さすが大阪通信員さん、子の壱仟参百六拾五番の大当たりです。
地下鉄車両の運搬は梅田駅で車体と台車を分離して別々に運搬しました。地下へ下りる引込線が作ることができないので、まず台車を降ろしてその上に車体を降ろし載せる方法で地下への搬入をしたそうです。どのようなルートで運搬したか考えるのは興味深いことです。「鉄道史料」に載っている当時の新聞記事で考えてみました。
米手さん投稿「昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型」の私のコメントに書いたように鉄道史料に当時の新聞によると「住友製鋼所」から「車台」は梅田貨物駅に着いたとあります。その後に車体が同じく梅田貨物駅に着いたとありますから別々に運んできたようです。さて、記事によると車台は「田蓑橋から土佐堀線、西横堀を信濃橋に出て」とあります。そうすると車台は信濃橋を渡って、新しい御堂筋にでたところを右折して南御堂まで南下したと考えるのが自然なことです。信濃橋を渡っている車台の写真があれば確実にそうだと言えるのですが。車体の方は間違いなく新町橋を渡っています。それは写真があるからです。
上の図は大正14年の大阪市街図復刻版から作成いたしました。まだこの時は計画段階ですが、御堂筋も計画道路として記入されています。そして、新町橋を牛に引かれて渡ろうとしている地下鉄車体が写っている写真が下のものです。
これは一般社団法人日本建設業連合会関西支部が発行している広報誌「しびる 2018年発行VOL35」から出典したものです。よく見ると右側奥に市電が少し写っています。四ツ橋筋走っていた南北線の市電だと思います。また、左側にある橋の親柱のてっぺんの形を覚えておいてください。これは今も石碑として保存されています。あとでその写真がでてきます。この写真はよく見かけます。しかし宮崎様のコメントにあった写真はネット上で検索しても出てきません。そして場所はどこなのか。タイトル名でもうおわかりだと思います。その写真はというと
2019年6月22日米手作市さん投稿の「昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型」にある宮崎繁幹様の のコメントを見てください。日付をクリックすると写真にジャンプします。
場所の確認するには、まず左の角に写っている建物がポイントになります。宮崎様の調査によると「岡本洋行大阪支店」住所は南久宝寺四丁目ということです。ところが南久宝寺四丁目というと南御堂のところで写真と一致しません。それで大阪市立図書館で調べることにしました。図書館の調査相談カウンターで写真の場所を調べたいと伝えました。まず、「岡本洋行大阪支店」がどこにあったか調べたいと述べると、係の人が昭和13年の電話帳があるので調べてみましょうということになりました。「あいうえお順」でなく「いろは順 」に並べてあります。ちょっとしたことですが時代を感じます。見つかりました。そこに書かれてあったのは「岡本洋行楽器店 先田由蔵 船場83-2098 南 順慶四-七一」とありました。南久宝寺ではなかったのです。そしてこの場所はどこかというと、下の地図の中央あたりに71番があります。ここなのですね~。クリックして拡大したらよくわかります。
この地図は大阪市立図書館に所蔵されている「地番入大阪市図 昭和8年発行」をカメラで複写したものです。紙が傷んでいるのでコピー機複写はできないとのことでよくぞカメラを持って行ったものです。さて、この地図の発行はというと「わらくろや」ではなかった、和楽路屋です。ところで今の地図と比較しますと、御堂筋は地番71と地番80の間に南北にできた道と推定されます。四丁目と三丁目の所に南北に一部分黄色に塗られた道が今の心斎橋筋となります。今は、順慶町四丁目は南船場四丁目となっています。これで宮崎様の写真の場所がわかりました。当時の御堂筋と順慶町通の交差点で、西側の順慶町通から地下鉄車体が牛に引かれて北の方へ左折するところです。ということで大阪通信員さんの大当たりです。
ところでコメントで大阪通信員さんは車体は新町橋を渡っているのに車台は信濃橋を渡ったようで、車台と車体はルートが違っていたのはなんでやねん!と。ちょっと、これについてはわかりまへん。想像するに最初に車台を運搬するのに意外と手間取り、本町通の通行止めにしたりして具合がわるいので、できるだけ通行にじゃまの起こらないルートを選んだと思うのですが。この程度しか考えられません。牛を使ったことですが、牛の力は侮ることはできません。重たい車体を運搬するのに故障で運べなくなったら困るので補機として牛を使ったと思うのですがいかがですか。ちなみに車石を調べている時、牛一頭がどのくらいの重量を運んでいたか試算したところ、牛車1台に米俵9俵載せて運んだということなので1俵約60kgとして540kgの牛車をあの逢坂を越えて運んでいたのですから牛の力でも役に立ったのでしょう。トラクターが故障して立ち往生したら困りますから。意外と機械は当てにならなかったのでしょうか。
岡本洋行大阪支店の住所が違っていたのがややこしくなった原因ですが、この住所はネット上の「明治大正期楽器商リスト」に載っていました。このリストの出典先が「関西四大都市商工名鑑」で大正13年出版、当時の大阪商工協会が出版者です。これが「南久宝寺町四」となっています。これは国立国会図書館デジタルコレクションにありましたので調査することができました。なぜ間違っていたのでしょうか。これはわかりませんが図書館の人は名鑑を作る時に資料を見間違いがあったのかもしれないと言っておられました。とにかく住所が順慶四ー七一でつじつまが合うのですから、これでよしとしました。
図書館での調査が終わったので大阪市立中央図書館は西長堀にあるので新町橋までそんなに遠くありません。ブラブラと歩いて行くことにしました。あみだ池交差点を通ってまず新町橋の所へ。ここには石碑が立っています。
どうですか。牛が引いてる写真にある橋の親柱のテッペンの形とこの石碑のテッペンの形が一緒でしょ。すなわち、牛に引かれている写真はまさに新町橋を渡ろうとしているところなのです。
石碑の絵には新町橋を多くの人が渡っています。新町遊郭へ行くのでしょうか。絵の題名に新町鉄橋とあるのでこれは明治5年に架け替えられたものなのでしょう。江戸の昔は新町遊郭の越後屋にいる梅川に会いに忠兵衛がどこかで着ていた羽織を落とすぐらいに、いそいそと渡っていったのかもしれません。
牛に引かれて地下鉄車体が新町橋を渡ろうとしているところは今はどのようなのかというと
阪神高速は西長堀川を埋め立て、その上にできました。信号のあるところが四ツ橋筋です。さらに、しばらく歩くと老舗の昆布屋さん小倉屋山本がありました。店の人がおられましたので楽器屋さんがあったか聞いてみました。確かに楽器店があったようですが、岡本洋行楽器店ではないようです。ここで昔から住んでおられる方を教えていただきました。
少し西に行ったところにある「とんぺい」というお好み焼き屋さんです。二人の年配の女性方が店を切り盛りされています。ちょうど昼食がまだなので豚玉を注文して、話を切り出したのですが・・・地下鉄の車体が運搬された昭和8年はまだ生まれていなかったとのことでした。楽器屋さんや地下鉄車体運搬のことはわかりませんでしたがお好み焼きを食べながら楽しいひと時を過ごしました。さて、宮崎様の写真の所は今、下の写真のようになっています。
岡本洋行大阪支店の所は亜米利加製蓄電池単端小型無軌条電車の販売店になっていました。地下鉄車体がここを南御堂の方へ左折して運ばれたのは昭和8年(1933年)4月19日のことです。今から86年前のことです。
以上が宮崎様の写真について調べた結果です。まだ、わからないことは本当に車台と車体が違うルートで運ばれたのかということです。何か決定的な証拠が発見されればいいのですが。また、順慶町通から出てくる写真はネットで調べても見たことがありません。たいていのものは出てくるのですが。また大阪歴史博物館の「『昔の大阪』写真ライブラリー」にもありません。ただし、新町橋を渡ろうとしているところの写真はありました。ひょっとしたら新発見の写真かもわかりません。まだまだ謎は尽きないようです。
最後に今回の調査で大阪市立図書館の調査相談をしていただいた係員の方にお礼を申し上げます。また、小倉屋山本とお好み焼きとんぺいの方、私の話に付き合っていただいてありがとうございました。
どですかでんさん
大変なご苦労をおかけしまして恐縮至極です。
しかし、追求すれば一世紀近く経っていても痕跡は見つけられるものですね。その執念には脱帽です。大阪特派員氏は早寝ですからもうお休みでしょうが、明朝はやく目覚めたらこれをご覧になって感涙を流されるでしょう。西条凡児さんが懐かしい!
どですかでん様
岡本洋行の写真を見て以来、場所がどこなのか気になって夜も眠れませんでした。決め手になった岡本洋行の住所ですが、電話帳から調べられたとは! 地図に書き込まれたルートは、大阪の地理不案内の小生にも良くわかりました。有難うございます。これでグッスリ眠れそうです。
新町橋から順慶町通り⇒御堂筋を導き出された大阪特派員様のお見事な推理も、ただただ恐れ入るばかりです。
京都市電600形を二頭の牛が引く写真は見ていますが、それにしても牛さんは力持ちなのですねえ。
どですかでん様
凄い! 素晴らしい! 偉い! 頭が下がります。
コメントをいただいた皆様へ 米手さん、ブラタモリのようにたいがいは痕跡が残っています。その痕跡を発見できるかどうかがポイントですが、大阪市内は結構残っています。曽根崎心中に出てくる蜆川もその跡は道になっています。結構、楽しませていただきました。米手さんの「ここはどこ?私はだれ?」シリーズも楽しく、地図や航空写真などで想像しながら探る新しい楽しみができました。紫の1863様、電話帳は本文にありますように大阪市立図書館の調査相談カウンターで係の人から電話帳を調べましょうとすぐに当時の電話帳を持ってこられました。すぐに出てきたのでびっくりしました。地図や関連した写真集もそのようにすぐに資料がでてきました。すべて調査が終わるのに2時間もかかりませんでした。もっと早く図書館に行くつもりでしたがG20があったので終わってから行くことにしていました。G20開催中は図書館は学生でいっぱいで入館待ちの行列がニュースで写っていました。マルーンさん今度も近場でどこかありまへんか?
どですかでん さま
大当りありがとうございます。長文と図解の力作、地下鉄搬入調査報告お疲れさまでした。楽しみにしていた甲斐がありました。
老通信員が馴染んだ地名がぎょうさん出てきたのでもので、先に推定したもので、先走り失礼しました。
牛の画面に出てくる建物の岡本洋行は私も調べてみましたが判らなかったです。洋行なる言葉も懐かしいですね。大阪市中央図書館では良くお調べになりましたね。図書館の使い方もわかりました。
中央図書館には宮崎繁幹さま投稿の阪神3011型野田駅進入で初めて知ったゴードンデービス氏の「思い出す日本の鉄道国鉄編」があるので行ってみます。
関先生の絵をもとに、どですかでん様のように古いことを新しい切り口で展開する鉄道の楽しみ方ができるのは嬉しいです。
オロナイン軟膏、尿漏れパットかぶれに一番です。
大阪通信員さん 楽しみにしていただきありがとうございます。調べ物があれば図書館へ行きます。各図書館のHPで資料を検索します。今は便利なもので国立国会図書館で資料検索すると、公共図書館のどこに探している資料があるかわかるようになっています。最近は古い雑誌などは紙が傷んでいるのでデジタル化されてモニターで見るようになっています。資料によっては図書館に出向く必要なく、ネットで家で見ることができます。とにかく便利になったものです。
どですかでん様 素晴らしい研究成果を発表頂き、有難う存じました。小生のお知らせした住所が違っており、ご迷惑をお掛けしました。これに懲りずこれからも、宜しくお願い申し上げます。残っている疑問で、車体の搬送ルートをこのようにしたのは、必然性があったように思います。それは、線路に乗せたときの車体の向きは、どちらでも良い訳ではなく、床下機器の空気側・電器側を予め決めてあったに違いないからです。その為に、御堂筋にたどり着いた地点で、左折して向きを北向きにしたのではないでしょうか。
いやいや、岡崎様から岡本洋行大阪支店と教えていただいたことがよかったのです。全くわからなかったら場所は藪の中です。たいへん楽しかったです。これからもよろしくお願いします。