厳寒の大地への旅を終えて、ようやく帰国しました。今日朝、朝日新聞を見ていましたら、祇園にジオラマカフェ『デコイチ』オープンの記事が載っていました。京都に、しかも家賃の高い祇園に出きるとは、ちょっとびっくりしました。模型班の皆様、一度寄ってみませんか。場所は、見つけるのが難しそうな所です。四条通を八坂神社に向かって、花見小路を左に曲がって、約300m直進、祇をん神門荘がある角を右折して、東に入った7軒目、祇園フォレリール2Fです。鉄道好きで、模型を運転してくれるスタッフを募集中だそうで、趣味と実益を望まれる方は連絡してあげて下さい。責任者は、本山支配人です。記事内容は、下記のとおりです。
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000170912100001
続々東海道あれこれ①
三島で宿(アルファ・ワン)を予約したのは2度目である。BHを利用するようになったのは1989年九州旅行の時からで、夕は居酒屋、朝はコンビニのスタイルが確立した。宿は駅前だから荷を置くや5軒先の居酒屋へ潜りこんだ。魚料理売り物の「庄屋」と称する店で、縞鯛の煮付け、おでん、胡瓜の糠付け、飯1杯、ビール大1本で2,500円で釣りがきた。ほろ酔いで宿に戻りしばらくニュースを見ていたら寝てしまった。深夜3時過ぎに目が覚めた。風呂に湯を入れ目覚まし代わりとする。ひげをそり、04:15からテレビ観賞。自宅でも土曜日のこのスタイルは変わらない。
こんなことで三島駅には7時前に登場である。霧が濃い。喫茶店が見当たらないので天麩羅そばを賞味する。伊豆箱根のホームには西武の中古車が客を待っている。「霧のため徐行運転をしておりますので全列車5分遅れています。」と、アナウンスしている。自動改札器は自社線キップとJRのキップを一緒に入れろとあるので2枚入れた。ピンポーン、通してくれない。きっと老人のジパングの方に問題があるのだろう。ホームの中古車は100系の後期車で、最近引退を始めたグループのものだ。1301・1401・2201の3連だ。これに乗って一先ず大場まで行く事にした。
広小路を出たら霧は益々濃くなってきた。架線電柱の2本目が見えない。視界7、80mであろう。大場の手前、PSコンクリートの橋は霧に埋まって姿を現さない。この橋の架け替え工事の時、この場所にやって来た。ポン友・三好好三さんと三角トラス組の架線柱が話題となり、1994年東北旅行では仙石線矢本付近で見付け、かぶりつきから一発仕留めた。数年後、大場車庫へ向かう途中、この地で発見。車庫訪問後に撮りにきた。撤去された三角柱は転がっていた。関西では見られないもので、買収国電の線区で時折見られるものであった。
大場の駅付近は少し明るい。駅では8分遅れと言っている。霧が晴れるには後1時間かかるであろう。老人は川べりに住まいしているから分かる。昨日は雨、今日は霧、ついとらんなぁ。そうだ、8時30分過ぎに東京行きがあったぞ。それに乗ろう。そこで大場から三島に戻ることにした。9分おくれでやって来た3001・3002・3501編成に乗る。3001に乗って気付いた事がある。中間車3002の車内が変わっている。3扉車の扉間は明るい茶色の対向クロス2組2列の筈が、やけにブルーのシート地が目立つではないか。行ってみると扉間6脚2列の転換クロスに取替えられていた。伊豆箱根JR西日本113系更新バージョンといったところである。
東京直通の湘南電車231系を待っていたら、彼方の伊豆急ホームには最新型7200系が到着。こちらの腰部分はカッテングシール張りの賑やかなものになっている。この系列の中間車は2扉車で、はじめから転換クロス車であった。座席指定にして別料金でも取るつもりだったのかもしれないが、今のところ特別扱いはしていない。元西武700系であった1000系は見られなかったから、もう引退したのであろう。当線の7時台は5列車の設定で、岳南も同様である。いつの間にかワンマン運転になっていた。
丹那トンネルを出ると快晴である。伊豆半島の東西でこれだけ気象が異なるのはどうしてであろうか。熱海では伊豆急2100系が乗り換え客を待っていたが、東急中古車の受け皿となり観光電車も引退する日は近いようである。昨春訪問が叶ったが、東急8000系の片側(海)が転換クロスに改造されており、
これには参ったなあ、と思った。これを見て伊豆急の3002号が誕生したのかもしれない。
小田原を前にして箱根登山いや小田急の登山電車連絡専用の赤い電車と競争になったが、あっと言う間に抜き去った。箱根登山線は湯本~強羅間を4回に分けて東海道を歩いている。この話はまたの機会としよう。酒匂川を越え、恨畜生の富士フィルムの工場を後にすると“富士山”が目に入る。231系ボックスシートで東京に尻を向けている。小田原で乗客の大半の入れ替わりがあり、席の位置を変えておいた。富士は5合目辺りまで雪に覆われている。国府津を過ぎて一旦見えなくなる。二宮あたりで再び見えてくるが、今度は5合目から上で、真っ白である。神々しい思いがする。裾野を引き摺るよりきれいだ。富士を撮るなら富士見へ、富士岡へと撮り鉄のお立ち台があるようだが、老人のような乗り鉄は、あちこちに移動展望区間を設定している。このあたりで幕を引く事にしよう。(2009.12.09.記)
1954年3月北陸から長野、三重 その8
最後の余力?を振り絞り、三岐鉄道が分岐する富田へ。この時点架線は既に張ってあったがまだ電化に到らず、蒸機とディーゼルカーだったのに、なぜか蒸機は撮っていない。この鉄道の開業は1931年7月23日と遅いが、初めから客貨分離で客車はなく、旅客用にキハ1~5の同形車5両を投入。江若鉄道キニ3と同図(同形車)だが、機関がウォーケシャ6SRL(江若はブダBA-6)。手荷物室があるのに記号はキハニではなくキハで、1931年6月日車本店製、両荷台は敗戦後の装着である。

キハ5 荷台と窓2段化で分からないが 江若鉄道キニ3と(機関以外)同形車だった
燃料が不自由になった戦時中は混合列車を運行せざるを得ず、私鉄、国鉄からボギー車、2軸車を購入。この時期の買い付けだからまさしく雑多の寄せ集めだが、珍しく半鋼製2軸車が4両あった。
ハフ11、12は汽車会社1932年製鶴見臨港鉄道(鉄道線)の2軸電車モハ51、52。台車はブリル、片側車軸上にパンタがあったが、貨車用の単軸受に交換し、当然自連も装備。入線当時はハフ1、2を名乗っていた。

ハフ13 車体は戦時中の新製だが、屋根上のトルペードベンチレーターは旧車から取外した?
ハフ13は芸備鉄道買収車で、その前は日露戦争当時陸軍が多数のB6機関車と共に現地に持ち込んだ新橋工場1904年製木製客車だった。芸備ではハユフ1で三岐でも同番だったが、戦時中名古屋工機部で木製車体を新製。除去した旧車体はその後も三岐の社紋のまま富田に物置で残存していた。
ハフ14、15は旧神中鉄道のキハ10、11で、日車東京支店1930年製の、一見丈夫そうな2軸車。下降式窓は2段(下段上昇)に、乗務員扉も埋められ窓になっている。
ハフ16はやはり旧神中鉄道のハ24で、汽車1926年製オープンデッキ車。なお当線電化後ハフ14~16の3両がキハ5、キハニ6とも、別府鉄道にやってきてハフ5~7、キハ2(二代目)、キハ3になったのが周知である。なお別府廃止後キハ3は佐久市に引取られ、本来の佐久鉄道キホハニ56に復元(100%厳密な復元とは言いかねるが)され静態展示。ハフ16も相模鉄道に無償で譲られ、保存されている。
このほか三岐には旧神中鉄道ホハ200も購入しホハフ201としており、車体を半鋼で新製したが、小生が訪ねた前年に日本軽金属(蒲原)に売却したので、結局見ず仕舞であった。
三岐鉄道は1955年電化するが、電気機関車は貨物のみ牽引。旅客はディーゼルカーが分担するという特異な運行を続け、1956年以降社型国電を導入。また貨物は当然関西本線への接続だが、旅客は1970年6月25日近鉄名古屋線の近鉄富田に変更し、数少ない国鉄富田接続のためにディーゼルカーを保有し続けた。その後気動車はキハ1~3を津軽鉄道キハ2406、2405、2404に売り飛ばし、2404はさらに上武鉄道キハ2400に転じている。謎の多いキハ7も北陸鉄道(能登線)に譲渡しキハ5162になったが、廃車後日本海の藻屑―漁礁として沈められた。
最終日のみ個別活動した3人は指定の列車に参集し京都へ。乗車券は草津で切れ、山科で下車すると草津-山科分を払わにゃならん。手元著しく不如意とあって、心ならずも山科では先頭客車からホームと反対側に下車?したら、機関士か助手かに見付かり、「おーい、2人逃げよるぞー」と大声が発せられたが、無事逃げおおせた。当時の駅はどこも開けっぴろげだったから、まことに「人に優し」かった。(この項終わり)
続・東海道あれこれ①
家山駅前で菓子パン2ケと自販機で飲物を調達して、気になっていた豆デジカメの首尾を点検したら2発共に失敗であった。本日やり直しは不可能である。13:30発で金谷に戻る。交換した下り列車は元南海21003・4の2連だが外部塗装はボロボロだ。乗ったのは元吉野特急の16001、まだ荒れ果てた姿とはなっていない。この日、本線上では元吉野が2本稼動しており新金谷庫外に1本、更に庫内にピカピカが1本、計4本。1本増えているが、これが元南海の1本を追放するのであろう。当線は1日4本で運用可能。予備、全検用を各1本とすれば6本あればOKとなる。元近鉄名古屋線特急は姿を消しており、そのうち元女王様も退位の宣告を受け、全て吉野特急になる日が近いのではないかと思う……。仁蓮上人の笑顔が浮かび上って来る。その時は腰が痛いとぼやかずに「川根温泉」で治療に当られたし。
金谷14:09発興津行きで東行、211系である。静岡で14:54発熱海行きに乗り換え。今度は313系となる。吉原で下車、岳南鉄道である。先ずトイレへ。年を取るとトイレが眼に入るとあれこれ考えずに直行する。外は本降りとなっている。せいせいしたところで出札口へ。終点、往復」といったら、硬券と600円が返ってきた。片道350円なのにと思いながら硬券に目をやると全線1日フリー乗車券とある。出札のオバサンに聞けば土・日・祝日のみ通用で400円なのだそうだ。これはお得な乗車券である。
そして差し出されたコピー、「機関車まつり」とある。SLでなくELである。開催日は12月12日(土)、午前9時30分~15時、会場:比奈駅、催し物【一部を紹介する】比奈駅:機関車乗車体験(会費1,000円)、吉原~比奈間:機関車重連(ED403+ED402)運転、下り吉原発9:38→比奈9:54、機関車プッシュプル運転(ED403・中間に貨車・ED402)上り比奈発13:03→吉原13:19着、下り吉原発14:04→比奈14:21着。詳しくは電話0545‐33‐0510に問い合わせのこと。哲男君、君が紹介した梓川上流のダム建設工事で活躍した“ELまつり”ですぞ!そして比奈駅12:57には7000系、8000系の電車に加えED501、ED403、ED402を並べて撮影会をするとの耳寄りな話!さあ、京王電鉄で飯を食わせてもらった準特急もお出ましか!
お釣りの600円に30円加えてNゲージ1107形を購入する。孫へのお土産の追加である。15:50発7003号で江尾に向かう。保線状態は誠によい。大井川も少しは力を入れて欲しい。上下分離方式で中部電力に相談を持ち掛けるとどうなるだろうか? ジャトコ前なる駅がある。何時改名したのか、前名は何か思い出せない。7001号入線直後以来の訪問だが、その時はどうだったのかな? あの時は7001号と青蛙の走行音に聞き耳を立てていたので駅名などかまっていなかった。
比奈にはED501が留置されている。今も入換担当なのだろう。構外には元小田急の達磨さんが3両放置されたままである。この辺りには“アパッチ軍団”は出没しないようだ。富士岡の車庫には7002号とED402、403が建屋内に、ED291は屋外留置線にある。今も入換に使っているのか気になる。いずれ哲男君から当電鉄の薀蓄が披露されるであろう。
乗降客は途中入れ替わりあって延べ23人。神谷で吉原から一緒だった22人目のご婦人が下車、後は23人目の老人一人で終点到着。8000系2連が留置されていた。朝のどの列車に充当されるのだろうか、聞き洩らした。雨の中、頭上を新幹線が唸りを立て走り去る。近くに閑静な住宅街があるが、どちらが先住民なのか気になる。運転手君が戻ってきた。一日乗車券を見せたら「どうも恐縮です」と会釈されてしまった。老人の貸し切りとなったのは須津(すど)迄で、それからボツボツ乗降する人が増える。前回乗った時は外国からの出稼者が目立ったが、今回は殆ど見当たらない。これは東海道線でも同じ傾向で、現在の日本を象徴する光景なのである。吉原着で降車客を数えたら40人を超えていた。
吉原16:54発、三島17:17着。静岡からは313系2500番代ロングシート車で、本日2回目の乗車であった。始めに立てた計画では19時過ぎに三島到着だったのだが、大井川で最悪の女王様のお成りに加え雨のため完全な乗り鉄になってしまい、つまらん東海道中になってしまった。また良いこともあろうと、期待している老人である。(2009.12.08.記)
東海道あれこれ①
息子が関東圏に進出して15年になる。以来、東海道を上り下りする機会が多くなった。時間の許すかぎり普通列車に乗るように心掛けている。2009年は4月4日、浜松下車で遠州鉄道、静岡下車で静岡鉄道が覗けた。そして今回12月5日は先ず金谷からスタートである。時間を倹約するため乙訓の陋屋を6:40に出発、新幹線7:29京都発、掛川下車9:35から「あれこれ」開始となった。
ちょっと省略して新金谷に10:00前に到着。連絡列車ないのに、と訝る人もあるかもしれない。島田市民病院行きバスがある。新幹線8:29発では駄目である。電車は180円、バスは160円。20円の儲けとなる。バスは新金谷駅前には立ち寄らない。大鐡との踏切、「金谷口」で下車。徒歩3分で大鐡本社前に到着する。平日は2階へ上ればいろいろ便宜を図って貰える。土、日は階下の駅事務室に行けば「鐡」向けの応対が保障される。これは白井元副社長の薫陶によるものと思われる。今回は2007年9月21日訪問時、京阪の元女王が検査待ちで家山に留置されている姿しか見られなかったので、今生の思い出に元気に走りだした雄姿に手を合わせたいとの念願でやって来た。盆明けにturukame氏から走り出したとの報を受け行動をおこしたのだが、関ヶ原~掛川間は晴れていたのに牧ノ野原台地へ来ると時雨れており、日頃の精進の悪さを再認識することになった。
駅では持参した手作りの運行図表に、本日の元女王の足跡予定を赤線でなぞる。千頭11:42発。なに、この筋は「撮り鉄」向きではない。金谷13:02着の後、新金谷へ戻り検査入場、17:05再登場となる絶望運用なのである。今回、老人は体調のこともあり「撮り鉄」ではないが、豆デジカメをポケットに忍ばせてきた。1993年春、白井昭さんから女王が川根路を走ることになると聞かされ、新金谷に留置された仮台車姿の車体を、1995年盆休みには2日間、川筋をはしる姿を追い掛けた。以来、2007年まで毎年のように「大鐡詣で」を続けてきたが2008年に途切れた。今回はどうするか、後の行程を考え奥に入ることは諦め一先ず家山に向かうことにした。
10:10発でビルマから帰国したC56が、空車の客車4両を引き連れED101の後押しで下って行った。老人は10:56新金谷発で下る。この日のSL急行設定は新金谷11:58発の「かわね路号」なのだが、金谷発11:07発の臨レがあり、貸切バスの中高年の女性で駅売店やSLランドをうろつき賑わっている。老人もつられてC12の玩具を買ってしまった。これは孫が「トーマスとその一族」の事で爺に挑んでくるので、「日本のSLはこれだ!」と教育するためである。家山に着いて一思案。構内で上りの女王様を出迎え、下る「かわね路号」を後にして女王様に打ちまたがり金谷に向うか、どうしたものだろうかと迷う。新しいトイレで、まだ考えている。済ませて外に出ると山間が明るくなって来た。よし!決めた、家山鉄橋でお待ち申し上げようとトボトボと歩く事15分、鉄橋の下にたどり着いた。今回はゴム草履なしだから県道利用である。その頃、一度上った筈のが再び時雨れてきた。「大鐵」の鉄橋下は雨宿りにはならない。平行する県道の下、切り株に腰を下ろし「臨レ」を待つ事しばし、11:43にやって来た。C11193牽引、E501後押しの客車6両の編成であった。
そして本番、12:20に切り株から再び腰を上げ、木立の間から家山駅方向が見える位置に立つ、:26、前部標識灯2ケのものが到着した、鉄橋を今朝見た里帰りC56先頭の「かわね路号」が軽い足取りで家山駅構内に進入して行った。:29、タイフォーンと汽笛が程よい間隔で鳴る。鉄橋に踏み入れたところで一発、100m進行して二発目と計算して豆デジカメを鉄橋の方に向ける。一発目OK、二発目、傘が被さってきた。左手で払う間に女王様は迫ってくる。豆デジカメは言う事を聞かない。つまり連射が利かないのである。タイミングはずれた。アーア、雨の中をお迎えするなんて、大スカタンである。でも、これでもう一度、拝礼のチャンスが与えられた。今度は大井川第4鉄橋でお迎えすることにしよう。turukameさん御推薦の“かわね温泉”泊まりにすることにしよう。(2009.12.07.記)
日本最古の木造客車を募金で修復へ 鳥取
【産経新聞izaより転載】
鳥取県米子市の商店街、元町サンロードの「ぱてぃお広場」に展示されている国内最古の木造電車の修復運動を盛り上げようと同広場で7日、家庭で不要になった電化製品や車、バイクなどを1円で買い取る取り組みが始まった。修復費を集める募金活動を知ってもらおうとの試みで、1円はそのまま寄付してもらう仕組み。同広場で13日まで受け付ける。
記事本文の続き 展示されているのは、米子市と旧西伯町(現南部町)を結んで大正13年に開業した法勝寺電車の「フ50形客車」。昭和42年の路線廃止後は、市がこの客車を引き取り湊山公園で展示していた。しかし、放置されて傷みが激しくなったことから、平成13年に修復されて現在の場所に移転。そのときの調査で、明治20年に英国バーミンガム市で製造された日本国内に残る最古の木造客車と判明した。
前回の修復から8年が経過し、塗装の劣化が進み、再び修復が必要となっているため今年10月、元町通り商店街振興組合が「行政に頼らず、自分たちで修復を」と募金を開始。本来なら処分費用がかかる不要品を買い取ることで、募金自体をより多くの市民に知ってもらうのが狙いという。
同組合の高橋信三・活性化委員長は「貴重な客車の修復くらいは自分たちで何とかする商都米子の心意気を見せたい」と話す。
買い取りに関する問い合わせは「恵伸サービス」(090・9063・6303)。
松本電鉄・大糸線
湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重 その4」で松本電鉄上高地線(当時の名称は島々線で昭和30年4月上高地線に改称)と大糸線について、当時の貴重な画像と共にご紹介いただいたが、昭和50年前後の状況を書いてみたい。
松本電鉄上高地線
歴史は意外に古く、大正9年3月筑摩鉄道として設立、翌年の10月松本~新村間を開業、11年5月に波多(昭和31年5月波田に改称)、同年9月に島々まで開業した。以降の動きを簡単に纏めると次の通りである。同年10月社名に「電気」を挿入して「筑摩電気鉄道」に変更、昭和7年12月松本電気鉄道に再度社名変更した。戦後の動きは、昭和30年4月線名を「島々線」から「上高地線」に変更。32年11月架線電圧を600Ⅴから750Ⅴに昇圧。41年10月赤松駅を「新島々」に改称して駅前に上高地、乗鞍方面行のバスターミナルを設置。58年9月28日台風による土砂災害のため新島々~島々間が不通となり休止を経て昭和61年1月廃止。61年12月架線電圧を1500Ⅴに昇圧すると共にワンマン運転開始。平成11年10月ATSを設置。平成19年3月21日新村車庫で保管されていたハニフ1を鉄道博物館に寄贈のため搬出。
松本電鉄は川中島バス、諏訪バス等を統括するアルピコグループの中核企業であるが、少子高齢化による人口の減少、通勤客のマイカーへの転移等で、電車、バスの利用者が減少により、メインバンクに対し私的整理ガイドラインに則った再生支援を要請した。また、大正9年の創業時に建設された、西松本~渚間の田川鉄橋、渚~信濃新井間の奈良井川鉄橋が国交省から「数年以内に抜本的な対策が望ましい」との指摘を受け、架け替え工事費が数十億円もかかるとかで、会社側から「行政の支援がなければ事業継続は困難」との見解を示された。一昨年の8月下旬、槍ヶ岳登山の帰り、上高地から松本行の直通バスに乗車した時、新村を過ぎた辺りから交通渋滞のため、ダイヤ上では40分の新島々~松本間が2時間半もかかり大変な目にあった。松本市はご承知の通り城下町のため市内の道路が狭く、行楽シーズンの午後は大渋滞となることと、沿線の高校、大学の通学の足として学生の利用が相当数あること、夏季を中心に登山客、観光客の利用が相当数あること等により、バスへの転換は無理な面があると思われるため、行政側もしっかり支援していただきたい。
車両について
電車
湯口先輩が訪れられた当時の電車は昭和33年から39年にかけて、当時、日本車両が地方私鉄向けに製造した「日車標準車体」に乗せ替えられて、形式モハ10形・10-1~10-11の奇数の5両(-は解説上付けたもので実車には表示はない)とクハ10形10-2の計6両となっていた。昭和61年12月24日架線電圧の1500Ⅴ昇圧時に元東急デハ5000形改造のモハ5000形5両、クハ5000形3両と交替で廃車となった。モハ5000形も、老朽化のため平成11年と12年に元京王電鉄井の頭線のデハ3100形・3050形改造のモハ3000形+クハ3000形4編成と交替して廃車となった。
上 モハ103 下 モハ101 波田 (50.11.23)
モハ107+モハ1011 森口~下島 (45.3.18)
電動貨車
湯口先輩はデワ2を新村で撮影されておられるが、私が訪れた時は森口駅の直ぐ傍の工場(社名は忘れた)に出入する貨車の入換と、屋根の島々寄りに櫓が取り付けられ、架線修理車して使用されていた。
森口 (45.3.18)
電気機関車
湯口先輩の訪問時には機関車がなく、前述のデワ2がその任に当たっていたが、昭和35年6月西武鉄道からED301を購入、昭和40年から44年かけて梓川に建設された奈川渡、水殿、稲核の各ダム工事の資材輸送のためED402・403の2両を新車で購入し、計3両が在籍した。
ED301
大正15年アメリカ・ボールドウィン社(機械部分)ウェスチングハウス社(電気部分)製で昭和35年6月西武鉄道から購入した。元を正せば、大糸線松本~信濃大町間の前身信濃鉄道電化時に新製された1~3のうちの3で昭和12年6月国有化によりED223に改番、昭和31年に廃車となり西武鉄道に譲渡されA1形A1に改番した。平成7年9月廃車となったが、機器扱いで現在も残されている。
森口 (45.3.18)
ED402・403
前述の通りダム工事の資材輸送のため、昭和40年10月日本車両で新製した。新製当時の架線電圧は750Vであったが、工事終了後他社への売却を考慮して1500Vとの複電圧回路であった。工事終了後、昭和46年に岳南鉄道に売却され、改番されることなく使用されている。
波田 (45.3.18)
ハニフ1について
前述の通り平成19年3月21日鉄道博物館に寄贈のため新村車庫から搬出されたが、寄贈が決まった平成18年12月から搬出日までの土日に一般公開が実施され、搬送当日には盛大な式典が実施された。当件は後日知り、事前に判っておれば無理をしてでも行っていたのに非常に残念であった。以前から寄贈の話は何度かあったが、交換条件が折り合わず実施に至らなかったという話を聞いたことがある。
大糸線
湯口先輩が北松本区で撮影された元信濃鉄道買収車クハ5101、モハ1101、モハユニ3100は、当時の買収国電を撮影されておられた方が少なかった時代の記録として大変貴重である。車両の詳しい経歴等は佐竹先輩著作のネコパブ社発行「私鉄買収国電」をご覧いただきたい。買収後は東京から17m車が転入して信濃鉄道の買収車を置換えた。モハユニ3100の代わりは20mのモハユニ44000と100が務めた。モハユニ61001が前身のモハユニ44100は昭和35年両運に改造され、クモハユニ64000に改番され、自連付で貨車を牽引していた。昭和45年8月クモユニ81003と交替して岡山区に転属して赤穂線で使用、昭和52年9月静岡に転属して入替えと大船工場への入出庫車の控車として使用、翌年8月に伊那松島区に転属して飯田線で本来の目的で使用後、昭和59年2月に廃車となった。
17m車は、関西から転入したクモハ51、54、関東から転入したクモハ60、クハ55、サハ57等に置き換えられて廃車となった。現在は115系と大糸線専用車として新製されたE127系100番台が使用されている。E127系は交流の701系の直流版とも言うべき車両で0番代は新潟地区で使用されている。昼間の2連の列車は信濃大町以北、一部は有明以北の殆どがワンマン化されている。かつては春から秋にかけての行楽シーズンは、登山客、観光客で賑わい、新宿、名古屋からの臨時の直通列車が多数運転されていたが最近では減少している。理由はマイカーへのシフトもあるが、長野新幹線の影響が大きい。長野新幹線と大糸線は一見関係なさそうに見えるが、東京から白馬や信濃大町へは松本で大糸線に乗換えるよりも、長野で特急バスに乗換える方が断然早い。おまけにバスは栂池やアルペンルートの扇沢まで直通する。また、白馬駅ではバスと新幹線の直通切符を発売しており、山から下りてきた登山者は、運賃が高くても自宅までの所要時間が短い方を選択する傾向がある。
旧形国電時代の車両については書きはじめるとキリがないため、後日機会があれば解説することにして、今回は列車写真を中心に貼り付けた。
ED602牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25)
ED603牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25)
急行「アルプス4号」細野~北細野 (48.3.25) 中央東線急行の基本編成
南小谷12時16分発信濃大町まで普通、信濃大町から急行となる。5両目は売店付きのサハ164である。
急行「アルプス8号」信濃大町 (48.3.25) 中央東線急行の付属編成
新宿を23時45分に発車して、付属編成が松本から普通列車となる南小谷行
クモハ51013+クハ55405+クモハ51014+サハ57400+クモハ51011+クハ55439 信濃大町(48.1.14)
クモハは全部51形である。旧形の基本編成は4両と2両があり、4+2の6両編成が多かった。
クモハ54004+クハ55430+クハ55439+クモハ12000+サハ57400+クモハ60082 信濃大町(48.3.25)
中間に17mのクモハ12が入っている。両運のためクモユニ81003の予備車として残された。2丁パンタで上がっていない方は霜取用である。
クモユニ81003他7連 信濃大町 (50.11.23)
6両編成の普通列車 細野~北細野 (48.3.25)
糸魚川~信濃大町間のDC列車 上 キハ5243 下 キハユニ2629 信濃大町 (50.11.23)
当時、糸魚川から信濃大町まで2往復、白馬まで1往復のDC列車が設定されていた。糸魚川~信濃大町間に2往復もDC列車が残されていた理由は、郵便・荷物輸送のためで、信濃大町でキハユニ26からクモユニ81に積み替えられていた。(下りの場合は逆)南小谷で積み替えを実施しなかった理由は、信濃大町以北のホームの有効長や南小谷駅の設備の関係があった。
クモハE127-105+クハE126-105 白馬 (H13.8.18)
E127系は、平成10年12月より使用を開始し、MT2両編成が12本、24両在籍する。座席は南小谷方面に向かって左側がクロスシート、右側がロングシートになっている。信濃大町以北(一部の列車は有明以北)はワンマン運転になっている。画像の列車は松本から更に先の辰野行であるが、平成15年12月より松本~塩尻間のATSがSN形からP形に変更されたため、乗り入れができなくなり大糸線専用になった。
満ち欠け
【欠け】 先日、飯田線を訪れたとき、面白い信号機がありました。

単線閉塞区間なので、黄色が不要なんですね。
3灯式信号機の黄色い部分にフタがしてあります。
これなら青の無い色灯式信号機があるのではと探してみると、
案外近くで見つかりました。

中央東線、日野駅の下り方の中線(待避線)へ入る信号機がそうでした。
分岐部分でS字にカーブしていて、徐行運転が必須の様です。
でも流石に赤の無い色灯式鉄道信号機なんて、無いでしょう?
工事区間の徐行解除を示す青の円盤(標識)は別として。 (^^;)
【満ち】 さて今度は満ちている方です。
先日、修善寺/花月園のレイアウトを『583』で占拠しました。
しかし最後の画面に写るパトカーには出来すぎの感が。 (大笑い)
↓
1954年3月北陸から長野、三重 その7
前回が11月16日だったから、半月経過してしまったが、その7を続ける。
3人は名古屋鉄道を撮った後、最終関西線215レの「ハテ」で会おうと別れ、各人好きな場所へ。「ハテ」とは我々仲間の隠語で、三等展望車、即ち列車最後尾のデッキを指し、列車の「果て」というわけである。我家には電話がなく、時折「15ヒトカホセ912レハテ」てな電報が来ることがあった。15日東海道本線912列車の最後尾に乗れ、という指示である。
小生はまっしぐらに桑名へ。三重交通北勢線の桑名車庫には32号コッペル機が、荒れてはいたが姿をとどめていた。北勢鉄道→北勢電気鉄道7号→で、1924年製6.9トン。62号電機は松阪線から転じたもので、松阪電気鉄道12が前身。田中車両1927年10月製で、松阪鉄道電化当時の立役者である。

松阪線から転じた62号電機 ←松阪電気鉄道12

モニ226←北勢電気鉄道55 日車1931年3月製

モニ223+サニ431 桑名 軽便車両製作所なるところで1907年12月製造された大日本軌道熊本支社1が伊勢支社→中勢鉄道キホハ28→ 1944年戦災を受け車体を新製

サ105 太平車両なるところで1950年新製した木製車 桑名

右からワ714+713+711 桑名
なお写真で見られる通り連結器(ピンリンク=米国ではリンク&ピンと逆に言うが日本が逆か)の中心高が低く380mm。のち3/4柴田式自連に換装されるのはかなり後である。

三重線モニ228 諏訪 日車1949年3月製で敗戦後全国最初の762mm軌間新製電車
次いで四日市へ行き、諏訪まで歩く。やたらめたらと狭いところに車両がひしめいているが、かつてはこんな狭いところで単端式ガソリンカーの転回を、それも終日やっていたのである。三重線が戦時中に電化できたのは、沿線に海軍燃料廠があったためで、海軍士官は未成年の候補生時代から鉄道は2等に乗る、英国式の教育を受けていた。横須賀線、呉線や大村線に敗色濃くなるまで2等車が健在だったのはその為だが、ここでは超満員の代燃単端式車やボロ客車に音を上げ、海軍の肝煎りによる電化であった。なお三重線の連結器中心高は北勢線よりまだ30mm低い350mm。後年の自連化では流石に上げたが、それでも450mmで、軽便としては低い部類である。

ズラリ並んだ戦後製サ150型客車 164は近畿車両1950年11月製でのちサ158に改番

サ342+324 諏訪 342は三重鉄道ホハ6←四日市鉄道ホハ6 324は戦時中代燃ガソリンカーであるナ141←シハ81に改造されていた三重鉄道ホハ11←中勢鉄道ハニ1←大日本軌道伊勢支社ボコ1が経歴
なお三重交通の762mm線は三重鉄道、北勢電気鉄道、松阪電気鉄道の寄り集まりで、オープンデッキ客車が結構居たが、これを嫌って静岡鉄道、尾小屋鉄道に売り飛ばし、敗戦後密閉型客車を新製。最初は木製車体だったが、その後半鋼で近畿車両、帝国車両、ナニワ工機、日車で総計30両もの客車を作ったのが特異であった。
通信員だより
小春日和の11月25日、商用で京都へ向かうことになり、その前に大長老佐竹翁の写真展を鑑賞すべく烏丸御池駅へと向かう。愛用の日本橋駅から大阪市営地下鉄堺筋線に乗車、乗車券は阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年記念乗車券と称するスルッとKANSAIカードを使う。大阪地下鉄全線と阪急京都千里嵐山線が一日乗り放題というものです。日本橋駅は地下鉄堺筋線千日前線と近鉄難波線の駅であるが、電車は地下鉄と近鉄のほか阪急も乗り入れていたのが今春から阪神まで走り出しいろんな電車に乗れるし便利になりました。
さて阪急の優等列車に乗り換えるべく淡路へと向かうが、淡路駅の手前では高架化工事がおこなわれており、広い空き地が見えてくる。空き地のむこうに梅田からの電車も淡路駅に同時に入線するのが見える。扉が開くや鶯の谷渡りよろしく新型ロマンスシート電車に飛び移る。幸い車端8席のボックス席の一つが空いていたのでしめたと着席するが、7人はすべて女性で?と思うが調べ物の書類があったのですぐ目を通す。終わってふと貫通扉を見ると女性専用車となっていたのでさっそく茨木市で停まるやまたまた次の車輌へ谷渡り。特派員のほかに20代の男性がもうひとり乗っていたが彼がどうしたかはわからない。茨木市を発車して隣の専用車を覗くとオッサン二人が閉じこめられている。ほんの10分ほどの間に同好の士3人を見受けたが、真っ昼間に女性専用車を走らせる必要があるのか困った社会である。特急が淡路に停車するようになって喜んでばかりいられない、「女性専用車両の社会学」堀井光俊著秀明出版会刊などという本が新聞広告に載っていたが、思いがけなく読んでみたい経験をしてしまった。
帰途は四条烏丸より通勤特急に乗るが、大宮・西院と停まるのでてっきり淡路にもとまると思っていたのに十三まで運ばれてしまう。。綺麗なお姐さんの出勤退勤には合わないし、凡人の退勤には遅すぎるのに21時頃の通勤特急とはこれ如何に。準特急というハンドルネームの投稿者がおられるが特急急行準急各停と分かりやすかったのがなつかしい。
最後に、阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年を記念した臨時列車が12日5日と6日に運転されます。市営地下鉄車輌が天下茶屋~嵐山を一往復します。往路は天下茶屋~天六がノンストップで、大阪の地下鉄が京都の街を走る珍しい光景が見られる。今秋さいごの紅葉狩りをかねて嵐山へ行ってみませんか。
往路 天下茶屋10:19→11:24嵐山 帰路 16:32→17:36
新京成電鉄第15回「電車基地見学・展示会」
10月17日(土曜日)新京成電鉄くぬぎ山車両基地で第15回「電車基地見学・展示会」が実施された。自宅の近くであること、あわよくば近々廃車が予想される800系が撮影できるかも知れないと思って出かけてみた。
HPやパンフでは、ファン向きのものは「全車種ラインナップ撮影会」「新旧ダイヤの展示」「台車見学」くらいで、あとは「運転席で制帽着用撮影会」「8900形ミニ電車運行」「ドア開閉体験」等、子供とファミリー向けのものであった。
くぬぎ山駅から車両基地に行く途中、フェンス越しに800系が見えた。展示車両ではないがパンタが上がっており、フェンスの高さが2m程あり撮影はとても無理であった。もう少しフェンスが低ければ綺麗に撮影できるのに残念であった。それでも脚立に登って撮影している人がいた。取りあえず会場に行き全車種の並びを撮影したが、工場の窓から先程の800系の津田沼寄りの先頭車「モハ811」が撮影できたのはラッキーであった。一通り見学して帰りにフェンス越しにでも800系を撮影しようと思い、念のためコンデジをフェンスの穴に入れたところ、全車両ではないが、ギリギリ撮影が可能であった。
全車種ラインナップ(左から800系、8000系、8800系、8900系、N800系)
800系は昭和46年から50年にかけて日本車両でMc18両(モハ801~818)Tc6両(クハ855・856・859・860・865・866)T12両(サハ851~854・857・858・861~864・867・868)の36両が新製され、基本編成の4連6本と増結用の2連6本に組成された。新京成では初の高性能車であると共に初の純然たる新車であった。昭和60年から冷房化、前面の非貫通化、6連化に伴う中間車の運転台撤去等が実施された。新型車の登場により平成7年から廃車が始まり、現在は次の8両編成2本16両が残るのみとなった。
M811-M805-T857-M812-T859-M803-T854-M810
M813-M816-T863-M814-T855-M804-T853-M806
←京成津田沼
当日フェンス越しに撮影できたはM811編成で、M813編成は展示されていた。
現在、主に朝のラッシュに使用されているが、稀に終日運用に入っていることがある。何度か目撃しているがそんな時に限ってカメラを持っていない。
モハ811(津田沼寄りの先頭車)
モハ805
モハ812(運転台を撤去して中間車となっている)
サハ859(元クハで運転台を撤去して中間車となっているがクハとサハは元々通し番号であったため「ク」を「サ」に変更しただけである)
サハ854
モハ810(松戸寄りの先頭車)
モハ812の台車 FS329S2型
少し前の飯田線Ⅳ
前回の「(3)-2 戦前形2扉車 42系」から半年以上経過したが、今回は流電グループを解説する。
流電グループについては、過去趣味誌で解説され尽くされている感があるが、全体の流れを把握するために改めて飯田線入線までの動きを簡単に述べてみたい。
昭和9年7月、吹田~須磨間が電化された際、大阪~神戸間を28分で運転する「急行電車」を運転、昭和12年10月、吹田~京都間電化時に運転区間を京都まで延長した。
昭和11年3月に急行用として、第一次流電と呼ばれる1編成、モハ52001+サロハ46018+サハ48029+モハ52002が新製された。昭和12年3月、モハ52003+サロハ66016+サハ48030+モハ52004、モハ52005+サロハ66017+サハ48031+モハ52006の2編成が増備されたが、窓が大きくなり更にスマートになった。昭和12年8月には、モハ43039+サロハ66018+サハ48032+モハ43038、モハ43039+サロハ66019+サハ48033+モハ43040の2編成が増備されたが、流線形は中止となり半流に、検修サイドから不評を買っていたスカートの廃止、塗装は通常の茶色となったが、性能的にはモハ52と同一であったため「合の子」と俗称された。大西顧問から「『合の子』が完成した時は、戦時体制強化のため写真撮影が厳しくなり営業運転中の写真が少ない」というお話を聞いたことがある。そう言えば戦前の営業中の写真はあまり見かけない。
戦時中3扉化(一説にはモハ52とモハ43は4扉化)が計画されたが、資材と人手不足等により実施されず、ロングシート化と座席撤去及びサロハ66020(サロハ46018にトイレを設置して改番)、66016、66017のサハ化(48036、48034、48035)で終戦を迎えた。また52006と43038は戦災のため廃車となった。昭和24年4月には急行電車が復活し整備の上使用されたが、昭和25年10月に80系に置換えられたため阪和線の特急用に転用された。しかし、ここも70系スカ形の進出により昭和32年飯田線に転属した。尚、サハ48は昭和25年東京地区の旧モハ51のモハ41とモハ42、43、クハ58の2扉車と交換時に一緒に東京に転属し、これらの車両と共に横須賀線で使用されたが、最終的には岡山地区で最後を迎えた。岡山地区に転属する前に僅かな期間であるが古巣の大阪地区に戻った車両もあり、これらについては後日報告する。
(1) クモハ52
阪和線から昭和32年4月に004と005が、9月に001~003が伊那松島区に転属し、ローカル運用を中心に使用されたが、行楽シーズンに運転された名古屋~中部天竜間の臨時快速「天竜号」に使用されたこともあった。同年12月から翌年11月にかけて快速用として全車豊橋区に転属した。昭和36年3月1日、80系による準急「伊那」が誕生(実際には快速の格上げ)するまで快速用として活躍、その後も30番台の4連運用で南部を中心に活躍した。昭和53年11月から翌年3月にかけて80系300番台と交替で廃車となったが、トップナンバーの52001は極力登場時のスタイルに復元された状態で吹田工場に保存、52004は日本車両の構内を経て佐久間レールパークでされていたが、11月1日閉鎖により「JR東海博物館」に移設される予定である。
クモハ52001・002/昭和11年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉の新設と電動機のMT30への交換が実施された。001は昭和34年4月、池場~三河川合間で崩落した土砂に乗り上げ脱線大破し、廃車やクハ化が検討されたが無事原形に復旧した。001は昭和53年12月廃車後、前述の通り吹田工場で保存されている。002の廃車は昭和54年3月とやや遅い。
クモハ52001/上・豊橋(39-3-20/30番台4連運用の辰野行はこの1本のみ) 下・豊橋(40-3-20)
クモハ52002/豊橋(48-7-28)
クモハ52003~52005/昭和12年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉を新設したが電動機の交換はされずMT16のままであった。003と004は更新修繕後も張り上げ屋根のままであった。005は飯田線転属後方向転換され偶数向きとなった。昭和53年11月に全車廃車されたが、前述の通り004のみ保存され、平成23年春オープン予定の「JR東海博物館」に移設される予定で、現在の中途半端な復元スタイルがどのように変化するのか楽しみにしている。
クモハ52003/上・豊橋(48-7-28) 中・下地~小坂井間 (50-1-2) 下・豊橋 (48-3-36)
クモハ52004/上・豊橋(40-3-20) 中・下・佐久間レールパーク(H19-11-3)
クモハ52005/上・豊橋(40-3-20偶数向きに方転されている) 下・豊橋(49-9-23)
(2)モハ43039→43810・43040→53008・43041→53007
昭和12年8月川崎車輛製、戦後の経過はクモハ52とほぼ同様であるが、040と041は阪和線時代に電動機のMT30への交換が実施され、形式をモハ53に変更した。飯田線への転属はやや遅れて昭和33年2月で伊那松島区に配置された。43039は昭和40年3月浜松工場で身延線用としてパンタ部分を低屋根改造され43810に改番され富士区に転属した。53008・53007は飯田線に転属後、旧形国電終焉まで伊那松島区から移動することなく使用された。
モハ43039→クモハ43810/身延線では主に4連運用の中間車として使用されていたが、72系の車体更新車クハ66、モハ62が登場すると昭和50年3月、北松本区に転属した。当初は上松~聖高原間のローカル運用に使用されていたが、後に大糸線で使用され、昭和57年2月廃車された。
クモハ43810/上・柚木(47-5-6) 中・塩尻(52-5-2 上松発松本行) 下・松本(54-4-28大糸線)
モハ43040・041→クモハ53008・53007/008は昭和58年8月21日伊那松島~中部天竜間で実施された「さよなら運転」の先頭車に使用された。(編成は53008+47009+54110+47069)007は更新修繕後も張上げ屋根のままで特に人気が高かった。廃車は008が昭和59年3月、007が昭和58年11月であった。
クモハ53008/上・豊橋(48-7-28) 中・伊那福岡(48-3-25) 下・豊橋(50-1-2)
クモハ53007/上・辰野(54-4-29) 下・辰野(46-9-26)
(3)サロハ66018・66019・66020→クハ47153・47155・47151
流電グループの中間車サロハ66は5両中3両が飯田線に転入して運転室を取付けクハ47に改造、更に横須賀線に行った2両の内1両が転入した。
サロハ66020→クハ47151/昭和11年3月川崎車輛で第一次流電の中間車サロハ46018として新製、昭和12年8月トイレを設置してサロハ66020に改番した。昭和18年8月戦時改造で2等室廃止、トイレを撤去してサハ48036に改番、昭和25年に阪和線に転属。昭和33年11月飯田線に転属時に豊川分工場で運転室を取付けクハ47025となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47151となった。当初はローカルに使用されていたが、クモハ52と共に快速用となった。昭和42年9月身延線に転属したが、昭和47年6月飯田線に復帰。中部天竜区に配置され、昭和53年11月に廃車された。
クハ47151/上・豊橋(40-3-24豊橋区で30番台の4連運用) 中・伊那本郷~飯島間(48-3-25) 下・豊橋(49-9-23 中部天竜区の運用は60番台)
サロハ66018・66019→クハ47153・47155/昭和12年8月川崎車輌で「合の子」編成の中間車として新製した。戦時中もサロハのまま残り、戦後2等室は3等室代用となっていた。昭和25年に阪和線に転属後、昭和26年11月豊橋区に転属、昭和27年2月、豊川分工場で運転室を取付けクハ47021、47022となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47153、47155となった。昭和29年6月更新修繕Ⅱで座席のロングシート化が実施され伊東線に転属、昭和32年には身延線に転属し、昭和46年に飯田線に復帰。伊那松島区に配置され、153は昭和54年2月、155は昭和54年3月に廃車された。車内はロングシートのため、長距離利用客の評判は良くなく、特にロングシートのクモハ61と組むと最悪であった。また、広々とした車内は運動会ができる等と言われていたが、模型の運転会は十分できたと思う。
クハ47153/上・辰野(46-9-25)中・車内(46-9-25)下・田切~伊那福岡(48-9-2)
クハ47155/上・辰野(48-7-29)下・辰野(52-5-3 運転室窓Hゴム
(4)サロハ66016→サハ48034
昭和12年3月川崎車輛で流電(広窓)第2編成の中間車サロハ66016として新製した。昭和18年8月戦時改造により2等室を廃止してサハ48034に改造した。昭和25年に阪和線に転属後、昭和31年3月田町区に転属して横須賀線で使用、昭和34年12月飯田線快速用として豊橋区に転属した。30番台の4連運用の中間車として使用されていたが昭和53年11月に廃車された。
サハ48034上・豊橋(40-3-20)下・豊橋(48-7-28 )
2009年 北の大地へ Part12 富良野線 根室本線 日高本線
第9日目 10月30日
道の駅『うたしないチロルの湯』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』
昨夜は、早く寝付きましたので、夜明け前には、起きました。今日も天気がすぐれない予報でしたので、夕張辺りを目指すつもりではありましたが、空を見上げると、雲の流れが速くなっています。北海道に入ってより、天気予報には、敏感になっていますが、ことごとく外れています。
こういう時は、地元の人に聞く方が、間違いありません。丁度、犬を連れて散歩に来られた方に聞いてみますと、『もう少し様子を見ないと、はっきりと、分らないが、雨は降りそうにないだろう。好天になる可能性は高い。』と言われました。中学校の先生をしておられる方でしたので、石炭最盛期だった頃の話を聞いてみると、
『その頃は、大勢の炭鉱夫が住んでいて、周辺の町は、大盛況だった。蒸気機関車が、走り回り、汽笛の聞こえない時間は、なかった。後ろのサイクリングロードは、歌志内線の廃線跡です。炭鉱夫の住居には、風呂がなかった。共同浴場が向かいにあったが、老朽化したので、新たにできたのが、この温泉だった。
年中無休のはずだが、休館日だったとは、きっと何か問題があったのだろう。ここでは、7年おきに耐寒設備を点検補修しないと、雨漏りしたり屋根が抜けたりもする。箱物がたくさん出来たが、造るだけ造って、後の補修を考慮していない。これからも続く維持管理に相当な費用が必要だが、歳入が減る一方の町には、その予算を捻出できない。とても心配だ』と、嘆かれました。
『鹿の件だが、年々、被害が多くなっている。先日も友人が、鹿と交通事故を起こし、車の修理に、70万もかかったと嘆いていた。轢いた鹿は、持って帰って、生きている内に解体して食べる。』等々、書きつくせない、いろいろなお話を、聞かせていただきました。
ここの湯は、炭鉱の町だったためか、朝湯をやっていましたので、天候の様子を見る時間を兼ねて、入ってみました。通路の天井は、ビニールが張り巡らされていて、昨日は、雨漏りがひどく、臨時休館になったと聞きました。お風呂内の設備も、古くて綺麗ではありません。壊れていたりで、補修が追いついていないのか、よく分りました。
露天風呂から見る空は、どんどんと雲が流れ、青空になってきています。これは、富良野線に再挑戦しなければと思い、道の駅『うたしないチロルの湯』を後にしました。

芦別駅 これは、いったい何だと思わずにはいられない、場違いの五重の塔。日本経済発展を支えた炭鉱の町として、相応しいモニュメントがあって、しかるべきと思うのは、私だけでは、ないと思います。

▲ 728D 美馬牛→美瑛 キハ54-502

▲ 727D 美瑛→美馬牛 キハ150単行
峠を越えて、昨夜走った富良野線沿いに出ました。晴れてはいますが、期待した冠雪の山々には、まだ厚い雲がかかった状態です。期待は、吹っ飛びました。仕方なく、前日の撮影地での撮影となりましたが、昨日よりは、幾分ましでした。
富良野線での撮影を諦めて、根室本線の金山~東鹿越間を目指しました。

2432D 東鹿越→金山 キハ40 12:28、山深いこの辺りを走る列車は、極めて少なく、この時間に撮れる列車も、わずか1本です。
▲ 根室本線 富良野駅から狩勝峠へ向かう中間点に『金山駅』がある。このまま、釧路、根室方面に向かうも良しです。ホームには、伊予西条駅で見たと同じ煉瓦造りのカーバイト保管庫?が、残っていました。
慎重に撮り終えて、東の空を見ますと、雲が切れて青空が広がっています。ラジオの天気予報も、内陸部では降雪と、路面の凍結に注意するように、告げていますが、日高方面は、逆の予報です。ナビをセットすると、所要時間3:30と言います。今から行けば、夕日を見れる。その時間に、列車も走っている。太平洋側は、風も強いだろう。旅の疲れも溜まってきている。節約旅行に努めてきましたが、今夜は、初めて、宿を取ろうと、『新冠温泉 レ・コードの湯ホテルヒルズ』に予約を入れました。公共の宿ですが、私としては、大奮発の9950円(一泊2食)です。
途中、道路案内板に鉄道記念公園の看板が見えました。すっかりと、振内鉄道記念館の存在を忘れていました。先を急ぎます
が、見た以上、行かないわけにはいけません。

▲ D5123 昭和18年に汽車会社製造、サハリンで活躍しましたが、1990年に帰国。ここに保存されていますが、状態は極めて悪く、修復が望まれます。

客車は、スハ4537と、スハフ42-519です。こちらも。かなりボロボロ状態です。


野ざらしで、ボロボロになっていましたがD5123号機と、2両の客車が静態保存されていました。客車は、夏季には、ライダーハウスとして開放されていました。

富内線は、1964年に全線が開通し、1986戦に廃線となり、極めて短命に終わっている。残念ながら、この路線は、乗車していない。先ほど立ち寄った根室本線金山駅までの延伸計画は、あったそうです。
▲ 当時の路線図、たくさんのローカル線が、ありました。
▲ 15:20、ようやく太平洋が見えました。清畠駅で、時刻表を確認しますと15:30に様似行きの列車が出ます。ホームに上がると、かなたから、DCが走ってくるのが見えます。
▲ 撮影時刻15:39 様似行きの2233D
急いで、撮影予定地の厚賀~大狩部間の厚別川橋梁を目指しました。丁度、夕日が太平洋と、川面を染めての絶景です。ただ、車が止められる余地は、道路橋梁にはありません。渡りきった空き地に駐車してから、無我夢中で、走りました。そして、撮影場所に着いた瞬間に、DCが来ました。10秒でも遅ければ、撮影は不可能だったでしょう。ただ、アングルまで決められる余裕は、ありませんでした。また、通常、私は、マニアルモードで撮影していますので、前もっての試し撮影で、最適露光を決める余裕もありませんでしたので、もっと良い写真を撮れたかもしれませんが、美しい自然がカバーしてくれました。
▲ 大狩部駅を発車する苫小牧行きの2236D
ホテルには、17:00には着くだろうと、言っておりましたが、遅れるとの連絡を入れて、夕日が沈んだ後も、暗くなるまで、列車を追いかけました。
宿は、新冠の町並みを見下ろす高台にありました。露天風呂にゆったりと浸かって、久しぶりに、まともな食事を食べました。お風呂では、襟裳岬辺りで、明日、秋アジを釣りに行くという釣好きがおられ、釣る楽しみと、食べる楽しみを聞かせていただきました。 Part13 へ続く
2009年 北の大地へ Part11 かつての常紋信号場
と、思っていたら、インタネットで購入した簡単なフイルムスキャナーが、届きました。もっと早くに頼めば、昔撮った写真と比較しながら、投稿できたのにと思いました。
昭和44年9月(1969年)、当時の常紋信号場の光景です。9600やD51牽引された、しかも重連もあり、補機もあり、おまけに混合列車もありで、スキャンしながら、ノスタルジアの世界にうっとりしました。


今は、雑草が茂り、見る影もありませんが、当時は、頻繁に列車が、交換をした常紋信号場でした。


▲ こんな混合列車も走っていました。
▲ 今はなき、急行DCです。キハ56とキハ22の混合列車で、長編成でした。 こういった約40年前の写真を見ますと、もっと一生懸命に撮っていれば思いますが、今のようにデジカメ時代になると、何カット撮っても、問題ありませんが、当時は、フイルム自体、高価でした。100フィート巻きのトライXを購入して、夜、部屋の電気を消し、押入れに入って、カメラ屋でもらった中古パトローネに、巻いた時代を思い出します。 Part12 へ続く
【5391】EVE展示は26日(木)から3日間
私の投稿が長すぎましたので、本家 青信号特派員のご了解をとり、再投稿させていただきます。
鉄道同好会EVE展示
11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc
【5382】人間国宝 山科の写真展を開催
「山科の人間国宝」こと佐竹保雄さんの写真展が今週末から開催されます。
多方面への好奇心を失わず、家にはほとんど居ないぐらい、毎日元気に出掛けられている佐竹さん、今年の掉尾を飾るのは、山科限定の写真展です。今までも同様のテーマで開催されていますが、未発表写真も含めた、山科の魅力が詰まった総集編の写真展です。
さらに同時に開催される「石井麻子のニットアート展」とのコラボ、「雪とSLの額絵」も見ものです。
「佐竹保雄 山科国鉄写真展」
日時 11月21日(土)~12月6日(日) 期間中無休
会場 京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅内
烏丸御池駅ギャラリー(ラッチ外、中二階通路にある市民ギャラリーです)
なお佐竹さんの在廊日時は
11/28 10~13時 12/5 10~13時
11/29 10~12時 13~17時 12/6 10~14時
となっています。会員との出会いを人間国宝は楽しみにされています。

かつての日本一の撮影地、山科の魅力を余すところなく表現
なお、佐竹さんが以前に著された「おじいちゃんのSLアルバム」が“たくさんのふしぎ傑作集”に選ばれ、絵本仕様になり装いも新たに発売中です。お持ちの方も愛蔵本としてぜひご購入をお勧めします。

今度は書店の鉄道書コーナーに並ぶので買い易い(本体1300円)
2009年 北の大地 Part10 富良野線 美瑛~美馬牛
道の駅『おんねゆ温泉』美瑛11:00→11:25美馬牛11:30上富良野16:20→17:15芦別18:30→19:00道の駅『うたしないチロルの湯』期待した朝を迎えましたが、冠雪のあった山並みは、全く見えずの曇天です。美瑛駅に発着する列車音を聞いても、カメラに手が向きません。ガラガラの駐車場でしたが、北九州ナンバーの乗用車が止まっていました。まだ、道内に入ったばかりだと言う同年輩の方と、しばらく話をした後、ようやく美瑛駅探索に向かいました。
続きを読む 2009年 北の大地へ Part9 常紋信号場
第7日目 10月28日
道の駅『おんねゆ温泉』8:10→8:45金華8:55→9:30常紋11:40→12:20留辺蘂13:30→14:00つるつる温泉15:30→旭川市→21:00道の駅『びえい 丘のくら』

昨夜の雨は上がり、青空が広がっていく朝を迎えました。昨日購入した毛布と湯たんぽの威力は絶大で、3度以下にもなった早朝も、問題なく眠れました。道の駅『おんねゆ温泉』内に土産物店は、中央の1軒が、6時過ぎには開店しました。生牛乳の看板に惹かれて、一杯飲んで、朝のスタートです。『ハッカ』が名産品とかで、お土産としました。 続きを読む
EVE展示は26日(木)から3日間
ぶんしゅうさんが活発に投稿されるので、最新ニュースでもアッと言う間に次ページに埋没してしまいます。
先ごろお伝えしました、現役のEVE展示も探すのに苦労しますので、ここでもう一度ご連絡します。
鉄道同好会EVE展示
11月26日(木)~28日(土)10:00~17:00
同志社大学今出川キャンパス寧静館401号室にて
内容:Nゲージ展示、研究展示、青信号販売etc
人間国宝 山科の写真展を開催
「山科の人間国宝」こと佐竹保雄さんの写真展が今週末から開催されます。
多方面への好奇心を失わず、家にはほとんど居ないぐらい、毎日元気に出掛けられている佐竹さん、今年の掉尾を飾るのは、山科限定の写真展です。今までも同様のテーマで開催されていますが、未発表写真も含めた、山科の魅力が詰まった総集編の写真展です。
さらに同時に開催される「石井麻子のニットアート展」とのコラボ、「雪とSLの額絵」も見ものです。
「佐竹保雄 山科国鉄写真展」
日時 11月21日(土)~12月6日(日) 期間中無休
会場 京都市営地下鉄烏丸線烏丸御池駅内
烏丸御池駅ギャラリー(ラッチ外、中二階通路にある市民ギャラリーです)
なお佐竹さんの在廊日時は
11/28 10~13時 12/5 10~13時
11/29 10~12時 13~17時 12/6 10~14時
となっています。会員との出会いを人間国宝は楽しみにされています。

かつての日本一の撮影地、山科の魅力を余すところなく表現
なお、佐竹さんが以前に著された「おじいちゃんのSLアルバム」が“たくさんのふしぎ傑作集”に選ばれ、絵本仕様になり装いも新たに発売中です。お持ちの方も愛蔵本としてぜひご購入をお勧めします。

今度は書店の鉄道書コーナーに並ぶので買い易い(本体1300円)

































































