湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重 その4」で松本電鉄上高地線(当時の名称は島々線で昭和30年4月上高地線に改称)と大糸線について、当時の貴重な画像と共にご紹介いただいたが、昭和50年前後の状況を書いてみたい。
松本電鉄上高地線
歴史は意外に古く、大正9年3月筑摩鉄道として設立、翌年の10月松本~新村間を開業、11年5月に波多(昭和31年5月波田に改称)、同年9月に島々まで開業した。以降の動きを簡単に纏めると次の通りである。同年10月社名に「電気」を挿入して「筑摩電気鉄道」に変更、昭和7年12月松本電気鉄道に再度社名変更した。戦後の動きは、昭和30年4月線名を「島々線」から「上高地線」に変更。32年11月架線電圧を600Ⅴから750Ⅴに昇圧。41年10月赤松駅を「新島々」に改称して駅前に上高地、乗鞍方面行のバスターミナルを設置。58年9月28日台風による土砂災害のため新島々~島々間が不通となり休止を経て昭和61年1月廃止。61年12月架線電圧を1500Ⅴに昇圧すると共にワンマン運転開始。平成11年10月ATSを設置。平成19年3月21日新村車庫で保管されていたハニフ1を鉄道博物館に寄贈のため搬出。
松本電鉄は川中島バス、諏訪バス等を統括するアルピコグループの中核企業であるが、少子高齢化による人口の減少、通勤客のマイカーへの転移等で、電車、バスの利用者が減少により、メインバンクに対し私的整理ガイドラインに則った再生支援を要請した。また、大正9年の創業時に建設された、西松本~渚間の田川鉄橋、渚~信濃新井間の奈良井川鉄橋が国交省から「数年以内に抜本的な対策が望ましい」との指摘を受け、架け替え工事費が数十億円もかかるとかで、会社側から「行政の支援がなければ事業継続は困難」との見解を示された。一昨年の8月下旬、槍ヶ岳登山の帰り、上高地から松本行の直通バスに乗車した時、新村を過ぎた辺りから交通渋滞のため、ダイヤ上では40分の新島々~松本間が2時間半もかかり大変な目にあった。松本市はご承知の通り城下町のため市内の道路が狭く、行楽シーズンの午後は大渋滞となることと、沿線の高校、大学の通学の足として学生の利用が相当数あること、夏季を中心に登山客、観光客の利用が相当数あること等により、バスへの転換は無理な面があると思われるため、行政側もしっかり支援していただきたい。
車両について
電車
湯口先輩が訪れられた当時の電車は昭和33年から39年にかけて、当時、日本車両が地方私鉄向けに製造した「日車標準車体」に乗せ替えられて、形式モハ10形・10-1~10-11の奇数の5両(-は解説上付けたもので実車には表示はない)とクハ10形10-2の計6両となっていた。昭和61年12月24日架線電圧の1500Ⅴ昇圧時に元東急デハ5000形改造のモハ5000形5両、クハ5000形3両と交替で廃車となった。モハ5000形も、老朽化のため平成11年と12年に元京王電鉄井の頭線のデハ3100形・3050形改造のモハ3000形+クハ3000形4編成と交替して廃車となった。
上 モハ103 下 モハ101 波田 (50.11.23)
モハ107+モハ1011 森口~下島 (45.3.18)
電動貨車
湯口先輩はデワ2を新村で撮影されておられるが、私が訪れた時は森口駅の直ぐ傍の工場(社名は忘れた)に出入する貨車の入換と、屋根の島々寄りに櫓が取り付けられ、架線修理車して使用されていた。
森口 (45.3.18)
電気機関車
湯口先輩の訪問時には機関車がなく、前述のデワ2がその任に当たっていたが、昭和35年6月西武鉄道からED301を購入、昭和40年から44年かけて梓川に建設された奈川渡、水殿、稲核の各ダム工事の資材輸送のためED402・403の2両を新車で購入し、計3両が在籍した。
ED301
大正15年アメリカ・ボールドウィン社(機械部分)ウェスチングハウス社(電気部分)製で昭和35年6月西武鉄道から購入した。元を正せば、大糸線松本~信濃大町間の前身信濃鉄道電化時に新製された1~3のうちの3で昭和12年6月国有化によりED223に改番、昭和31年に廃車となり西武鉄道に譲渡されA1形A1に改番した。平成7年9月廃車となったが、機器扱いで現在も残されている。
森口 (45.3.18)
ED402・403
前述の通りダム工事の資材輸送のため、昭和40年10月日本車両で新製した。新製当時の架線電圧は750Vであったが、工事終了後他社への売却を考慮して1500Vとの複電圧回路であった。工事終了後、昭和46年に岳南鉄道に売却され、改番されることなく使用されている。
波田 (45.3.18)
ハニフ1について
前述の通り平成19年3月21日鉄道博物館に寄贈のため新村車庫から搬出されたが、寄贈が決まった平成18年12月から搬出日までの土日に一般公開が実施され、搬送当日には盛大な式典が実施された。当件は後日知り、事前に判っておれば無理をしてでも行っていたのに非常に残念であった。以前から寄贈の話は何度かあったが、交換条件が折り合わず実施に至らなかったという話を聞いたことがある。
大糸線
湯口先輩が北松本区で撮影された元信濃鉄道買収車クハ5101、モハ1101、モハユニ3100は、当時の買収国電を撮影されておられた方が少なかった時代の記録として大変貴重である。車両の詳しい経歴等は佐竹先輩著作のネコパブ社発行「私鉄買収国電」をご覧いただきたい。買収後は東京から17m車が転入して信濃鉄道の買収車を置換えた。モハユニ3100の代わりは20mのモハユニ44000と100が務めた。モハユニ61001が前身のモハユニ44100は昭和35年両運に改造され、クモハユニ64000に改番され、自連付で貨車を牽引していた。昭和45年8月クモユニ81003と交替して岡山区に転属して赤穂線で使用、昭和52年9月静岡に転属して入替えと大船工場への入出庫車の控車として使用、翌年8月に伊那松島区に転属して飯田線で本来の目的で使用後、昭和59年2月に廃車となった。
17m車は、関西から転入したクモハ51、54、関東から転入したクモハ60、クハ55、サハ57等に置き換えられて廃車となった。現在は115系と大糸線専用車として新製されたE127系100番台が使用されている。E127系は交流の701系の直流版とも言うべき車両で0番代は新潟地区で使用されている。昼間の2連の列車は信濃大町以北、一部は有明以北の殆どがワンマン化されている。かつては春から秋にかけての行楽シーズンは、登山客、観光客で賑わい、新宿、名古屋からの臨時の直通列車が多数運転されていたが最近では減少している。理由はマイカーへのシフトもあるが、長野新幹線の影響が大きい。長野新幹線と大糸線は一見関係なさそうに見えるが、東京から白馬や信濃大町へは松本で大糸線に乗換えるよりも、長野で特急バスに乗換える方が断然早い。おまけにバスは栂池やアルペンルートの扇沢まで直通する。また、白馬駅ではバスと新幹線の直通切符を発売しており、山から下りてきた登山者は、運賃が高くても自宅までの所要時間が短い方を選択する傾向がある。
旧形国電時代の車両については書きはじめるとキリがないため、後日機会があれば解説することにして、今回は列車写真を中心に貼り付けた。
ED602牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25)
ED603牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25)
急行「アルプス4号」細野~北細野 (48.3.25) 中央東線急行の基本編成
南小谷12時16分発信濃大町まで普通、信濃大町から急行となる。5両目は売店付きのサハ164である。
急行「アルプス8号」信濃大町 (48.3.25) 中央東線急行の付属編成
新宿を23時45分に発車して、付属編成が松本から普通列車となる南小谷行
クモハ51013+クハ55405+クモハ51014+サハ57400+クモハ51011+クハ55439 信濃大町(48.1.14)
クモハは全部51形である。旧形の基本編成は4両と2両があり、4+2の6両編成が多かった。
クモハ54004+クハ55430+クハ55439+クモハ12000+サハ57400+クモハ60082 信濃大町(48.3.25)
中間に17mのクモハ12が入っている。両運のためクモユニ81003の予備車として残された。2丁パンタで上がっていない方は霜取用である。
クモユニ81003他7連 信濃大町 (50.11.23)
6両編成の普通列車 細野~北細野 (48.3.25)
糸魚川~信濃大町間のDC列車 上 キハ5243 下 キハユニ2629 信濃大町 (50.11.23)
当時、糸魚川から信濃大町まで2往復、白馬まで1往復のDC列車が設定されていた。糸魚川~信濃大町間に2往復もDC列車が残されていた理由は、郵便・荷物輸送のためで、信濃大町でキハユニ26からクモユニ81に積み替えられていた。(下りの場合は逆)南小谷で積み替えを実施しなかった理由は、信濃大町以北のホームの有効長や南小谷駅の設備の関係があった。
クモハE127-105+クハE126-105 白馬 (H13.8.18)
E127系は、平成10年12月より使用を開始し、MT2両編成が12本、24両在籍する。座席は南小谷方面に向かって左側がクロスシート、右側がロングシートになっている。信濃大町以北(一部の列車は有明以北)はワンマン運転になっている。画像の列車は松本から更に先の辰野行であるが、平成15年12月より松本~塩尻間のATSがSN形からP形に変更されたため、乗り入れができなくなり大糸線専用になった。