ハチロク御召が走った日 (1)

【8427】でぶんしゅうさんが、昭和43年の福井国体で運転された御召列車について述べられています。その時のネガが所在不明と聞いていますが、無事見つけ出していただくよう祈っています。
実は、私も一緒に福井へ行っていました。ただ、一緒に行ったのは、一年上のS井さん、T城さんの2人とばかり思っていましたが、当時の写真を引っ張り出して仔細に見てみると、ぶんしゅうさんも写っていることを発見、一緒に行っていたことを確認しました。
福井城のすぐ近くにあるK先輩の実家に厚かましくも上りこみ、昼をご馳走になったことも覚えています。あの時の寿司はうまかったなぁ。
さて、福井国体で運転された御召列車は、昭和43年10月2日に越美北線の越前大野~福井間で、8620形重連で運転されたものでものでした。
私の記憶では、事前に御召列車ダイヤが鉄道雑誌に公表された初のケースでした。現在では考えもつかないような、オープンで寛容な時代なればこそで、そのため、書かれているように全国から多くのファンが集まりました。ただ、その数たるや、今から見るとホントにささやかな数で、何日も前から徹夜して三脚で場所取りすることなど、まるで無用、通過直前でもほんの数人の同業者でした。
昭和43年10月2日、歴史的なダイヤ改正として記憶に残る”よん・さん・とお”の2日目、天気は快晴、その日を朝から追いました。

 

京都駅に集結したDRFCメンバー4名は、米原へ。ここから、米原発福井行239レに乗り換える。交直接続区間の米原~田村間を牽くのは、DD503+DD504であった。この接続で名を馳せた蒸機のD50も、”よん・さん・とお”改正で消え、DD50、DE10に替わって、ようやく無煙化が実現した。数奇な運命をたどったDD50であるが、その後、米原~田村間を最後の働き場所として、昭和53年に廃車になっている。

“よん・さん・とお”改正で、裏日本縦貫線を通す寝台特急が誕生した。それが「日本海」で、従来の急行「日本海」は、「きたぐに」に改称されてそのまま存置された。このように、”よん・さん・とお”改正は、急行を廃止・格上げして、特急を新設するのではなく、純粋の新設であるところに、ダイヤ改正の勢いを感じる。この「日本海」は、青森を1日の晩に出発した処女列車で、湖西線開業前だから米原回りである。DE10に牽かれて米原に到着し、EF58に替わるところだが、なにせ初日のこと、操車掛けが集まって、ホースの確認などに大童のシーンである。左端に脱兎のごとくホームを走り回るのが、若きぶんしゅうさんだ。

DD50に牽かれた237レは、田村でEF7015+EF701006に替わり、敦賀からはED702に替わった。この写真は、今庄駅を発車した直後の237レ、因みに、メモによれば、編成は、ED70 2+オハフ61 2712+オハ35 2021+オハ35 3239+ナハ10 2047+ナハ10 2022+オハフ33 2573+マニ60 2618であった。構内のバラスが真新しいのは、敦賀~今庄間が北陸トンネルの開通で新線に移り、かつての旧線の基地であった今庄の機関区設備が撤去され、構内配線が敷き直された結果であろうか。

前記のように、先輩宅で昼をいただいたあと、まず御召の回送を撮るために、福井から一駅目の越前花堂駅で降りた。他のメンバーは、さらに乗り続けて山間部へ向かったが、私としては無難にまとめたかったため、田圃の中の越前花堂を選んだ。御召の回送は、基地のある南福井から、天皇の乗車する越前大野まで、1号編成を、8620重連が逆行で運転した。北陸本線と分かれ、左へ大きくカーブする地点で回送をとらえる。今も北陸本線に乗ると、この撮影地点を確認するが、今は、工場などが建ち並び、雑然とした雰囲気である。

桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part2 越美北線

第1日目 2010年4月17日
都合で出るに出られず、越美北線ロケハンから1週間が経過してしまいました。この間、春の嵐が雨を伴い、吹きまくりました。もう桜の花は散ってしまったのか。しかし、もしかしたら、まだ撮れるかもとの淡い期待を抱いてぶんしゅう7号と一緒に出発しました。
名神から北陸道へと入り、福井インターで降り、越前東郷駅を目指しました。

13:501960年(昭和35年)越美北線一部開業時に設置された越前東郷駅着。
▲ 車窓から見るのとは違って、広い駅前広場があります。かつては地域の中心駅だったのでしょう。期待のレール側の桜は、残念ながら半分以上散っていました。これでは、写真になりません。 続きを読む

ご無沙汰です

関係者のご苦労で投稿環境を正常に戻していただき感謝申し上げます。
さて、私こと、掲示板に投稿しなければの強迫観念にとらわれて続けて数ヵ月、もがけばもがくほど、手はキーボードから遠ざかっています。
そんな時、先週末上京した際に、準特急さんと、元気に病後復帰されたT田さんの2人ともに、京浜急行・江ノ電へ行く機会がありました。
ここで、掲示板を思う準特急さんの並々ならぬ情熱を聞かせていただき、痛く心を打たれました。
掲示板が内部のツールだけでなく、斯界のオピニオンリーダーたちも熟読されており、クローバー会の重要な発信源として機能していると言われます。おっしゃるに、投稿も大事だが、コメントはもっと大事と言われます。本掲示板の特徴でもある、双方向のコミュニケーションを発揮することが大事なのです。
準特急さんは、今後の掲示板のテーマとして
・定点撮影-昔と今の同一地点を対比
・譲渡車両-同一車両を譲渡先ごとに比較
・思わぬ出会い-譲渡先であり得ない車両の出会い
を挙げられています。これらは、一朝一夕にはできない、準特急さんのように半世紀以上に渡って地道に記録を続けられてきた人間のみに可能です。
最近の新参趣味者の物量攻撃に辟易している特派員にとっては、一筋の光明を見た思いでした。
何か勇気づけられた気がした一日でありました。要は気負うことなく自然体で掲示板に立ち向かうことが大事なのでしょう。今回は、ひとまず当日の成果をご覧いただきましょう。

京急を訪れた目的は残り少ない1000形をとらえること。大師線、逗子線も回ってみたが、車庫に休んでいるだけで、昼間の稼動車はなかった。そこで、地元お住まいのT田さんのご案内で、京急線南部の撮影へ向かった。横浜を過ぎると丘陵部を走り展望は開けるが、住宅が建て込んで撮影には不向きだ。ホームからの撮影に切り替えスタンバイしたのは、京急富岡駅。短いトンネルを突き抜けて快走する2100形の快特をとらえることができた。

つぎに訪れたのは、逗子線の六浦~神武寺間。先日の京急の改正で、逗子線では新逗子から羽田空港へ直通する「エアーポート急行」が日中20分ヘッドで走るようになり、羽田シフトがより鮮明になった。この区間、横浜市と逗子市の境の山間区間に当たり、人家がほとんどない。とくにトンネルの神武寺側には池沿いに走り、背後の山も米軍池子住宅の用地で自然のまま残されている。準特急さんはこの池を入れて数十年前に撮られたことがあるそうだ。

午後からは久しぶりの江ノ電訪問となった。都会的ではあるが、どこか田舎の風情を残したこの沿線の風情はいつ来ても清々しく迎えてくれる。製造後50年となった300形の残る1編成305+355も、「江ノ電開業100周年」のヘッドマークを掲げて元気に走っていた。江ノ電・嵐電提携を記念した嵐電カラーの1000形1552+15021も走っていた。

この日の締めくくりは定番の鎌倉高校前である。目前は江ノ島、傾きかけた陽を受けて初夏の海がキラキラ輝いている。直前まで大渋滞していた道路だったが、急に両方向とも車が消えた。見通しがよければ、ちょうどこの向こうに富士山が見えるはずだ。冬の寒いとき、冠雪した富士山を撮りにもう一度訪れてみたい。

桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part1 旅立ち前のロケハン

2010年4月10日

① 長岡京7:54(快速710T)→8:05京都8:15(新快速湖西レジャー号)→9:50敦賀9:53(239M)→11:25加賀温泉11:57(338M)→12:31福井
② 
福井12:49(727D)→14:15九頭竜湖14:33(730D)→15:58福井16:28(356M)→17:35敦賀17:49(新快速)→19:42京都19:53(快速831T)→20:04長岡京 

桜前線2010年九州・四国を一旦終えて、立て直しのために帰宅しました。インターネットで桜前線の進行状況を見ながら、出発のタイミングを見計らっていましたら、駅前のチケットショップで明日までの使用期限の青春18きっぷが1枚ありました。2000円です。迷うことなく買って、翌日はロケハンに出ました。

目指すは、越美北線です。越美北線と言えば、学生時代に初めてお召し列車を撮影した思い出があります。1868年10月2日、福井機関区の88635号機と28651号機が重連で、福井~大野間で一世一代の栄光の任務にあたりました。

その時は、DRFCのメンバー数名で一緒に撮影に行きました。1学年上に福井出身の久我先輩がおられ、福井城近くの大邸宅に全員をご招待いただき、熱き歓迎を受けた事を覚えております。勤務時代に職場が近かったので、時々お邪魔していましたが、今はどうしていらっしゃいますでしょうか。

撮影場所は覚えていませんが、皆と別れて山間からふかん撮影したと思います。この時まで、鉄道撮影と言えば多くとも数名でしたが、その時は、沿線に無数のファンがカメラを構えているのを見て、こんなにも鉄道ファンがいるのだと驚きましたと同時に勇気づけられました。
と、いうのも当時は、汽車好きだと言うと、変人扱いされました。今は鉄道ファンが大臣にもなっておられますが、当時は日陰者にも似た気持ちを持っていました。また、異性にもてたいと思う年頃を迎えています。趣味は何と聞かれ、ストレートに汽車とは言えませんでした。越美北線で、志を同じくする同士がこんなにもいるのかと、むしろ感動しました。

肝心のその時に撮影したフイルムを探しているのですが、50本近くの初期の貴重なネガを保存した、ケースが見当たりません。どこかにあると思いますが、生きている内に見つけられるか問題です。

桜前線ですが、直前に見たインターネット情報では、まだ5部咲き程度が多かったのですが、ロケハンに来てみると、福井市内はほぼ満開近しでした。天候も最高で、このまま撮影に入っても良い状態でした。
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改良しました!

管理者の小西jrが、早速ジャンクメール対策をしてくれたおかげで本日は攻撃から守れているようです。投稿もスムースにアップロードできました。でも、またいつシールドが破られるかも知れませんのでご注意下さい。

ジャンクメール対応について 管理者より

田野城先輩から投稿がありましたように、ここ数日ジャンクメールが無数と言っていいほど届いています。
ジャンクメールは一方的に送られてくる迷惑メールで、認められていない悪意のメールです。決して、あけないでください。一旦あけますと、今後永遠に望まないメールが届きます。
今までこういった悪質なメールや投稿ができないように防御線を張ってきましたが、ハッキング技術が高まり、防御線をくぐって送られてきます。
ジュニアーとも相談して、新たな防御線を張りましたが、万全ではありません。防御線を強くすると、今度は会員方々の投稿に影響が出ます。また、100%ができないのが、インターネットです。当分、様子を見ますので、その間は、お気をつけてください。

管理人よりお知らせ

最近コメントスパムが増加しているためAkismetプラグインによるスパムフィルタを強化いたしました。変更に伴ない、投稿コメントが即座に反映されない(=管理人による認証待ち)となる可能性が高くなります。認証待ちになると再投稿しても反映されません。エラーではありませんので、認証されるまでしばしお待ちください。

事務局よりお願い

ここ数日前よりジャンクメールが頻繁にはいるようになり、気づく度に削除しておりますが今朝方よりは無数のメールが入り削除が追いつかない状態です。

仕事の合間に鋭意削除に努めますが皆様方には決してさわらないようにお願いいたします。

また、あまりの多数のため誤って会員によるコメントを削除してしまう危険性もありますがその節はお許し下さい。

桜前線追っかけ2010年 Part10 徳島線、土讃線 2の2

第9・10日目 2010年4月4・5日

朝起きても道の駅大歩危には、ぶんしゅう7号だけが宿泊客でした。ここは、吉野川渓谷にあって、対岸は土讃線が走っていて、大歩危駅は、直ぐ近くにある有名観光地なのに珍しい事です。

今日は、日曜日で高速道路の料金が1000円デーですので、夜に帰宅します。まだまだ行きたい撮影地はありますが、疲れも溜まってきていますので、一旦立て直しの帰宅です。
四国最後の一日ですので、しっかりと思い出に残るショットを撮りたいと意気込んで、いつものように朝食と夜明けの熱いコーヒーを飲んで、出発しました。

大歩危駅は、昨年2009年春の青春18きっぷの旅で四国を回り、最後に通りました。桜が満開で、次回は是非とも撮影したいとの宿題でした。まずは、大歩危駅に向いました。
▲ 8:27、大歩危駅は、民家風の駅です。ホーム中央に対岸からの道路橋がありますので、どこからとっても画面に入ってしまいます。
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昭和45年、40年前の久大本線 日田駅

K・H生さんから、豊後森の写真投稿をいただきました。ありがとうございました。
昔の豊後森駅や機関区の写真を撮っていればと探しましたがありません。代わりに、今回行きたかった久大本線日田駅で撮影したSL時代の写真がありましたので、ご紹介させていただきます。撮影日は、40年前の1970年(昭和45年)4月9日と10日です。

日田駅前です。タクシーは、コロナとブルーバード(手前)、駅横の電話ボックスも懐かしい光景です。
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桜前線追っかけ2010年 Part9 徳島線、土讃線 2の1

第8日目 2010年4月3日

佃14:06-(4466D)→15:06阿波川島15:30-(457D)→16:49阿波池田16:55-(476D)→17:02佃

昨日は、18:00佐賀関港から九四行動フェリーに乗船して、19:10に四国の佐田岬三崎港に着きました。豊後水道を横切る航路距離は31km、わずか70分の乗船時間で、運賃は、九州~四国間フェリーでは最も安い8400円でした。
日豊本線側は、高速道路が未整備なので、四国に渡るには、高速通行料、燃料代、運転時間や疲労を考えると、こちらの方が早く楽なので選択しました。

三崎港からは、東へ向かい松山高速道路に乗って、松山市内が眼下に見える伊予灘SAで宿泊し、朝を迎えました。昨日までの雨模様とは違って、晴天の撮影日和です。
今日の撮影地は、琴電旧車両運転時にお世話していただいた、高松にお住まいのK氏に前もって桜と鉄道を取りたいとお聞きしましたら、徳島線小島駅、土讃線箸蔵駅と黒川駅付近を勧めていただきました。

伊予灘SAを早朝に出発し、小島駅には9:05の到着です。駅前からして、桜満開で期待が持てます。
▲ 9:12、小島駅を発車するキハ471097+キハ47118、437D。

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西村雅幸さんへ

 以心伝心とはこういうことかと思いました。と、いうのは今日思い立って今津まで出かけることになりました。途中白鬚を通るので、以前から気になっていた貴兄の白鬚駅の模型の件で白鬚神社に車を止めました。参拝してから社務所に宮司さんをお訪ねして「後輩にこの駅を模型で復元するために資料を集めている人がいますが写真はないでしょうか」とお尋ねしたところ、社務所にあげていただき壁に掛かった写真を見せていただきました。小さい写真ですが廃止直前の白鬚駅でした。また宮司さんのお母様も“目で見る旧高島町の移りかわり”という冊子を出してくださり該当写真の部分をコピーしてくださいました。

 もうご存じの写真かもしれませんがここに載せますのでご覧下さい。コピーですので不鮮明ですが宮司さんに名前を名乗っておりますので直接行っていただければ拝見させていただけることになっています。

ふるさとに学ぶ会平成22年3月1日発行「目で見る旧高島町の移り変わり」より

白鬚神社社務所にあった写真

 

完成を楽しみに待っています。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その6)

別府鉄道から返り咲いたDC301

別府鉄道から返り咲いたDC301

駅の復元工事は遅々として進んでいない分、車両の工事が割り込んでいます。キハ5122、ハ5010、キハ5121もかなり形になったのですが、通販頼みのパーツが品切れで工事がSTOP。一方アダチ製のキットを入手して、DC301が完成しました。別府鉄道から呼び戻したことになります。もう1両 このキットを手に入れて 下回りだけを使ってDC251を作ろうと考えていますが、アダチのキットも売り切れでガッカリ。そんなわけで車両製作の浮気の虫がおさまるまで 白鬚駅の開業は水泳シーズンに間に合いそうにない状態です。

桜前線追っかけ2010年 Part8 久大本線

今日は、注目のIpadの発売日です。我が家にも、Jr.がインターネットで注文したIpadが届きました。早速触ってみましたが、画面が明るく鮮明です。動作も早い。書籍や新聞を見ましたが、とても見やすい。いずれペーパーレスの世界になるだろうと思っていましたが、実際に見てみると、現実化を実感しました。

第7日目 2010年4月2日 
天気予報通り、夜間は風と雨が吹き荒れた朝を迎えました。日田辺りまでは、行ってみたいのですが、この天候では、撮影範囲を広げても見合った結果は期待できません。近場にもロケハンしておいた撮影地がまだまだあります。

7:50、まず、今回は、まだ行っていない斬新な評判を受けている由布院駅を訪ねました。

さすが、無茶な観光開発を押さえ自然と融合するまちづくりを進め、「潤いのあるまちづくり条例」を制定した湯布院町の玄関口だけあって、駅舎もちょっと違っています。由布院の自然を象徴する落ち着いた黒の塗装をした木造駅舎は、品格さえ感じられます。
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桜前線追っかけ2010年 Part7 久大本線

第6日目 2010年4月1日

南由布10:21-(4841D)→11:19大分11:23-(4836D)→12:20南由布 道の駅ゆふいん(泊) 


昨日夕刻からパラパラ降り始めた雨は、朝起きても続いていました。6:20、由布岳裾野から昇る朝日が見えましたが、直ぐに厚い雲の中に消えました。天気予報では、2~3日は雨が続くと言っていますので、当分好条件化での撮影は望めません。

しかし、冷たかった今年の春も例年の暖かさを取り戻したようで、桜前線は急ピッチで北上しています。本当に今年の春は、異常気象続きで撮影マン泣かせです。桜前線に待ったはありませんので、これからは、撮影地を絞っていく事にしました。今日と、明日の撮影地は、久大本線湯布院が中心です。

7:05、南由布を発車した4番目の列車の大分行きの、キハ200系の4829D。
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都電8800形増備

8800形の増備車8803~8805の3両が2月上旬に搬入され、3月中旬より営業運転を開始した。メーカーは昨年新製された8801・8802と同様アルナ車両で仕様も同じである。2両の頃は中々見られなかったが、さすがに5両になると日常的に見ることができる。今回の増備により、7500形の7501・7516・7518が廃車された。

 

8803/上22年5月8日飛鳥山  下22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

 

8804/上22年5月1日荒川車庫前  下22年4月3日 荒川7丁目~町屋駅前

 

8805/22年5月1日荒川車庫前 

他形式の動向

9000形

9001は平成19年3月、9002は平成20年12月に新製されたレトロ調車両である。貸切運転時に指名がかかることが多い。

 

9001 21年6月10日 荒川7丁目~町屋駅前

 

9002 22年5月8日 新庚申塚

8500形

平成2年にトップナンバーの8501、平成4年に8502・8503、平成5年に8504・8505が新製された。いつまでも新車と思っていたら、既に20年近く経過している。昨年になって8503と8505にラッピング広告が貼られた。スポンサーはご覧のように警視庁で、広告を見てドキッとされた方もおられるのではないだろうか。

 

8501 22年5月1日荒川車庫前

 

8503 上22年3月20日 飛鳥山 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 庚申塚~巣鴨新田 

 

8505 上21年12月30日 荒川車庫前 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 飛鳥山~滝野川1丁目

7500形

昨年新車との代替で7503・7513・7515の3両が廃車になり、更に今年の3月前述の3両が廃車になったため、現役で残っているのは7505・7510・7511・7512・7520の5両となった。この5両も今年8800形が5両増備されると廃車になる予定である。ラッピング広告がないのは7511のみである。

 

7511 22年3月20日 飛鳥山 

 

7512 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

 

7520 22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

7000形

7001~7005・7007・7008・7010・7013.7015・7016・7018・7019・7022~7027・7029~7031の22両が健在で主力として活躍している。廃車になった車両の内7009・7028は平成4年、7017・7021は平成12年豊橋鉄道に譲渡された。7022は黄色に青帯のリバイバル塗装車になっている。

 

7002 22年5月1日荒川車庫前

 

7022 22年5月1日荒川車庫

 

7005 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

保存車6086

最近塗替えが行われて綺麗な姿になった。京福電鉄福井支社の事故が原因で廃車になり、荒川遊園地に保存されている6152と共に現役に復帰できないものだろうか。現在荒川車庫の最も公道寄りに留置されており容易に見ることができる。

その他

荒川線と阪堺電車がPRの相互乗入れが行われることになり、7500形1両を阪堺線の旧塗装に塗替え6月6日から運行されることになった。また、阪堺線でもモ501形が1両黄色に赤帯の都電の旧塗装になる予定である。両線の活性化を目指した以降の展開に期待したい。

24年前の南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道の軽動車 高森

5月6日(#7991)、8日(#8015)にぶんしゅう氏の南阿蘇鉄道がアップされた。半月出遅れたが、拙老も1986年に南阿蘇鉄道を「ひと覗き」し、早いもので23年半たってしまったが、この3セク鉄道開業は同年4月1日だから、半年後である。

1986年10月18日天気不良の中で甘木鉄道を往復し、その日の内に高森へ。土曜日の午後とあって乗客(非地元民)は結構あったが、大方は阿蘇下田までに降りてしまった。新潟製の非貫通軽動車は1軸駆動にしては33‰を苦にせず上る。車内はネジ頭が丸見えのバス並で安かろう、上等でなかろう(これでも内燃動車ファンのはしくれだからあえて「悪かろう」とはいわない)だが、本年2月の登場だから、この時点まだピカピカだった。今年なら車令24年になる。


立野駅 かつてC58、96、C12が躍動した面影はカケラもない

この時点乙女チックな駅舎は立野だけだったように記憶するが、高森は「インテリジェント・バレー」を目指しといるとかで、木造でひなびた駅舎をぶっ潰し、数千万円をかけてニューメディア・特産品展示、陶芸教室などを併設した新駅舎に建て替えるんだと、駅員は力説していた。当時のことだから、農水省等の補助金での町興しの一環だったのだろう。

そのニューメディアの一端というか、実験か、待合室にキャプテンの端末があった、といっても今では完全に死語になってしまったが、Character And Pattern Telephone Information System の略。物の本によると「電話回線を使って受像機と情報センターを結び、センターに蓄積されている各種情報を利用者の選択に応じ呼び出し、受像機の画面に文字と図形で映し出すシステム。国際的にはビデオテックスと呼ばれ、キャプテンは日本での呼称」とある。

NTTがこのサービスを開始したのが1984年だったが、端末機がやたら高価ででっかく、技術未熟、何にもまして魅力あるコンテンツに乏しく、公共施設などに端末を無理やり設置はしたが、利用者も極めて少なく、結局ほぼ普及しないまま消滅した。

高森駅では列車の時間表がプリントアウトできるという表示があったので、早速トライ。ところが出てきたのは改正前ダイヤで、これじゃ何の役にも立たない。修正されていない―誰も利用していないのが歴然だった。政府はずいぶん金を投じたはずだが、全く無駄な投資ではあった。


高森に保存されていたC12241

高森の町はかつて木材で賑わい、営林署、簡易裁判所、専売公社支所(葉タバコ集積)等、官公庁出先機関も多数あったのだが、すっかり寂れてしまっていた。それでもリーズナブルな旅籠を見つけ投宿。晩飯はいらんと宣言したらヘンな顔をされ、何かいいたそうだったが、それっきり。

下駄履きで町へ出てヘンな顔の意味がわかった。飯屋、飲み屋の類も何軒かはあるのだが、一軒も営業していないのである。土曜日の晩だったからかもしれない。散々歩き回ってシケた料理屋が何と開いていたので、板長か主人かに、かくかくしかじか、何か腹のふくれるものと酒をと嘆願。

親父は見習いと思しき若者に、何か作って上げなさい、酒も、と指示し、恐らく若者の実地研修の一環で、無人のカウンターで一人淋しく、それでもともかく餓死からは逃れられた。

 翌朝はカルデラ内で軽動車を撮ったが、やはり平地では面白くない。立野11時18分発トロッコ列車は日曜とあって、沿線温泉宿泊客がかなり乗車し、かつ寒いため、標準編成の後尾にディーゼルカーを連結した珍編成だった。折り返し立野行き上りの乗客は約30人だったが、半分が阿蘇下田で降り、以後乗降なし。出入り口はチェーンと数字合わせ錠で固められ、必要の都度ガチャガチャと開閉する。

そのトロッコ列車は、2両の協三工業製「半キャブ」(国鉄貨車移動機の再生車)間に2軸無蓋貨車(トラ)を改造したテント屋根の客車が2両。中には木製の椅子、テーブルがしつらえてあり、貫通路もある。先頭機関車でキーを回すと、前後の機関車のセルモーターが回り、エンジンが始動した。総括制御だったのである。


高原の秋は結構寒く、心底燗酒がほしかった

この機関車は現在二代目が就役しており、初代は確か旧門司港駅構内を往復しているはずである。

なお高森線には私事ながら想い出がある。新婚旅行で伊丹から飛行機で福岡へ、列車で長崎、雲仙、三角から熊本、ここから大奮発で特急「はやぶさ」に乗り鹿児島へ。フェリーで櫻島へ渡り、袴腰から国鉄バスで海潟へ。古江線、日南線を全線乗車し、宮崎へ。更に日ノ影線に乗るはずが、手違いで宮崎交通バスで高千穂へ。翌日高森へ抜けたが途中でパンクし、予定が狂って高森線の13時10分発116レ(C12牽引)に間に合わなかった。それでも貨物が来るというので、嫁様を待合室に荷物と共にほったらかし、彼女曰く「右も左も分からないのに走って行ってしまった」。これはかなり後まで祟った。

桜前線追っかけ2010年 Part6 宮原線

もう桜前線は、北海道の末端へ行ってしまいました。旬が過ぎてしまったが、その間いろいろと書き込みをしてしまったので、ご無沙汰になりますが、来年挑まれる方のためにも記録を残しておきたいと思います。

第5日目 2010年3月31日

長陽駅15:15→17:10国鉄宮原線・肥後小国駅跡→17:29北里駅跡→17:57麻生釣→道の駅ゆふいん(泊)

長陽駅訪問後は、外輪山を越えて肥後小国へと向かいました。到着後、さて肥後小国駅は、どこにあっただろうと思い『道の駅小国』に立ち寄ると、駅名版、線路が残されています。地元のおばさんに聞くと、間違いなさそうで、駅跡を利用して道の駅ができたらしい。
▲ ここから、DRFCの1967年夏の合宿地、宮原線麻生釣へと、廃線跡を辿ってみました。郊外へと出ると、約42年を過ぎた今も、築堤跡やアーチ橋がそのまま残っていました。 続きを読む

パクリとニセ情報

ファイト、馬力、酒量いささかも衰えぬぶんしゅう氏が「新緑の赤沢森林鉄道」をアップされた。その中のF4型ボギー式機関車に添え、「上松停車場で出発寸前の『みどり号』を連結したF4型ボギー式機関車」とのキャプションが付された写真がある。

実はこの写真、「おじん2人+1人 ヨーロッパ軽便」トリオの「+1人」氏の作品で、どこかでパクラれ、堂々と展示されている訳である。かような公共展示であっても、撮影者の了解を取るのは当然だし、それが叶わぬなら、せめて出所(複写元)を明示するべきであろう。パクリが数々指摘されている上海「パク博」のことをあんまり言えないのが情けない。

パクリと言えば、すさまじいのがウイキペディアである。勿論真面目なものも多いのだが、執筆者の名前が出ないからか、パクリが大手を振って白昼堂々と横行し、全く恥ずるところがない。拙著「内燃動車発達史」等からも丸写しが山ほどあってうんざりするくらい。せめて出典を記す最低限度のマナーなんぞ、糞でも喰らえ、ないしは引用してやったのだから有難いと思え、といわんばかりである。

反面、まことしやかな記事で、うっかり信用して引用しようものならとんでもないことになるものも少なくない。最近必要があって「皇室用客車」から「軽便用御料車」を検索して驚いた。ちゃんと形式図まで入っているのに、それがまるで関係ない=違う図なのである。エイプリルフールじゃあるまいし、この執筆者は、まるっきりのガセネタ=ニセ情報で、読者を騙して喜ぶ愉快犯なのかもしれない。

両備鉄道は762mm軌間ながら1927年電化し、日立製凸型B-B電機11~16が就役。客貨車は日車製ばかりで、2・3等合造車の記号がトナ(特等・並等)、3等車がナであった。1930年の陸軍大演習で天皇が臨席されるとあって、両備鉄道は日車で「四輪ボギー貴賓車」1両「キ1」を新製。この時期木製車体で、それ以前の密閉車体並等車と実質同型だが、中央2個の窓を1個の広窓とした。これは用済後2個に割り、通常客車に格下げできる設計であった。


両備鉄道キ1組立図 『日車の車両史 図面集-戦前私鉄編下』より

現実には改造はなされず1933年現在キ1のまま、1940年1月1日買収され、福塩南線に。国鉄でも始末に困ってたった一度使っただけの客車だが、解体してしまったようである。

日車には数種の図面が残っているが、売上台帳には「木製御料車 1両 代価6,571円 製作費5,005円40銭」とある。即ちこの時期、しかも木製車体なのに、著しく高価であった。ガラスがすべて「磨硝子」だったが、それだけでこんな値段にはならないだろう。

ウイキペディアを即信用してはいけないとは、かねがね聞かされていたが、諸兄、上記のウソツキ図面(最大寸法7,170×7フィート×10フィート6インチ=なんでメートル法とフィート・インチ法が混ざっているんだろう)を検索し、日車組立図と比較してみてはいかが。

こんなことってあるんやなぁ!

普通電車のブレーキレバー折れる 滋賀の東海道線、急停車

 19日午後2時ごろ、滋賀県近江八幡市のJR東海道線篠原駅を発車した米原発網干行きの普通電車で、運転席のブレーキレバーが根元近くで折れ取っ手が外れた。運転士が残ったレバーの付け根を指先で操作し電車は急停車した。乗客約150人にけがはなかった。

 JR西日本によると、ブレーキレバーは鉄製で丁字形をしている。根元の直径は約2センチで、付け根から取っ手までは約15センチ。車両は223系で1997年に製造されて以来、レバーの交換はしていないという。運転士が発車させるためブレーキを緩めた際に折れたとみられ、同社が原因を調べている。

 JR西日本によると、電車は篠原駅を出発後、約140メートル先で急停車した。乗客は後続の電車に乗り換えた。

(47NEWS 5/19より)

記事には運転台におれたブレーキハンドルを置いた写真がでていた。見たところ金属疲労でポッキリ折れたようで、JR-Wはまたたたかれるのか?