というが、現実にはほぼ100%の客がチップをはずむ。それも飲んだ茶碗に10円硬貨を何枚か入れておき、ボーイは下げる際巧みにそのコインを片手の指を駆使してポケットに収めるのである。この習慣は青函航路でも見られ、チップをはずむとお湯の差替えサービスが得られると聞いたが、小生は例え10円でも惜しい極度の貧乏旅行故、飲んだことはない。イザヤ・ベンダサンではないが、長らく日本では水と安全はタダであった。
堀江発は12時48分と19時、仁方着は15時15分、21時25分。どちらの桟橋も国鉄駅とはやや離れ、堀江では連絡バス(民営)があって10円。当然小生は歩いた。
仁方駅でのC6243牽引ローカル列車 時間表にも2・3等車となっている
若干早く到着した仁方駅には、広島発仁方折り返しのローカル列車912/921レが停まっていた。転車台がないから、機回り前の機関車はC6243が逆行である。編成には2等車もあり、元来海軍士官は未成年の候補生時代から2等に乗る英国式教育を受けていたから、敗色濃くなる1944年まで2等車が連結されていたのは、横須賀線や佐世保線とも共通する。
C59164牽引の上り急行「安芸」
機関車がC6243だから、これは逆向きから機回りをした下りローカル列車であろう
この後はメモがなくよく分からないが、上り急行「安芸」、機回りを終え正位になったC6243牽引のローカル列車921レを撮る。また仁方にはETという形式の、れっきとした国鉄機関車がいる。ETといってもスピルバーグ監督の映画とは関係がなく、海軍時代の形式番号そのままである。日立製の25トン産業機関車で旧海軍呉工廠、ET4は1948年、ET5は広工廠で1944年製の由(栗林宗人「呉海軍工廠の機関車」鉄道史料94号)。米軍関連の入換機として使われていたのだろうが、国鉄にこんな機関車がいたとは知らない人も多いようだ。自連の下にポケット式連結器を持っているのも、海軍工廠時代の名残である。
また周辺の吉浦にはDD122もいた。旧米軍8586で、制式形式を付さない米軍供与時代の8585(→DD121)は品川での写真を以前ご覧頂いた。8584と8589は名古屋鉄道に入っている。メーカーはキャタピラー/GE、電気式で、優秀な機関車だったと聞く。
呉には軍関係の客車も何両かいた。軍番号2915はスヘと遠慮がちに小さく標記されているのは、占領軍人がカタカナが読めないから軍番号を強要し、日本人には不便だからである。これは国鉄ではスヘ3112として扱った病院車。軍名称は英連邦軍貸与のためBONBAY、改造前はスヘ303、指定解除は1956年6月30日だから、この時点では用途を失っていたわけである。
もう1両、オイ1811もいた。これも英連邦軍貸与車(軍団長車、寝台12名)で、国鉄ではスイネ3011として扱い、改造前はスヘ307、軍名称MARQUETTE、指定解除は1956年7月7日。